時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

怪獣ビヒモスを追って(4): 靴磨きはどこへ行ってしまったのか

2018年06月06日 | 怪獣ヒモスを追って

 

*靴磨き The Independent Shoeblack, 1877 (クリックで拡大)

ディケンズは自らの経験から、幼い子供たちがロンドンの路上に放り出されたら、小さなひったくりや浮浪者になるしか生きる道がないことを知っていた。なんとか犠牲になる子供たちを救わねばならないとの思いがこの作家の作品には溢れているし、シャフツベリー卿 によって設立された The Schoeblack Society 靴磨き協会 などに寄付をしている。当時ロンドンには9つの靴磨き集団 brigades があったといわれるが、この少年は自分の仕事場 ‘pitch’ を選ぶため、どれにも属さなかった。(Werner and Williams, Dickens’s Victorian London, 1839-1901, Ebury Press, 2011, p.109)

日本でも終戦後はいたるところで、こうした路上で靴磨きを仕事とする人たちを多数見かけた(東京都内だけでも500人以上との推定もある)が、1960年代ごろから激減し、今日ではきわめて稀にしか見かけることがない。「東京シューシャインボーイ」などの歌が流行したこともあった。人々は、この頃はどこで靴を磨いているのだろう。靴修理のチェーン店などが一部を吸収したかもしれない。家庭がその機能を取り込んだかもしれない。そのほかにも多くのことが推定できる。都道府県や警察の「道路占用(使用)許可の厳格化などもあるかもしれない。開発途上の国へ行けば、今でもいたるところで見かける仕事だ。アメリカでも同様な光景が見られ、記録されている。

 

 

産業革命の展開に伴い、「工場制」という怪獣ビヒモスは、次第にその強大で残酷な力を見せ始めた。イギリスで始まった工場制は単に多くの人々が物珍しさで訪れ、驚嘆した工場という建屋と、そこで働く人々に止まらなかった。

壊される伝統のシステム
工場制システムという革新的な変化は、新しい生産様式、大量に動員される労働者、激しい労働条件の変化、そして彼等の生活、社会を大きく変容した。新たな工場制というシステムは社会の根幹に激しい変化をもたらしつつあった。その変化は瞬く間に多くの人々の想像の域を超え、これまで長きにわたって、総体としては安定した社会秩序を保ってきたメカニズムを破壊しつつあった。人びとが、新たに生まれた工場や蒸気機関車の走る鉄道を好奇心や遊覧の対象としている間に、怪獣はその巨大な足で既存の社会システムを踏み潰していたのだ。

産業革命期を生きた大作家チャールズ・ディケンズ(1812-1870)はご贔屓の作家なのだが、大作が多く全作品の3分の2くらいしか読んでいない。読み直すたびに新しい発見がある。200年近い年月を経ても、変わっていないと思う事も多い。この時期、ヴィクトリア時代のロンドンを知るには、この大文豪の作品を読むことが欠かせない。ディケンズの作品には当時の工場で働らく人たち、とりわけ貧困のどん底にあって虐待される子供たちの様子などが克明に描かれていて、もはやそこには牧歌的な農村の情景などはない。日没から夕暮れまで、自分のペースで日々を過ごしてきた農民や家内労働者たちはどこへ行ってしまったのだろう。

ディケンズも「靴磨き」をした
なぜ、ディケンズは貧民や児童労働に通じていたのか。この作家の生い立ちを調べてみて分かったのだが、ポーツマスに近いポートシーから家族がロンドンに出てきた翌年、父親が借金を返済できず収監されてしまう。働き手を失い、貧窮のどん底に追い込まれた家族のため、ディケンズは9歳で靴を黒く塗る工場 blacking factory で働らくことになった。ロンドンなどの大都市では、親方の縄張りの中で、町角などで靴を磨く「靴磨き」という職業も生まれていたが、靴工場で製品としての靴に色(多くは黒色)を塗り込む工員も増えていた。ディケンズはここで様々な体験をし、それは後々の作品に姿を変え登場する。父親が出所した後、ディケンズは学校へ戻ったが、当初志した上級の学校へ進学することはできず、中途で議会関係のレポーター(ジャーナリスト)として生きることになった。これらの経験は、彼の文才と相まってディケンズを世界的な小説家へと押し上げる。

ディケンズはその後次々と傑作を世に出し、イギリス、そして世界を代表する文豪にまでなった。しかし、ディケンズ自身は、自らが極貧ともいえる時期を過ごしたことを積極的に語ることはなかった。文豪の心理も複雑だった。

名作『オリヴァー・トウイスト』の主人公オリヴァーも、イギリスのとある町の救貧院で生まれた男の子で、生まれながらに孤児であった。その後、オリヴァーは苦難な日々を過ごし、ロンドンへ逃れたが、そこには凶暴な盗賊団が待ち受けていた。今日では、ディケンズの住んだ家のすぐ近くに救貧院があったことが判明していて、保存活動が進んでいる。

失われる職人の誇り
農村で十分に働く機会を得なかった農民たちは都市の工場へと駆り出された。彼等は新しい工場で課せられる様々な制約は、好きではなかった。さらにいままでとは違った技能の習得のあり方にも積極的ではなかった。これまで長らく職人の誇りでもあった親方に弟子入りして身についた熟練と、それを支える徒弟制は、次第に工場制へ取り込まれていった。

産業革命の中心であった木綿紡織工場では、従来家内工業といわれる場で継承されてきた糸を紡ぐ仕事は工場へ吸収され、機織り機は新しい紡織機械が取って代わった。そこでは、切れた糸をすぐに探し出し、腕力ではなく、か細い手指で手早く糸をつなぐ仕事が求められた。工場主たちは、若い、主として女子を労働者として雇用した。

劣悪な児童・女子の工場労働
1835年当時、イングランドでは木綿工場で働らく労働者のおよそ3分の1は、21歳以下だった。スコットランドではこの比率は2分の1近かった。彼女たちの中には7歳くらいの女の子もいた。工場主側は10-12歳くらいの子供たちを選んだことが多かった。工場によっては成人は監督者ただひとりだった。こうした状況は、ビヒモスがその足を北米に伸ばした時もそうだった。最初の頃は多くの工場主が昼夜一貫して操業してきた。勤務のシフトは12時間交代か13時間交代で、夜食の時間として1時間が割かれたに過ぎなかった。

工場は機械の騒音と綿糸の屑や埃で息苦しいほど汚染されていた。しかし、子供たちをこうした劣悪な工場労働に送り出さない限り、生活できない貧窮した家庭が、ロンドンやマンチェスターなどの都市には増加していた。これも産業革命が生み出した社会的・経済的変化の一面だった。

初期の工場は十分な数の労働者を集めることができず、貧窮院 Workhouses といわれる孤児など身寄りのない子供などを養育するきわめて劣悪な施設からも子供たちなどを受け入れて働かせた。この実態は、当面ディケンズなどを読んでいただくしかない。ロバート・オーウエンがラナークの経営を引き受ける前までは、工場で働いていた子供の中には5歳くらいの児童もいた。1823年の法律では雇い主の許可なく2-3ヶ月で工場を離れた者は3ヶ月も収監された。

綿工業の重要性と過酷な労働
この時代の工場はすでにかなり多岐にわたったが、圧倒的な重みを占めたのは木綿繊維工業だった。産業革命の柱だったといえる。綿工場での児童や女子労働の劣悪極まる労働は、まもなく多くの人々の注目するところとなる。

劣悪な労働という点では、伝統的な家内労働などの分野を含めて多岐にわたったが、注目を集めることは少なかった。良くも悪くも綿工業は産業革命の中心だった。

イギリス社会に広く知られるようになった綿工業のユニークな生産システムと劣悪な労働条件は間もなく議会でも大きな論争の的となり、「工場法」Factory Act として知られる一連の規制立法が制定された。当時のイギリスには多数の産業があったが、この立法が対象としたのは綿工業だった。それも劣悪な状況で働いていた子供たちが対象だった。他の多くのイギリスの労働者にとってはほとんど目立った改善の効果はなかった。木綿工業が当時のイギリスにとっていかに大きな存在であったことが分かる。

産業革命はさらに一段とその速度を増し、イギリスのみならず、新大陸アメリカでもさまざまな問題を生む。

 

続く

 

追記:
PCを修理に出した後、日本語変換システムが’反乱’を起こして、原因不明の誤作動、誤変換続出。入出力のポイントも大きくしていますが、ご迷惑をおかけしています。幕引きの時が近いようです。

 

 

 

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