一日が過ぎるのがとても早いと感じるようになってからどれだけ経つだろうか。今年の夏もいつの間にか過ぎ去っていた。とはいっても今の気分は、いつもの夏の終わりという感じではない。なんとなく晩夏というイメージが濃くなっている。
夏の間は小さな仕事と旅が続き、気づいてみると秋が近くまで忍び寄っていた。地球の各所で酷暑が報じられていたが、幸いそうした時には涼しい所へ旅に出ていたりで、難渋した日々はほとんどなかったのは救いだった。
このごろは酷暑の時期が早まっているような気もする。10年くらい前までは、終戦記念日の頃は真夏の盛りで、蝉の声も沢山聞こえていたような印象がある。
ヨーロッパ大陸も今年は7月頃が一番暑かったのではないだろうか。クーラーは基本的になくても夏を過ごせる国であったが、このごろは必ずしもそうではないようだ。クーラーを設置したホテルも少しずつ増えてきた。そのイギリスでも8月に入ると秋のような肌寒さを感じる日もあった。他方、ニューイングランドに住む友人から、今年はこれまで経験したことがないひどい暑さというメールが入ったのも7月だった。
夏の間に読みたいと先延ばしにしていた書籍や資料は、ほとんど手つかずに山積みになっている。どれもそれぞれに興味深く、ゆっくり読んでみたいのだが時間は容赦なく過ぎて行く。この「滞貨」の山を少しずつ片づけるのがこの秋の仕事になりそうだ。
このブログが世の中のブログの主流とはほど遠い、自他共に認める「変なブログ」であることは5月14日の記事で取り上げた通りである。読む側からすると、なにが出てくるか分からない、振幅の大きさに当惑し、書き手の意図の在処がつかめない。密林の中へ迷い込んだようだとの感想もいただいた。その通りだと思う。
しかし、記事を書いている本人はそう感じていないのだから始末が悪いかも知れない。書いてみたいことは溢れるほどあるのだが、時間その他の制約であきらめることも多い。そのうちに忘れてしまうこともある。ブログは備忘録代わりのようなところも多少はある。 書くという行為を通して、雑然とした思考がわずかでも整理されるメリットもある。その間にも月日は経過し、気づいてみると量だけはかなりのものとなっている。とても、不思議な感じだ。
記事の内容は、ブログの特徴といわれる読みやすさ、柔らかさ、迅速性、面白さなどもほとんど欠いている。本人だけが知っていればよいトピックスも多い。しかし、不思議なことに世の中には、数は少ないが同じようなことを考えている人々もいないわけではないことが分かる。そうした人々に出会えることは大変嬉しいし、ブログをなんとか続ける力となってきた。
記事を書き続ける力の源泉には、自分の人生では果たせない別の世界をヴィジュアルに実現できるところにもある。このブログを始めた時には予想しなかったほど入り込んでしまった美術の世界もその一つである。
戦後、「文化」という文字に飢えていたような時代に、博物館員を含めて、できればやってみたいと思った仕事がいくつかあった。結局はまったく違った職業に就くことになったが、心のどこかに残像のように消えずに残っていた。それがなにかのきっかけで、顔を出してくる。 記事を読んでくれた友人の一人が、「随分のめりこんでいるなあ」と評した部分が明らかにある。他方、本人にはこの際少し探索してみるかという思いがある。そういう探索過程の楽しさは、本業の比ではないのだから始末が悪い。
久しぶりに会った友人が、このブログにアクセスしてくれていた。最初の感想は、とにかく「驚いたよ!」の一言であった。「驚いた」内容は、必ずしも十分伝わってこなかったが、どうも「変なもの」を作ったなあということらしい。
「変なもの」という表現は、実は大変的確なのだ。というのは、ブログを書いている本人自身がそう思っている。あるきっかけから始めたのだが、それまではほとんどブログなるものにアクセスしてみたこともなかった。ただ、老化の進む脳細胞を補填する手段として、日々折々に頭に浮かんだことを覚書、メモ程度に書きとどめる手段を求めていた時、ブログに偶然出会っただけである。ホームページは、運営上も覚えねばならないことが多く辟易していた。近くにパソコンに強い若い友人がいて、そそのかされて乗ってしまった。多少の遊び心も手伝ってスタートしたのだが、この頃は改めて自分でも「変なブログ」と思うようになった。
友人が「驚いた」理由のひとつは、記事の対象が振幅が大きすぎ、なにが出てくるのか分からないことにもあるらしい。その点、実は書いている本人が一番感じている。しかし、それほど揺れているとは本人は思ってはいない。大体、心身疲れた時などにふと浮かんだトピックスが多いだけに、右往左往はしている。その時は、キーワードだけメモしておいて、少し時間がある時に書き足している。 不思議なのは、こうした平常でない時にかぎって、頭脳の片隅に残っていたような記憶の断片が、脈絡もなく浮かんできたりすることである。
そのひとつ、「セントローレンス河をさかのぼる」の著者は、いまだに確認できていない。内容もかなり覚えており、著者名も確かと思うのだが、国会図書館の検索をしてみて該当名がなかった。となると、記憶力が劣化したことになる。「忘却とは忘れ去ることなり。・・・・・・」なのだから、別に差し支えないのだが、少しばかり悔しい思いもする。実は、この件は、ながらく職場を共にした友人、認知科学の大家HG氏に大変近い方が著者ではなかったかと思っていた。いずれお会いした折に確認したいと思っていたのだが、残念なことにこの世ではかなわぬことになってしまった。
ブログを開設してしまって、その始末に困惑しているところもあるが、思いがけない利点もある。それは、記憶力が衰えてきたことを実感している時に、備忘録代わりになってくれることである。途切れ途切れになった記憶の断片を、なんとか結びつけることができることも多い。こんなブログでも読んでくださる皆さんからのコメントでしばしば助けられてきた。予想外に多くの方がアクセスしてくださっている。どなたに読まれているか分からないと思うと、多少の緊張感も生まれる。しかし、基本的には「ティールーム」の雑談のつもりである。もう少し続けてみるか。
連休入りを前に、身の回りの整理にとりかかる。机の上ばかりでなく床にもあふれた書籍や資料の洪水! 古書店に数台の車に積みきれないほどお引き取りいただいたのも、ほんの少し前なのだが。この頃の古書店は短期に売れそうもない本はなかなか引き取ってくれない。皮肉なことに書店が売れないと思うものほど、こちらの投資額は大きい(要するに、時代が必要としないものばかり読んでいるということ!)。それなら本など購入するのはやめればと思うのだが、老化する脳細胞へのヴィタミンみたいなもので、かなり減らしたが簡単には止めるわけにもゆかない。
細胞再活性化?
整理の仕事は、いつもの通りなかなか進まない。実は、これが結構面白く、あまり嫌ではない。脳細胞が衰えてきて、身の回りの整理は、埋もれていた記憶の再発掘のような効能があるのを、本能的に感じるからかもしれない。
暇ができたら読みたいと思って積んでおいた本や、処分するには惜しいものに出会う。座り込んで、「さようなら」をいうはずの本をまた読んでいる。愛読する作家トレーシー・シュヴァリエのサイトで読書リストを見ていたら、彼女も再読している本がいくつかあるのを見て、安心?したりする。
「さようなら」と言ったはずだが
もう使えないことが分かっていても、捨てるに忍びがたいものがある。今回見つけたもののひとつが、HP200LXという小型パソコンである。1994年頃に購入し愛用してきた。携帯電話が出現する前の製品である。数年前まで使っていたのだが、バッテリーも寿命が切れ、使えなくなった。それでも愛着があり、机の引き出しの片隅に収まっていた。この製品を使い始めた動機は、それまで使っていたHPの小型計算機が優れていたためであった。逆ポーランド方式という演算法が使いやすかった。多重回帰の計算などもかなり簡単にできた。
この200LXなる製品はなんとかポケットに収まるし、つくりが頑丈であった。キーボードは小さいながらも、しっかりとしている。画面はモノクロだが、入力には十分であった。旅行や図書館での使用には最適だった。ややマニアックで愛用者も多数いたようだが、ついに生産中止となってしまった*。その後Jornadaというカラー液晶の後継機も出たが、サイズも大きくなりLXの使いやすさをしのぐことはできなかった。両機種ともすでに生産中止であり、部品サービスも後継機もない。
使わない携帯電話
携帯電話は、いちおう持ってはいるが、よほどの時以外は使わない。電車の中で、皆いっせいに携帯電話を取り出して画面に見入る光景には、いまだなじめないでいる。大都市ではいまや見慣れた光景だが、私には異様な社会病理現象に見える。とても携帯電話で、メールやブログの打ち込みをするつもりはない。これまでかなりせわしない日を過ごしてきたが、携帯電話を使わなくても、仕事や生活面で困ったことはない。
しかし、パソコンはアクセスできないと一寸困ることがでてきた。郵便物の代わりにメールですますという風潮がかなり定着してきた。原稿も手書きは歓迎されなくなった。学会などでは、いつの間にかワープロ・デジタル原稿が前提になっている。
やはり頼りは鉛筆か
ふと思いついたことを書き記すのには、手近かなメモが一番確実で早い。ちなみに、長年愛用しているのは、STAEDTLERのMARSという芯ホルダーである。これだけは、死ぬまで「さようなら」をするつもりはない。また長らく使い続けてきた鉛筆削り(DUX pencil sharpner)も実に良く出来ていて、他の追随を許さない。真鍮の削りだしで3段階の調節ができる小さな製品だが、鉛筆削りとして最低限の要件を充たし、堅牢そのものでもある。こうした製品は見ても美しい。
しかし、少し長いことをメモしておくには最初からワープロ入力ができれば、二度手間にならない。最近はパソコンも随分小さく、軽くなったとはいえ、開いて起動するまでには結構時間もかかる。鉛筆や芯ホルダーのような手軽さがない。
インターネットにつながるなど、余分な機能は必要ない。適度に小さく堅牢な作りで、立ち上がりが早く、入力機能本位の製品をどこかのメーカーが作ってくれないかなあと思っているのだが。それでも最後の頼りは鉛筆かもしれない。
*画像イメージは動いていた時のもの。アメリカには生産中止となったこの機種を買い取ったり、再生してくれる会社があり、一時は頼りにしており、Newsletter まで購読していた。
届いたばかりの『考える人』(2006年春号No.16)を見ていたら、「特集:直して使う」の中で、「あれっ?」と思う写真が目についた。堀江敏幸氏(2001年芥川賞)「日々を取り繕う」の冒頭に掲載されていた。今ではほとんど目にすることがなくなったマッキントッシュのSE/30である。実は、その仲間?が、私の仕事場でも働いている。混み合って居場所がなくなった机の上から机下に移ってはいるが、今でも立派に現役である。
振り返ると、パソコンとの縁もずいぶん長くなった。最初はローマ字入力し、スムーズに漢字に変換されるだけで大変感動した。手動のレミントン・タイプライターで論文を作ることからスタートしているので、当時は日本語でこれまでできる時代が来るとは思ってもいなかった。一時はすっかりのめり込み、今思えば計算するのも怖くなるくらいの投資もした。とても回収できたとは思えない。
インターネットにいたるその後の変化は驚嘆すべきものだが、この機種とのつき合いは、ひとしお格別なものがある。マッキントシュとの出会いの最初が、このSE/30であった。それまでは国産機種を使っていたが、暗号文書のようなマニュアルと悪戦苦闘し、やっと動いてくれるMS-DOS系の機械と違って、最初から「ユーザー・フレンドリー」を標榜したマックには親近感があった。しかし、とにかく高価であり、SE/30については初期には日本へは輸出されないという話だった。
1991年だったと思うが、会議で出張したハワイ大学のCOOPで対面し、即座に購入を決意した。アカデミック・ディスカウントでも50万円以上したと記憶している。持ち合わせではとても足りなくて、大学の友人から融通してもらって別送品扱いで大事に持って帰った。成田税関でパソコンは関税はかかりませんよと言われて、一寸得をしたような感じだった。最近のような簡易包装ではなく、小型冷蔵庫が入るくらい大きく頑丈な段ボール箱詰めで、車のトランクが閉まらず苦労した。
筐体はマレーシア製、9インチの一体型モノクロ・ディスプレイである。メモリーは当初40メガバイトだったが、後に100メガまで増強した。ソフトウエアでは結構苦労したが、ハードウエアはしっかりしており、メモリーやハードディスクの増強などの改造はしたが、故障したことはない。
改めて確かめてみると、「漢字トークJ1-7.5.3」が入っていた。「ワード」も「ユードラPro」まで入っている。キーボードもテンキーもついた頑丈なつくりの純正品であり、普通の仕事には十分である。
これまでにOSがヴァージョンアップするなど、さまざまな理由から使用をあきらめたりで、多くの機種が目の前から消えていったが、SE/30には人生のかなりの時間をつき合ってもらっているので、処分する気にはなれなかった。現に電源を入れると、「ポーン」という独特の起動音で、Welcome to Macintosh と迎えてくれる。最近はデザインも機能も洗練されたものになったが、マック、ウインドウズを問わず、愛着を感じるような強い個性を持った製品が少なくなった。
今、主として使っている機種はWindows系だが、もう一台、目前で働いてくれているマックがある。キューブと呼ばれるトースターのような形状でデザイン的にも大変ユニークな機種である。しかし、こちらはSE/30と違って、初めから問題山積だった。数年前発売直後に購入したが、半年くらいは故障ばかりでほとんど「入院」状態だった。そのためもあってか、後継機は生まれなかった。ただデザインはきわめてユニークであっただけに、MoMA(Museum of Modern Art, New York)に納められたようだ。これも苦労させられただけに、お役ご免にするのも忍びがたく、今でも目の前に並んでいる。幸いその後は「元気」で、i-tuneでダウンロードした音楽などで楽しませてくれる。
パソコンのような機械でも、長年にわたって使っていると不思議と愛着が生まれてくる。今日までよくがんばってくれたなあという思いがする。技術進歩の速度が速く、製品の陳腐化もめまぐるしい日本だが、「物を大切に」、ゆっくりと生きることの大切さを改めて考えさせられた。
どういうめぐり合わせか、またゲッべルスを主役とした番組*を見ることになった。「メディア操作の天才」というゲッペルスの実像は、小柄で貧相である。軍服や戦時服を着ているから、他のナチスの将校たちと並んでもあまり目立たないだけである。痩せて病的な顔に見える。とりわけ、恰幅のいいゲーリングと並ぶと、この男がヒトラーの片腕であったかと思うほどである。
しかし、ナチス・ドイツ宣伝文化相は、さすがに弁は立つ。恐ろしい美辞麗句が列挙されるとはいえ、当時のドイツ国民はこの一人の男に大きく揺り動かされたのだ。「モスクワやレニングラードは占領するのではなく、破壊する。敵を滅ぼすことが目的であって、褒美ではない」。この恐ろしい言辞もすさまじい熱狂で迎えられていた。
だが、愛国的なプロパガンダとは裏腹に現実は厳しい様相を呈していた。映像が映し出した1941年当時、東部戦線で敗色濃いドイツ軍はすべてが不足していた。だが、「宣伝の威力」は恐ろしい。1943年2月15日、スポーツ宮殿での演説でもゲッペルスは「自分の分身を100万人つくれば・・・」と述べ、異様なまでに興奮した空気に包まれている。「君たちは総力戦を望むか」とのアジに、群衆は一斉に熱狂的な歓呼で応えている。今見ると恐ろしいばかりである。時代の狂気、異常さというのは、同時代人には分からないのだろうか。
このゲッべルスにも尊敬する人物がいた。こともあろうに、敵国イギリスのチャーチル首相であった。東部戦線も望み薄になった時、「血と労苦と汗」というチャーチルのスローガンを利用できないかと考える。ドイツ軍の爆撃やロケットでの昼夜を問わない攻撃にも屈しないロンドン市民を前にして、ゲッべルスはなにを思ったのだろうか。国民の士気を鼓舞するために「コルブルグ」という映画も作成する。「士気の高揚という点では、ひとつの戦争に勝利するのと同じだ。」とゲッべルスは考えたのだ。
今回のライブドア事件に限ったことではないが、メディアの報道に右往左往させられる国民の実態に、背筋が寒くなる思いがする。
Reference
「メディア操作の天才 ゲッべルス」シュピーゲルテレビ制作、2004年
BS7 2006年1月23日放映
新年への期待と不安
今年こそは回復の年と、大きな期待がかけられて船出した日本経済である。しかし、ライブドア社の事件などもあって、新年早々から波乱含みとなった。2006年はどんな年となるだろうか。そして、その先にはなにが見えてくるか。
とりあえず、外国では始まったばかりの自国の1年をどう見ているのだろうか。自国経済についての楽観が悲観を上回る程度について、グラント・ソーントン Grant Thorntonという会計ファームが各国のビジネスマンを対象に調査をした結果が目についた*。
それによると、新年について楽観の程度が高い国からみると、インド、アイルランド、南アフリカ、中国、フィリピン、メキシコ、オーストラリア、シンガポール、オランダ、香港、トルコ、カナダ、スエーデン、ドイツ、アメリカ、ポーランド、ロシア、スペイン、イギリス、フランス、(イタリア)、(日本)、(台湾)の順になっている。イタリア、日本、台湾は悲観が楽観を上回っている。 調査の事情によるのか、BRICsの一角であるブラジルが見あたらないが、ロシア、インド、中国はいずれも楽観的である。
新年度の回復について楽観度が前年より大きく伸びている国の中にドイツが入っているのはEUの基軸国であるだけに、期待したい。逆にアメリカ、イギリス、カナダなどは悲観度が高まっている。
日本はこの調査では、悲観が楽観を上回っていることになっているが、2004年よりはその程度が減少しているのは救いである。全体にやや明るさが見えてきたといえよう。しかし、その明るさを感じる度合いは、人によって大きく異なる。
少子高齢化の影響が急速に浸透し、社会保障のあり方など自分たちの将来に不安を訴える人々が多い。とりわけ、若い世代が日本の行方にかつてのような確信を抱いていないことが気になる。これは、他の国々にはあまり見られない特徴である。外国から見ると、物質的には大変豊かに見える日本だが、いつの間にか大きな不安が日本人の心に忍びこみ住み着いてしまったようだ。「富」は「幸せ」にはつながらないらしい。
The Economist January 7th 2005
メリー・クリスマス
http://www.louvre.fr/llv/activite/detail_parcours.jsp?CONTENT%3C%3Ecnt_id=10134198673226918&CURRENT_LLV_PARCOURS%3C%3Ecnt_id=10134198673226918&bmUID=1135340173008
スタートした時は、ブログとホームページの違いもよく分かりませんでした。途中退場を予期して始めたメモ代わりのサイトです。思いがけず、多くの方々の暖かなご支援をいただき、なんとか今日までやってきました。
グローバル化が急速に展開する世界で、文字通り「葦の髄から天井をのぞく」ようなことばかり、それもとりとめなく記しています。ただ、小さなことの積み重ねの中から、思わぬ発見もないわけではありません。もう少し続けてみたいと思っています。
新しい年が、皆様にとって心豊かに平穏なものであることを祈りつつ。
本ブログ内の関連記事
http://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/e/d034011121b062f5439dec8c74006c5d
元気づけられる国
ある国際フォーラムでの報告のために、台湾に行く。台風が台湾海峡に居座っていたが、飛行機は乱気流に巻き込まれることもなく、台北中正国際空港に無事着陸した。この国は、平和に慣れすぎた日本人には、およそ想像しえないほど困難な問題を抱えているが、訪れるたびにこちらの方が元気づけられる不思議な国である。
フォーラムについては、改めて記すとして、今回の旅で最も印象に残ったのは、この国の民主化運動の驚くほどのたくましさである。その歩んできた道は実に感動的である。 今回訪れる機会に恵まれたのは、台湾の現代史においてきわめて重要な位置を占める「美麗島事件」*の翌年に起きた「林義雄家族虐殺事件」**を記憶に留め、民主化のためのひとつの礎としようと、1991年に設立された「慈林教育基金會」(慈林台湾民主運動館)である。
ふとしたことから度々訪れることになった台湾での人々との交流の中で、事件の概略は聞き知っていたが、今回初めてその詳細な事実を知り、また現代史の生き証人ともいうべき人々の得がたい話を聞いた。人生においてこれ以上の悲劇はないと思われるような重荷を負いながらも、淡々として台湾における人権擁護、民主化運動の必要を語る林義雄氏の言葉は聞く人の胸を強く打った。そして、ボランティアとして慈林教育基金會を支える人たちの誠実かつ強靭な精神力にはひたすら感動する。
わずか25年ほど前の出来事である。陳水扁総統も若いころにこの事件の弁護団の一人であった。この事件を中心に、台湾の民主化運動の流れを記録・展示し、民主化運動の支援とすることを目的とするこの台湾民主運動館は、訪れる人に多くのことを考えさせる。政治が人々の平和な人生を引き裂くようなことは、どこの国でも決してあってはならない。
参考
*1979年12月、「美麗島事件」。12月10日の国際人権デー記念集会が無許可であることを理由に規制され、官憲と衝突し流血騒ぎとなった。反国民党指導者が一斉に反乱罪に問われ、12年から14年の懲役刑となった。 林義雄氏もその中心的人物の一人とみなされ、投獄された。
** 1980年2月28日,林義雄氏の2人の娘と母親が殺されるという事件が起きた。場所は台北市信義路3段31巷16號の林氏の自宅で,当時,台湾省議員だった林義雄は前年12月の美麗島事件で逮捕され拘禁中だった。妻の方素敏の外出中に,何者かが留守番をしていた60歳の母親游阿妹と6歳の双子姉妹亮均と亭均を残酷に刺殺した。当時8歳だった姉の奐均がちょうど学校から帰ってきたところで犯人に遭遇,彼女も刺されて重体になったものの奇跡的に一命を取りとめた。当時は戒厳令の下にあり、前年の1979年に起きた美麗島事件の裁判が進行中で、監視下にあった重要政治犯の自宅で,白昼,しかも2月28日(1947年228事件)という日に起きた事件であった。その後、犯人は捕まらないままである。「林宅血案」と呼ばれるこの事件は、当時の状況から国民党の特務とのつながりが想像されている。
慈林教育基金會 http://www.chilin.org.tw/
過去にも1年以上居住したこともあり、アメリカと並んでなじみのある国なのですが、この暑さは初めての経験です。日中日射しの強いところに出ると、湿度は低いがじりじりと焼けるような暑さです。それでも、オックスフォードのシテイ・センターのあたりは、観光客を含めて渋谷・新宿並みの雑踏といってよいほど、混雑をきわめています。
コレッジを見物する観光客も数多いのですが、昔と違って見学料をとったり、ガイドのある団体ツアーだけしか見物を認めないという有名コレッジも増えてきました。見学自体を認めないコレッジもあります。確かに、静かな研究・勉学の場をぶしつけな見知らぬ観光客によって妨げられるのは、当事者の学生や大学側にとっては迷惑なことでしょう。それでも、一人4ポンドもとるコレッジもあり、見学料収入がかなり財源に寄与しているところもあるようです。そして、あの「ハリーポッター」ブームの影響もありありです。
現在、滞在している北部のサマータウンのあたりは、この暑さもあって軽井沢や蓼科さながら、避暑地のような趣を呈しています。整った住宅地にスーパーマーケット、いくつかの有名ブランド店なども含めて、日常生活に必要な物はほとんどすべて、シティセンターまで足を運ばなくとも入手できます。センターまで徒歩ではきついのですが、バスも数分おきに来るので苦になりません。
この地域に居住している人々は、やはり全体に高所得者、そして高齢者が目立ちます。美しい住宅の間には、高齢者用の介護ホームなどもあります。時々出かけるマークス・アンド・スペンサーの店の一角などには、ティーコーナーがあり、高齢な人たちがティー・カップを前に知人と話しながら、何時間?も過ごしている光景も見られます。
サマータウンは、道路沿いの並木も美しく、全体に緑も多く、気温もシティセンターのあたりと比較するとかなり穏やかな感じがします。 日中の酷暑も6時頃から急速に和らぎ、風のある日は時に寒く感じるほどです。9月5-6日は、この地域の大きな催し事であるSt. Giles’ Fairがあり、2万人といわれる観光客でごった返しました。教会のある中心部は、昼頃から縁日のように数え切れないほど多数の露店が出店し、観覧車や木馬など、いつ設置したのかと思われほど多数の遊戯施設がほとんど一夜にして出現しました。その規模は豊島園クラスか、それを上回る驚くべきものです。子供ばかりか大人も楽しそうに集まってきています。観光客だけでも2万人といわれています。文字通り、カーニヴァルのような状況になりました。オックスフォードの夏もそろそろ終わり、秋が駆け足でやってきています。
街中の雑踏と比較すると、カレッジが立ち並ぶ地域は、裏側にまわると人通りも少なく、中世以来の静かな環境、栗鼠や鳥が遊ぶ美しい牧草地が広がっています。
滞在しているサマータウンは、大変落ち着いた町並み、美しい家々、小さなホテルなどが通りに沿って並んでいます。大学もまもなく新学期、町は若い人々でにぎわっています。シティ・センターは昼間は観光客も多く、雑踏のような光景も見られます。それも7時頃にはすっかり静かになります。
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