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時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

The Kite Runner (凧を追いかけて)

2005年11月18日 | 書棚の片隅から


The Kite Runner by Khaled Hosseini (London: Bloomsbury, 2003)
カーレド・ホッセイニ 『凧を追いかけて』(仮題)
  
  気づいてみると、オルハン・パムクに続いて、これもイスラム圏の作者であった。小説:The Kite Runner 『凧を追いかけて』 は、ストーリーの展開が大変巧みでいつの間にか引き込まれ、読まされてしまった。大きな感動を与える作品である。もとはといえば、友人のハリー・カッツ教授に、場所もベルリンのトルコ人移民の多いクロイツベルグのレストランで雑談の折、読後感を聞かされて手にとった一冊である。

  著者カーレド・ホッセイニは1980年、政治的な難民としてアフガニスタンからアメリカに移り住み、以来アメリカ西海岸に医師として暮らしているアフガン人である。ちなみに、これは彼の作家としての処女作となる。そしてアメリカで最近までながらくベストセラーの首位を保った。

  9.11、イラク戦争、その後に続く同時多発テロなどの過程で明らかになったことは、西欧諸国にとってイスラームの世界は、さまざまな意味で依然として遠い存在であるということであった。そして、多くの日本人にとってもそうであろう。 TVで世界のどこでも実体験できるような感覚になった今日の世界だが、映像と現実の間には、やはり大きな断絶がある。話は著者ホセイニの分身、自画像ともいえる主人公アミールの人生回顧という形で展開する。

  1970年代、カブールの町で恵まれた家庭の一人息子として生まれた主人公は、ひとつ年下で忠実な召使いであるハッサンと主従の関係を超えた深い信頼関係を持っていた。だが、古くからの年中行事である凧揚げ競技(日本にもある凧糸にガラスの粉をつけて、相手の凧の糸を切ることで勝敗を競う)で、予想もしないことが二人の関係を断ち切ってしまう。ちなみにkite runnerとは、切り落とされた相手の凧を追いかけて勝利品として手に入れる勝利者のパートナーのことを意味している。

  アミールの父親バーバはパシュトン族の成功者として、物心ともに息子が超えがたいと思う大きな存在である。同胞が尊敬する勇気と誠実さを備えている。ともすれば、通俗な郷土の偉人像化しかねないイメージだが、作者はストーリーの展開の巧みさでそれを見事に回避している。話の展開とともに、バーバ自身がかなり複雑な生い立ち、性格を背負っていることも分かってくる。イスラームの世界には、こうした父子の関係が存在するのかと思い、感動する。

  父親バーバとポリオにかかり足の不自由な召使いアリ、そしてアリの息子ハッサン、そしてアミールは強い信頼関係で結ばれている。バーバとアリの関係は単なる主従のものではなかった。双方ともに妻を失い、二人の息子であるアミールとハッサンも友情とも異なる強いきずなで心の底で強くつながっている。しかし、アミールは主人と従者、そしてハッサンに対する劣等感のようなものも手伝って、表面的にはハッサンにつとめて冷淡に接してきた。 他方、バーバは従者であるアリ、そして息子のハッサンにも大変人間味あふれる愛情をもって接してきた。時に実の息子アミールにも分からないほどのきずなで結ばれているようだった。そして、どういうわけか、アミールにはあるときまでかなり厳しい対応をした。その理由はかなり後に判明する。

  アミールが13歳の時、大きな転機が訪れる。伝統の凧揚げコンテストで、思いもかけないことが二人の関係を冷酷に断ち切る。アミールはハッサンにもはや修復できない精神的な傷を与えてしまう。アミールは父親の勇気を受け継いでいない。父親のような誰をもおそれないような強さがない。そして自らの責任で癒しがたい傷を負い、それはトラウマとしてその後の人生につきまとう。

  そして、この時を境に二人の関係、人生も完全に断絶した世界に移ってしまう。アミールとその父親バーバは、ある日ひそかにアメリカへの難民として故国アフガニスタンを捨てる。物語の背景には79年末のソ連のアフガン軍事侵攻、ムジャハディーンとタリバンの対立などの政治的変動が存在する。その状況は、後年アミールがカブールを訪れる後半の部分で生々しく語られる。前半の懐古的な描写と比較して、後半は格段に現実味を帯びる(図らずも、戦乱に明け暮れた時代のロレーヌを思い出してしまう。)

  カブールでの豊かな生活とはまったく異なり、アメリカでガソリンスタンドで働き、その後オープンマーケットの露天商となった父の死後、アミールはある電話を機にカブールへ戻る。そこに展開していた状況はなにであったか。 ストーリーはそこから思いもかけない過去を明らかにする。生々流転ともいうべき人々の姿といえようか。

  このしっかりと書き込まれた小説(そのかなりの部分は著者の原体験でもあると思われるが)を通して、読者はイスラームの社会や人々の考えの一端に触れる。そこにはわれわれと全く違わない人間としての生き方、考え方が流れている。そのある部分は、日本人がすでに失ってしまったような生き方でもある。読者として、多くのことを考えさせられる。

  アフガン人であることは、いかなることであるか。その美しい国は無惨にも破壊され、恐怖の中に生きている人々がいる。 著者はこの複雑な有り様を淡々と、見事に描いている。小説としての洗練さ、技法などの観点からすれば不十分な部分もないわけではない。移民を題材とした特別な小説ジャンルといえるかもしれない。しかし、いずれにせよ読者は間違いなくひとつの大きな感動と満足感を持って読み終えることができる。小説の世界でも、主人公アミールは子供の頃から小説家を目指してきた。ホセイニはアミールに代わってしっかりとその一歩を踏み出した。


Khaled Hosseiniのホームページ
http://www.khaledhosseini.com/

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「対岸の火事」ではないフランス暴動

2005年11月09日 | 書棚の片隅から

ミュリエル・ジョリヴェ(鳥取絹子訳)『移民と現代フランスーフランスは住めば都か』集英社、2003年

  10月27日、二人のアフリカ系の若者が、警官によって変電所に追い詰められて感電、死亡したことに端を発するといわれる暴動は、フランス政府を足元から揺るがす大問題となった。警察は事実関係を否定しており、真相は調査中だが、その後の展開は文字通り共和国の危機となった。

  フランス全域に拡大した暴動は、11月7日になっても収まらず、8日フランス政府は臨時閣議で各地の知事が夜間外出禁止令を出せるようにした。半世紀ぶりという強権発動である。このままでは統治能力への国際的な信頼が揺るぎかねず、国内経済への打撃も大きくなるため、短期解決を意図したのだろう。

  しかし、移民・外国人労働者問題の研究者としてみると、いつかこうしたことが起きるのではないかという予感のようなものは常にあった。現在展開している事態は、実はかなり前から予期されていたのだ。ミュリエル・ジョリヴェのこの本は、きわめて的確に問題の所在、展開の方向を指摘していた。

ピエ・ノワールと呼ばれた人々
  1970年代初め、パリの街路で箒でごみを下水道に流し込む仕事をしているのは、すべてアフリカ系の人たちであるのを見て、「自由・平等・博愛」を標榜している国で、どうしてこういうことが許されているのかとふと思ったことがある。彼らは、ピエ・ノワール(pied noir 黒い足の意味)と呼ばれていた。アルジェリア生まれのフランス(ヨーロッパ)系移民の子孫をフランス本土で呼ぶ蔑称だった。パリ郊外のサン・ドゥニを訪れた時も、地域社会の荒廃ぶりに、これもフランスなのかと思ったことも度々であった。

  その後、外国人労働者・移民問題に関心を持つようになってから、フランスにおける外国人、移民の実態や政策は頭の片隅から消えたことはなかった。というよりは、フランスがこの問題にいかに対応しているかということは、移民問題の行方を測る重要な試金石であり、目が離せなかった。

形骸であった「統合」政策
  1970年代後半の第一次石油危機の後、外国人労働者の帰国促進策がほとんど効果がないということが判明して以来、先進国のほとんどが不熟練労働者の受け入れ制限、帰国しない、あるいは長期に滞在している外国人の自国への統合政策を掲げた。「正規化」、「統合」、「共生」などさまざまなスローガンが掲げられてきた。しかし、それがいかなる内容であり、どれだけ実現しているかという点については、決して満足できる答は得られなかった。移民で国家を形成してきたアメリカ合衆国でさえも、もはや統合社会の構図は示すことができなくなった。「メルティング・ポット」社会は「モザイク」そして「サラダボウル」社会となった。

すでに指摘されていた背景
  ミュリエル・ジョリヴェの本書は、一見小著に見えるが、きわめて密度の濃い作品である。訳語や構成の点で散漫な部分もあるが、現在、展開している実態とその背景は、ほとんど描きつくされている。もし本書で扱われていない新たな要因を付け加えるとしたら、グローバル化に伴う映像文化の影響、インターネット、携帯電話の世界的普及による情報の急速な伝達が、事態の展開に明らかに影響を与えていることである。

  たとえば、フランスの27才の新鋭マチュー・カソヴィッツが監督した話題作『憎しみ』Le Haine (1995年)は、今回の舞台となった“バンリュー”と呼ばれるパリ郊外にある殺伐とした低家賃住宅=団地を選んでいる。主人公は、そこに暮らす移民の労働者階級の若者たちで、彼らの24時間のドラマが、非情な眼差しと緊張をはらむモノクロの映像で浮き彫りにされていく。衝動的な放火などの出来事は、すでにかなり前から多数起きていたのだ。こうした若者は家庭においてもしばしば孤立した存在であり、やり場のない鬱積した感情は臨界点に達していた。かつて、イギリスの階級社会批判でしばしば指摘された「俺たち」と「やつら」"we" and "them"の関係は、ここではさらに対象が拡大し、あらゆる権威的存在への反発となる。そこには、かつてのような政治的リーダーすらいない。

  ドビルパン首相は各地で放火を繰り返している若者に対しては「両親の責任」を指摘する一方、イスラム組織の関与は「無視すべきではないが重要ではない」と語った。

  政府は暴動の背景とされる移民社会の困窮を和らげるため、1)貧困地域で社会活動に携わる団体への財政支援増、2)学業不振者に対する職業訓練の前倒し(16歳→14歳)と、優秀な生徒への奨学金の3倍増、3)6月に発足させた国の反差別機関に懲罰権限を与える、などの方針も表明した。

「見えない国境」は消滅するだろうか

  しかし、これらの措置が事態の本質的解決に大きな効果を持つとは考えにくい。貧困地域においては、格差縮小に多少は効果があるかもしれないが、問題はフランス国内に存在するさまざまな差別の壁である。こうした壁は「見えない国境」として、長年にわたりフランス人の心の中に作り出されたものである。すでにずっと前から「壁」は存在したのである。そうした壁がこうした措置で短時日の間に軽減あるいは消滅するとはとても思えない。たとえ、強権で押さえ込んだとしても、なにかの機会に再び火がつくだろう。

  フランスの統合政策は無残にも破綻した。アフリカ系の若者にとっては、仕事も得られないのに、教育を受けてなんの役に立つのかという思いがするのだろう。サルコジ内務大臣の発言は事態に火に油をそそいだ。フランスの移民社会が生み出してきた「見えない閉塞感」は壁となって、彼らを包み込んできたのだ。その圧迫感に耐え切れず、ある日爆発する。そのきっかけはいたるところにあった。

「対岸の火事」ではない問題
  現代の福祉国家は、こうした問題に対応するに十分な術を持たない。世界のある地域に起きた出来事は、瞬時に他の地域に伝わる。今回の出来事が単にフランス国内のみならず、周辺諸国にとっても無関心ではいられないのは、そのためである。

  そして、アジアで遠く離れているかに見えるこの国、日本にとっても決して「対岸の火事」ではないはずである。日本では合法・不法を含めて、すでに90万人を越えるといわれる外国人労働者・移民労働者が働いている。その前にはさまざまな「見える壁」、そして「見えない壁」が立ちはだかっている。彼らの将来について、今もって明確な指針を示していない日本は、傍観しているかぎり結果として大きな重荷を背負うことになる。

目次
第一章 背景を数字で見ると
第二章 フランス人は人種差別主義者か
第三章 ブールのアイデンティティ
第四章 フランスにおける巧妙な差別の実態ー二つの速度
第五章 女性は同化の原動力?ーブールの女性たち
第六章 フランスの一夫多妻制
第七章 デリケートな問題ーサン・パピエ


References
下記サイトは、きわめて的確にこの注目された映画の意味する内容を語っている。
http://c-cross.cside2.com/html/a00hu001.htm

フランスの外国人労働者・移民問題に関する邦語文献から:

林瑞枝『フランスの異邦人』中央公論社、1984年。

フランソワーズ・ギャスパール/クロード・セルヴァン=シュレーベル(林信弘監訳)『外国人労働者のフランス――排除と参加――』法律文化社刊、1989/02年

ジャン・ヴォートラン(高野優訳)『パパはビリー・ズ・キックを捕まえられない』
草思社、1995-07年
 
タハール・ベン・ジェルーン(高橋治男/相磯佳正訳)『歓迎されない人々 フランスのアラブ人』晶文社1994-03年、

本間圭一『パリの移民・外国人:欧州統合時代の共生社会』高文研、2001年

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ゼーバルト『移民たち:四つの長い物語』

2005年10月28日 | 書棚の片隅から

W.G.ゼーバルト(鈴木仁子訳)『移民たち:四つの長い物語』(白水社、2005年) W.G.Sebald.Die Ausgewanderten: vier lange Erzahlungen,Frankfurt am Main, Eichborn AG. 1992.

ゼーバルトとの出会い
  ゼーハルトという作家の名前は、『アウステルリッツ』という特別な響きを持った表題の作品を読んで以来、頭のどこか片隅にいつもあった。この重い印象を残す、それでいて素晴らしい作品は、読んでいる間不思議な力で私をとらえてはなさなかった。今回、『移民たち:四つの長い物語』に接して、なにか遠い霧の中から昔の記憶が急速によみがえってきたような気がした。


  作品は4人の移民の現在と過去をめぐる話から構成されているが、ストーリーのどこまでが真実で、どこが虚構なのかも分からない。ある部分はきわめて鮮明に描かれていたり、別の部分はあいまいな霧の中に隠されている。全編が語り手と聞き手の対話のような体裁をとって進行する。語り手の方は多少なりとも世の中では変人の部類であり、世俗の世界から距離を置いているようなところがある。そして、読み進めるうちに
誰が話し手で、誰が聞き手であるかが混沌としてくる。

不思議な二人の人物 
  この両者の関係を考えていると、図らずもこのブログでも取り上げたトルコの現代作家オルハン・パムクの作品を思い浮かべてしまった。あの主人公と作者の分身ともいえる二人の人物の関係、霧の中に存在するようなイスタンブールのイメージ、そしてこのゼーバルトの『移民たち』に掲載されている多数の写真も、『イスタンブール』のそれと同様にすべてモノクロなのだ(『アウステルリッツ』に挿入されている写真も同じである)。本文といかなる関係があるのかも、分からない。実際、ほとんどなんのかかわりもないとさえ思えるのだ。なにしろ、金閣寺の写真まで出てくるのだから。といって、少し読み進めると、そこに挿入されているのも、ふさわしいかなと思わせる不思議な存在である。

  移民の物語というと、ともすると旧大陸ヨーロッパから新大陸アメリカへの移民の話かと先読みをしてしまうが、そうばかりではない。大陸からイギリスなどへの移民の話が主となっている。

雲の低く垂れ込めたノリッジへの旅
   『移民たち』に登場する4人の人物、医師、教師、大叔父、画家の人生は、過去と現在を行きつ戻りつして描かれている。読み進めるうちに、自分のたどった人生と重なる部分も見えてくるような気すらする。

  本書に登場する最初の人物である医師ドクター・ヘンリー・セルウィンを尋ねた聞き手は、1970年9月にイギリス、イースト・アングリアの町ノリッジへの赴任を間近に、ヒンガムまで足をのばした。実はまったくの個人的経験であり、偶然なのだが、私も1995年の秋にこの地を訪れたことがあった。若い友人二人とケンブリッジから車を運転して行った。今でもはっきりと覚えているが、地平線の彼方まで重い雲が垂れ込めたような、日の光をまったく感じさせないような日であった。

事実と虚構の間 
  このセルウィン氏は、20世紀初頭に、リトアニアからイギリスへと移住してきたユダヤ人であった。彼は、医師であるとともに登山家でもあった。そして、最後は自分の猟銃で自殺する。

  この章は、セルウィン氏の友人でもあり、1914年の夏以来、行方を絶っていたベルンの山岳ガイド、ヨハネス・ネーゲリの遺骸が72年の時を経て、オーバーアール氷河の氷上で発見されたという新聞記事で終わる。しかし、ここに挿入された新聞記事の写真が、事実か虚構かはよく分からない。こうして、過去は思わぬ形をとって今によみがえって来る。

  ゼーハルトはノーベル文学賞をいずれ授与されるだろうといわれていたらしい(この点は、図らずもオルハン・パムクと似ているところがある)。しかし、住んでいたノリッジの近くで、自動車運転中に事故死する。薄暗く低く立ち込めた雲と地上との間に挟みこまれたようなイーストアングリア、ノリッジへの自動車の旅を思い出した。

自ら選んだ道なのだろうか  
  3番目のアンブロース・アーデルヴァルト叔父の話の部分では、ニューヨークのデパート「サックス」で困っている日本人を助けた話まで出てくる。そして、大叔父が晩年を過ごしたニューヨーク州のイサカを尋ねる旅もある。叔父は自らの意思で、この地の精神療養所で晩年を過ごした。

  聞き手でもある語り手は、ヨーロッパからはるばるこの地を訪ねる。大叔父はここの精神病院(サナトリウム)でファーンストック教授という過去のある医師の下で、電気ショック療法を受け、思考の能力、想起の能力を根こそぎ、二度と戻らぬまでに消したがっていたという。   

  私事にわたるが、このイサカの地は図らずも私が若い頃のひと時を過ごした場所でもあった。しかし、そこにサナトリウムがあったとの話はついぞ聞いたことがなかった。先住民や移民の故郷につながる珍しい地名が多い。本書の追憶にも、オウィーゴ、ホークアイ、アディロンダックなど、なつかしい地名が各所に出てくる。なにか、遠い過去への旅をしているような思いがした。イサカ滝(正しくはトガノック・フォールズ)の轟音まで聞こえてくる。事実、この滝はアメリカの東部で最も落差があることで知られている。そして、イタカという語源となったあのギリシャの地への旅まで出てくるにいたっては、どこまでが真実なのかとさえ思ってしまう。

  そして、この大叔父アンブロースの章は、彼がアメリカへ渡る前、エレサレムへの旅から帰っての備忘録で終わっている:

「記憶とは鈍磨の一種だろうかとたびたび思う。記憶をたどれば、頭は重く、目は眩むのだ」(157)

  そして、ついにコンスタンチンノープルまで登場するにいたって、言葉を失った。パムクとの通奏低音のようなものが聞こえてきた。20世紀中ごろ、人類の歴史におけるあの暗い記憶が、作品を通して流れてもいる。移民は単に母国と目指す国という地理的関係ばかりでなく、過去と現在という次元を行きつ戻りつする存在なのだ。 ゼーハルトは、読者の記憶のどこかに必ずとどまっているのだ。

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トルコEU加盟の先に見えるもの:「イスタンブール」を読む

2005年10月06日 | 書棚の片隅から

Orhan Pamuk. Istanbul: Memories of a City, Translated by Maureen Preely, London: Faber and Faber, 2005.

  トルコのEU加盟への道は、かろうじてつながったかにみえる。しかし、最短で進んでも実現は9年先という。グローバル化がすさまじい勢いで進行する世界では、気の遠くなるような時間である。「トルコの喜び」Turkish Delightという菓子があるが、トルコの未来に喜びは待っているのだろうか。

東と西が抱く不安
  トルコのEU加盟が実現すれば、東と西の文明が同一の地域共同体に初めて含まれることになる。しかし、EUの現加盟国とトルコの間に横たわる政治・経済、そして文化の溝はきわめて深い。経済格差は大きく、加盟国側はトルコからの賃金の安い労働者の流入増加を懸念し、そしておそらくイスラーム文化の影響が高まることを最も恐れている。

  背景にはあの2001年9月11日の同時多発テロを契機に、急速に深まったイスラーム圏への警戒と不安感がある。西欧諸国ばかりではない。多くの日本人にとっても、トルコそしてイスラームの国々は最も遠い存在かもしれない。

メランコリックに描かれた都市
  トルコはヨーロッパからみると、地理的にもその中心ではなく、いわば辺境に位置する。イスタンブールはヨーロッパからも、極東の日本から見ても遠く、東洋と西洋の接点としてエキゾティックなイメージをかきたててきた。この旅愁を誘う都市は、そこに住む人々にとっていかなる存在なのか。 オルハン・パムクの「イスタンブール」は、この点に鋭く、しかもメランコリックに答えてくれる。

  このブログで紹介した作家の前作「白い城」はイスタンブールを舞台としながらも、この都市について、ほとんど具体的なイメージをなにも与えてくれなかった。それが描かれていたら、小説はもっと魅惑的なものとなったのではないかと思ったほどだ。しかし、不思議な読後感が残る作品であった。この謎に包まれた作家を知るためには、もう一冊読まねばならないと思っていた
  
  その望みは思いがけない形でかなえられた。作家はそれをこのメモワールのために残しておいたのだ。この「イスタンブール:ある都市の記憶」は、ペーパーバックでも348ページ、索引まで付された作品である。 (日本では知られていないが、西欧文壇ではよく知られた作家であり、たまたま訪れたオックスフォードの書店「ウオーターストーン」の店頭に平積みになっていた。)

  現代トルコの作家で最もフレッシュでオリジナルな発想に富むといわれるオルハン・パムクは、母国トルコでは居所がない存在である。西欧文壇での人気が高まるにつれて、反体制的な内容を含む作品についてはトルコ国内での出版を禁止されるという状況に置かれている。(これまでの彼の著作6冊はすべて翻訳され、ヨーロッパ、アメリカなどで出版されている。)

作家を生んだ家庭
  新著「イスタンブール」は、作家の生まれ育ったこの都市について、万感の思いが込められている。 1952年イスタンブールで生まれたパムクは、自ら放縦で軌道を外れたという建築専攻の学生だった。母親とイスタンブール市内ののアパートに住んでいた。父は女と別のところに住み、兄セヴケットはアメリカへ留学中だった。この兄は、作家オルハンのいわばクローンともいうべき存在であった。もめ事の多い、非宗教的な家庭だった。母親はいわゆる良家の生まれで画家だった。息子には画家の道を勧めていた。しかし、オルハンは生まれ育ったブルジョアへの罪悪感と反発を感じていた。「画家になどなりたくない。......作家になる」。本書の最後に記されたこの言葉は、母親への訣別の言葉であり、読者へのメッセージである。

  パムクの家庭は、フロイド、サルトル、フォークナーを自由に読める場所であった。酒を飲み、女学生と遊ぶ若い絵描きが、作家の若い時代であった。ヨーロッパの影響を受けた家庭の常として、すべてを西欧的に見るように教育されてしまった。

癒しの場ではない故郷・母国
  作家が「イスタンブール」で描いたものは、イスラーム教徒であるが世俗化したトルコ人の行き暮れたノスタルジャともいえる。そこには西欧人が休暇で訪れる、市場のざわめきや活気のあるイスタンブールは、ほとんど現れない。 作家の故郷イスタンブールは、いやしの場ではない。メランコリックな多くのの問題を抱えた、作者にとってはうとましい、時に悪意さえ感じられる場となっている。

時計は止まっている
  この作品には、多数の写真が含まれている。しかし、そのすべてはモノクロであり、現実の世界以上に著者の幻想の世界である。現実以上に雪もしばしば降る、物音のしない世界である。そして、そこには世俗化したトルコ人、旅行者などなどが見る以上に多くのものがある。 「イスタンブール」は、パムークが若かった時代で止まっている。

  しかし、世俗の世界は複雑な趣を呈している。 パムクが生まれ愛した街は西欧化が進み、フレンチ・クオーターのようなものとなった。ガードマンがいて、洒落たブティックが立ち並ぶ町になっている。 表面だけを見る限り、「近代化」が進み、町並みは西欧社会のように変貌している。だが、イスタンブールが世俗化しているとはいえ、多くのトルコ人にとって「模倣」は容認できない響きを持っている。「イスタンブール」には、作家の家庭に置かれた弾かれることのないピアノ、ただ見るだけの西洋陶磁器などが登場する。

自らの廃墟に
  時の軸上でも、オスマン帝国の繁栄、文明としての誇り、精神的優位さ、そして第一次大戦で敗れた後、ムスタファ・ケマル・アタチュルクの革命によって滅亡した後の世俗化したトルコの現実が対比される。現在のトルコ共和国は、アタチュルク革命を引き継いだ世俗国家であり、西に顔を向け、同質化が進む国民国家である。トルコは「民主主義」国家を標榜しているが、それはアタチュルクによっていわば上から与えられたものであり、西欧民主主義の概念とは、本質的に異なっている。こうした状況は、パムークからみると、自分自身の廃墟の中に沈んで行く狭量な小さな場所に見える。

  過去はめくるめく帝国の首都であった。しかし、あの輝いていた帝国はもはやない。今や過去の栄光をしのぶ記念の場所としての宮殿、大理石の噴水、水際の大邸宅などが残っている。しかし、それも容赦ない開発業者によって食い荒らされていく。パムクはこの世俗化されたトルコ、トルコ人の喪失感を描いている。イスラームから距離を置きながら、日々精神的空白にさいなまれている。なんとなく、戦後の日本と重ねて見てしまいそうである。

東と西は
   「白い城」では、イタリア人の主人公と彼が仕えることになったトルコ人の下級宮廷人は、最初は離れた存在であったが、次第に接近し、最後にはお互いに分身のように、どちらがどちらか分からないような存在となってゆく。これは、「白い城」を読んだ時に不思議に思ったテーマであった。しかし、「イスタンブール」を読み進めるにつれて、作者の隠された意図に思い当たった。

  それは、現実の世界における若いオルハンとセヴケットという兄弟の争いのようでもある。二人は抗争の挙句に和解している。「白い城」では、とらわれの身となったイタリア人の主人公とスルタンに仕える宮廷人であるトルコ人は、東と西を象徴するかのごとく、最初はよそよそしく遠く離れ、そして次第に近づきながら最後には場所を取り替えるように、お互いの区別がつかなくなってしまう。作家はトルコのEU加盟の先に、なにを見ているのだろうか。 

  明治維新以来、ひたすら西欧に追いつくことを目指してきた日本の行き着いた所、そしてそこに確実に広がっている荒涼たる精神的空白の現実。パムクの描いたイスタンブールのイメージは、日本にそのまま重なってくるように思えるのは読み過ぎであろうか。

 

Reference 

「東と西は分かり合えるか:オルハン・パムク『白い城』を読む」

*『イスタンブール』の邦訳は、2007年7月刊行された。訳者は『わたしの名は紅』、『雪』と同様に、最も信頼できる和久井路子氏の手になるもので、日本の読者はパムクの主要な作品に接することができるようになったことを喜びたい(2007年8月10日)。

追記(2005年10月15日)
この記事を書いた後、本年度ノーベル文学賞の候補者の一人に、オルハン・パムクが含まれていたらしいことを新聞記事で知った。作家の政治的立場から、背景でさまざまなことがあったことは推定できる。

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「ハードワーク」の世界を体験する

2005年08月16日 | 書棚の片隅から

 


ポリー・トインビー『ハードワーク:低賃金で働くということ』

椋田直子訳、東洋経済新報社、2005年

Polly Toynbee、Hard Work, Bloomsbury Publishing, 2003 (原著表紙の画像は、傾いていますが実物もこの通りです。)

日本の最低賃金がいくらかご存じですか
  グローバリゼーションという名の下に、世界を「市場資本主義」ともいうべき嵐が席巻している。そこでは、優勝劣敗の明暗が激しい。以前から、さまざまな理由で競争の過程から脱落しそうな人々に対して、いくつかのセフティ・ネットが準備されてきた。そのひとつが最低賃金制である。
  今回とりあげるイギリスでは、「ニュー・レーバー」の旗印をかかげたトニー・ブレア労働党首の政権の下で、1999年4月1日から全国一律最低賃金制度National Minimum Wageが導入された。時給4.10ポンド(約820円)である。中立の「最低賃金審議会」The Low Pay Commission の勧告通りに、それもわずか9ヶ月後のことであった。ブレア首相は、労働党政権が実現する以前から、、全国一律最低賃金の導入を、政権獲得後実施する政策の上位に掲げていた。
  2000年に公表された同審議会の第二次報告の冒頭には、この制度が予想を上回る成功裡に導入され、実施されてきたと誇らしげに記している。報告書の目的は、導入後いまだ日は浅い新制度の評価を行うことにあった。その結果、十分な評価にはさらに年月を要するとしつつも、とりわけ、男女性別賃金格差の縮減に寄与したこと、当初は別グループとされた21歳層の若年者も、すべて同一の賃率でカバーされるべきであるとの実証結果に基づく勧告が提示されている。
  審議会の公的見解は別として、新制度は「仕事の世界」にいかなる影響を与えたか。本書では、その実態の一部がひとりのジャーナリストの目で明らかにされている(ところで、みなさんご自身が働いている地域の最低賃金がいくらかご存じですか。)

ジャーナリスト魂の発露
  本著は『ガーディアン』紙の女性記者が、最低賃金で暮らすということは、いかなる実態に置かれることを意味するのかを、自ら体験したレポートである。もちろん、彼女の本職はジャーナリストであり、日常は高い報酬を手にして「別の世界」に生きている人である。しかし、この実体験努力は、これまで霧の中に包まれていた部分をかなりあからさまに示してくれた。
  「ハードワーク」というのは、単に大変な仕事という意味にとどまらない。人間としての尊厳を脅かされるような賃金の下で、懸命に働き、生きるということである。 『ガーディアン』紙の研究休暇を利用しての体験であり、結婚していて夫の収入や、専属ジャーナリストとしてのかなり高額な所得や資産に支えられていて、今回の取材上も制約があり、正確には最低賃金だけの収入で生活したというわけでは必ずしもない。しかし、できるだけ最低賃金生活者の世界に身を置き、体験をしてみようとのジャーナリスト魂が伝わってくる。日本のジャーナリストには戦後トヨタ自動車の季節工としての体験を記した鎌田慧『自動車絶望工場』講談社文庫、1983年など、類似の努力がないわけではないが、数は少ない。
  ちなみに、本書の原書は出版された当時2003年に読んだことがあったが、画像に対比して示したような簡素な装丁の出版物であり、日本語版の方がページ数もかなり多く、装丁も立派である。ちなみに、私がイギリスで購入した価格は、本体価格6ポンド99であった。今回の日本語版は1800円である。

同様な試み
  彼女ポリー・トインビーは、30年ほど前に肉体労働の世界について同様な体験を試みており、『労働者の暮らし』A Working Lifeを刊行している。こうした試みはイギリスばかりでなく、他の国々でも行われている。実は、アメリカではトインビーに先駆けて、ジャーナリストのバーバラ・エーレンライチがほぼ同様な実体験ルポルタージュを『ニッケル・アンド・ダイム』(*)として刊行している。ポリー・トインビーはこの英国版の序文を書いている。このエーレンランチの本は、かなり影響力を持ち、イギリスでもポリートインビー以外にも、同様な試みをジャーナリストにうながした(**)。

最低賃金の世界とは
  ポリーは、最初、病院の運搬係に始まり、給食のおばさん(dinner lady)、託児所、コールセンターの飛び込み電話セールス、早朝清掃係、ケーキ製造係、老人ホーム介護などいくつかの最低賃金職種を経験し、その実態を描き出している。たとえば、最初の病院での仕事は、30年前と比較して設備などの環境は改善されているが、給料と労働条件は悪化していることを示している。
  以前は雇用されれば、病院スタッフとして最初から安定した職に就けたのに、今では多くの仕事が「柔軟性」の名の下に「外部発注」outsourcing されている。使用者からみるかぎりでは、人件費の大きな削減となる。しかし、病院活動を支える下層部分の労働環境はかなり顕著に劣化しているようだ。 医者や病院スタッフからも、しばしば低くみられている。

驚くべき報酬格差
  この病院でのポーターの仕事と、彼女が本職のジャーナリストとして、ケネスクラークとBBCで30分対話をした報酬格差が、記されているが、チェルシー・アンド・ウエストミンスター病院で2週間、80時間の仕事をした時の手取りと、この30分の報酬とほぼ同じで、実に格差は160倍とのことである。イギリス社会における報酬格差が大きいことはよく知られているが、本書に出てくる比較的大きな介護ホーム会社の重役の給料は、年に16万2000ポンド(3240万円)に加えて、自社株38万7100株の配当が8万5162ポンド(1703万2400円)、年収は24万7162ポンド(4943万2400円)だが、これでも一般的な重役の収入としては下位ランクという。
  本書を読むと、イギリスの労働市場で、実際に求職活動を行い、仕事にありつけるためには、いかなる手続きを踏み、どんな努力をしなければならないかが具体的に迫力をもって伝わってくる。単に集計された統計を見ているかぎりでは分からない迫真力をもって、低賃金労働者の世界が描き出されている。

1970年代:英国民が最も平等であった時代
   70年代以降の労働党政策に代表される社会変革、「中流化」は、それまでの世代には想像できなかった中流大衆を出現させた。国民の持ち家比率は大きく増加し、大学に行けるなど思いもしなかった人たちの孫が、大学にあふれている。こうした積極的に評価すべき進歩の裏側で、その流れから取り残された3分の1の人々がいる。
  それが、本書が描き出した側面である。 1970年代は平等化の時代であった。イギリス国民にとって、平等化という視点からみると、1970年代は、それがある程度実現していた。その後、社会は大きく変わり、労働者階級は細分化し、政治離れが進み、大半は中流へと上昇した。仕事の世界は多様化し、ブレア首相がいうように「社会などというものは存在しない」という事態が生まれた。しかし、その流れについて行けなかった人々もいた。
  筆者ポリー・トインビーが記すように、労働組合は、ほとんど影響力を発揮できず、いまや市場に影響を与えられるのは政府だけという状況になっている。政府の責任はかつてなく重い。

「運」ではなく社会的救済を
  ポリーは本書の最後に「境界線の向こうの暮らしを知ることができたのは嬉しかったが、運良くこちら側に生まれた嬉しさはそれ以上だった」と記している***。しかし、この結論は私には大変哀しいものに思える。「運良く」こちら側に生まれる以外に、人間らしい生活を送れる道はないのか。「運がよけりゃ」With ALittle Bit of Luckでは、まさに「マイフェア・レディ」の世界になってしまう。政府や関係者の責任は、まさに社会的救済の制度を整備・充実し、競争から落ちこぼれてしまう人々に救いの手をさしのべることにあるのではないか。
  さらに、本書邦訳の帯には、「明日の日本の悲劇が、ここに描かれている」と記されている。しかし、明日どころかすでにはるか以前から、日本は「危険水域」に入っているというのが、私の実感である。


本書の構成
目次
第1章 事のはじまり
第2章 ホーム
第3章 職探し
第4章 買い物
第5章 初仕事 運搬係
第6章 職探し その2
第7章 給食のおばさん  いつも笑顔を絶やさずに
第8章 託児所
第9章 クラパムパーク団地のお隣さんたち
第10章  飛び込み電話セールス
第11章  早朝清掃
第12章  ケーキ製造所
第13章  老人ホーム
第14章  これしか道はないのか
第15章  あのころと、いま

* Nickel and Dimed: On (Not) Getting By in America, 2002
** Fran Abrams. Below the Breadline: Living on the Minimum Wage, London: Profile Books, 2002

***まさに蛇足ですが、原著のこの部分(下線は私)は次のような表現になっています。

I am glad I know more than I did about life on the other side, but gladder still, more than I can say, that I was born on the lucky side of life. I look at Clapham, my own home-territory, with other eyes now, seeing its underside everywhere, knowing more now of what lies behind a thin veneer (p.240).



Notes: 日本の最低賃金制度について
  本書を改めて読みながら、日本の最低賃金制度の問題点を改めて考えさせられた。現行制度は重大な欠陥があり、抜本的な改革が必要と思われる。新政権は、問題を十分認識し、適切な手段を講じる必要があろう。イギリス労働党にかぎらず、最低賃金制度は現代社会において、きわめて重要なセフティ・ネットなのである。今日の日本では、あまりに存在感がない。いうまでもなく、そこには多くの欠陥がある。
  ここではとりわけ、次の点だけを指摘しておこう。
1 制度が複雑化しすぎて透明度が低い。
  日本では都道府県別に最低賃金が設定されており、その決定の仕組みは専門家でも分かりにくいほど、複雑化している。たとえば、現実の労働市場は都道府県別に区分されているわけではない。しかし、実際には地域別最低賃金の名で、都道府県ごとに異なった賃率が設定されている。そこにいたる過程には多大な行政コストの浪費もある。こうした複雑な仕組みは当然ながら透明度がない。致命的なことは、制度自体への信頼がなくなることである。私自身が関わった調査でも、自分の地域の最低賃率を正しく答えられなかった使用者が圧倒的に多かった。イギリスやアメリカでは、制度に問題がないわけではないが、基本的に全国一律であり、その浸透力、透明度ははるかに高い。
  さらに、制度が複雑であることは、政策の効果測定が大変困難であり、これは致命的な欠陥である。戦後しばらくは、最低賃金制度のあり方は社会政策上の大きな焦点であった。しかし、制度の複雑化とともに、労使を含めて国民の関心度は急速に低下してしまった。制度としては、ほとんど「死に体」といってよい状況である。
  政策として積極的な影響力があるのか、あるいはただ現状を追認しているだけにすぎないのか、正しく確認することもできない。政策意図が不鮮明なため、その結果は、制度自体の存在感を薄れさせているといってよい。

2 水準の問題
  国際比較の面からみると、OECD諸国の中でもきわめて低い水準である(OECD. Employment Outlook, 2002)。購買力平価でみると、97年でスペインに次いで下位から2番目、オーストラリアの半分程度である。ボーナスを含む所得(メディアン)では最下位、フランスの半分程度である。
  日本でポリー・トインビーと同じような勇気あるジャーナリストが現れるとすれば、いかなる状況が描かれるだろうか。

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レンヌの赤ちゃんは誰の子守歌を

2005年07月23日 | 書棚の片隅から

Les Berceuses des grands musiciens (1 livre + 1 CD audio) de Paule Du Bouchet, Johannes Brahms, Franz Schubert, Wolfgang-Amadeus Mozart, Collectif, Callimard Jeunesse Musique, France Inter, 1999 


    暑中お見舞い申し上げます。異常気象や同時多発テロで、世界は大変騒がしくなっています。今日はちょっと一休み。前回に続き、お子様向きの本の紹介をしましょう。数年前に、フランスの子どもたち(大きくなった子ども?も含む)向けの本として評判になった小さな本がありました。それがこの『大音楽家の子守歌』です。

  表紙に描かれた絵は、レンヌ美術館にあるあの「生誕」(Georges de La Tour, The New Born Child,c.1645, Musée des Beaux-Arts, Rennes)です。「世界一可愛らしい赤ちゃん」ともいわれていますが。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの名を聞いたことがない人でも、この絵を見たことのある人は多いでしょう。私の仕事部屋の壁にも、ポスターですが、外されることなくかけられています。
  
  さて、この本には20曲の子守歌が、楽しい絵やストーリーとともに掲載されています。ブラームス、モーツァルト、シューベルト、フォーレ、ウエーバー、ショパン、グリーク、ヴォルフ、ドヴォルザークなど、大人にも大変楽しめる内容です。ところで、ラ・トゥールの「生誕」の赤ちゃんは、誰の子守歌を聴いて眠っているのでしょうか。答は、下にあります。


Flies, Bernhard (attribué á Mozart)

Schlafe, mein Prinzchen, schlaf ein,
Es ruhn nun Schäfchen und Vöglein,
Garten und Wiese verstummt,
Luna mit silbernem Schein
guckert zum Fenster herein,
Schlafe beim silbernen Schein,
Schlafe mein Prinzchen, schlaf ein !
Alles in Schlosse shchon liegt.
Alles in Schlummer gewiegt;
Reget kein Mäuschen sich mehr,
Keller und Küche sind leer,
Nur in der Zofe Gemach
tőnet ein schmachtendes Ach!
Was für ein Ach mag dies sein?
Schlafe, mein Prinzchen, schlaf ein!
Wer ist beglückter als du ?
Nichts als Vergnügen und Ruh !
Spielwerk und Zucker vollauf,
Und noch Karossen im Lauf,
Alles besorget und bereit,
Daß nur mein Prinzchen nicht schreit,
Was wird da künftig erst sein ?
Schlafe, mein Prinzchen, schlaf ein !
Schlaf ein, schlaf ein !


          Friedrich Willhelm Gotter


参考

作詞者 堀内敬三 作曲者 フリース

眠れ よい子よ 庭や牧場(まきば)に
鳥も羊(ひつじ)も みんな眠れば
月は窓から 銀(ぎん)の光を
そそぐ此(こ)の夜眠れ よい子よ 眠れや

家の内外(うちそと) 音(おと)は静まり
棚(たな)のねずみも みんな眠れば
奥(おく)のへやから 声のひそかに
ひびくばかりよ眠れ よい子よ 眠れや

いつも楽しい 仕合(しあわ)せな子よ
おもちゃいろいろ 甘(あま)いお菓子(かし)も
坊(ぼう)のお目覚(めざ)を みんな待つゆえ
夢に今宵(こよい)を眠れ よい子よ 眠れや

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仕事のよろこび

2005年07月20日 | 書棚の片隅から

『仕事ばんざい ランベルト君の徒弟日記』


ランベルト バンキ (著), 小泉 和子 (編集), 中嶋 浩郎 (翻訳), パオラ ボルドリーニ (中央公論社、1992年)

  中世以来、職人を養成する場としての工房の世界については、断片的には資料がないわけではない。さまざまな職業について、それぞれの国々でかなり膨大な記録が残されてきた。だが、ほとんどの記録は、徒弟から職人、そして親方にいたるまでの制度あるいは生活の叙述が主となっている。特に、私が知りたいと思うのは、画家の工房における熟練・技能の伝承、形成の過程である。未だ幼い年齢の徒弟が、工房において、使い走りやさまざまな日常の雑事に走りながら、兄弟子の職人や親方から熟練・技能の機微をどうやって教えてもらうかという部分は、ほとんど明らかではない。
  たとえば、あのジョルジュ・ド・ラ・トゥールの時代には、画家を志す徒弟は、工房で顔料の選び方、調合、配色の仕方、デッサン、キャンバスの準備、下地塗りなどを、どんな時に、いかなる方法で教わったのだろうか。多少なりとも、体系だった伝承の方法が社会的に成立していたのだろうか。もし、そうであるとすれば、いつごろ、どのあたりの工房が先駆だったのだろうか。
  ラ・トゥールの時代の工房についても、徒弟契約などの内容はかなり記録が残っており、徒弟の保護者や親方との契約の内容について、概略は知ることができる。しかし、それは契約上の文言にすぎない。実際の工房の日常は、ほとんど分からない。こうした中で、職種も異なり、時代もずっと新しいのだが、未だ歳も幼い徒弟が残した日記が公刊されている。しかも、日本語訳で読むことができる。とても興味をひいたのは、当の日記の筆者がフィレンツェで金具職人として現役で働いておられ、そのインタビューが含まれている点である(実は、本書は私の愛読書のひとつでもあるのだが、残念ながら今は絶版になってしまっている)。

小さな愛すべき本
  この小さな本は、イタリアのフィレンツエェ市に住む金具職人であるランベルト・バンキさんが、初めて徒弟になった時にお母さんから、学校で習った字を忘れてしまわないようにといわれてつけた日記である。日記の最初に「ママが間違いをなおしたランベルト・バンキの日記」とほほえましい記述がある。実際には直されなかったそうだが。バンキさんは、1946年、13歳で小学校を卒業するとすぐに、金具職人のヴァスコ・カップッチーニさんのところに弟子入りした。そして弟子入りした1946年9月16日から、翌年の5月30日までの8ヶ月(3ヶ月病気で休んだので正味は6ヶ月)の記録である。

徒弟の日々
  なによりも、興味があるのは、未だ10代の年若い少年の目線で、日々の生活が描かれていることにある。予想したとおり、親方にいわれて使い走りをしたり、掃除をしたりしながら、仕事を覚えていく徒弟の日常が伝わってくる。ヴァスコ親方は、“チェルリーニ”(16世紀の有名な金銀細工師)とあだなされていたような名人だった。
  この親方の下で、バンキさんは17歳まで4年間徒弟としての修業をしていた。当時の標準的なキャリア形成のあり方だった。その間、15歳から17歳までの3年間、国立の「職人のための夜間のデザイン学校」に通った。1年目は装飾デザインやデッサンなどの基礎的な勉強で、2年目から専門のコースを選んでいる。(私も、かつてミラノにあるブレラ美術館付属の同様なコースを見学に行って、こうしたことができるのは、実にうらやましいなと思ったことがあった。)

親方の仕事を継ぐ
  さて、バンキさんは17歳で学校を終えると、徒弟から一人前の職人「オペライオ」になった。そして、25歳で結婚している。これも、当時としては、職人として身を立てる普通のイメージに沿っているといえよう。職人になってからは、親方を助けて仕事をしていた。ところが、1965年にヴァスコ親方が急死してしまう。親方の息子は、すでに医者になっていたので、バンキさんが仕事と仕事場を引き継ぐことになった。そして、今やヴァンキ親方と同じように名人といわれ、文化財の修理とか、美術品の制作など難しい仕事を頼まれ、今も忙しく働いているそうだ。

大人にとってのカタルシス
  日本語訳のこの本には、バンキさんの日記に挿入されている可愛らしい挿絵を含めて、仕事場や町の様子が挿絵化されて彩りを添えている。これは、一見すると、子ども向けの絵本であるかに見える。しかし、「フリーター」や「ニート」といった言葉で、難しく現実を「分析」したり「解釈」しようとする大人たちに読んでほしい仕事の世界の素朴な原点が描かれている。多少なりとも、カタルシスの役割を果たしてくれるだろう。   

  なによりも、感動するのは、徒弟という少年の目線で、毎日起こったことが淡々と綴られていることだ。仕事の難しさ、親方にほめられた時のうれしさなどが、感性豊かに残されている。仕事の楽しさ、厳しさ、仕事をすることの楽しみと生き甲斐――これらは、すべて現代社会において失われつつあり、その再生を求めて様々な努力も行われている内容である。「ものづくり大学」がつくられ、「13歳のハローワーク」がベストセラーになったが、そうした試みが伝えきれていない素朴なメッセージがここにはあるように思われる。


目次
1 弟子入り
2 初めての給料
3 仕事を覚える
4 小さいけが
5 白い猫
6 僕の傑作
7 夢
8 かなしいできごと
9 足ぶみ式旋盤機
10 ねずみ退治
11 お使い
12 クリスマス
13 親方の手術
14 細工場のこと
15 掃除
16 仕事になれて

(2005年7月20日記)

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「おおかみ娘を夢見るラ・トゥール」

2005年07月04日 | 書棚の片隅から

  ラ・トゥールの絵画に啓発された芸術作品は、おそらくかなりの数に上るだろう。日本では知名度がいまひとつであるが、世界的にはさまざまな意味で注目を集めてきた。そのうち、絵画の世界への影響については、先日東京で開催された特別展のカタログに収録されているディミトリ・サルモンの論文「ラ・トゥールに基づいて」*において、考察されている。しかし、その他の分野でもラ・トゥールは、多くの人の想像を超える広い範囲に影響を及ぼしている。ラ・トゥールの名前や作品が使われている文献はとてもかぞえきれない(あの『ダヴィンチ・コード』にも出てきましたね)。

小説になったラ・トゥール
  ところで、ここで取り上げるのは、日本ではほとんど知られていないと思われるラ・トゥールをテーマとした小説である。残念ながら、邦訳はない。原著のタイトルは次の通りである。 David Huddle, La Tour Dreams of Wolf Girl, New York: Houghton Mifflin, 2002. (仮題『おおかみ娘を夢見るラ・トゥール』)   作者のデイヴィッド・ハドルDabid Huddleは、アメリカ、ヴァージニア州生まれで、長年にわたり短篇や詩、エッセイ作家として名声を得てきた。そして、1996年の『ベスト・アメリカン・ショート・ストーリーズ』に収録された短篇をもとにした、処女長編The Story of a Million Years(岡田葉子訳『百万年のすれ違い』早川書房、2002年)は、1999年に出版され、その年の最高傑作と各紙誌で絶賛された。この著作は邦訳もある。ハドルは現在、執筆のかたわら、ヴァーモント大学で創作を教えている。 

同時に展開する二つの世界  
    ここで紹介する「おおかみ娘を夢見るラ・トゥール」は、ハドルの長編小説としては第二作に当たる。「百万年のすれ違い」が主題としていた学生時代から仲のよい二組の夫婦が、いつしか広がっていた溝に愕然とするという心理のすれ違い、そして中年期のかすかな不協和音を巧みに描く、大人の味わいの恋愛小説という流れを受け継ぎながらも、思いもかけないような世界を描き出している。   
    ニューイングランドのヴァーモント大学で美術史を教える38歳の女性助教授スザンネ・ネルソンは、結婚につまづき、大学で主として想像と研究の世界に引きこもりがちな生活を送っている。彼女が出版を予定する作品のタイトルは、まったくの小説の中での話だが、なんとEuropean Background: Peripheral Symbolism in Caravaggio, Terbrugghen, and La Tour (Cornell University Press)である。

ヴァーモントとロレーヌが舞台  
  小説のストーリーは、スザンヌのこれまでの生活にかかわる知人・友人、パートナーたちとの微妙な心理的な葛藤の世界と、それに同時並行して、(まったくの想像の産物ではあるが)17世紀、ラ・トゥールの晩年におけるリュネヴィルの町の靴屋の娘で、愛すべき若い女性ヴィヴィエンヌとの不思議な関わりの世界という、時空を超えた二つの世界の話が巧みに交錯して現れる。実に読者の意表をついた構成であるが、違和感はない。現代のアメリカ、ニューイングランドのヴァーモント州と17世紀のロレーヌという、普通では結びつきがたい次元で物語は並行しつつ進行して行く。

発想の根源はラ・トゥール展  
    ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの作品世界については、かなりのことが分かってきたが、謎に包まれた部分も多い。とりわけ、富と名声とを手中にした晩年における利己的そして粗暴な行動についての断片的記録と、農民や旅の音楽師、使徒たちなどを描いた精神性の高い非凡な作品との間に存在する大きなギャップについて、さまざまな推測や解釈を生んできた。   
    ハドルの小説でのラ・トゥールに関わるプロットの展開は、ひとつの歴史的な文書記録からスタートする。ハドルは、アイディアを1996年にワシントンD.C.のナショナル・ギャラリー・オブ・アート(NGA)で開催されたラ・トゥールの特別展とその後、手にしたスミソニアン博物館が発行した画家の生涯に関する論文**からヒントを得て、作品化したと語っている。   

    ハドル自身は美術史に特に関心を持っているわけではないが、着想を得たのはラ・トゥールの作品に接したことと謎の多い断片的な経歴からであり、美術は彼にとっては新たな発想を生む「力」であると述べている。(私自身もこのNGAでの展示を見る機会があり、カタログなども保有しているが、新たな作品を見て認識を改めたり、啓発された点も多かった。)さて、本題の小説の話に移ろう。

ラ・トゥールは強欲、粗暴な人間だったのだろうか  
    ハドルは、スミソニアンの論文に記載されているラ・トゥールの人生における歴史的記録に興味を惹かれる。それは次のような背景と内容である。   1946年7月18日、 画家が47歳の時に、そのころ、一時的にルクセンブルグに身を落ち着けていたが、未だ権勢を保っていたロレーヌ公に宛てて、リュネヴィルの住人から嘆願書が出されている。これは、ほこりに埋もれていたリュネヴィルの市庁舎の記録から発見された。   
    その内容は特権を享受するラ・トゥールを含めた何人かの富裕なリュネヴィル市民を非難するもので、そのうちの何人かが戦争や軍隊の宿営に関わる負担への協力を拒否したと告発している。問題の嘆願書は、こうした公共の費用を負担しようとしない人への抗議である。記録は次のような情景を伝えている。   

「これらの修道僧、修道女たちは辺り一帯の耕地を所有しており、フールとシャルジェーの貴婦人たち、画家のラ・トゥール殿は、彼らだけで合わせて当該のリュネヴィルで見られる3分の1の家畜を所有しております。その人たちの所有する土地は、残りのリュネヴィルのすべての人たちより多く、そこで耕し、種を蒔いております………前述のシャルジェーの貴婦人とラ・トゥール(彼は、スパニエル犬とグレーハウンド犬を同じくらい多く飼い、まるでこの土地の領主であるかのように、種蒔きした畑の中で野兎を狩らせ、踏み荒らし駄目にしてしまうので、人々にとって憎むべき人物です)は、ナンシーの総督殿下により、兵隊の宿舎の提供義務から免除されており、同様にすべての負担金の免除を得ています」(Tuillier 1992、212)   

    これを読む限り、画家ラ・トゥールにきわめて厳しい内容だが、そのまま鵜呑みにすることも必ずしも客観的理解でないかもしれない。すでに、この時期にはパン屋の息子として生まれたラ・トゥールは、画家としての名声をほしいままにし、宮廷画家という富裕な階層に到達していた。それは彼の際だった天賦の才能に加えて、さまざまな世俗の世界における世渡りのうまさのもたらしたものであったろう。それらが、貧窮に苦しむリュネヴィルの住民の反感につながっていたことも、想像に難くない。(ラ・トゥールの農民などに対する尊大あるいは粗暴な人格を思わせる他の記録もある。)   
    他方、1618年に始まった30年戦争後、フランス国王とロレーヌ公の間で決裂した政治的情勢を背景に、リュネヴィルの住民たちは板挟みとなり、極端に悲惨な状況に陥っていた。他方、上層階級にとっては、一時パリその他安全な場所へ避難するなど、さまざまに危険を回避する術もあった。嘆願書の背景となっている情景もそのひとつの断面と思われる***。この時期の背景については、別に記すこともあろう。   
   
    小説の面白さは、ラ・トゥールが明らかにプロット展開の軸となっていることである。年老いた画家が関心を寄せ、モデルになってほしいと靴屋の両親に依頼した少女ヴィヴィエンヌとラ・トゥールの心理的やりとりは、大変興味深い。「ウルフ・ガール」(おおかみ娘)とはいったい何を意味するのか。これは小説家ハドルの創造の産物である。私も読んでいて、あっと思わされた。小説を読む人の楽しみを損なわないよう、ここではこれ以上触れないでおこう。ちなみに、この空想の世界でラ・トゥールが飼っていた犬の一匹の名前は、「カラヴァッジョ」であった。

現代の世界は?  
    他方、現代の世界で展開するスザンヌやパートナー、ジャックの生活も興味深い。なぜ、一時はうまく進んでいたかに思えた夫や友人との関係に、すれ違いが生まれて行くのか。この心理描写は大変絶妙である。小説自体には、重厚さや深みといったものは感じられないが、日常の生活における心理描写の巧みさには感心する。実は、およそ良い役柄とはとてもいえないが、この小説には日本人までも登場する。人間の心理や感情の微妙な陰影を描き出すという点では、前作の方が構想も巧みであり、書き込まれていると思われる。しかしながら、この作品も、主たる登場人物の子供の頃の経験が成人した大人の心理をいかに規定しているかという問題などを含めて読むと、大変興味深い。さらに、主として舞台となるヴァーモントの小さな町には、私も多くの思い出があるが、これもここでは書き尽くせない。日を改めて記すことがあるかもしれない。   

    こうしてみると、ラ・トゥールという画家は、小説家にとっても豊かな発想の材料を提供してくれる実に不思議な存在となっている(2005年7月4日記)。



参考文献
*ディミトリ・サルモン「ラ・トゥールに基づいて」『国立西洋美術館ジョルジュ・ド・ラ・トゥール展カタログ』、2005年

**Helen Dudar, "From Darkness into Light: Rediscovering Georges de La Tour," Smithonian, December 1996. ***ディミトリ・サルモン「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール:その生涯の略伝」『国立西洋美術館ジョルジュ・ド・ラ・トゥール展カタログ』、2005年、146頁。原典は、Jacques Tuillier, Georges de La Tour, Paris: Flammarion, 1992, 1997.

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パン職人の世界

2005年06月20日 | 書棚の片隅から
Françoise Desportes, Le pain au moyen âge, Olivier Orban, 1987 (見崎恵子訳『中世のパン』白水社、1992、2004)

  本業の仕事が忙しくなってくると、それから逃避して別のことをしたいという思いが募ってくる。原稿の締め切りなどに追われると、放り出して逃げ出したくなる。忙しさが増すほど、逃げたくなるからかなり重症である。前から聴きたい、読みたいと思っていたCDや本がとりあえず逃避の対象となる。旅行の途上などでは、日頃の関心事とはかなり離れたテーマの音楽や本が欲しくなる。

  この本もこれまで「積読」の山に埋もれていた。新書になる前は、同じ出版社から確か1999年に刊行されていた。いくつかの動機から、ぜひ読みたいと思っていた。読んでみると、やはり大変面白い。詳細な内容に興味ある方は、現物に接していただくしかないが、構成だけは末尾に示しておこう。

中世のパンづくり
  さまざまな点で、注目すべき点があったが、とりわけ、パンづくり、パン屋の共同体と同職組合(ギルド)、パンの価格の形成についての章に興味を惹かれた。もともと、「労働」の研究者であるため、熟練の形成の仕組みや労働の態様には長らく関心を持ってきた。もうひとつの直接的動機は、このサイトで取り上げているラ・トゥールに関連している。

  ジョルジュ・ド・ラ・トゥールは1593年ロレーヌ公国の町ヴィック・シュル・セイユにパン屋の息子として生まれた。父親ジャンjeanの家は石工、母親Sybilleシビルの家および彼女の兄弟はすべてパン屋であった。生活必需品であるパン屋の方が暮らしが立てやすかったのだろう。ジャンは妻の家の家業を継いだ。この頃のロレーヌは、きわめて平和で豊かな地域であった。ラ・トゥールは、時に戦乱の巷に生きた画家であるといわれることがあるが、少なくも青年時代までは素晴らしい平穏に恵まれた環境であった。状況が厳しくなってきたのは、1618年、30年戦争が始まった頃からであり、画家の後半生である。

  さて、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの生家であるパン屋は、生活には苦労のない職業階層であったとみられている。西欧社会ではパンは主食であり、パンづくりは重要な役割を果たしていた。両親にはすでに一人の子供がおり、ジョルジュは2番目の子供として生まれたことになる。そして、1600年までにさらに5人が生まれている。しかし、疫病その他で若くして死亡する率はきわめて高かった。乳児死亡を含めて、成人年齢まで達した者の方が珍しいくらいだった。ジョルジュの父親は、ヴィック・シュル・セイユの町では、かなり羽振りも良く名士でもあったようだ。

  このような状況で、ジョルジュはなぜ家業の職業を継がずに、画家の道を選んだのであろう。このあたりはまったく謎に包まれている。

パン職人の徒弟修業
  当時、パン屋職人になるには同職組合のメンバーであるパン屋の親方の下で、徒弟修業を経なければならなかった。パン屋の同職組合がいつ、いかなる背景で生まれたかについては確たる資料はないが、13世紀末以降多くの同職組合が形成されている。パン屋の同職組合の規約では徒弟期間を2から4年と定めていた。しかし、実際には8歳で9年の契約を親方と結んだ場合も知られている。この場合はパン職人として働くまでの長い期間を家内使用人として過ごしていたと思われる。すなわち、親方はこの少年に9年間の住居と食事を提供し,扶養することを約束している。徒弟期間については、両親の資力に対応している場合が多かった。徒弟期間が長い場合は、両親は養育費を節約できたといえる。職業によって差異はあるが、徒弟の仕組みは同職組合を背景にして、類似した制度が形成されていた。

職人としての力量
  パリやその旧市街区での徒弟に入った若者の平均年齢は17・5歳、最も若い場合で14歳、最も高い場合で22歳であった。  同職組合の規約や慣習法では、親方が引き受ける徒弟の数は、一度に一人であったが、実際には複数の徒弟を引き受けていた例もかなりあった。徒弟の間は給料は支払われず、せいぜい修業の終わりに、なにがしかの心付けをもらう程度であった。徒弟期間が終わると、必要な技術の習得および期間中の品行方正を証明する一種の証明が与えられたが、多くの場合口頭であったという。つまり、親方がその徒弟の技量に「満足している」ことを公言すれば、ほとんどの場合は良かったようだ。近隣の町などで職に就くにはそれで十分だったのだろう。実際には、仕事をさせてみれば、職人としての力量が直ちに判別できたからと思われる。職人として認知されれば、賃率などもその時代に対応して慣習的に定まっていたようだ。

  話題が横道に逸れるが、パン職人の世界は、他の職業と比較すると女性にもかなり開放されていたようだ。1382年のロレーヌ地方メッスの規約では女性も男性のパン職人とまったく対等に扱われていたとの記録がある。パンはもともと家庭内でつくられていたから、女性が活躍する場も多かったのだろう。

職人としての独立
  徒弟を終了した若者は、大部分が職人になった。職人はセルジャン(使用人)、ガルソン、ウヴリエ(労働者)などの呼称であった。15世紀末以降になるとコンパニオンという呼称も登場している。この頃になると、親方として独立開業する環境はかなり厳しくなっていたようである。親方のところでそのまま職人として仕事をするか、他のパン屋で働くことが普通になっていた。同業者の数が多くなってきたのである。それでも、親方の息子が職人となるのはかなり有利であったようだ。中世末期から、同職組合は既存の手工業者の子供および富裕な志願者の入会だけを認めるかだけの、閉鎖的な組織へと変質していった。

  職人としての賃率は、徒弟時代とは異なり、当時としては一定の社会的・生活水準を享受しうるだけの高さに設定されていた。しかし、ラ・トゥールの活躍した16-17世紀になると、中世と異なり、競争環境も次第に厳しくなっていたようだ。

  他方、ラ・トゥールが選択した画家の同職組合も同様であり、新規の参入はかなり厳しくなっていた。とりわけ、画家の場合は本人の才能・技量がその成否を大きく決定していた。技量や社会的評価が伴わなければ、どうにもならない職業である。ジョルジュと息子のエティエンヌの関係を見ても、類推できるところがある。エティエンヌは、父親のジョルジュほどの天賦の才に恵まれていなかったようだ。画家の職業形成については、別に記す機会を待つことにしたい。

  おそらくジョルジュはこうした環境変化の中で、家業のパン屋を継ぐよりは自分の才能を考え、画家として身を立てる道を選んだのだろう。親とは違う道を選ばせることを可能にするほど、家業も裕福であったに違いない。おそらく、どこかの工房で修業をしないかぎり、技能の習得はほとんど不可能であり、社会的認知も得られなかった時代である。もちろん、若い頃から画家としての天賦の才、片鱗が認められていたに違いない。だが、ラ・トゥールが画家としていかなる修業の途をたどったかは依然として謎に包まれたままである。


『中世のパン』目次:

第一章 麦畑から粉挽き場へ
第二章 パンづくり
第三章 パン屋の共同体と同職組合
第四章 フランス、パン巡り
第五章 パンの販売場所
第六章 なくてはならない市外からのパン
第七章 自家製パン
第八章 パンの価格 原則と実際
第九章 年のなかのパン屋
第十章 パン消費の数量的評価の困難
結論


* まったく別の資料だが、18世紀中頃になってもイギリスの熟練機械工の平均寿命は38歳くらいであったとの記録を読んだことがある。彼らも徒弟時代が必須だった。S.Pollard, A History of Labour in Sheffield, Liverpool University Press, 1959.
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東と西は分かり合えるか:オルハン・パムク『白い城』を読む

2005年06月07日 | 書棚の片隅から
  表紙を見て、初夏の昼下がりに気軽に読んでみたいと思った。しかし、その予想は見事に外れ、なにかと考えさせられる作品だった。   

  17世紀のある時、若いイタリアの学生がナポリからヴェニスへの航海途上で海賊にとらわれの身となり、コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)の奴隷市場に出される。幸い西欧の科学や知的状況に興味を抱くホージャ(主人)という名で知られる下級の宮廷人に引き取られる。

  ホージャは若いスルタンに使えている下級の従者である。ホージャと奴隷の若者の間には、次第に不思議な関係が生まれる。最初は主人と奴隷の関係であった二人だが、ホージャは西洋の科学や技術を知りたがり、奴隷は医学や天文学を教えてゆく。ホージャも幼いスルタンの覚えめでたく信頼を得る。お互いに自分の秘密を打ち明け、話が進むにつれてどちらがどちらか分からなくなってゆく。アイデンティティまで交じり合ってしまうようだ。

  二人は東と西の文明を象徴しているかのごとくでもある。ホージャはヨーロッパの最新技術を習得し、オットーマン帝国の栄光を取り戻したいという思いにとりつかれている。そして、その行く末は、思いもかけない結末へとつながってゆく。

  この作品で著者パムクはなにを語ろうとしているのか。歴史小説とも、文明論とも考えられないこともない。話の舞台はイスタンブールだが、実はこの好奇心をそそる歴史的な都市をしのばせるような情景はほとんどなにも出てこない。パムクはそれを別の著作のために残したのだろうか。ペーパーバックでわすか145ページの作品、背景、詳細を一切捨象したような感じもある。それだけに行間に潜ませた作者の思いも深いのだろう。著者を知るに、もう一冊読んでみたいと思わせる作品である。


* Orhan Pamuk. The White Castle. Manchester: Faber and Faber, 1991. Translated by Victoria Holbrook.
Paper Back 版には、サイコロジックなものから、ここに掲示したものまでいくつかの表紙があるようだ。この表紙が内容に最もふさわしいような気がする。
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工房の世界を覗き見る: トレイシー・シュヴァリエ『貴婦人と一角獣』

2005年05月15日 | 書棚の片隅から
  このブログでも取り上げているラ・トゥールの人生は、多くの謎に包まれているが、そのひとつは画家として初期の修業をどこで、いかに過ごしたかということにある。16世紀末から17世紀という時代に画家という職業で生きてゆくには、天賦の才能に恵まれるだけでは、とうてい不可能であった。

画家の修業時代?
  他方、画家という職業を求める人も多く、ラ・トゥールの生まれたロレーヌのヴィック・ド・セイユという小さな町でも、多くの画家が活動していた。1593年にヴィックに生まれたラ・トゥールが、1617年に24歳で結婚するまで、画家としていかなる修業をしたかという点については、なにも推定する材料が発見されていない。しかし、リュネヴィルの貴族の娘ディアーヌ・ル・ネルフと結婚するについては、その時までにラ・トゥールが画家として、かなりの実績を上げていたに違いないと推定されている。パン屋の息子が社会階級としては上層のグループに入り込むことは、並大抵のことではなかった。この時までに、ラ・トゥールは若い画家として、将来を期待されるだけの仕事をしていたものと考えられる。ラ・トゥールが結婚を機に、妻の実家のあるリュネヴィルに住居を移すのも、画家の間の市場競争も考えての上であったと推定されている。

徒弟の世界
  中世以来、多くの職業において、必要な熟練を習得するには、徒弟制度apprenticeship という経路をたどることが必要条件であった。時代や職業においても差異はあるが、徒弟制度は社会的に確立された熟練養成の仕組みであった。当時の徒弟は、職種などで異なるが、ほぼ14歳でスタートし、4~6年間、親方や兄弟子職人の下で修業する慣わしであった。ラ・トゥールも、画家としてロレーヌで認知されるについては、どこかの工房に徒弟として住み込み、親方の指導の下で、画法や顔料など必要な知識や技能を習得する時代を過ごしたに違いない。
  推定では、ロレーヌで画家およびエッチング(銅版画)作家として名声の高かったジャック・ベランジェJacques Bellange (c.1575-1616)あるいはヴィックですでに画家として認められていたドゴスClaude Dogoz(1570-1633)の工房で修業したのではないかともいわれているが、確認する資料はなにも発見されていない(この推測のひとつの理由は、後年ラ・トゥールの息子エティエンヌがドゴスの姪アンヌ・カトリーヌ・フリオと結婚していることが挙げられている)。ラ・トゥールは、結婚する前にパリにいたとの資料上の推測もあるが、当時の状況を考えると、少なくもどこかの工房で修業をしなければならなかったと思われる。

『貴婦人と一角獣』にみる親方と徒弟
  ラ・トゥールの修業時代については、新たな資料の発見を待つ以外にない。それに関連した問題は別にとりあげるとして、ここでは、最近手にしたひとつの時代小説を紹介しよう。トレイシー・シュヴァリエ Tracey Chevalierの最新作『貴婦人と一角獣』(The Lady and the Unicorn, Harper and Collins, 2003, 木下哲夫訳、白水社、2005年)である。前作のフェルメールの名作に因んだ『真珠の耳飾りの少女』は、映画化もされたのでご存じの方も多いだろう。美術の好きな方は、表題をみて直ちにパリの国立中世美術館(旧クリュニー美術館)が所蔵する「一角獣を連れた貴婦人」と題する有名なタピスリー(英語ではタピストリ)を思い浮かべることと思う
  このタピスリーは、フランス中世美術の至宝といわれる作品である。小説家トレイシー・シュヴァリエは、この作品を題材に想像の世界を繰り広げた。タピスリーの注文主である貴族の一家、画商、絵師、タピスリーの工房の親方、徒弟などを登場させ、タピスリー(つづれ織り)のような愛と官能の世界を描き出した。
  1490年から92年にかけてのパリとブリュッセルを舞台に、タピスリーの発注から完成にいたる過程で、登場人物が織りなす場面はそれぞれ興趣があり、読者をひきつける。

クリュニーのタピスリー
  パリ・カルチェラタンの国立中世美術館(旧クリュニー美術館)の6枚のタピスリーは、私も見たことがある。ローマの要塞都市時代、14世紀に建てられたクリュニー派修道院の院長邸宅が美術館になっている。当時の公共浴場の跡や、サン・シャペルから移したステンド・グラスや、ピエタなど貴重な展示物がある。建物としては、はからずもドイツの小さな町トリアーに残るローマ時代の遺跡ポルタネグラ(黒い門)を思い出してしまった砂岩の壁が特徴である(現在の名称になってから、内部も改装されて明るくなったようだ)。しかし、この美術館の目玉はなんといっても、『貴婦人と一角獣』La Dame a la Licorneの6枚の連作タピスリーである。
  最初に見た時は室内照明も暗くとまどったが、目が慣れてくると赤の鮮やかさが栄え、貴婦人たちの優美さが描かれている。処女しか手なずけることはできないという一角獣が乙女の膝に前足をのせている(*1)。小説にも登場する緻密なミル・フルール(千花模様)、一角獣とともに描かれている獅子やほかの動物たちなどが美しい。

  このタピスリーは、元来リヨンの貴族ル・ヴィスト家の依頼で15世紀後半にフランドルの織元工房で制作された。しかし、短い期間ル・ヴィスト家に留まっただけで他人の手に渡り、19世紀に史跡検査官に再発見され、ジョルジュ・サンドはその擁護者になった。のちにフランス政府が購入、修復し、クリュニーに保管されたという経緯がある。

ラ・トゥールを思い浮かべて
  小説に描かれたブリュッセルの工房の情景は、大変興味をひく。詳細は実物をお読みいただくとして、大変面白いのは、この小説家トレイシー・シュヴァリエがこの小説を書くについて、明らかにジョルジュ・ド・ラ・トゥールを念頭においていることが分かる部分が時々登場する。
  ブリュッセルのタピスリー工房の親方の名前は、ジョルジュ・ド・シャペル、孫はエティエンヌ(ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの息子と同名で画家になる)、徒弟の一人はフィリップ・ド・ラ・トゥールである。タピスリーの下絵描きとタピスリー工房の関係なども描かれており、大変面白い。
  なお、トレイシー・シュヴァリエは、Home Page (*2)も開いているので、ご関心のある方は訪れることをお勧めしたい(2005年5月14日記)。

*1)ちなみに、レオナルド・ダ・ヴィンチは一角獣について、次のように記している:「不節制―一角獣は不節制で克己力がないため、小娘が好きで、自分の凶暴性も野生も忘れてしまう。一切の疑念などそっちのけで、坐っている小娘のところへ行き、その膝で眠ってしまう。猟師はこういう風にして一角獣をとらえる。」(『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記、上』杉浦明平訳、岩波文庫、2002年、126頁)

*2)http://www.tchevalier.com/index.html

Image:Courtesy of the Tracy Chevalier's HP

*このタペストリー(クリュニー国立中世美術館蔵)に関する記事が掲載されている「美の美:一角獣がやってきた」『朝日新聞』2005年11月20日
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回想の胡同

2005年05月04日 | 書棚の片隅から
加藤千洋『胡同の記憶』平凡社、2003年

激変する中国
  この連休を利用して、実は中国旅行を計画していた。やっと多少は自分の自由になる時間が持てるようになったので、久しぶりに旧知の友人を訪ねて北京・上海などを気楽にまわりたいと考えていた。ところが、予想しなかった規模の反日運動の勃発で、少し気分が萎えてしまった。せっかく懐かしい場所を訪ね、友人と旧交を温めるなら、静かな雰囲気の時にしたいという思いが強くなり、先送りにしてしまった。少なからず残念でもあり、複雑な気分となった。
  そこで、精神安定剤代わり?に書棚から引っ張り出したのが、著者にはなんとも申し訳ないが、以前に読んだ加藤千洋氏の書籍である。過去に訪れたことのある場所の写真が多く、懐かしくやすらぎを感じる。もともと題名に惹かれて読んだのが最初だった。これまで、加藤氏の著書のテーマとなっている北京へは10回近く旅したことはあったが、ほとんどが調査旅行などの仕事がらみで、日程も制約されていた。
  北京在住の友人T君の話によると、上海に劣らず、北京も急速に変貌しているらしい。北京生まれで今も王府井に住むT君も、留学生として日本にしばらくいる間に、生まれ故郷がすっかり変貌してしまったのに驚いたようだ。あまりの変容ぶりに、帰国後一時は日本へ帰ろうかと思ったそうだから、その激変ぶりが想像できる。高度成長期やバブル期の東京の変貌ぶりもすさまじかったが、近年の上海、北京もそれに劣らない。都市計画などの実行の速度、土地収用の迅速さなど、未だ強権力が働く中国ならではのことである。南京の大学で教鞭をとる友人F氏の話では、土地バブルがすさまじく、臨界点に近いのではないかという。

失われる伝統世界
  ほぼ3年ほど前に北京を訪れた時は、北京出身M君の勧めで、王府井に近い胡同の四合院を小さなホテルに改造した「好園賓館」という所に滞在した。近代的なホテルのように設備が整っているわけではないが、宿泊に必要な設備は十分整っており、快適な滞在が楽しめた。ここは、かつて華国鋒党主席が失脚後しばらく住んでいた所でもあったとのこと。私が滞在した時も、「ル・モンド」の北京支局長などが一角に住んでおり、外国人にとっても居心地のよい所であった。

  その当時から、市内もまた大きく変わっていた。市内いたるところで都市再開発が急ピッチで進行していた。加藤氏の著書の中心テーマである北京市民の生活の中心となっていた胡同、そしてその中核である伝統的な四合院といわれる低層の建物がいつの間にか目立ってなくなっていた。四合院は中庭を一棟三室、東西南北計四棟の建物が四方から取り囲む低層住宅で、伝統的な北京の住宅として長らく市民に愛されてきた。あたかもスペインのパティオのように、小さな門を入るとそこは別世界、数本の樹木が植わっており、鳥かごがつり下げられ、椅子が置かれて、団らんの場ともなっている。厚い塗壁と棟によって外界から遮断された四合院は、小さな別天地を形成している。
  しかし、市場経済化の波はこうした伝統的な地域を容赦なく取り壊し、ホテルやマンションなどの近代的な建物に建て替えていた。北京に生まれ育ったM君には耐え難い動きのようだった。こうした歴史的建造物を古いからとか、非能率的だからといって破壊する動きについては、北京市民の中にも反対するグループは存在するが、現在の市民の大多数は北京以外の地から移り住んだ「新市民」が大半であり、北京の歴史や伝統には愛着がないとのこと。伝統擁護派の影響力は目に見えて低下しているようだった。戦後の日本も同じであったから、北京のことを批判する資格はないが、日本人の私の目でみても残念な気がした。「好園賓館」のあたりも再開発の対象らしいので、どうなったことやら*。

進む近代化
  反面で、建物や街路の近代化は目覚ましく進んだ。たまたま、前回はクリスマスを北京で過ごしたが、西欧化の影響を受けた若い人々を中心に、市内の有名レストランは予約で満員、北堂、南堂などの天主堂(教会)も入りきれないほどの混雑であった。市街は天安門広場、王府井、北京駅など、美しくイルミネーションで飾られて、都市の夜景という点からすると圧倒的な迫力であった。とりわけ、新しく開設された道路の幅の広さ、直線的に果てしなく続く街路の立派さは印象に残る。王府井などの目抜き通りも段差がない広い舗道が完成し、そこだけを見ると、商品も豊富で日本とまったく変わらない状況である。加藤氏の著書にも登場する東安市場などの大店舗も出現しており、市場経済化の迫力には圧倒された。中国の経済専門家に云わせると、今の中国はほとんどすべてが供給過剰であり、価格が低下し、デフレ気味でもあるとのこと。確かに、競争を反映して物価は安く、一般労働力も過剰である。

教育への強い関心
  こうした供給過剰経済の下で、唯一需要過多なのは教育である。大学を始めとして教育への需要は高まる一方のようだ。とはいっても、大学数も急増して、かつてのエリートの座はもはや保証されないといわれている。
  滞在した「好園賓館」に近接する「史家胡堂小學」は北京市きっての名門小學校とのことだが、四合院が両側に立ち並び、車のすれ違いすら困難を覚えるような狭い道に朝夕、一杯に並んだ高級車の列に驚かされた。これは、児童の出迎えをする「お受験ママ」の車とのこと。高級官僚を始め、富裕層の子女が多いとのこと。
  中国の変化がいかなる行方をたどるか、おそらく指導者たちにもはっきり見えてはいない。中国社会の格差拡大は、実態を聞くかぎりわれわれの想像を絶するものがある。将来への期待と不満が同時に渦巻いているような社会となっている。それだけに、今回の反日デモのような突発的出来事には、両国の指導者は冷静に対応してもらいたいと思う。今日はたまたま「五・四運動」の記念日だが、政治が反日を作り出すことだけはあってはならない(2005年5月4日)。

*5月11日、NHK・BSの「地球の片隅」で、取り壊されてゆく四合院の実態を報じていた。王府井のあたりは再開発の中心であり、ほとんどがなくなってしまったようだ。
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『わたしたちが孤児だったころ』

2005年04月10日 | 書棚の片隅から

 桜の便りが聞かれるようになった頃、積み重なった書籍の山を片づけていると、一冊の本が目にとまった。以前に読んだ本だが、なんとなくもう一度読みたくなり、仕事を放り出して読みふけってしまった。カズオ・イシグロの作品『わたしたちが孤児だったころ』When We Were Orphansである。いまや現代イギリス文学を代表する作家の一人であるイシグロの作品は好みでもあり、『女たちの遠い夏』、『日の名残り』、『充たされざる者』など、そのほとんどを読んできた。その名から推察されるように、この作家は日本人の血筋を受け継ぎながらも、生活の場であるイギリスの風土に溶けこんだ佳作を次々と生みだしてきた。
 とりわけ、1989年のブッカー賞を受賞した『日の名残り』The Remains of The Dayは、イギリスらしい舞台装置と深い心理描写に大変感銘した。94年にケンブリッジに滞在していた時に、映画も見てしまい、さらにビデオまで買い込んだ。
 イシグロの作品の中で、今回の小説『わたしたちが孤児だったころ』は、プロットにおいてもこれまでの作品とは、かなり趣きを異にし、この作家の非凡さをうかがわせる。広い意味では、イギリス伝統の探偵小説のジャンルに入るといえるが、きわめて特異な筋立てである。先ず『わたしたちが孤児だったころ』When we were orphans という意表をついたタイトルに驚かされる。しかし、読み進めるうちに、それが読者を含んだ現代に生きている「わたしたち」であることに気づかされる。

1930年代の上海
 話は、ケンブリッジ大学を卒業した主人公クリストファー・バンクスの回想で始まる。バンクスは幼いころ上海に住んでいたが、10歳のころ、立て続けに両親が失踪し、一人自分はイギリスに送り返され、伯母の下で育てられ、名門ケンブリッジ大学を卒業する。両親失踪の原因は、1930年代当時問題となっていたアヘン貿易にからんでいたらしい。当時は、インドの阿片が中国に輸入され、中国の命運を左右するまでの大きな社会問題となっていた。バンクスが大学を卒業するまで両親の行方は確認できず、消息は深い霧の中に閉ざされていた。このことがトラウマとなって、バンクスは大学卒業後探偵となることを夢見る。そして、ロンドンを舞台に実際に探偵となり、大きな成功を収める。
 横道にそれるが、イギリスでは探偵という職業は、社会的に高く評価されているようだ。シャロックホームズ、アガサ・クリスティなどの影響かもしれない。ケンブリッジ大学の卒業生が探偵 detectiveという職業を選択するについても、特に迷いはないようだ。事実、かつてカレッジ生活で親しくなったケンブリッジの学生から卒業したら、できれば探偵になりたいという話を聞いて、冗談ではないかと聞き直したことがあった。
 さて、探偵となった主人公は、ロンドン社交界のパーティなどに出席して、上流社会の人々との交際を通して、職業上の情報を集めるとともに、有能な探偵としての社会的評判を獲得する。そして、舞台は1937年の上海に戻り、バンクスはすでに20年前に起きた両親の事件の解決に自らあたるという設定である。時は日中戦争が勃発し、騒然とした最中である。バンクスは探偵として、子供の頃の時代を求め、これまでの彼の人生を形づくり、そして歪めてきた過程を辿ろうとする。

わたしたちがたどった道
 失われた過去への旅事件発生から20年も経ったというのに、両親がどこかに幽閉されているかもしれないと考え、戦乱で騒然、殺伐とした上海の世界へ戻ってゆく主人公はいかにも現実離れしている。イシグロはそれをわれわれが皆持っている「壊れてしまったものをもとに戻したいという欲求」に基づくものだという。これは、ある意味で、現代人、とりわけ若い世代が持っている「リセット」願望、あるいは既視感déjà-vuともいうべきものに近いのかもしれない。  
 バブルがはじけた90年代以降、日本のみならず、世界も激変を経験した。とりわけ、産業の盛衰は顕著で、それに伴い労働市場も大きく変わった。最近の日本では、大学卒業後3年間に、約3分の1が転職するという。1990年代以降、日本の労働市場は顕著な変貌を見せている。企業の盛衰の激しさも目を見張るばかりである。企業のみならず、個人間の競争も厳しさを増した。こうした実態を反映してか、自信を喪失したり、これからの人生をどう過ごすか戸惑っている若者が増えているようだ。
 職業生活をスタートしたばかりと思われるのに、もう一度人生をやり直したいという感想を述べる人もいる。彼(女)らはできるなら、人生を「リセット」したいという。だが、リセットできるのは、小説の中だけなのだ。小説の根底に流れる思いは、探偵クリストファーが直面した過酷な体験から回避しようと、明るい未来を心に描くことに似ている。それは、現代という先の見えない不安な社会に生きている人間の思いなのだ。現代人は日々の現実がもたらす苦悩や疲れから逃れるために、幻想を抱く。いつかその幻想も現実の前にもろくも壊れるのだが。そのためにも、クリストファと同様に、わたくしたちも仮想の世界を必要としている。
 イシグロは、現代人が持つ名状しがたい不安感を、一人の人間の失われた過去と記憶の旅を通して、見事に描き出している。表題が「わたしたち」とあるように、現代に生きているわたしたちは、過ぎ去った人生において精神的に取り戻したいなにかを抱えていることを、この佳作は絶妙なプロットを通して暗示している(2005年4月11日記)。


Kazuo Ishiguro. When We Were Orphans.London:Faber and Faber, 2000. (カズオ・イシグロ『わたしたちが孤児だったころ』 入江真佐子訳、早川書房、2001年)

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仕事の世界を考える

2005年04月02日 | 書棚の片隅から
 4月2日のNHK特集「どう思いますか 格差社会」を見て、一度はお蔵入りさせた旧原稿を引っ張り出した。読書の際のメモをもとに手を加えたものである。長いので、時間のない方やテーマにご関心のない方にはお勧めしません。

変わりゆく仕事の世界~~リチャード・セネット『人格の侵蝕』を読む~~

フリーターはなぜ増えたのか
 「フリーター」という妙な日本語・英語が時の言葉となってから、かなりの年月が経過した。激動の新世紀を迎えた頃から、それまで若者の行動に冷淡であった日本社会も、ようやく事の深刻さに気づいたようだ。実のところ、この問題の兆候でもあった10代から20代初めの層のいわゆる若年者失業は、バブルの進行していた80年代中頃から着実に進行していたのだが、指摘する人も少なく放置されてきた。中高年者の失業ばかりに目が向いて、若年層については政府の対策も完全に後手にまわっていた。西欧社会では「若年者失業」は、長らく中高年の失業と並ぶ深刻な課題であった。

 近年の大学生の就職行動を見ていて気がつくことがある。いくら機会があふれる社会になったからといわれても、なにをしたらよいのか分からない若者が急速に増加していることだ。多数のフリーター、そして最近では「ニート」と呼ばれる実態の掌握しがたい若年層の出現は、単に労働市場が停滞していることだけが理由ではない。現代の産業社会が急激に変化しており、職業選択の尺度が大きく揺れ動いているからでもある。その中で「自分探し」という表現に象徴的に示されるように、自分自身がいかなる存在であるかよく分からなくなり、なにをすべきか自信をもてない若者が増えている。

どこに問題があるのか
 この点については、最近ようやく社会の側も気づいてきたようだが、本人ばかりでなく教育側にも問題が多い。学生の多くは、高校、大学を通して、ほとんど職業や人生設計について考える場を持つことなく過ごしてきており、自分を見つめて考える暇もないままに、労働市場に放り出されてきた。どんな職業を選択してよいのか、自分はなにを支えにこれからの人生を過ごして行くのか、考える心の余裕がない、あるいは考えるための枠組みや材料を持っていない。マスコミの無責任な「選職の時代」「起業の勧め」などといった言説にもまどわされて安易な選択をして、とんでもない苦労を背負い込む可能性も高い。

 労働市場が新卒者にとって良好な環境であった時には、学校側は卒業後の職業やキャリアの問題について多くの場合、冷淡な態度をとってきた。卒業後の人生は学生自身が考えればよい問題として、突き放してきた。しかし、大学の「製造者責任」が問われる時代となり、状況は急激に変化してきた。「学校」から「仕事」への移行をいかに行うかという問題は、教育や職業のあり方を考えるに際して大変重要なテーマなのだ。

 日本の大学卒業生のおよそ3分の1は、卒業後3年間に転職するといわれる。若年者の転職行動のある部分は、自分にもっと適した仕事がないか、機会を求めての「仕事探し」、ジョッブ・ショッピングの性格を持っている。不確かな情報の下で最初に選んだ仕事が、多くの点で自分にぴったり合っているという可能性はむしろ少ない。その意味で、こうした動機からの転職は正常な行動といえる(実際、日本でも80年代後半の頃から15-24歳層の失業率は、全年齢平均の2倍以上だった)。他方、多くの人々は、不満を抱えながらも、仕事を続ける。結婚して家庭を持つ、仕事での責任や地位・報酬があがるなど、「定職」を選択する必要も生まれ、転職は30代にかけて減少する。これが、西欧社会に見られた典型的なパターンであった。しかし、こうした特徴にも変化の兆しがある。

日本はアメリカ型を目指すのか
 ある調査によると、今日のアメリカの大卒者は生涯で11回転職し、3回スキル・ベース(熟練の基幹部分)を変えるといわれている。きわめて流動性の高い社会である。新しい世紀に向けて、日本もこうした社会を目指すのだろうか。市場経済化へ向かっての滔々たる流れの中で、労働力も流動化の必要が唱えられ、転職や自営を奨励する論調がいたるところにみられる。確かに、企業や組織に依存、埋没する人間から自立した個人への変化を促すことは望ましいことだろう。

 しかし、同時に、現在進行している資本主義の別の側面にも十分注目する必要がある。繁栄を続けるアメリカにおいても、人々は必ずしも自ら望んで転職し、自営業化しているわけではないのだ。すでに過ぎ去った世紀末のことになるが、アメリカで大変話題となり、イギリスの「エコノミスト」賞(1998)を初めとして、いくつかの賞を得た社会学者リチャード・セネットの『人格の侵蝕:新資本主義における仕事の個人への影響』(注1)を読むと、繁栄を続けるアメリカ社会において、リストラクチュアリングやリエンジニアリングという経営基盤の再編の進行に伴い、どのように職場が変化し、労働者の仕事の内容が変容・細分化された仕事になっていくかが、いくつかの実例を通して生き生きと描かれている。息をつかせず、読ませてしまう。

 IT技術の急速な進展もあり、「柔軟な資本主義」の名の下で、産業や労働のパターンが大きく変化している。アメリカ社会を例にとると、そこではいくつかの象徴的な変化が進行している。転職の増加、フリーランスの増加、家庭での仕事の増加、労働時間の増加、機会は増加するが不安も増加するという一連の変化である。使用者と労働者の古い社会的契約は切断されているが、それを代替するものがなになのかも、ほとんどみえていない。こうした側面にはあまり目を向けることなく、日本のジャーナリズムに登場する論者の多くは、日本もこの方向に移行すべきであることを強調している。しかし、アメリカにおいても、こうした変化が人間性にいかなる影響をもたらすかという点については、注目されることも少なく、体系的な指摘がなされなかった。

リコの場合
 本書の冒頭に登場するリコの場合も(注2)、父親はビルの清掃係であったが、息子であるリコはカレッジを卒業し、結婚して夫妻ともに職業を持つ社会人である。いくつかの企業を経験した後、夫はコンサルタント会社を経営、妻は会計監査ティームの長として、いわば「アメリカン・ドリーム」を体現したかのように思われた。しかし、傍目には成功はしたかに見えるが、現実には二人とも人生の途上で途方に暮れる精神状態におかれている。
    
 アメリカ産業社会が作り出した短期的思考を重視する風潮が、地域や人的なきずなを弱化させ、二人に確固とした拠り所がない「漂流する」人生、それがもたらす恐怖を生み出しているのだ。これまでの彼らの人生は、アメリカ全土を流動的に移動することによって形作られた。そこには、仕事のチャンスはあっても、長期にわたる人間の関係や信頼のきずなが生まれない。そして、彼らにみかけ上は成功をもたらした流動的な人生が、人間性を弱化させ、精神を蝕んでいる。いつになっても、心の安定が得られないのだ。アメリカが追求している新しい資本主義の影の側面ともいえよう。

キャリアの変化
 アメリカ社会においても、1950年代から80年代までは「組織の人間」(organization man)が、産業社会のアイコンであった。仕事が人生を定義していた。職業経歴(キャリア)の初期段階で選択した職業がその後の人生を定めていた。セネットがいうように、「キャリア」とは道に残された馬車のわだちのように、はっきりと前方が見渡しうるものであった。そこには、相対的に安定した技術を背景に、秩序づけられた職務の体系が成立していた。しかしながら、いまや、キャリアは分断化された仕事をいくつかつなぎあわせた、見通しのきわめてつけがたい職業経路に変化しつつある。結果として、これまでのようなひとつの企業に勤務し、昇進の階梯を上る古いキャリアのモデルは稀になっている。大企業はそれでもいくつかの階層があるが、小企業では階層もほとんどない。

 グローバル化した経済活動と技術変化のスピードが速いために、製品のプロダクト・サイクルが短くなっており、競争相手は地球の思わざるところからやってくるため、企業は以前より敏捷でなければならない。そのため、企業は戦略上重要な従業員を残すとともに、基幹部分以外の労働者は専門企業へコントラクトアウトするか、テンポラリーな労働者を使用する。

流動化の裏で高まる不安
 こうした変化は職場を変え、労働の質を激変させている。労働者は現在ついている仕事の先があるか、いつレイオフされるか、などを常に考えていなければならない。特に、アメリカ型の社会では、繁栄期といえどもリストラは行われ、レイオフは日常的に実施され、労働者の流動性は高い。労働者には絶えず、今の仕事がなくなるのではないかという不安が付きまとっている。この点は、あまり注目されていないが、バブル崩壊後の日本社会でも見出されている(注3)。

 1950年代、アメリカ人労働者の5人中3人は不熟練労働者だった。経済的発展と労働組合の組織力にも支えられ、彼らの地位はおしなべて維持されていた。教育はボーナスと考えられた。しかし、今は不熟練でいることは、職がないことを意味している。継続的な教育の必要性は、労働生活のすべての段階に及んでいる。技術変化の早さは一度得た熟練を短い期間に陳腐化してしまう。かつて『中央公論』にも一部が掲載されたが、労働者側に立つカプシュタイン(注4)は、技術の変化、グローバル化、サービス化の進展は、新たな無慈悲な資本主義の中に労働者を投入したとして、この点についてセネットよりもっと悲観的な見通しを示している。

フレキシビリティの実態
 熟練ばかりでなく、働く場所自体が流動的に変わってしまうのだ。企業は、コストの高低を求めて、グローバルな観点から生産や販売の「場所」を簡単に動かしてしまう。しかし、それでも「場所」は、それぞれの国や地域が持つ社会的・文化的立地条件が特定の投資案件にかなり重要な要因となっており、一定の抑制力を持っている。

 新資本主義の下での経営は、「フレキシビリティ」を特徴としているが、そこには組織の非連続的見直し、フレキシブルな生産方式、中央集権なき権限集中という構造的な側面がある。われわれの社会は、これらをいかに制御していくことができるだろうか。セネットの実態についての分析は鋭いが、なにがなしうるかという政策面については、あまり具体的ではない。彼は、この注目すべき新著の最後で次のように述べている。「この内なる必要がどのような政策に結びつくか、私には分からない。しかし、私は人間同士が互いを気遣うということに深い思慮を払わない体制は、正統性を長く保ち得ないということをよく知っている」。

どこへ行くか:答えはまだない
  社会学者であるセネットの提示したアングロ・アメリカン型新資本主義の展開に伴う労働、とりわけキャリアの変容については、総じて高い評価が与えられているが、反論も少なくない。特にセネットの挙げるケースが全体の労働市場像を描くには十分ではない、社会学者は市場の暗い側面だけを強調しているなど、多くの問題も指摘されている。経済学者の目から見ても、不満な点は少なくない。しかし、セネットの新著は、学術的著作というよりは、現代社会批判と見るべき内容である。その点において、セネットは現代資本主義の持つ一面を鋭く抉り出したといってよい。叙述は平明で、迫力がある。

  先が見通しがたく、キャリアの設計が難しい時代を迎えて、現代社会の内包する問題を理解しておくことは、難局に直面した時にも心の支えとなってくれるだろう。本書に描かれたような状況が、日本でも生まれる可能性はきわめて高いのだから。これからの時代を生きる若い世代にぜひ一読を勧めたい。


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注1)Richard Sennett. The Corrosion of Character. New York: W.W.Norton, 2000, (リチャード・セネット、斉藤秀正訳『それでも新資本主義についていくか:アメリカ型経営と個人の衝突』ダイヤモンド社、1999年)

注2: 1972年、SennettはJonathan Cobbとともに、The Hidden Injuries of Class(「階級の隠された傷」)と題する名著を出版している。この本はエンリコという名の清掃係(janitor)を題材としてとりあげている(これも読み応えのある作品である)。エンリコの仕事は単純で、精神的にも報われることの少ない内容であった。それでも、彼が、自分の仕事に満足していたのは、子供たちの生活向上に役立っているという思いが支えとしてあるからであった。自分が果たし得なかった夢を「子に託す」といってもよいだろう。この思いが、彼の仕事の肉体的・精神的な荒涼を埋め合わせていたのだ。新著は、冒頭で15年ぶりに筆者が空港で偶然出会ったエンリコの息子リコとの話から始まっている。リコは父親が息子にそうなってほしいと思ったほとんどすべてを手中にしていた。物語はそこから出発する。

注3)桑原靖夫・連合総合生活開発研究所編『労働の未来を創る』、第一書林、1997年.

注4)Ethan Kapstein. Sharing the Wealth, Norton, 2000.

Copyright(C)2000 Yasuo Kuwahara
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エリス島物語 (書評)

2005年02月16日 | 書棚の片隅から
エリス島物語 (書評)
 20世紀前半までにアメリカへ移民した多くの人々が、決して忘れることのない場所のひとつがエリス島である。ニューヨーク、ハドソン河口に位置するこの小さな島は、1892年から1924年にかけてアメリカへ移民を志した1600万人近い人々が通過した、いわば新大陸の入り口であった。ここに連邦諸機関が移民の受け入れセンターを設置していたためである。その意味で、アメリカ人の多くを見えない糸でつないできた一点といえるかもしれない。アメリカへの移民の原点ともいえる場所である。
移民たちが新世界に希望を求めて、長い船旅の後にたどり着いたのが、この小さな島であった。一等先客などの恵まれた移住者は、船上で入国許可などの手続きを受けることが多かったので、受け入れセンターを経由した者は、三等船客として不衛生きわまりない船底で過ごした人たちである。彼らは旧大陸であるヨーロッパに絶望し、あるいは見放されて、ようやくアメリカにたどり着き、その後の人生のすべてを新大陸での生活にかけたのである。
 エリス島の果たした役割については、すでに数多くの書籍、写真集などの形で残されている。しかし、ここに紹介するジョルジュ・ペレック(酒詰治男訳)『エリス島物語:移民たちの彷徨と希望』青土社、2000年(原著はフランス語で1994年出版、英語版もある)は、類書とかなり赴きを異にしている。ヨーロッパ大陸での貧困、飢え、迫害などを逃れ、新天地アメリカにたどり着いた移民たちとのインタビューを中心に、史実の記録を織り交ぜた異色のドキュメンタリー小説ともいうべき作品である。もともと、本書は作者が加わった映画の台本を基礎に生まれたものであるだけに、多くの印象的な写真を含め、最初から読者を飽かせることがない。アメリカ移民史に多少なりと関心を抱く者は、たちどころに引き込まれてしまうだろう。
 訳者あとがきによると、著者ペレックの両親はフランスに移民したイディッシュ語を話すポーランド系ユダヤ人であり、第二次大戦で父親は戦死し、母親はアウシュヴィッツの犠牲者となったという重い過去を背負っている。戦争孤児となったペレックは、精神的にも孤独な境遇の中で彷徨する人間となったのである。その思い入れもあってか、本書はエリス島について書かれた他の書籍とは、異なった魅力を持っている。エリス島は、私自身も移民労働に関心を持つようになってからは、ニューヨークに行く機会があると、磁石に引かれるように、この小さな島へ足を運んだ。その時々にさまざまな思い出がある。  
ペレックほどの規模ではないが、私自身もアメリカで友人・知人の両親などに移民当時の思い出についてインタビューを試みたこともあった(その一端は、拙書『国境を越える労働者』岩波書店、1991年にも記した)。こうしたインタビューは原体験として、その後のフィールド調査の際に役立つことが多かった。アメリカ移民史に多少なりと首を突っ込んだ者には、ペレックの著書に掲載されている写真の多くは、大変なじみ深いものである。私自身、掲載されている写真のほとんどは見た記憶がある。それもそのはず、古い写真は、ほとんどが著名な写真家ルイス・ハインによって撮影されたものだからだ。ルイス・ハインについては、このブログでも紹介している(「移民の情景」)。
本書にも記されているように、アメリカへやってきた移住希望者の誰もが入国を許されたわけではなかった。病気の保有者(特に、トラコーマなどの伝染性の病気)、犯罪者、政治的・思想的に問題ありとされた者など、移住者の2パーセント近い人々、数にして25万人は、入国を許されず、送還された。時には識字テストという英語を母国語としない移民にとっては、恐怖そのものともいえる障壁が待ち構えていた。
長い船旅の後に疲れ果ててエリス島に上陸した移住希望者が、いかに不安と恐怖に苛まれ、この島での短い時間を過ごしたことか。20歳の夫婦と1歳の子供が数ヶ月をかけて着の身着のままで、ロシアからやってきて、エリス島の検疫で夫だけがトラコーマの疑い(結果は無事)を受け、隔離された話なども、インタビューに出てくる。彼らが到着したアメリカ大陸は、ヨーロッパとの比較において決して富裕な地ではなかった。多くの移民たちの前には、しばしば過酷な生活が待ち受けていたのだった。アメリカへやってきた人々の多くは、それぞれに重い過去を背負っていた。その後、努力や幸運に恵まれ、アメリカン・ドリームを実現できた人もいないわけでないが、多数の人々は「希望の国」のイメージにはそぐわない厳しい現実と対決しなければならなかった。

移民問題を考える折に
 近年、グローバル化の進行によって国境の存在が次第に希薄化する反面で、民族や人種への関心が高まっている。インターネットに代表されるIT技術の発達は、「国民国家」の基盤を根底で揺るがしている。IT革命は、一人一人の人間を国境の存在を意識させずにむすびつけている。われわれの想像を超えて、国家の枠組みは揺らいでいるのだ。しかし、グローバル化の進展は単純ではない。IT技術の発展などに伴い、経済活動の画一化が進む反面で、国民国家への関心とは異なった次元で、民族や宗教への関心や帰属を強めている。市場主義は直線的には進まない。すでに、グローバル化への反対や警戒はいたるところに表明されている。
 日本では失業率が高水準のままに推移し、顕著な改善の兆しを見せないにもかかわらず、中・長期的には労働力不足が深刻化することが懸念されている。「3K労働」の名で知られる低熟練分野で働く日本人が減少している。他方では、拡大するハイテク産業での技術者・専門家の不足も課題となっている。一部には、日本も定住移民を受け入れるべきだとの提言もある。しかし、この問題は単なる労働力不足あるいは国の活力低下といった観点から安易に選択されるべきものではない。多くの国民的議論が必要だろう。『エリス島物語』は、アメリカという移民大国がたどった歴史の断片を、生き生きと伝えてくれるとともに、移民が抱える問題がいかなるものであるかを現代に生きる人々に語りかけている(2000/11/03記)。
旧ホームページから転載
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