興浜(おきのはま)で候 

興(こう)ちゃんの手掘り郷土史

回船問屋児島家 三社丸で候

2013年04月05日 | 金刀比羅神社

 

 

2年前に児島さんから昔船を繋いでいた柱があるので写真に撮っておくかと言われた事があった。

昔、児島の船は網干川の東雲橋の西側に繋がれていたようである。

児島家は丸亀藩の回船問屋を営んでいたので、龍野藩の場所に船が繋がれていたのは不自然であるので、明治以降の事であろう。

石の柱の上の部分は児島家の屋号である○にカの字が書かれている。

その下に船名であろう「三社丸」と書かれている。

2年前は気にしていなかったが、何故「三社丸」なのか?

 

 

 

 

ここからは興ちゃんの想像である。

金刀比羅神社には三対の燈籠がある。

境内入ってすぐにある文政7年と天保14年の燈籠。

大正6年に土盛りをして一段高くなった、社殿がある正面にある大正6年の燈籠。

そしてもう一対が土盛りをして一段高くなった両側に皆から忘れ去られたように建っている燈籠。

その建ち方が現在どうも不自然である。

西側については、社務所の前栽の中に隠れてしまったように建っているのだ。

境内の桜を見ながら考えた。

そうだ、大正6年に土盛りをした時は、本殿の東側には現在と同じお稲荷さんが祀られ、本殿の西側には武大神社が祀られていたのだ。

『大正5年5月 魚吹八幡神社 神社明細帳』には、興浜金刀比羅神社には境内社として武大神社があり、素盞男命(スサノオノミコト)が御祭神として祀られていたとある。

その境内社が本殿の東側にあり、興浜金刀比羅神社は御社が三社あり、金刀比羅神社の近くである児島家はそこから三社丸と名付けたのではなかろうかと考えている。

 
 東側の端に建つ燈籠

 
 西側に建つ燈籠は、現在社務所の前栽のなかであるが、昭和に入って前栽ができ燈籠が不自然なかたちとなったのでは無かろうか。

 
 本殿東側に祀られているお稲荷さん

 
 本殿西側には玉垣のみが残るが、この中に武大神社があったのであろう。
 玉垣の名前から明治時代のものである事がわかる。
 いつ、どいいう理由でなくなったかは不明。
 武大神社があり、素盞男命(スサノオノミコト)を祀っていたのであれば、その御祭神はどこへ行ってしまったのか。 

    
 燈籠の裏側に書かれている文字を調べる為に赤いチョークをすり込んでみた。
 東側の燈籠には上の写真にあるように、「万延元庚申10月御祭日 金田丹之助」とある。
 写真は無いが西側の燈籠にも同じように、「万延元庚申10月御祭日 寺田平右衛門」とある。

 金田氏と寺田氏の名前が解りにくかったので、同じ年代の文献を探してみたら、網干町史に『興騒動』という題で載っている。明治8年10月の騒ぎの事のようだ。事の起りは加東郡に近藤文蔵という長者(山形県酒井の本間氏より長者だったようです)が居て、万延元年11月興・濱田・苅屋三ケ村地先の開発の為、近藤文蔵から資金七百二十貫目を借受けた。その時に丸亀藩網干郡代と奉行から、保証のために所持の田畑質入を承諾せしめた依頼状の最後に井口善右衛門・河野與次右門・堀仁左衛門・八木重郎右衛門・福本新平・寺田平右衛門・八木又左衛門・植田仁八郎・金田丹之助・山田久太夫の名前がある。
(2008年1月6日に投稿した金刀比羅神社その5)より

安政7年4月8日に金刀比羅神社は勧請されているが、正確には3月18日に万延と改元されたため、安政7年(1860)ではなく万延元年である。