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子どもでもわかる世界論 Q&A 3

2017年12月01日 | 子どもでもわかる世界論 Q&A

Q3

人類はアフリカ起源で、アフリカを出て各地に拡散していったと言われていますが、その様子はどんなものだったのですか。

 

A3

 わたしは素人ですから、学者の最近の本からそのあらましを紹介します。


 人類がいつどのようにしてアフリカを出たかについては、年代測定技術の向上と遺伝子解析のおかげで、ここ数年間でかなり多くのことがわかっている。簡単に説明すると、出アフリカの第一波が始まったのは約六万年前で、このルートが開かれたのは主に近東の環境条件が変化したためだった。祖先たちの一部(私の祖先もだ)が東地中海のレヴァント地方に住むネアンデルタール人と交配したのがこの頃だということが、ゲノム研究からわかっている。最近になって約七万五〇〇〇年前のインドの遺跡で石器が発見されたことにより、それより早くアフリカを出た、度胸のある冒険者たちがいたことが判明したが、考古学とDNA解析により、大規模な出アフリカが始まったのはその一万五〇〇〇年あとのことと考えられている。
 アフリカを出た集団は、どこか特定の場所を目指していたわけでなく、旧世界に徐々に進出していった。狩猟採集を行いながら二〇人から五〇人ほどの集団で暮らし、各集団は生活を維持するために二六〇平方キロほどの土地を必要とした。人数が増えすぎて生活を維持できなくなると、集団は分割され、占有されていない新しい土地に進出するものも出てきた。単によい食料源を求めて移動し、それが枯渇すればまた移動をくり返す集団もあった。こうした行き当たりばったりの方法で、人類はヨーロッパ、アジア、オーストラレーシア(オーストラリア大陸とその周辺の島々)に拡散していった。
 近東に到達し、そこに定住した集団もあれば、そこから東に向きを変えてインドやアジアの海岸沿いを進んだ集団、少数だがオーストラリアに舟で向かった集団もあった。多くの場合、彼らは大変な速さで各地に散らばっていった。オーストラリアの南東部の乾燥地帯にあるマンゴ湖の先史時代の遺跡周辺で、四万年以上前に象徴的埋葬が行われていたことから、アフリカからの最初の出発はかなり早かったと考えられる。また最近ではインドネシアのスラウェシ島で、約四万年前の壁画が発見された。つまりこの壁画は、ヨーロッパ最古の壁画と同じ頃に描かれたことになる!またこのことは、現生人類がこれほど早い時期にオーストラレーシア全体に広く拡散していたことを裏づけている。
 考古学と遺伝学を組み合わせた手法により、黒海の北を回って中央アジアに入るいくつかのルートがマッピングされ、シベリアと北アジアへの定住が、初期人類が西へ向かいヨーロッパ全体に拡散するより前に始まった可能性が明らかになった。シベリアで発見された四万五〇〇〇年前の男性の骨のゲノム分析により、祖先たちがこの頃すでにシベリア東部に定住していたことがわかっている。その後ほどなくして、小集団が大陸の西方へ徐々に移動し始めた。初期の人類は、これまで考えられてきたようにアフリカから直接ヨーロッパにわたったのではなく、より眺めのいい道をたどったように思われる。
 (『最古の文字なのか?―氷河期の洞窟に残された32の記号の謎を解く』P85-P87  ジェネビーブ・ボン・ペッツィンガー 文藝春秋 2016年11月)



 この人類学者は、人類の出アフリカの歩みを具体像をまじえて描写しています。そのよりどころは、現在までの年代測定技術や遺伝子解析や考古学などの研究の積み重ねとこの学者の探求の成果です。この人類の出アフリカと各地への拡散は、昔よりずいぶん細かに詳しく描くことができるようになってきています。それでもまだまだ不明な部分もたくさんあると思われます。本書では、太古に洞窟に描かれた動物や記号について、その意味をどう理解したらいいのかということについての様々な過去の捉え方の変遷を紹介しながら、自分の考えを形成しようとしていますが、まだまだその途上のようです。したがって、まだまだ発掘されていない遺跡もあるでしょうし、この著者を含めて絶えることなく研究は続いていくはずです。わたしたちもものを考える上でその研究成果の恩恵を受けることになります。しかし、未来においてまた人類の出アフリカと各地への拡散のイメージが大きく書き換えられるということもあり得うるかもしれません。わたしたち人間の歴史は、さまざまな分野でそういう紆余曲折を経て、しだいにクリアなイメージを獲得してきています。

 


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