坂口くんのひみつ・続々
坂口恭平『その日暮らし』(2024.8.1)を読み始めている。それは、末尾の初出によると、2023年の8月から10月に渡って『西日本新聞』に掲載された文章とあるから、坂口くんが最近感じ考えたことである。次のような個所に出会った。
今年はニンニクが豊作だった。畑は四年目になる。畑の土や植物は、育てる人間のことを把握していると感じる。僕がどのように動くか、四年目になると土や植物たちの方もわかってきているんだと思う。対話をしているというより、僕は僕なりに彼らのことを直感的に考え、彼らも彼らなりの方法で僕の心や体の動きを読み取っているようだ。
(坂口恭平『その日暮らし』P11、「四年目の畑」)
人間と動物や植物との交歓は、おそらく世界中で記録や絵本や童話や文学などの様々な表現になされてきた。その場合、写真や映像もあるが、主に人間の側から、人間の言葉によってなされてきた。一方、動物や植物は、人間の持つような言葉を持たないようだから、動作や表情、動物の場合は声などによってなにものかを表出する。植物も微かな音も拾える機器を使えば、声のようなものを表出しているのかもしれない。いずれにしても、見聞きしてきた動植物からの直感的な判断でいえば、高度に抽象化を遂げた人間の言葉は持たなくても、人間と同じ内臓感覚(植物の場合は、内臓感覚のようなもの)からくる、感覚や言葉のようなものを動植物も持っているのかもしれない。
子どもを対象とする絵本や童話の場合、花や木や動物が人間の言葉をしゃべったりする。また、説話の書き出しだったと思うが、まだ動物や植物が人間の言葉を話していた頃、という書き出しに出会ったことがある。(これは、どこにあったか再び探し出せないでいる。山室静の『新編 世界むかし話集』のどれかだったと思って、軽く探したけど、見つからなかった。)
確かに、古代以前の太古の歴史の段階では、それが不自然ではないと感じ考えられたらしい。例えば、アメリカ先住民の感じ考える世界を内側から描いた『リトル・トリー』のような世界である。人間の幼年期と対応するような歴史の幼年期とも言うべき段階である。しかし、幼年期を通り過ぎた、それを忘れてしまった青年期や壮年期の人間から見れば、そういう人間と動植物が言葉を交わしたり、交歓する世界は実感できない。だから、わざとらしいもの、ウソがまじっているもののように見える。太古の主流の感じ考え方に「輪廻転生」というのがあるが、現在の歴史の壮年期、あるいは老年期の主流から見れば、死んだら骨になるという実感しかないから、歴史の幼年期の段階の「輪廻転生」は実感できないし、ウソ臭く感じてしまうのも同じことだろうと思う。
わたしたちの現在は、自然科学的な自然観や死生観が主流で、確かに死んだら骨になるのを目にするし、またそう感じ考えている。ただし、そこにはこの世界の深みのふしぎさに軽く目まいするようなちいさな判断の留保もあるような気がする。坂口くんの上の言葉は、そのようにわたしたちの現在が感じてしまう主流から、ちょっとズレている。しかし、それはいわゆる霊的、宗教的な「スピリチュアル」とも違っているように見える。
それは、「躁鬱病」を生きてきた、坂口くんの独特な個人史の方から来ているような気がする。その感じ考える世界は、次のような特異な感覚とも呼応しているはずである。
誰も信じてはくれないかもしれないが、僕は人の声を聞くと、その人の内側にあるのか、背後にあるのかわからないけど、その人の「町」がぼんやりと見える。それだけでなく、その人の町に並んでいるアパートみたいな建築群の一棟の四階にある住居の中の子供部屋に置いてある洋服ダンスまで見えてしまう。タンスの下から三段目の引き出しを開けることもできる。引き出しの中をのぞくと、また桐箱の中に小さな町が広がっていて、僕は上からその町にゆったりと流れる川を眺めている。それを僕は思考都市と呼んでいる。
僕たちは同じ現実の中に生きていると思っているが、各々の個人の中にはそれぞれにまた別の現実がある。人間だけでなく、草木や動物や石にもある。そんなふうに僕は感じている。
(坂口恭平『その日暮らし』P43、「その人の『町』」)
初めの坂口くんの言葉には、「彼らのことを直感的に考え、彼らも彼らなりの方法で僕の心や体の動きを読み取っているようだ。」とある。坂口くんは、「直感』を触手として伸ばして土や植物を感じ取り、たぶんよくわからないけど「彼らなりの方法」で坂口くんを感じ取っていると思っている。そのような世界は、上の「人の声」からその人の町をぼんやりイメージできるのと同じ世界であると思われる。これは荒唐無稽なことだろうか。
昔、霊能者と言われた宜保愛子がテレビに出ていて、誰かを見て、あなたの家の玄関近くにはかくかくの木があり、・・・と占っているのを目にしたことがある。なぜそんなことが見えるわかるのだろうと、ふうんとふしぎに思ったことがある。なぜだかはわからないが、たぶん、そうしたことは巫女やシャーマンには共通する「霊的な」資質なのかもしれない。坂口くんの人の声から「思考都市」を感じたり生み出したりするのも霊能者と言われた宜保愛子などと共通するものかもしれない。フツーのわたしたちにはふしぎな世界であるが、まったくわからない世界ではないと思う。他人の表情や声や身振りから、その人の日頃の立ち居振る舞いなどを想像したりすることは無意識的であれ自然なことだからである。わたしたちのは、巫女やシャーマンに共通する「霊的な」資質をずいぶん薄めたもの、強度の弱いものなんだろう。
わたしは偶然から畑仕事をするようになって、もう十年以上になる。仕事として農業をやる場合と違って、私のような場合は、「趣味の農業」や「家庭菜園」と呼ばれるものである。あまり面倒ではない、そらまめ、きゅうり、さつまいも、スイカ、カボチャ等を育てている。坂口くんと違って、「畑の土や植物は、育てる人間のことを把握していると感じる」ことはないし、「彼ら(引用者註.土や植物たち)も彼らなりの方法で僕の心や体の動きを読み取っているようだ」と思うことはない。ただ、時には世話し育てている作物たちは、こちらをどう「感じている」のだろうかと思うことはある。
柳田国男が「農の感動」というようなことをどこかに記していた。わかりやすい例で言えば、稲の収穫時の喜びである。しかし、田や畑に出ていて、ふと風に吹かれていい感じで仕事ができたな、と感じることも「農の感動」であろう。そういう意味では、坂口くんもわたしも「農の感動」を味わっているという点では共通しているだろう。さらに、この「農の感動」は、農業に限らずいろんな仕事に共通する普遍的な、人間的な感動であると言えそうだ。もちろん、そればかりではなく、キツい、イヤイヤの仕事に終わる日々もあるかもしれない。
もう少し、坂口くんの言葉に近づいてみる。適切な例に出会ったので、植物ではなく、動物の場合で考えてみる。自閉症を内側から追究している松本孝幸さんが、マッソン/マッカーシーの『ゾウがすすり泣くとき』から引用して、動物でも夕日を眺めて何か感じ入ることがあることを紹介している。
〇
ある日の午後、ゴンベ野生保護区域でチンパンジーの観察にたずさわっていたひとりの学生が休憩をとって、タンガニイカ湖に沈む夕陽を眺めようと尾根にのぼった。学生の名はゲザ・テレキ。彼が見ていると、チンパンジーが一頭、二頭と、やはり尾根にのぼってきた。どちらもおとなの雄で、連れだってきたわけではなく、尾根のてっぺんで初めて顔を合わせたようだった。テレキには気づかず、フーフーと鳴いて二頭は挨拶を交わし、手を握り合い、ともに腰をおろした。あとはテレキもチンパンジーたちもただ黙って、夕陽と暮れゆく空を見つめていた。
美的感覚は、ふつうは感情とはされていない。けれども、まちがいなく知的体験で あるともいいきれないような気がする。人は時に美しいものを見て幸せになったり悲 しくなったりする。ということは一部は認識力によるもの、一部は感情的なものなの かもしれない。人間はむろん、そのように美しいものの価値がわかるのは自分たち人 類だけだと、これまで思いたがってきた。
ゲザ・テレキといっしょに夕陽を見つめたチンパンジーは、決しでチンパンジーのなかの例外ではない。いつになくすばらしい夕焼けを、陽が沈むまでたっぷり十五分のあいだ眺めていた野生チンパンジーがいたと、霊長類学者のアドリアン・コルトラントも報告している。野生のクマを観察してきた何人かも、腰をおろして夕陽を見つ め、瞑想にふけっているようなクマを見たことがあると語っている。その様子からす ると、どう考えてもクマたちは夕陽を眺め、美しさを堪能していたとしか思えない。そうした解釈を、単純すぎるといって科学者たちは笑う。クマにどうやって美しさがわかるというのだ。黙想などできるというのだ。自分の審美眼を誇る人間のなかには、ほかの連中には美は理解できないだろう、それほど洗練された感覚はふつうの人間は持っていまいと考えている人すらいる。「下等な」人種はわれわれ(つまり「高等な」 人種)のように美しさに感動することはできないのだと、十九世紀の科学者の多くは主張していた。…
(『ゾウがすすり泣くとき』 マッソン/マッカーシー)
〇
チンパンジーもクマも、夕焼けを美しいと見ているように見えます。
そう見ている自己を自覚はしていないでしょうが。
感覚と感情が未分化で、でも情緒の安心している状態を、夕焼けはもたらしているのではない
でしょうか。
人間には、この動物段階からの夕焼けの体験が残っているのではないでしょうか。
三つの「夕焼け」の話
東田直樹君の『自閉症の僕の毎日』から、「夕焼け」について。
(松本孝幸 「たかちゃんの豊浦彩時記」 2024年7月号より)
人間も動物段階を潜ってきたはずだから、「動物段階からの夕焼けの体験が残っている」のかもしれない。人間の中にも植物生や動物生が残っており、その地点から動物や植物とも共鳴したり、呼応したりすることが可能なのかもしれない。先に述べたように、動物も人間も内臓があるから、内臓感覚として夕焼けに感じるものがあるのかもしれない。
松本さんの文章によって以前知ったことだが、17世紀のデカルトは動物が痛みを感じる能力を持たないと考えていたという。「動物機械論」を考えていたらしい。この地点からすれば、現在は犬やネコと人間との付き合いからいろんなことがわかってきている。たぶん、そういう人々は、上の夕焼けに「感動する」動物たちを自然なものとして受け入れるかもしれない。また、わたしの場合は、ツイッター(X)に流れて来る動物の動画で、何度も坂を滑り降りたりしている犬などを見たことがある。明らかに、その姿は喜び楽しんでいるものと感じられた。
坂口くんの上のような土や植物観も、現在のところフツーとちょっとズレているように見えるかもしれないが、先々ではそのような世界がもっとフツーに切り開かれるかもしれない。
坂口恭平『その日暮らし』(2024.8.1)を読み始めている。それは、末尾の初出によると、2023年の8月から10月に渡って『西日本新聞』に掲載された文章とあるから、坂口くんが最近感じ考えたことである。次のような個所に出会った。
今年はニンニクが豊作だった。畑は四年目になる。畑の土や植物は、育てる人間のことを把握していると感じる。僕がどのように動くか、四年目になると土や植物たちの方もわかってきているんだと思う。対話をしているというより、僕は僕なりに彼らのことを直感的に考え、彼らも彼らなりの方法で僕の心や体の動きを読み取っているようだ。
(坂口恭平『その日暮らし』P11、「四年目の畑」)
人間と動物や植物との交歓は、おそらく世界中で記録や絵本や童話や文学などの様々な表現になされてきた。その場合、写真や映像もあるが、主に人間の側から、人間の言葉によってなされてきた。一方、動物や植物は、人間の持つような言葉を持たないようだから、動作や表情、動物の場合は声などによってなにものかを表出する。植物も微かな音も拾える機器を使えば、声のようなものを表出しているのかもしれない。いずれにしても、見聞きしてきた動植物からの直感的な判断でいえば、高度に抽象化を遂げた人間の言葉は持たなくても、人間と同じ内臓感覚(植物の場合は、内臓感覚のようなもの)からくる、感覚や言葉のようなものを動植物も持っているのかもしれない。
子どもを対象とする絵本や童話の場合、花や木や動物が人間の言葉をしゃべったりする。また、説話の書き出しだったと思うが、まだ動物や植物が人間の言葉を話していた頃、という書き出しに出会ったことがある。(これは、どこにあったか再び探し出せないでいる。山室静の『新編 世界むかし話集』のどれかだったと思って、軽く探したけど、見つからなかった。)
確かに、古代以前の太古の歴史の段階では、それが不自然ではないと感じ考えられたらしい。例えば、アメリカ先住民の感じ考える世界を内側から描いた『リトル・トリー』のような世界である。人間の幼年期と対応するような歴史の幼年期とも言うべき段階である。しかし、幼年期を通り過ぎた、それを忘れてしまった青年期や壮年期の人間から見れば、そういう人間と動植物が言葉を交わしたり、交歓する世界は実感できない。だから、わざとらしいもの、ウソがまじっているもののように見える。太古の主流の感じ考え方に「輪廻転生」というのがあるが、現在の歴史の壮年期、あるいは老年期の主流から見れば、死んだら骨になるという実感しかないから、歴史の幼年期の段階の「輪廻転生」は実感できないし、ウソ臭く感じてしまうのも同じことだろうと思う。
わたしたちの現在は、自然科学的な自然観や死生観が主流で、確かに死んだら骨になるのを目にするし、またそう感じ考えている。ただし、そこにはこの世界の深みのふしぎさに軽く目まいするようなちいさな判断の留保もあるような気がする。坂口くんの上の言葉は、そのようにわたしたちの現在が感じてしまう主流から、ちょっとズレている。しかし、それはいわゆる霊的、宗教的な「スピリチュアル」とも違っているように見える。
それは、「躁鬱病」を生きてきた、坂口くんの独特な個人史の方から来ているような気がする。その感じ考える世界は、次のような特異な感覚とも呼応しているはずである。
誰も信じてはくれないかもしれないが、僕は人の声を聞くと、その人の内側にあるのか、背後にあるのかわからないけど、その人の「町」がぼんやりと見える。それだけでなく、その人の町に並んでいるアパートみたいな建築群の一棟の四階にある住居の中の子供部屋に置いてある洋服ダンスまで見えてしまう。タンスの下から三段目の引き出しを開けることもできる。引き出しの中をのぞくと、また桐箱の中に小さな町が広がっていて、僕は上からその町にゆったりと流れる川を眺めている。それを僕は思考都市と呼んでいる。
僕たちは同じ現実の中に生きていると思っているが、各々の個人の中にはそれぞれにまた別の現実がある。人間だけでなく、草木や動物や石にもある。そんなふうに僕は感じている。
(坂口恭平『その日暮らし』P43、「その人の『町』」)
初めの坂口くんの言葉には、「彼らのことを直感的に考え、彼らも彼らなりの方法で僕の心や体の動きを読み取っているようだ。」とある。坂口くんは、「直感』を触手として伸ばして土や植物を感じ取り、たぶんよくわからないけど「彼らなりの方法」で坂口くんを感じ取っていると思っている。そのような世界は、上の「人の声」からその人の町をぼんやりイメージできるのと同じ世界であると思われる。これは荒唐無稽なことだろうか。
昔、霊能者と言われた宜保愛子がテレビに出ていて、誰かを見て、あなたの家の玄関近くにはかくかくの木があり、・・・と占っているのを目にしたことがある。なぜそんなことが見えるわかるのだろうと、ふうんとふしぎに思ったことがある。なぜだかはわからないが、たぶん、そうしたことは巫女やシャーマンには共通する「霊的な」資質なのかもしれない。坂口くんの人の声から「思考都市」を感じたり生み出したりするのも霊能者と言われた宜保愛子などと共通するものかもしれない。フツーのわたしたちにはふしぎな世界であるが、まったくわからない世界ではないと思う。他人の表情や声や身振りから、その人の日頃の立ち居振る舞いなどを想像したりすることは無意識的であれ自然なことだからである。わたしたちのは、巫女やシャーマンに共通する「霊的な」資質をずいぶん薄めたもの、強度の弱いものなんだろう。
わたしは偶然から畑仕事をするようになって、もう十年以上になる。仕事として農業をやる場合と違って、私のような場合は、「趣味の農業」や「家庭菜園」と呼ばれるものである。あまり面倒ではない、そらまめ、きゅうり、さつまいも、スイカ、カボチャ等を育てている。坂口くんと違って、「畑の土や植物は、育てる人間のことを把握していると感じる」ことはないし、「彼ら(引用者註.土や植物たち)も彼らなりの方法で僕の心や体の動きを読み取っているようだ」と思うことはない。ただ、時には世話し育てている作物たちは、こちらをどう「感じている」のだろうかと思うことはある。
柳田国男が「農の感動」というようなことをどこかに記していた。わかりやすい例で言えば、稲の収穫時の喜びである。しかし、田や畑に出ていて、ふと風に吹かれていい感じで仕事ができたな、と感じることも「農の感動」であろう。そういう意味では、坂口くんもわたしも「農の感動」を味わっているという点では共通しているだろう。さらに、この「農の感動」は、農業に限らずいろんな仕事に共通する普遍的な、人間的な感動であると言えそうだ。もちろん、そればかりではなく、キツい、イヤイヤの仕事に終わる日々もあるかもしれない。
もう少し、坂口くんの言葉に近づいてみる。適切な例に出会ったので、植物ではなく、動物の場合で考えてみる。自閉症を内側から追究している松本孝幸さんが、マッソン/マッカーシーの『ゾウがすすり泣くとき』から引用して、動物でも夕日を眺めて何か感じ入ることがあることを紹介している。
〇
ある日の午後、ゴンベ野生保護区域でチンパンジーの観察にたずさわっていたひとりの学生が休憩をとって、タンガニイカ湖に沈む夕陽を眺めようと尾根にのぼった。学生の名はゲザ・テレキ。彼が見ていると、チンパンジーが一頭、二頭と、やはり尾根にのぼってきた。どちらもおとなの雄で、連れだってきたわけではなく、尾根のてっぺんで初めて顔を合わせたようだった。テレキには気づかず、フーフーと鳴いて二頭は挨拶を交わし、手を握り合い、ともに腰をおろした。あとはテレキもチンパンジーたちもただ黙って、夕陽と暮れゆく空を見つめていた。
美的感覚は、ふつうは感情とはされていない。けれども、まちがいなく知的体験で あるともいいきれないような気がする。人は時に美しいものを見て幸せになったり悲 しくなったりする。ということは一部は認識力によるもの、一部は感情的なものなの かもしれない。人間はむろん、そのように美しいものの価値がわかるのは自分たち人 類だけだと、これまで思いたがってきた。
ゲザ・テレキといっしょに夕陽を見つめたチンパンジーは、決しでチンパンジーのなかの例外ではない。いつになくすばらしい夕焼けを、陽が沈むまでたっぷり十五分のあいだ眺めていた野生チンパンジーがいたと、霊長類学者のアドリアン・コルトラントも報告している。野生のクマを観察してきた何人かも、腰をおろして夕陽を見つ め、瞑想にふけっているようなクマを見たことがあると語っている。その様子からす ると、どう考えてもクマたちは夕陽を眺め、美しさを堪能していたとしか思えない。そうした解釈を、単純すぎるといって科学者たちは笑う。クマにどうやって美しさがわかるというのだ。黙想などできるというのだ。自分の審美眼を誇る人間のなかには、ほかの連中には美は理解できないだろう、それほど洗練された感覚はふつうの人間は持っていまいと考えている人すらいる。「下等な」人種はわれわれ(つまり「高等な」 人種)のように美しさに感動することはできないのだと、十九世紀の科学者の多くは主張していた。…
(『ゾウがすすり泣くとき』 マッソン/マッカーシー)
〇
チンパンジーもクマも、夕焼けを美しいと見ているように見えます。
そう見ている自己を自覚はしていないでしょうが。
感覚と感情が未分化で、でも情緒の安心している状態を、夕焼けはもたらしているのではない
でしょうか。
人間には、この動物段階からの夕焼けの体験が残っているのではないでしょうか。
三つの「夕焼け」の話
東田直樹君の『自閉症の僕の毎日』から、「夕焼け」について。
(松本孝幸 「たかちゃんの豊浦彩時記」 2024年7月号より)
人間も動物段階を潜ってきたはずだから、「動物段階からの夕焼けの体験が残っている」のかもしれない。人間の中にも植物生や動物生が残っており、その地点から動物や植物とも共鳴したり、呼応したりすることが可能なのかもしれない。先に述べたように、動物も人間も内臓があるから、内臓感覚として夕焼けに感じるものがあるのかもしれない。
松本さんの文章によって以前知ったことだが、17世紀のデカルトは動物が痛みを感じる能力を持たないと考えていたという。「動物機械論」を考えていたらしい。この地点からすれば、現在は犬やネコと人間との付き合いからいろんなことがわかってきている。たぶん、そういう人々は、上の夕焼けに「感動する」動物たちを自然なものとして受け入れるかもしれない。また、わたしの場合は、ツイッター(X)に流れて来る動物の動画で、何度も坂を滑り降りたりしている犬などを見たことがある。明らかに、その姿は喜び楽しんでいるものと感じられた。
坂口くんの上のような土や植物観も、現在のところフツーとちょっとズレているように見えるかもしれないが、先々ではそのような世界がもっとフツーに切り開かれるかもしれない。
NHKのは、ぼくも見たことがあります。今検索してみたら、
NHKスペシャル「超・進化論 第1集 植物からのメッセージ
~地球を彩る驚異の世界~」だったようです。
まだまだビミョウな世界ですね。だから、なかなか断定的には
言いにくいです。いろんな方面からの追究に関心を開いて
おこうと思っています。