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覚書2020.10.26 ― 人間の初源の感覚は

2020年10月26日 | 覚書
 覚書2020.10.26 ― 人間の初源の感覚は 


 「ブーバキキ効果」について知ったのは、松本孝幸さんのホームページ『読書倶楽部通信』でだったと思う。
 ウィキペディアの「ブーバキキ効果」によると、


ブーバ/キキ効果(Bouba/kiki effect)とは心理学で、言語音と図形の視覚的印象との連想について一般的に見られる関係をいう。心理学者ヴォルフガング・ケーラーが1929年に初めて報告し、命名はV.S.ラマチャンドランによる。

それぞれ丸い曲線とギザギザの直線とからなる2つの図形を被験者に見せる。どちらか一方の名がブーバで、他方の名がキキであるといい、どちらがどの名だと思うかを聞く。すると、98%ほどの大多数の人は「曲線図形がブーバで、ギザギザ図形がキキだ」と答える。しかもこの結果は被験者の母語にはほとんど関係がなく、また大人と幼児でもほとんど変わらないとされる。(「ブーバ/キキ効果」 wikipedia)






 わたしも、この「ブーバキキ効果」について、以下の文章で軽く触れたことがある。
「表現の現在―ささいに見える問題から ⑩」
https://ameblo.jp/okdream01/entry-12112156111.html


 捉えられる形は目で見る視覚に属し、聴こえる音は耳で聞く聴覚に属するが、この場合、形と音の結びつきは視覚と聴覚から入ってその背後の内臓感覚から来ているように思われる。形のもたらす感覚と音のもたらす感覚との連合の共通性が内臓感覚レベルで存在するようなのだ。

 ブーバ・キキという音(言葉)と形の結びつきは、言葉というものの初源性を感じさせる。これは、まだ言葉を知らない幼児の感じることとしゃべる言葉のようなものの段階と見なすこともできる。あるいは、人類の歴史で言えば、言葉のようなものを生み出したそのはじまりの時期とも言える。そのような人間の言葉の初源性を保存していると言えそうだ。大多数の人々が、言葉以前の感覚で了解し反応している共通性がそのことを証しているように思う。

 ここでは、対象の形と音(言葉)とがある対応性を持っていることが示されている。幼児期の言葉のようなものとか人類の歴史の初源性の段階のものとか言わないとすれば、対象把握と発する音(言葉)との間に介在する人間の内臓感覚の固有な有り様を示している。そうだとすれば、この「ブーバキキ効果」は、人間のような言葉を持たない動物においても当てはまる可能性を持つように思われる。

 動物同士や動物と人とが出会うときも含めて、わたしたちが他者や他者の語る言葉や書き言葉に出会う時、その舞台の渦中ではこの「ブーバキキ効果」が発動しているのではないか。

 ところで、吉本さんは人間の意識や言語は歴史的に積み重ねられたもの(歴史的な現存在)と述べている。


 ある時代の言語は、どんな言語でも発生のはじめからつみかさねられたものだ。これが言語を保守的にしている要素だといっていい。こういうつみかさねは、ある時代の人間の意識が、意識発生のときからつみかさねられた強度をもつことに対応している。
 ・・・(中略)・・・ある時代の人間は、意識発生いらいその時代までにつみかさねられた意識水準を、生まれたときに約束されている。これとは反対に、言語はおびただしい時代的な変化をこうむる。こういう変化はその時代の社会のさまざまな関係、そのなかでの個別的な環境と個別的な意識に対応している。この意味で言語は、ある時代の個別的な人間の生存とともにはじまり、死とともに消滅し、またある時代の社会の構造とともにうまれ死滅する側面をもっている。  (『定本 言語にとって美とはなにかⅠ』P46-P47 角川選書)


 人間の意識や言語(の表出、表現)は歴史的に積み重ねられたものの現在性だとして、わたしたちが知りたいのは、そのつみかさねられ方と現存在における発動の仕方である。最後に、疑問点を含めてメモ書きしてみると、

1.意識や言語は地層のように層を成して積み重ねられているのか。時間の積み重なりから言えばそのように層を成していると言える。しかし、この列島でまだ交通が十分に行き届いてなかった段階、すなわち古代以前などの中央の国家権力がなく、その言語から文化、行政全般にわたる支配的な網の目が十分にかぶさっていなかった段階を想定すると、それらの層は地層における小断層のようになっているのかもしれない。つまり、統一国家の下のようにわりと均質にはなっていない段階もあり得たように見える。
 これらのことは、世界レベルへも拡張できそうな気がする。つまり、大きな地層としては、アフリカ的段階、アジア的段階、ヨーロッパ的段階、グローバルな未知の段階、・・・・が層を成しており、それぞれの層の積み重なりに脱けている層や大断層があるという風に。

2.統一国家の下で層を成して積み重ねられているとして、現在的なマスイメージ(世界観)がその層の表層を覆っていることはまちがいない。そして、その力は無意識的な自然性としてわたしたちの感受や意識を強力に規制している。

3.統一国家の下で層を成して積み重ねられているとして、より古い層からの発動も個やその住む地域の意識性の志向性や選択によって現在的に現れているのか。例えば、親戚の者が亡くなる前に枕元に立った、などの現在からは古い感覚を今でも時々耳にする。

4.近代社会をその矛盾とともに上り詰めてきた戦争期の危機的状況では、とても古い層への先祖返りの意識、すなわち古層からの発動が全社会的になされた。

5.意識の最下層には心の原基のような内臓感覚と対応する固有の層があり、これは「ブーバキキ効果」における感受と反応のように、現在的なわたしたちの意識の振る舞いに同時的に織り合わさって発動されているのではないか。

6.この問題は、後に三木成夫の考察と対応させた吉本さんの〈自己表出〉と〈指示表出〉に関わってくるように思われる。


 もっと生理的に、人間の身体に結びつけてかんがえれば、自己表出は内臓そのものにかかわりのある表現です。胃が痛くて、おもわず「痛い!」という。心臓がドキドキして、おもわず「あっ」といったりする。つまり、人間の内臓に関係づけられるこころの表現は、言葉の自己表出の側面が第一義的にあらわれると理解するのがいちばんよいとおもいます。
 さらにいえば、言葉の自己表出は人間がもつ植物神経系とかかわりが深いとかんがえればよいでしょう。人間の内臓は、脳で意図して動いているのではなく、植物神経によってひとりでに動いているのです。
 指示表出は感覚とかかわりが深い言葉の表現です。感覚は植物にもないわけではありませんが、反射神経的な動きしかありません。動物のようにじぶんで体を動かしたり、眼を働かせたり、耳で聞いたりすることはない。目や耳など動物神経で働いている器官は感覚器官ですけれども、それを介して脳に結びついており、それを第一義とする表現は言葉の指示表出に関係があるとかんがえればわかりやすいとおもいます。
 いいかえれば人間の身体は植物部分、動物部分、そして人間固有の部分を含んでいるとかんがえるのがよいでしょう。
 (吉本隆明『詩人・評論家・作家の ための言語論』P78-P80 1999年3月)


そして三木さんの書いた『胎児の世界』を読んでいるうちに、この人の考え方とぼくの言語論とを対応させることができるんじゃないか、と気づいたのです。
 やや乱暴にまとめますと、三木さんは人間について、大腸、肺、心臓など植物神経系の内臓の内なる動きと、人間の心情という外なる表現は対応し、また動物神経系の感覚器官と脳の働きは対応しているとかんがえています。そのうえで三木さんは、植物神経系の内臓のなかにも動物神経の系統が侵入していくし、逆に血管のような植物神経系の臓器も動物神経系の感覚器官の周辺に介入しているといっています。ですから、内臓も脳とのつながりをもっていることになります。何らかの精神的なショックを受けて、胃が痛くなるとか、心臓がドキドキするということがあるのはそのためです。
 そのとき人間は、動物神経と植物神経の両方にまたがる行為をしているわけです。植物神経系と動物神経系は、内臓では植物神経が第一義に働き、感覚器官では動物神経から脳へという働きが第一義に働きますが、第二義的には人間の精神作用は、心の動きと感覚器官の織(物)なのです。三木さんはそういっているのだとおもいます。
 ぼくがはっとしたのはそこのところで、それならぼくの言語論における自己表出は、内臓器官的なものを第一義とした動きに対応するのではないかとおもったのです。必ずしも、対象を感覚が受け止めたりみたりすることがなくても、内臓器官の動きというものはありうるし、人間の精神の動きや表現はありえます。つまり植物系器官を主体とした表現を自己表出といえばいいのかとかんがえました。
 では指示表出は何かといいますと、眼でみたり耳で聞いたりしたことから出てくる表現です。たとえば、ぼくがだれかの顔をみて、「あいつの人相はわるい」と表現したとすれば、それは指示表出です。これを三木さんの考えと結びつけていえば、指示表出は感覚器官の動きと対応することになります。
 そうかんがえていきますと、・・・・・(中略)・・・・・・自分の言語論の体系を文字以前のところまで拡張することができるんじゃないか、と気がついたわけです。
       (吉本隆明『同上』P81-P83)



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