昨日、ウォーキングしようと思い支度をして玄関を開けるといきなり吹雪(><
さっさと諦めて、一日ヒッキーをしていました。
春を探索
今日も風が強くて寒かったですね。でも、意を決して畑に向かいました。
その前に、耕耘を頼まれていた畑脇に見つけていたふきのとうと、先日摘んで帰った川土手の菜花を頂いて帰りました。ただ畑は田んぼの真ん中、吹きさらしなんですね。
そら豆と絹サヤエンドウの風除けトンネルを取って支柱立てをと思い、河川敷の竹を切って持ち込みましたが、余りの風の強さと冷たさに這う這うの体で引き上げました(^^;;
で、先日来庭では旬の葉柄が食べごろになっていたツワブキ、野山ではどうかなあと思い、春の探索。
これからというところですが、日当りのいいところでは旬で食べごろの葉柄が出ていました。
今夜か明日でしょうか、贅沢な食卓となりそうです。ご馳走さま~(*^^*)
人間の心こそが全宇宙 最近、科学的な眼をお持ちの皆さんからすると、非科学的かつナンセンスで荒唐無稽と思えるような本をたくさん読むようになりました。
一昨日、昨日と連荘で取り上げた稲葉耶季さんの「食べない、死なない、争わない」もそうした中の一冊です。
その本を読み終えたので、昨日から読み始めた岸根卓郎著「量子論から解き明かす『心の世界』と『あの世』」を読み始めたのですが、量子論の本を始め、“怪しい本”などを読みながら感じていたことがズバリ!書かれています。
先月初め、素領域理論や量子論と心の世界の関係を知りたいと思って読んだ「量子論を楽しむ本」、越前の美人女将と量子論が結びついて「カニはカニじゃない」というブログを書いたんですが、なんだ!この本にはズバリと書かれているじゃないか!
“起”なのかなあ?第1章、最初から求めていた解に思えるものがある、これって、結論じゃない?
「量子論的唯我論(コペンハーゲン解釈)の主張は強烈かつ不可解であるが、人間の心こそが全宇宙であることを宣言している究極の真理であるからである」
ちゃぶ台返し!?
これ、やばくないですか?この論理を敷衍すれば、意識ですべてのことを思い通りにして行ける、ってこと。
であれば、“あなたは私、私はあなた”“依正不二”“八百万の神”“はじまりは一つ”等々、同じなのかなあ。
「量子論の説く心の世界が理解できるか否かは、物心一元論の科学観を素直に受け入れることができるか否かの読者自身の心の在り方の如何にかかっている」は、第1章の帰結ですが、この本を手に取ってみます?
僕的には、これってちゃぶ台返しだよなあと思うんですよ。エビデンス第一主義なんてもう可笑しくて。
小食・不食で生きれるなんて当たり前。死なないって当たり前。量子論から考えたら、現代科学の世界、例えば西洋栄養学って、西洋医学や薬学って、本当に人間のほんの一端しか見てないってこと。
今の教育の在り方もそうなんだよなあ。人の持つ無限の力・宇宙の力にどうアクセスできるか・・・
あっ、著者の岸根卓郎さんは、京都大学教授を経て現京都大学名誉教授。統計学、数理経済学、情報論、文明論、教育論、森林政策学、食料経済学、国土政策学、宗教、哲学など、幅広い領域において造詣の極めて深い国際学者と紹介されており、発行はPHP研究所です。
もちろん、アカデミズムの世界で、著者の書いていることがすべて正しい、ということで認められているとは思いませんが、この本を読みながら自分の思ってきたことが傍証されたのかなあと。
いや~、面白いなあ(*^^*)
昨日のブログに書いた稲葉耶季さんの「食べない、死なない、争わない」、自然体でとても素敵な本です。
食べないは、昨日少しふれましたので、“死なない”と“争わない”。
医者にはかからないぞ(*^^*)
稲葉さんの死生観は、僕によく似ています。
もちろん、僕も死を喜んで待っているという心境ではありませんが、怖いとは思わないし、あるがままに従容として受け入れようと思っています。
ですから、骨折とか大けがとか以外、検査も含めて基本的には医者にかからないと決めています。
こんな気持ちになれたのは看取り士の柴田さんとの出会いのお陰。それまでは、生死不二の心境とは程遠く、漠然とした死への畏れを抱えていたと思います。
死をそういう気持ちで受容できるようになると、自分を悲しむとか呪うとか、人を恨むとか蔑むとかという気持ちが薄れてくるように思います。
もちろん、人間ですから、時々そんな気持ちが頭をもたげることはありますが、さまざまなできごとや、生きていることに感謝の思いを持って、喜びの人生を歩んでいると思えるようになってきたかも(*^^*)
本質(魂)は死なない
稲葉さんも矢作先生と同様、人の肉体は滅びるけれども本質(魂)は死なないと書き、本質の帰るもといた場所は、最高に幸せな光の世界と思うと書いています。
そして、どんな出来事にもどんな人生にも、本質が成長するための大きな意味があると。
それが意識できたら、悩み苦しみの人生を感謝と喜びの人生へと変えるこになるんでしょうね。きっと。
犠牲者が出るにしても
“争わない”、稲葉さんは面白いことを書いています。この視点はなかなかないかも。
戦争に巻き込まれて戦った時の死者の数と、侵略されても戦わなかったときの死者の数は、仮に、侵略されて虐殺が起こったとしても、戦う方が断然多いだろうと。自分は最初に進み出るとも。
死への畏れがなくなれば、その戦略は可能だし、犠牲者が出るにしても、少し長い目で見れば国民のためになるかもしれません。ただ、人間は闘争が好きですよね。死への畏れ?
もう一つ、国家が生き残るための戦略、軍備の増強より食料自給率を100%にした方がいいだろうって。工業生産によるGDP確保と食料によるGDPって全く質は違うけど、GDPの数字上は同じ。
いくら強大な軍備があり、経済が豊かで外貨があろうと、兵糧攻めにあえば軍備や外貨は役に立ちませんし、飢饉になった時に、自国の国民を優先しなくちゃ政府は持たない。
アメリカ、オーストラリア、イギリス、フランス等、先進国は軒並み自給率が100%を超えている。最も強い安全保障政策を取っているんですね。こんなことは、誰でも知ってることだけど意識としてない。
生きる価値観をもうちょっとだけ考えたほうが良いかもしれませんね。
今を生きる16の知恵
最後に、稲葉さんが生きる中で感じてきた“今を生きる16の知恵”を原文のまま紹介します。
そして、これは特に僕が心に刻み込んで実践したいと思った⑩人が喜ぶことを考えるは、全文。
①川の水のように自然の流れに沿う
②自分の中のかすかな息吹を感じる繊細さを持つ
③他者と同じ息吹の中で生きていることを感じる
④興味のあることに集中する
⑤不安や恐怖を持たない
⑥喜びを持って生きる
⑦感謝を持って生きる
⑧風や太陽や月や星の語りかけを感じる
⑨木や革や花や石と語り合う
⑩人が喜ぶことを考える
人が放つ喜びの波動は、まわりの人々のエネルギーを活性化します。笑顔が大切というのもこの意味です。「情けは人のためならず」 というのも同じことを指します。人を悲しませたり、苦しませたりすることは、自分にはね返るのです。「人を呪わば穴二つ」 というのは道理です。憎しみや怒りは多くの毒気を出しており、まわりの人だけでなく、出す本人も毒気を吸って心身を蝕まれます。
人を喜ばせて生きている人は、結果的によいエネルギーを自分が浴びることになり、健康で長生きします。
人を優先する人は、大いなる利得を得ていることになります。
⑪心を静かにする時間を持つ
⑫物をへらしてさわやかな環境にする
⑬天然の環境のもとで少量の食事をする
⑭ゴミを出さない
⑮金や物や地位が自分を幸せにすると考えない
⑯他者の生き方を肯定する
真っすぐに植える、等間隔に植える、よく、へえ!とビックリされますが、畑は美しくありたいというこだわりがあります。あっ、雑草とはあまり邪魔をされない程度に仲良くしようと思いますが、、、
美しい畑の作物は、自分でも意識をして美しく美味しい稔りを実現しようと思ってるかも(*^^*)
昨日のジャガイモ植え付け作業でも紐を張り、定規で間隔を確認して植え付けましたが、こんなことまでするんですか?って。そう、畑は美しく、と言ったかどうかは忘れましたが、そうなんですと。
記念に撮った雄姿を見てみると、おっと!マスク。気が付かなかった(^^;; 折角の美貌が、、、
畝にそれぞれの名前を付けましたが、関係者以外の駐車禁止のプレートも。これなら、クマの被害はないか。
一畝バケツ一杯、などと言ってしまいましたが、はてさて。意識が大切だから、いや、必ず!!
小食・不食の時代 昨日から読み始めた稲葉耶季の「食べない、死なない、争わない」、とても刺激的で面白い。
ひとまず“食べない”の章を読み終えたんですが、小食・不食の時代などという言われ方もあるように、価値観の大きな転換期、人や自然を深く考える時代にあって意識の大切さを改めて考えました。
著者の食生活は一日の摂取カロリーは2~300キロカロリーだそうですが、鍼灸師の森美智代さんは一日青汁一杯80キロカロリー、弁護士の秋山佳胤さんは完全に不食、水もほとんど飲まないのだとか。
著者の稲葉耶季さんは、裁判長や琉球大学の教授も務めた方で、僧侶でもある。そんな方がこんな本を書く。
人は食べないと死ぬ?
稲葉さんは、不食のメカニズムを腸内細菌、プラーナ、空気と書いていますが、量子論などのミクロの世界や人の深遠な力を考え合わせると納得がいきます。
ただ、私たちは、幼い頃から「人は食べないと死ぬ」と繰り返し繰り返し刷り込まれているからにわかに信じられないし、本来持っている力も刷り込みによって隠されてしまっている。
それだけ思い込み、意識、常識の壁は厚いけれども、意識次第で変わると書かれています。
そして、小食・不食は体に負担を掛けないのでとても楽。睡眠時間も少なくて済むからとても効率的だと。
一方、食品添加物や化学肥料、農薬などの化学物質は、体外排出のために大きな負担をかけるんですね。
たくさんでなくていいから美味しいものを食べたい、美味しい米汁も飲みたい僕は、今まで通り、極力化学物質の使われていないものを口に入れること、お水はいいお水を飲もうって改めて。
一昨日、竹田さんから分けてもらったアンデスレッド、早速植え付けました。
今日は、買った種芋をみんなで植え付けます。アンデスレッド、きたあかり、男爵です。晴れるといいな(*^^*)
また、去年全滅の憂き目にあったそら豆、トンネルで育てていましたが、トンネルを外して風で揺れないように紐張り。お~~!もう蕾が付いているではありませんか。寒くて風邪ひくかな?
光vs.闇 光の勢力と闇の勢力が陣取り争いをする時代だと“アナスタシア”には書かれていました。
このことは、表現はいろいろあるにしろ、さまざまなところで言われています。
確かに、人々の意識の変化が大きくなり、時代が変わろうとする実感がありますが、反対に抑え込もうとする動きも顕著ではないでしょうか。
以前のブログに、トランプは時代変化にどんな役割を果たすのか、田中宇の配信を紹介しながら書いたことがありますが、ひとまず一方の懸念通り、大統領は強いアメリカを目指して国防費の10%増を図ろうとしています。
きっと、政治の常道とすれば、表向き友好関係を築いている中国も、これには敏感に反応して当然。
だから、この記事が伝えることは今の国際政治の常道なのでしょう。嗚呼、何と愚かな。
これほど自明でありそうなことが自明ではないのが現実。
仏法には無明と言う言葉がありますが、対する言葉は法性。無明から法性への転換は組織が大きくなればなるほど困難なことなのかもしれませんね。
であるならば、一人から一人、法性の人、光の勢力を増やす、そんな思いで日々を過ごすことか。
「人は死なない」、ずいぶん人騒がせとも思えるタイトルの本ですね。
寿命が来れば肉体は朽ちる、という意味で「人は死ぬ」が、霊魂は生き続ける、という意味で「人は死なない」。私はそう考えている、と著者は最後に書いています。
東京大学大学院医学系研究科・医学部救急医学分野教授、医学部付属病院救急部・集中治療部部長、ずいぶん長い肩書ですが、著者の矢作直樹先生の前職(昨年退官)です。
体と心は簡単じゃない
矢作直樹、最初に知ったのは理論物理学者の保江邦夫先生との対談本。
以来、何冊かの本を読み、最初に上梓され話題となった本書を読んどかなきゃと手に取りました。
この本の写真をネットで探す中で、この本の感想を書いた何人かのブログを読みましたが、科学絶体主義はここまで社会を席巻しているのかと驚きながらも、そうなんだろうなあと心寂しいものがありました。
僕は、学生時代から仏法を学んできましたし、10年も前になりますか、妹の死を通して生と死、そして人の生き方を考える機会に恵まれました。
自分の体と心(脳と魂)が、一つのこととしてとらえることは簡単じゃないと思いましたが、それは、脳による自我が情や直観力を認めたがらないということかもしれませんね。
矢作先生は、臨床現場を経験してきた話として、例えば手術をしてどんなに手術の結果が良くても亡くなる方もあるし、絶対に助からないだろうと思われる方でも元気になることがあると書き、それは、医学の理論や医療技術や薬効などでは説明しつくせぬものであると書かれています。
思ったことしか実現しないと言われますが、意識次第でどっちにでも転ぶのかもしれませんね。
医者や薬が病を治してくれると思うのか、自分の治癒力が病を治すのだと思うのか、違うんでしょうね。
ずいぶん科学で解明されてきたように思える心と身体ですが、深遠ですよね。
貪瞋痴の三毒
今日、あるフォーラムに参加し、体験を聞きながら会場にいたたまれなくなりました。
聞いたのはお二人の体験でしたが、お一人は悲嘆に囚われて生き、もう一人の方は怒りに囚われて生きていらっしゃるように映りました。
怒りの原因はとても良く理解でき、同情もできる。そして、仰ることは正しいことだろうと思いますが、お話は最初から最後まで怒りと恨みの言葉で綴られていました。
仏法では、最も根源的な不幸の原因を貪瞋痴(とんじんち~むさぼり・いかり・おろか)の三毒と表し、人が克服すべきものと教えられています。
悲嘆にくれる、囚われることは“痴”でありましょうし、怒りや恨みは“瞋”であります。
今日、会場に居合わせるだけで、エネルギーが吸い取られて生命が縮んで行くように感じたのですが、人の意識・生命の働きは、自分だけにとどまらず、周りにも大きな影響を与えるように思います。
悲嘆に囚われたり怒りや恨みに囚われて生きることは、決して周りの人を幸せにしないように思いました。
斎藤一人さんは、人生の目的は幸せになることだと言っていましたが、そう考えた方が絶対にいよなあと思います。悲嘆や怒りや恨みを感謝や喜びに変えるって簡単じゃないかもしれないけど、そうあって欲しいなあ。
僕も、全てに感謝できる生き方、喜びにあふれた生き方をしたいものだと思いました。