ところで、あなたがたは、どう思いますか。
ある人にふたりの息子がいた。その人は兄のところに来て、
「きょう、ぶどう園に行って働いてくれ」と言った。
マタイの福音書 21章28節
あなたがたは、どう思いますか(28節)…主イエスは私たちの求
めや訴えを聞くだけでなく、私たちに語りかけるお方である。こ
れは、自分が主に訴えることばかり熱心で、主のみことばに心の
耳を傾けようとはしない私たちへの警句です。と同時に、主の問
いかけは、私たちに単に聞くだけでなく、じっくりと考え、時に
は何日も思い悩むことをも、求めているのです。私たちはあまり
にも簡単に、問題の解決、そして祈りや信仰の結果を求め過ぎて
はいないでしょうか。主の救いが永遠のいのちという重い結果に
つながるならば、信仰の道もまた安直なものではありません。
父の願ったとおり(28~31節)…「父の願ったとおり」とは、キ
リスト者の生き方とは、神の願いや望みどおりに生きる、創造主
である神中心の生き方です。そして、主を中心として生きるとき
にこそ、人は人として自由にそして生き生きと生きることができ
るのです。そして、聖書の中には神の私たちに対する願いが随所
に記されています(Ⅰテサロニケ5・12~18、Ⅰテモテ2・4他)。
何をするべきか、何をしたいかを問う前に、主が私にどのように
歩んでほしいかを悟りわきまえるため、聖書を熟読するのです。
あとになって悔いることもせず(32節)…「悔いることもせず」
を口語訳聖書では「心を入れ変えて」と訳します。そして、文語
訳聖書では「なほ悔い改めずして信ぜざりき」と記しています。
聖書の教える悔い改めとは元来、方向転換や視点を変えることを
意味したメタノイアという言葉が用いられています。すなわち、
主イエスを信じて悔い改める者は、自分の生きざまを日々に点検
し、主の主導権に自分を明け渡して歩むのです。