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新しい薬剤師9,044人誕生

2015-03-29 20:03:17 | 医療と介護
薬剤師国試合格率63.17%、新卒は72.65%

厚生労働省は3月27日、薬剤師国家試験の合格者を発表した。
1万4316人が受験し9044人が合格、合格率は63.17%となった。
新卒者は8446人が受験、6136人が合格し合格率は72.65%であった。
6年制新卒者の状況を大学別に見ると、東大が受験者10人で全員合格。
合格率100%は東大のみであった。

資料1:薬剤師国家試験合格者番号(厚労省)
http://www.mhlw.go.jp/general/sikaku/successlist/siken11/hp11.html
資料2:薬剤師国家試験の結果(厚労省)
http://www.mhlw.go.jp/file/04-Houdouhappyou-11121000-Iyakushokuhinkyoku-Soumuka/0000079153.pdf
資料3:大学別合格者数(厚労省)
http://www.mhlw.go.jp/file/04-Houdouhappyou-11121000-Iyakushokuhinkyoku-Soumuka/0000079159.pdf
資料4:合格基準と正答(厚労省)
http://www.mhlw.go.jp/file/04-Houdouhappyou-11121000-Iyakushokuhinkyoku-Soumuka/0000079154.pdf
資料5:第100回薬剤師国家試験の合格発表(各種資料)(厚労省)
http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/0000079160.html)













胃がんは日本海側で多い」、がんの地域傾向を公表

2015-03-29 20:01:23 | 医療と介護
国立がん研究センター、2011年分39道府県
m3.com  2015年3月27日(金) 配信 成相通子(m3.com編集部)

 国立がん研究センターがん対策情報センターが3月26日 、「全国がん罹患モニタリング集計(MCIJ)2011年罹患数・率報告」を公表した。39道府県の地域がん登録のデータを基に、2011年の各地域の標準化罹患率と死亡率を算出、「胃がんは日本海側で多い」「肺がんは西日本と北海道で多い」などの地域別の分析を初めて発表した(資料は同センターのホームページ)。がん統計研究部長の西本寛氏は「今後、さらに精度を上げて、地域別のがん対策に役立てたい」としている。
 分析対象は、宮城、埼玉、東京、静岡、大阪、福岡、宮崎、鹿児島の8都府県を除く、39道府県分で、全人口の66%をカバーしている。うちデータ精度が国際基準をクリアした14県から全国平均を推計、39道府県のデータと比較した。
 2011年の全国のがん罹患者数は約85万人で、男性が女性より約14万人多かった。地域別では、胃がんは男女ともに日本海側の罹患率が高く、大腸がんは北海道や東北地方、山陰地方で高かった。肝がんは西日本と山梨県で顕著に罹患率が高かったほか、肺がんは男性で特に北海道と青森、また近畿圏で罹患率、死亡率ともに高くなっていた。乳房がんや子宮がん、前立腺がんでは明らかな地域の偏りは見られなかった。
 同センターは、現状ではデータ精度が都道府県で異なるため、大まかな傾向判断しかできないとしているが、地域の偏りについては、食塩の摂取量や喫煙などの生活習慣の違いなどが影響している可能性もあるという。
 男性は全部位のがんについて、北海道、東北、山陰、九州北部で、死亡者数が推計される標準より多くなる傾向にあり、罹患率も高かった。一方で、長野県と広島県は罹患率が高いものの死亡者数は比較的少なく、「有効ながん検診や高い診断技術」により死亡率を抑制できている可能性がある。
 次回報告の2012年分からは、47都道府県が地域がん登録に参加、データを報告するため、より精度の高い集計報告が期待されるという。













医療過誤、遺族がしてきたこと」 

2015-03-29 19:58:05 | 医療と介護
 妻亡くした千葉の男性「教訓、役立てて」 /千葉

毎日新聞社 2015年3月27日(金) 配信

 千葉市の肺がん検診で医師ががんを見落としたために手遅れとなり、2007年に死亡した女性(当時60歳)の夫(69)が、市と医療機関に真相究明を求める活動を記録した著書「医療過誤 遺族がしてきたこと」(知玄舎)を出版した。夫は「同じ医療事故の被害に遭って泣き寝入りする遺族に、私の教訓を役立ててほしい」と訴えている。
 女性は05年と06年に市が委託した医療機関でX線検査を受けたが、がんを見落とされ、別の病院で末期の肺がんと診断されて死亡。医療機関側は見落としを認めて夫に和解金を支払った。しかし、市は医師会との契約で定められた調査委員会による事故の真相究明について、夫の再三の要請があったにもかかわらず実施しなかった。夫は警察や報道機関などに働きかけ、事故は13年4月に報道された。
 夫は「奥田五郎」のペンネームで、社会に警鐘を鳴らすために続けた一連の活動を「20の戦法」として整理し、解説を加えている。「今もこのたたかいは継続中です。終わりはないかもしれません。真の意味の終わりは、妻のような異常な医療過誤による死がなくなった時です」と心境をつづっている。
 著書は全国の都道府県庁所在地などの図書館に寄贈予定。一部書店のほか、インターネット通販大手「アマゾン」などで電子書籍として販売する。問い合わせは知玄舎(電話048・662・5469)。【田中裕之】












「優れた人間性こそ日本の宝」

2015-03-29 19:48:08 | 医療と介護

【稲盛和夫】インタビュー

日経ビジネス 戦後70年 特別企画「遺言・日本の未来へ」


日経ビジネスONLINE 2015年3月26日(木)

 戦後70年となる今年、日経ビジネスオンラインでは特別企画として、戦後のリーダーたちが未来に託す「遺言」を連載していきます。この連載は、日経ビジネス本誌の特集「遺言 日本の未来へ」(2014年12月29日号)の連動企画です。
 第22回は、京セラ名誉会長の稲盛和夫氏。日本を代表する名経営者の1人として、戦後の日本経済を率いてきた稲盛氏。この数年は経営破綻した日本航空の再建でも、その経営手腕が大きな注目を集めた。経営者の勉強会「盛和塾」の活動を通して、多くの中小企業経営者にエールを送る一方で、市民を対象にした講演会も重ね、自身の哲学を語ってきた。その稲盛氏が、改めて日本人に託すメッセージとは何か
経営と美徳を広める導師
稲盛和夫(いなもり・かずお) 1959年に京都セラミック(現京セラ)を設立し、84年には第二電電企画(現KDDI)を設立する。自身が紡ぎ出した独自の経営管理手法「アメーバ経営」は、国内外で高い評価を得ている。2010年には、経営破綻した日本航空の再建を任され、見事な復活を果たした。97年から京セラの名誉会長、2012年からは日本航空でも名誉会長に。現在は若手経営者の勉強会「盛和塾」などの活動に力を注いでいる。1932年1月生まれ。(撮影:柴田 謙司)

 終戦の時のことは、よく覚えています。
 玉音放送があると町内会で聞いて、私は家族そろって、家でラジオの前にいました。ところが、あの時の玉音放送はザーザーザーと雑音がありまして、天皇の声も抑揚のある非常に甲高い声なもんですから、正直に言いまして、中学2年生でしたけれども、何をおっしゃっているのかよく分かりませんでした。
 ただ、みんなで聴いていましたので、「戦争に負けたんだ」「天皇が負けたと言っておられる」と。「ああ、そうかな」と思いました。天皇の声というのは、もともと日本人は誰も聞いたことがなかったわけですからね。甲高い声だなと思いました。
 「戦争に負けたんだ」と大人たちがみんな言っていましたので、「負けたんだな」と。それまでは軍国少年をやっていましたので。
 鹿児島は町全体が焦土と化して、焼け野原になっていきました。連日というぐらいに、米国の艦載機が来て空襲をやって、もう焼き尽くすものはそうなかったのに、それでも郊外の家を機銃掃射でダーーーッとやっていくわけです。
 その頃の中学は全部空襲で焼けてしまって、校舎の残った土台のところに焼けぼっくいを立てて、黒板を掛けて青空天井で授業を受けていました。
 学校で勉強をしていても、その上に飛んでくる。ちょうど学校の横に城山という山があったんですが、そこの陰から超低空で下りてきて、子供が野外で勉強をしているところへ機銃掃射でダダダダーッと。パイロットの表情が下からでもよく見えるくらいの距離でした。
 そういうのが連日だったんです。それが終戦でなくなった。ほっとしました。けれども「勝つまでは」という合言葉で鼓舞されておりましたので、負けたことは非常に悔しかったですね。

■みんなが必死で知恵を絞った
戦後、すぐに米軍が上陸してくるというので、家族で疎開しました。父親の田舎が鹿児島市内から4里(約16km)くらいのところにあって、そこに行ったことを覚えています。
 米軍が上陸してくるのでとことん戦おうと子供心に思って、竹やりやら弓やらを自分で作って準備して、少しでも抵抗しようと思っていました。
 その時、の長老が飼っていた牛を1匹殺したんです。どうせ米軍が来れば、牛も取られて、全部食べられてしまう。だったら今のうちに食べようということでした。食料難で、お肉なんかめったに食べられなかった時に、ものすごく大きい肉の塊をいただいて、おいしかったことを覚えています。
 敗戦は悔しかったですね。教育も戦時色一色で、私は勝ち気なもんですから、中学1年生の時には陸軍幼年学校に行きたいと思っていました。
 幼年学校に行って、その後陸軍士官学校に行って、航空士官学校に入って、ゼロ戦に乗りたいと思う軍国少年だったんです。だから負けたのは非常に悔しい思いでした。
 敗戦直後はもう、日本が空襲で灰になってしまって、もちろん都市は疲弊し、農村地帯も大変疲弊していました。そこへ海外から復員軍人が引き揚げてくるわけです。ただでさえ食糧不足で非常に貧しかったところへ、大量の民間人や軍人さんが海外から引き揚げてくる。もともと貧しいのに、さらに貧しさが増して、大変な時代でした。
 誰も庇護してくれる人はいませんし、無政府状態みたいなもので頼れるものは何もない。みんなが自分の力で生きていく以外には、方法はなかったんです。何もない中で、個人がそれぞれ必死で生きていた。
 自然発生的に闇市ができ、農家はイモでも野菜でも持っていって、道端でみそ汁を作って売る。みんながそういう工夫をしていました。何の保護政策もない中で、自分の持てる知恵を使って必死で生きていたわけです。それが、戦後しばらくの状態でした。本当に大変な時代で、国民みんながそれぞれ工夫をして生きていた。
 私よりも幼い小学生の高学年や低学年でも、戦争で両親を亡くして孤児になった子供たちがたくさんおりました。「戦災孤児」と言いましたけれど、そういう子供たちが闇市でたむろして、かっぱらいをしたり、悪さをしたりして生き延びていく。
 私より3つ、4つ小さい子たちの姿を見て、私は両親もそろっていましたし、7人の兄弟も皆元気でしたので、そういう子たちを本当にかわいそうだなと思っていました。
 みんなが無一文になってしまったわけです。誰も助けてくれず、自分で自分を助ける以外にはなかった。必死で生きていこうとしたんです。その必死さが、いろいろな知恵も生んでいったわけです。
 よく火事場の馬鹿力と言いますが、生きるか死ぬかという瀬戸際になれば、誰に言われるまでもなく、人間の生命力の根源から出てくる力があります。そういうもので、必死に努力をし始めたことが、戦後の発展の原動力になったのでしょう。「燃える闘魂」だとかいうのは寝言みたいなもので、戦後は本当に生きるか死ぬかだったわけです。そして、それがないと生きていけなかった。
 先に触れた戦災孤児の子供たちも、闇市でかっぱらいをして、本当に粗末なものを食べて、ぼろぼろになって生きていました。そういう最低限の人間の生きる力といいますか、そういうものが原動力だったんです。


■アメリカへの羨望が戦後のイノベーションを生み出した
 戦後は子供たちが、アメリカの軍人に「ギブ・ミー・チューインガム」とたかっていました。チョコレートなんかをもらったり。かわいい子たちがわーっと群がるので、米軍の心優しい兵隊の中には、お菓子を持ってきて配ってくれたりする人もいました。
 チョコレートは当時の日本では高根の花で、食べたこともありませんでした。そういうものがふんだんに食べられるようになるわけです。
 同時に学校には米軍の食料がいっぱい放出されました。終戦当時、学校で牛缶の配給を受けたことを覚えています。駐留軍の将校が、牛肉の缶詰を学校に配給して、英語で訓示をするんです。「みんな栄養がたらんだろうから」と。
 ドラム缶を縦に切って、その底に水を入れて牛缶を並べ、焼けぼっくいで炊いて温める。牛缶を開けると、上の方には脂肪がいっぱいあって、真っ白いんですね。それが温まってくると溶けてくる。それを食べさせてもらって、何とおいしいものかと。
 これまで食べたこともないような素晴らしいものを食べている米国人に、誰もが衝撃を受けたはずです。物質的な彼我の差を目の当たりにして、軍備にもその差があったんだろうと思いました。負けるのは当たり前だったのかもしれませんね。
 大人も子供も、みんな米国に対する羨望を持っていた。それが戦後、米国の新しい技術を学ぼうという気持ちになったのではないでしょうか。日本全体が米国を追いかけるようになった。
 日本人の教育レベルは高かったので、技術的なイノベーションも含めて、実物を1回でも見れば、色々なヒントを得てすぐに作れるようになるんです。ですから、日本の技術屋がアメリカへ学びに行って、たちまち技術を吸収していった。それで画期的なイノベーションが日本でも起こっていったのでしょう。
■日本のイノベーションが停滞するのは当たり前
 私は京都でファインセラミックスの研究をやっていて、半導体用パッケージの開発に成功しました。ちょうどシリコンバレーで、アメリカの半導体産業が勃興し始めた頃に、私の半導体パッケージが非常に受けて、アメリカの半導体メーカーは、私の作るパッケージで半導体を作ろうということになったんです。
 当時、半導体の製造技術は米国が持っていましたが、それを実装する入れ物は京セラが作っていました。ただ、アメリカの国防総省は、「京セラに頼っていては、国防上大変な問題になる」と見ていました。もし京セラが供給しなくなったら大変なことになりますから。そして、米国のセラミックメーカーに「京セラに負けないようなものを作れ」と援助をしたんです。
 私は当時、シリコンバレーの半導体メーカーには、「木戸御免」で自由に出入りしていました。みなさんから大変歓迎されて技術的な設計なども全部やっていましたので。
 その当時、NECや東芝、日立などはみなさん半導体の時代が来るから半導体をやりたいと考えていました。そしてアメリカに行ってみると、京セラの作るパッケージが付いている。そこで幹部の方々は、私にアメリカの半導体業界の様子を聞かせてくれとよく訪ねて来られました。
 みなさん、新しい技術を吸収して、遅れている電子工業界をもっともっと強くしていきたいという意欲があったんです。中小企業の京セラのところまで頭を下げて来られるくらい熱心だったわけです。そして、たちまち半導体技術を自分のものにしていった。
 それからしばらくして、日本の半導体技術がアメリカを席巻することになり、日米半導体摩擦が起こる。あの当時のイノベーティブなものは、模倣に近いところから始まったけれど、その根底にあるのは、「燃える闘魂」とかじゃなしに、生きていくために内から沸き上がる欲望だったんでしょう。そういうものが、日本に次々とイノベーションをもたらした。
 生きるためのエネルギーが日本の戦後を作っていったわけです。
 その後、1980年代まで続いた高度成長期を経て、日本は確かに豊かになりました。けれど、豊かな家庭で育った青少年や学生は、みなさん豊かな生活をしてきたわけですから、何の苦労もなかったそういう人たちに、内から沸き上がる「何くそ」というような情熱が出てくるはずはありません。日本のイノベーションが停滞するのは当たり前だと思っています。
■「人間性の進化」支える京都賞
 数々のイノベーションを評価するために、私は1985年に「京都賞」を作りました。
 イノベーティブなことをやった人というのは、若い頃から好奇心の塊で、好奇心や探求心に駆られて研究に没頭する。ほかにもいろいろな遊びや楽しみがありますが、それに振り向きもしないで、好奇心や探求心の赴くままに研究に没頭して、ほかの人が成し得ないような新たな研究や開発を完成させる。
 本当ですと、人間はやはり楽をしたいし楽しみたい。色々な欲望があるはずです。それなのに、あらゆるものを犠牲にして、探求心や知的好奇心の導く方向へ打ち込んでいく。その結果がイノベーティブな研究成果となるわけですから、そういう人たちを顕彰しようと考えたのです。
 京都賞を作る時にはノーベル賞についても研究しました。スウェーデンまで行って、ノーベル財団とも打ち合わせをしたものです。京都賞の最初の授賞式には、ノーベル財団の人々やスウェーデンのシルヴィア王妃も来てくれて、大変素晴らしい授賞式になりました。
 参考にしたノーベル賞は基礎化学の分野を評価するものです。医学であったり物理であったり、分野は違いますが、全て理論的な分野における、画期的な研究開発をした人を顕彰しているわけです。
 私自身はもともと純粋理科ではなく、工学部の出身です。工学部は実情を伴ったものですから、単に理論を作ればいいというものではありません。ノーベル賞を調べてみると、それを評価する機能がないものですから、京都賞では工学的なエンジニアリング分野を加えようと考えました。それが京都賞の先端技術分野に当たります。
 その次に基礎科学の分野。これがノーベル賞に相当するカテゴリーですね。先端技術は、応用を含んだ技術と基礎技術という2つを作っています。
 ただ、技術的なことだけが進化発展していったのでは、近代文明は非常に危ういものになっていく可能性があります。人類の精神面の進歩や豊かな人間性がなければ、非常に危なっかしいわけです。つまり人間性という面でも進化を遂げる必要がある。
 そこで京都賞には第3部門を設けて、人間の精神的なものや哲学的なものを取り入れようと考えました。もう30年も続けております。
■言霊をもって人生哲学を説く
 京都賞と同じ頃から、経営者の勉強会である「盛和塾」の活動も始めました。
 日本の中小中堅企業の経営者は、たくさんの社員を雇用しております。中小中堅企業の経営がうまくいかなければ大きな問題です。日本経済の場合、中小中堅企業で働く社員が何といっても人口の大半を占めるわけです。
 つまり経営者に立派な経営をしてもらうことが日本にとって大変大事なんですね。そこで「盛和塾」を通して経営者の方々に、社員のためにもいい経営をしていただきたいと話してきました。
 盛和塾で経営者の方々に話をしているんですが、昨今は1回の勉強会に1000人くらいの経営者が集まって来られます。
 そのうちに塾生から、できればこういう話を一般市民にもしていただけませんかという要請が上がり、それを受けて、10年以上前から「市民フォーラム」を開催するようになりました。
 「市民フォーラム」で、今までに話を聞きに来られた方は10万人ぐらいになりました。この前も富山で開催しましたが、富山の市民会館に二千何百人の方がいらしてくれました。
 世知辛い世の中で幸せに生きるにはどういう心構えがあればいいのか。そういうことを話しています。どういう考え方で日常を生きていけば幸せになれるのか、と。私は経営者ですが、27歳で会社をつくってから55年間、ただの1回も赤字を出したことがありません。ただの1回も人員整理や解雇をしたこともありません。ずっと安定した経営を続けて、売上高は1兆5000億円ぐらいになりました。
 今から三十数年前につくった第二電電という通信会社(現KDDI)も素晴らしい経営を続けています。
 そういう80年余りの人生の中で、「人はみんな幸せに生きていけるんです。どういう思いで生きるかによって、人生は変わってきます。どなたでも、素晴らしい人生が実現できるんです」と話します。
 多くの方々が話を聞いて喜んでおられて、「大変勉強になった」「今後は稲盛さんが言われるような生き方をしていきたい」とおっしゃってくださります。
 私は1時間30分くらい、必死でしゃべるんですね。よく言霊と言いますが、本当に自分の意思を伝えようと思えば、言葉に魂が乗り移っていかなければなりません。講演の上手な方は、冗談を飛ばしたりして面白おかしく話をされます。けれど私はもう終始一貫、まじめに、相手の心に伝わっていくように話します。本当に精魂込めて話をして、言葉に魂を乗り移らせているんです。
 ただ、私ももう83歳ですから非常に疲れるんです。1時間ちょっとしゃべるとくたくたになる。
 それで、この前の富山の「市民フォーラム」でもうやめにしようと決めました。体力が持たないからやめようと。話しを聞かれた方も、ちょうど10万人ぐらいになり、多くの方々に大変喜んでいただきましたし。
 私の話を聞いて、生き方や人生で迷っていらっしゃる方々はなるほどなと思うんでしょう。
 講演では私が『生き方』(サンマーク出版)で書いたようなことを話しています。
 「幸せになるかならないかというのはあなたの心次第です。心のままに人生は存在するんです。あなたの心に描いた思いの集積が、あなたの人格をつくり、現在のあなたの境遇をつくっている」
 「今、自分の境遇が非常に悪いと悲観する方もおられると思うけれど、それはあなたが人生の中で思い描いたものの集積であって、あなたの人柄や今まで思い描いてきた思いの集積があなたの人格をつくっているんです」

 こういうことを一貫して話しています。お話を聞いているみなさんの情熱は、10年前も今も変わりません。1時間半くらい話しますが、その間、2000人以上の聴衆が私語一つなしで、しーんとしたままで聞いてくれます。席を立つ人も1人もいません。普通の講演会とはちょっと違いますよね。
■優れた人間性や美徳こそ日本の宝
 この先、日本人が守るべきものは何か。そう問われることもあります。これは非常に難しい質問ですね。
 日本は今後、人口が減少して少子高齢化が進んでいくと言われています。これはもうしようがありません。その中で、日本が頼れるのは技術的な開発や経済発展だとか、色々なことも言われています。けれど、これは非常に難しいことだと思うんです。
 日本がこの先も残さないとならんものは、やっぱり日本人の人間的な美徳です。それこそ、世界に誇れるものではないかと思います。日本人の親切心やおもてなしの心、優しさ、礼儀正しさ……。
 昨年にはアメリカで警察官の少年射殺事件がありました。ああいう事件が勃発すると、たちまち暴動が起こります。警察官が不起訴になったことがけしからんと、市民が反対運動するまではいいんです。けれど、それがしばしば暴徒になり、略奪が伴う。
 東日本大震災の時も含めて、日本で略奪なんていうものはまずありませんよ。おそらく世界では、何かきかっけがあると略奪なんかが起こって、便乗犯が現れます。日本ではそれがありえないんです。逆に困っている人を助けてあげるという美しい心がある。数々の外国人は、この日本人の美徳が素晴らしいと評価しているわけです。
 この先、日本が経済力や軍事力で世界に誇れなくなっても、日本人であることを誇れるような国にしていけばいい。
 今でも、世界の人たちが日本人に対して好意を持ってくれています。「日本人は素晴らしい」と。そういう人間としての立派さを残していくべきだと思います。
 経済力で世界何番目というふうに下がっても、そんなのは全然困らない。日本人の素晴らしい人間性が、世界から尊敬される状態であり続けることこそ日本の宝ではないかと思うんです。
 こういった美しい美徳を育んできたのは、最初の社会の単位である家庭だろうと思います。
 昔は大家族でしたから、おじいちゃんやおばあちゃん、両親を含めて、やっていいこととやらねばならんことを教えてきました。ただ、今は核家族になっていますから、どうしても両親がそういうことを教えないとならない。
 けれども、それも非常に希薄になってきています。両親自身にそういう美徳が薄らいできているんでしょうか。けれど、そういうものを教えていかなければならない。
 昨今、改めて道徳教育みたいなことを学校で教えようという動きもあります。それも1つの方法ではないでしょうか。かつては、素晴らしい人間性を培うために、宗教も大きな力を持っていました。
 キリスト教は日曜学校をやっていますし、仏教でもお寺さんに行ってお坊さんの話を聞く機会がある。ただ、今はそういうものの力も弱っています。ですから人間としてどういう考え方をしなきゃならんかということを両親が教えていかなくてはならない。ですからまずは、親御さんの教育といいますか、それが大事じゃないかと思いますね(笑)。













子ども・子育て支援新制度とは

2015-03-29 08:07:14 | 社会問題・生活
『子ども・子育て支援新制度』とは、平成24年8月に成立した「子ども・子育て支援法」、「認定こども園法の一部改正」、「子ども・子育て支援法及び認定こども園法の一部改正法の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律」の子ども・子育て関連3法に基づく制度のことをいいます。
http://www8.cao.go.jp/shoushi/shinseido/outline/pdf/setsumei.pdf子ども・子育て関連3法の主なポイント
1.認定こども園、幼稚園、保育所を通じた共通の給付(「施設型給付」)及び
小規模保育等への給付(「地域型保育給付」)の創設
地域型保育給付は、都市部における待機児童解消とともに、子どもの数が減少傾向にある地域における保育機能の確保に対応します。
2.認定こども園制度の改善(幼保連携型認定こども園の改善等)
幼保連携型認定こども園について、認可・指導監督を一本化し、学校及び児童福祉施設としての法的に位置づけます。
認定こども園の財政措置を「施設型給付」に一本化します。
3.地域の実情に応じた子ども・子育て支援
(利用者支援、地域子育て支援拠点、放課後児童クラブなどの「地域子ども・子育て支援事業」)の充実
教育・保育施設を利用する子どもの家庭だけでなく、在宅の子育て家庭を含むすべての家庭及び子どもを対象とする事業として、市町村が地域の実情に応じて実施していきます。
4.基礎自治体(市町村)が実施主体
市町村は地域のニーズに基づき計画を策定、給付・事業を実施します。
国・都道府県は実施主体の市町村を重層的に支えます。
5.社会全体による費用負担
消費税率の引き上げによる、国及び地方の恒久財源の確保を前提としています。
(幼児教育・保育・子育て支援の質・量の拡充を図るためには、消費税率の引き上げにより確保する0.7兆円程度を含めて1兆円超程度の追加財源が必要です)
6.政府の推進体制
制度ごとにバラバラな政府の推進体制を整備(内閣府に子ども・子育て本部を設置)します。
7.子ども・子育て会議の設置
有識者、地方公共団体、事業主代表・労働者代表、子育て当事者、子育て支援当事者等(子ども・子育て支援に関する事業に従事する者)が、子育て支援の政策プロセスなどに参画・関与することができる仕組みとして、国に子ども・子育て会議を設置しました。
市町村等の合議制機関(地方版子ども・子育て会議)の設置努力義務とします。
8.施行時期
新制度については、平成27年4月に本格施行します。

地域福祉の担い手 人材育成進め、全国的配置を

2015-03-29 07:42:11 | 医療と介護
公明新聞:2015年3月28日(土)付

地域で社会的に孤立し、人知れず生活に困っている人の悩みに耳を傾け、住民や行政機関などと協力しながら支援するコミュニティー・ソーシャル・ワーカー(CSW)。地域福祉のセーフティーネット(安全網)づくりを担うCSWが今、地域の防災・減災対策においても欠かせない存在として、注目を集めている。

例えば、14日から18日まで仙台市で開かれていた国連防災世界会議に関連して、同市が主催したパブリック・フォーラム(一般公開事業)では、障がい者を含む、すべての被災者に配慮した防災対策のあり方について議論が行われた。

その中で、同市は2013年度から、災害により住宅を失い、自力での住宅再建が難しい人のための賃貸住宅「復興公営住宅」建設地域に、CSWを重点的に配置し、災害時に最も弱い立場に置かれる障がい者や高齢者などが孤立しないよう、CSWが重要な役割を果たしていると紹介した。

国連児童基金(ユニセフ)も、同会議終了後、各国に向けて、自治体などと連携しながら被災した子どもたちを助けるソーシャル・ワーカーの活動を支援するよう訴える声明を出している。

被災者支援の観点からも、CSWの役割に大きな期待が寄せられており、全国的な配置が求められているといえよう。公明党は統一地方選の重点政策の中で、すべての福祉事務所設置自治体で、中学校区に1人をめどにCSWを配置するよう提案している。

CSWはもともと、大阪府発の地域福祉を推進する専門職である。府が03年に策定した「地域福祉支援計画」に基づき、04年度から府の補助で府内の全市町村に配置されるようになった。秋田県、東京都、島根県などでもCSWを配置しているが、配置自治体は全国で1割程度と少ない。

CSWを務めるのはほとんどの場合、社会福祉士だが、厚労省が13年3月にまとめたCSW調査研究事業報告書によると、自治体がCSWを配置したくても、人材の確保が難しいという。大阪府のように社会福祉協議会などと協力し、CSWの養成研修を行うなど、自治体は人材育成を積極的に進めてほしい。



ブラック企業から若者守る

2015-03-29 06:16:50 | 政治・社会・経済問題
公明新聞:2015年3月28日(土)付 質問する長沢(右)、杉の両氏=27日 参院予算委党青年委訴え、初の法制化へfont color="green">立入調査実現で厚労相「まさに公明の提言実行」
参院予算委で長沢、杉氏
労基法改正案
裁量労働制の拡大 単純な営業は対象外
高度プロ制度 年収など法律で限定
参院予算委員会は27日、安倍晋三首相らが出席して経済・財政・国際問題に関する集中審議を行い、公明党から長沢広明参院国会対策委員長と杉久武氏が質問に立った。

長沢氏は、政府が今国会での提出を予定している労働基準法改正案に関して、「働き過ぎの防止へどのように取り組むのか」とただした。塩崎恭久厚生労働相は、有給休暇の取得義務化など「実効性ある対策を検討している」と答えた。

続いて長沢氏は、労働者に働く時間などを委ねた上で、一定時間働いたとみなした額の賃金を支払う「裁量労働制」に言及。改正案で「課題解決型提案営業」を対象に加えることから、「ほとんど全ての営業職が対象になるとの論調がある」と指摘した。塩崎厚労相は「法人を相手に、全社的に重要な位置付けの商品やサービスを取り扱う業務」などに対象を限ると説明。個人が相手の業務や、得意先を定期的に訪問するルートセールスなどの単純な業務は認めないと述べた。

さらに長沢氏は、高度専門職を労働時間規制の適用外とする「高度プロフェッショナル制度」の創設に触れ、対象者や制度の意義を尋ねた。塩崎厚労相は、法案に「高度の専門的知識などを要する」「労働時間と成果との関係性が強くない」「年収が平均の3倍超」などの要件を定めるとして「法改正しない限り対象拡大はできない」と答弁。安倍首相は、同制度が「アイデアが湧いたときに集中して働くなど、創造性を存分に発揮できる環境をつくるもの」であるとの考えを示した。

一方、杉氏は、公明党青年委員会の提言を反映し政府が今国会に提出した、ブラック企業被害を防ぐための若者の雇用促進法案(青少年雇用促進法案)【表参照】 について質問した。

杉氏は「高齢者や障がい者、女性を対象とした雇用対策法はあったが、若者に光を当てた法律はなかった」として、同法案の意義を強調。安倍首相は、同法案の成立と併せてきめ細かな就労支援を実施し、「若者が安心してチャレンジできる環境づくりに全力で取り組みたい」と答えた。

また杉氏は、企業と求職者のミスマッチ解消へ、同法案で職場情報の提供を義務付けたことを評価した上で、「さらに積極的な企業側の(情報)開示を促す仕組みが必要」と主張した。

このほか杉氏は、全国28万人超への調査を基に党青年委が2013年6月、安倍首相にブラック企業対策を強く求めた結果、同年9月に若者の使い捨てが疑われる事業所への立ち入り調査が実現した点に言及。「ブラック企業対策を前進させ、国を動かしてきたのは公明党だ」と訴えた。

塩崎厚労相は「まさに公明党(青年委)の提言が実行に移された」と述べた。