2013年1 月24日 (木曜日)
創作欄
みどりは戦災孤児であった。
東京府 東京市深川区猿江町に祖父母、母、二人の兄、妹と8人住んでいた。
父は酒店を経営していたが、昭和19年8月に赤紙が来て軍隊に徴兵された。
昭和20年3月9日は午後からすごい北風が吹き荒れ肌寒い日であった。
夜10時半ごろ警戒警報が鳴ったので、まず、祖父が飛び起きてラジオをつけた。
敵機の大編隊が房総沖を来襲中とアナウンサーの甲高い声が聞こえてきた。
家族全員が身支度を整えて防空濠に入る。
だが、夜中の零時前後であっただろうか、消防団の人が「焼夷弾だ、みんな焼け死ぬぞ!防空濠から出ろ」と緊急事態を告げ大声で叫んでいる。
「焼夷弾だと!アメ公の奴らは民家にも落とすのか!」祖父は目を剥いて怒りをあらわにした。
その時、母は足が悪い祖母の手をとって立ち上がった。
全員が確りと防空頭巾をかぶった。
母親はいったん家へ戻り桐の箪笥から色々なものを取り出していた。
狼狽えていた祖母が、みどりの手を握り締めて立ち上がった。
みどりは妹勝子の手を確りと握り締めた。
防空濠から出ると、西の方角の視野180度の方角で北風にあおられ炎が夜空を真っ赤に染ていた。
炎は渦を巻き、メラメラと揺れ動きながらこちらへ迫ってくるところであった。
昭和15年2月生まれのみどりは5歳になっていた。
逃げながら「あの炎は水天宮辺か」と祖父が振り返った。
みどりの家は酒屋であり、表通りに面していたが、路地裏からたくさんの人が湧き出すとうに出てきた。
「近所にこんなにも人が住んでいたのかい?!」足を引きずる祖母は息せき切って驚きの声をあげた。
落とされた焼夷弾が次々と家々を焼き尽くしていく。
まさに阿鼻叫喚の地獄絵そのものであった。
東京で1日夜で10万人もの東京府民の市民で死んだのだ。
ドラム缶でも爆発したようで、いたるところで爆発音もしていた。
家並みに次々と火がつき燃え上がる中をさまよい逃げ惑った。
行く手を阻むように刻々火炎地獄が迫り来て人々を飲み込んでいく。
どちらの方角へ迎えば命が助かるのか?
人は逃げ惑い人の流れは混乱し、錯綜するばかりだった。
母と祖母が遅れていく。
重い柳行李を背負う祖父も遅れて行く。
隅田川の方角を目指した兄二人はどうなったのだろうか。
妹勝子の手を確りと握っていたのに、大人の人たちに度々体が激しくぶつかり、倒れたところを踏みつけたれた。
そしてみどりは家族たちとはぐれて一人取り残されてしまった。
気づけば猿江恩賜公園の方へ向かって歩いていた。
北風に火の勢いは増すばかりで逃げ惑う人たちは翻弄されるばかりだった。
幾台もの大八車に火の粉が飛び火して燃え上がった。
進むか退くか、人々はためらっていた。
「焼け死ぬぞ、川へ逃げろ」と叫ぶ人もいた。
みどりは小名木川橋の方角へ向かっていた。
北風が勢いを増し、さらに火災旋風で空気が対流し、立って歩くこともできなくなる。
みどりは這うようにして橋のたもとにあった交番にたどり着いた。
周りは家屋の強制取り壊しで原っぱになっていて、コンクリートの交番だけがほつりと残されている状態だった。
空襲の激化に伴い軍需工場の付近の家屋は、内務省の指令により強制疎開させられたが、それが住宅地にも及んでいたのだ。
防火帯を作って延焼防止のために行われるものだが戦時下では、長年住み慣れた家も「指令」と言う名で取り壊されなければならかった。
みどりが川を見ると、5人乗り、10人乗りぐらいの小舟が後から後から燃えながら漂流しいた。
それは不気味な光景であった。
炎に船が包まれているので、「乗った人たちみんな死んでいるに違いない」とみどりは思った。
交番の小さい窓から外を見ると、錦糸町、深川八幡、木場の方角の家々が火災旋風に勢いを増して燃えていた。
交番で朝を迎えみどりは実家のある猿江町へ戻ったが家族の誰も戻っていなかった。
それから母の実家がある住吉町まで家族を探しに行ったが、そこも焼き尽くされており、誰もみどり待っていなかった。
近所の警察署も燃えていた。
隣の家に住む米屋の銀次じいさんが、近所の人に向かって「酷いもんだ。死体をたくさん見たが、罪人も哀れなもんだな!警察署の拘置所にいた囚人たちが鉄格子にしがみついて死んでいた」とまゆをしそめた。
みどりがが「わっと」と声を発して号泣すると銀次じいさんがみどりを抱きしめてくれた。
奇跡的に銀じいさんの米屋は類焼を免れていた。
深川不動尊で毎朝祈っていた銀次じいさんは、自分の首からお守り外すとそれをみどりの首にかけた。
「これは、不動尊のお願いお守りだよ。家族は直に見つかるさ、心配はいらない」と慰めた。
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<参考>
深川猿江は、東京都江東区の町名である。
1923年(大正12年)9月1日の関東大震災では地区のほとんどが甚大な被害を受けたほか、1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲でも工場地帯であったため、本所区と並んで深川区はアメリカ軍の標的の中心となっており、このような下町特有の町並みがいずれの場合にも膨大な犠牲者を出す要因の一つになったと言われている。
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頭上は低空で300機の爆撃機が飛び交う
4トン積みトラック500台分の焼夷弾が雨霰に降ってきた東京の下町
2時間で広島原爆と同じ10万人が業火のなかで命を奪われた炎の夜を…。
300機以上で2千トン(4トン積みトラック500台相当)、10万発以上の焼夷弾(油脂が入った爆弾)を投下した。
南方の基地からレーダーに写らない海上すれすれの低空で侵入し、大部分が木造住宅であった人口密集地に落としたのだ。
正確な数字は不明であるが、100万を超える人々が逃げまどい、10万人を超える死者と5万人以上の負傷者、27万戸の家が焼きつくされた。
死者のうち朝鮮人は少なくとも1万人を軽く超すとされている。
創作欄
みどりは戦災孤児であった。
東京府 東京市深川区猿江町に祖父母、母、二人の兄、妹と8人住んでいた。
父は酒店を経営していたが、昭和19年8月に赤紙が来て軍隊に徴兵された。
昭和20年3月9日は午後からすごい北風が吹き荒れ肌寒い日であった。
夜10時半ごろ警戒警報が鳴ったので、まず、祖父が飛び起きてラジオをつけた。
敵機の大編隊が房総沖を来襲中とアナウンサーの甲高い声が聞こえてきた。
家族全員が身支度を整えて防空濠に入る。
だが、夜中の零時前後であっただろうか、消防団の人が「焼夷弾だ、みんな焼け死ぬぞ!防空濠から出ろ」と緊急事態を告げ大声で叫んでいる。
「焼夷弾だと!アメ公の奴らは民家にも落とすのか!」祖父は目を剥いて怒りをあらわにした。
その時、母は足が悪い祖母の手をとって立ち上がった。
全員が確りと防空頭巾をかぶった。
母親はいったん家へ戻り桐の箪笥から色々なものを取り出していた。
狼狽えていた祖母が、みどりの手を握り締めて立ち上がった。
みどりは妹勝子の手を確りと握り締めた。
防空濠から出ると、西の方角の視野180度の方角で北風にあおられ炎が夜空を真っ赤に染ていた。
炎は渦を巻き、メラメラと揺れ動きながらこちらへ迫ってくるところであった。
昭和15年2月生まれのみどりは5歳になっていた。
逃げながら「あの炎は水天宮辺か」と祖父が振り返った。
みどりの家は酒屋であり、表通りに面していたが、路地裏からたくさんの人が湧き出すとうに出てきた。
「近所にこんなにも人が住んでいたのかい?!」足を引きずる祖母は息せき切って驚きの声をあげた。
落とされた焼夷弾が次々と家々を焼き尽くしていく。
まさに阿鼻叫喚の地獄絵そのものであった。
東京で1日夜で10万人もの東京府民の市民で死んだのだ。
ドラム缶でも爆発したようで、いたるところで爆発音もしていた。
家並みに次々と火がつき燃え上がる中をさまよい逃げ惑った。
行く手を阻むように刻々火炎地獄が迫り来て人々を飲み込んでいく。
どちらの方角へ迎えば命が助かるのか?
人は逃げ惑い人の流れは混乱し、錯綜するばかりだった。
母と祖母が遅れていく。
重い柳行李を背負う祖父も遅れて行く。
隅田川の方角を目指した兄二人はどうなったのだろうか。
妹勝子の手を確りと握っていたのに、大人の人たちに度々体が激しくぶつかり、倒れたところを踏みつけたれた。
そしてみどりは家族たちとはぐれて一人取り残されてしまった。
気づけば猿江恩賜公園の方へ向かって歩いていた。
北風に火の勢いは増すばかりで逃げ惑う人たちは翻弄されるばかりだった。
幾台もの大八車に火の粉が飛び火して燃え上がった。
進むか退くか、人々はためらっていた。
「焼け死ぬぞ、川へ逃げろ」と叫ぶ人もいた。
みどりは小名木川橋の方角へ向かっていた。
北風が勢いを増し、さらに火災旋風で空気が対流し、立って歩くこともできなくなる。
みどりは這うようにして橋のたもとにあった交番にたどり着いた。
周りは家屋の強制取り壊しで原っぱになっていて、コンクリートの交番だけがほつりと残されている状態だった。
空襲の激化に伴い軍需工場の付近の家屋は、内務省の指令により強制疎開させられたが、それが住宅地にも及んでいたのだ。
防火帯を作って延焼防止のために行われるものだが戦時下では、長年住み慣れた家も「指令」と言う名で取り壊されなければならかった。
みどりが川を見ると、5人乗り、10人乗りぐらいの小舟が後から後から燃えながら漂流しいた。
それは不気味な光景であった。
炎に船が包まれているので、「乗った人たちみんな死んでいるに違いない」とみどりは思った。
交番の小さい窓から外を見ると、錦糸町、深川八幡、木場の方角の家々が火災旋風に勢いを増して燃えていた。
交番で朝を迎えみどりは実家のある猿江町へ戻ったが家族の誰も戻っていなかった。
それから母の実家がある住吉町まで家族を探しに行ったが、そこも焼き尽くされており、誰もみどり待っていなかった。
近所の警察署も燃えていた。
隣の家に住む米屋の銀次じいさんが、近所の人に向かって「酷いもんだ。死体をたくさん見たが、罪人も哀れなもんだな!警察署の拘置所にいた囚人たちが鉄格子にしがみついて死んでいた」とまゆをしそめた。
みどりがが「わっと」と声を発して号泣すると銀次じいさんがみどりを抱きしめてくれた。
奇跡的に銀じいさんの米屋は類焼を免れていた。
深川不動尊で毎朝祈っていた銀次じいさんは、自分の首からお守り外すとそれをみどりの首にかけた。
「これは、不動尊のお願いお守りだよ。家族は直に見つかるさ、心配はいらない」と慰めた。
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<参考>
深川猿江は、東京都江東区の町名である。
1923年(大正12年)9月1日の関東大震災では地区のほとんどが甚大な被害を受けたほか、1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲でも工場地帯であったため、本所区と並んで深川区はアメリカ軍の標的の中心となっており、このような下町特有の町並みがいずれの場合にも膨大な犠牲者を出す要因の一つになったと言われている。
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頭上は低空で300機の爆撃機が飛び交う
4トン積みトラック500台分の焼夷弾が雨霰に降ってきた東京の下町
2時間で広島原爆と同じ10万人が業火のなかで命を奪われた炎の夜を…。
300機以上で2千トン(4トン積みトラック500台相当)、10万発以上の焼夷弾(油脂が入った爆弾)を投下した。
南方の基地からレーダーに写らない海上すれすれの低空で侵入し、大部分が木造住宅であった人口密集地に落としたのだ。
正確な数字は不明であるが、100万を超える人々が逃げまどい、10万人を超える死者と5万人以上の負傷者、27万戸の家が焼きつくされた。
死者のうち朝鮮人は少なくとも1万人を軽く超すとされている。