三つ子の魂 《 エピローグ 》

2007-06-16 21:52:31 | 学校

面影すら偲べぬ幼時期に母を失った私も、愈々小学校の最終局面を迎える、多感な少年になっていました。
五年と六学年は、全校生徒が憧れた「高橋 学」先生から訓導を頂くことが出来本当に幸せでした。
今も尚、私の心の中に生きておられる先生です。

毎朝、ラッパ吹奏の中、国旗掲揚台に登りその掲揚役を務めたのも、奉安殿に祀ってある、天皇、皇后両陛下のご真影を、緊急時に奉戴、避難等の大役を命じられたのも、総て高橋先生と、校長先生の協議によるものでした。

先生は急激な体調変化とか、緊急用件が発生し授業不能な時となると「○○頼む。皆も○○に協力してくれ」と、私に童師役を命じ教室から飛び出して行きました。後は私が先生役、皆とワイワイ「学校ゴッコ」です。学級崩壊のハシリは私たちのクラスでは???

秋が来ました。来春の中学受験が目前、先生にとっては内申書などの作成準備があります。旧制中学で最難関校は、沼津中学校です。
私も秘かに狙っていました。先生も大丈夫と励まして下さっていました。

然し、親の意向はNo.でした。先生も驚かれ、心配して下さいました。
「お母さんに、お願いに行く」と、先生が同道してくれました。
先生が、畳に額を擦り付けるようにして「沼中へ」と、何度も何度もお願いして下さった姿は、絶対に忘れられるものではありません。
「沼中だけではない。どこにも進学はさせない」との義母の宣告に、先生と二人無言で学校に戻りました。先生は涙を流した後、既に書き上げていた私の「内申書」を見せてくれました。
奈落の底へ突き落とされる」とはこの時の私のことではないでしょうか。
周囲の山々は文字どうりの錦秋、西陣織を見るように鮮やかでしたが、私の心はグレーでした。一切の色彩は消え失せ、以後は無為の日々となりました。

父と二人の時、私は懇願しました。父の論理は「生みの親より、育ての親」と頑固なものでした。そのような言葉は、私が成人し、一人前になった時に言って欲しい。私の心はそう叫んでいました。

色々ありました。12歳のいなかっぺ少年は、気がかりな弟を残し、一人東京の中学へ行くことになりました。波乱万丈の苦しい一時期でした。

4時から、ニチレイPGMレディスゴルフの放送を見ました。
昨年の好調を彷彿とさせる「大山 志保」が、混戦から抜け出て単独トップ、久しぶりに優勝のチャンスと思ったが、18番でWボギー、結局3位に転落。
然し、人生は七転び八起きです。まだ明日がある、最終日に頑張ればよいのだ。「明日がある。大山プロ、頑張れ」と、声援を送りたい。結果を握れば、波乱万丈も楽しい思い出になりますよと。

17
番で単独トップにとび出たのに。 
 

  
 諸見里18番で逆転。単独首位。          大山18番で痛恨のダボ。1位から3位。

 








 


 

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