人は自分の小さな物語を生きている。
その小さな物語のなかでは、銘々《めいめい》がその物語の主人公だ。
ささやかな勤め人の物語、忙しく切り盛りする商店主の物語、世界を放浪する旅人の物語、子育てに忙しい主婦の物語、サッカーに打ちこむ少年の物語、ひっそり暮す老人の物語etc――人の数だけ小さな物語がある。
だけど、世界は小さな物語それだけで完結しているわけではない。個人の生活が他者との関係のなかで営まれるように、小さな物語は中くらいの物語に包摂されている。
とりあえず、小さな物語を個々人、中くらいの物語を社会や時代と考えてみればわかりやすいかもしれない。
人は誰でも、その時代のその社会の枠のなかで生きている。
太平洋戦争の時代の大学生は、いずれ学徒動員で戦線へ駆り出され死ぬものと覚悟するしかなかった。戦時体制のなかでは自由な人生など求めようもなかった。
二十一世紀の今を生きるワーキングプアは、新自由主義による過酷な搾取に遭い、食うや食わずの暮らしを強いられている。ごく当たり前の真面目に働いてまともな暮らしを手に入れようとしても、社会の仕組みがそれを許さない。
個々人の暮らしは、その時代のその社会の特性に制約され、その枠に逆らったり、そこから飛び出すことは容易ではない。人はその時代のその社会の物語のなかで自分自身の小さな物語を営んでいる。
個々人の抱えた課題は――つまり、小さな物語の課題は、その時代と社会の問題と密接に結びついているため、そこへ目を向けない限り、往々にしてなぜ自分が悩んでいるのかわからなかったり、解決の糸口を見つけるのがむずかしかったりする。自分の内部だけ――つまり、小さな物語のなかだけに目を向けていても、どこへもたどり着くことはできない。堂々巡りを繰り返すだけだ。あるいは、終わりのない絶望と諦めと顛倒夢想しかそこにないといえばいいだろうか。
さて、その中くらいの物語は、さらに大きな物語に包摂されている。
もはやこうなれば宗教の世界になる。
何十万年先の将来、阿弥陀仏がすべての衆生を救うだとか、ハルマゲドンが起きて千年王国が出現するといった大きなストーリーだ。陰(悪い時)と陽(よい時)を繰り返し、現世《うつせみ》が未来永劫続くというのも、大きなストーリーの一種になる。
宇宙の膨張がいつかとまり、逆に宇宙がどんどん収縮してやがてビッグバンが始まる前の虚数宇宙に還るというのも「科学」という名の宗教かもしれない。
もちろん、どの大きな物語が「正解」なのかは、神のみぞ知るといったところだけど。
(2012年3月25日発表)
この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第165話として投稿しました。 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/