メル友として長いお付き合いをさせていただいている、千葉県在住のAさんの愛犬ハナコちゃんが9日、あの世へ旅立った。人間と同じように、ペット霊園で葬式をした後、祭壇を作りお骨とともに寝食を共にしてこられたそうで、いかに可愛がっておられたかが伺える。
人間の年にすればもう百歳に近いそうだから大往生であったろう。赤ん坊の時から19年間、家族の一員として愛し、生活を共にしてこられたが、近年は、高齢のため弱ったハナコちゃんの介護にご自分の時間の大半を費やしておられたようだ。こういうご主人様にめぐり合ったハナコちゃんは幸せであったろうと、独り身の私はうらやましくさえある。
ペットといえば、私も今から40年数年前に子猫をしばらく飼ったことがあるが、1ヶ月もしないうちに突然いなくなって二度と戻ってこなかった。つまり子猫に愛想をつかされたのである。畜生といっても飼い主の愛情の度合いは分かるのであろう、それ以来、生半可な気持ちでペットを飼うものではないと肝に銘じている。
ハナコちゃんの訃報を聞いた同じ頃、わが購読紙に、作家・佐藤洋二郎氏が「哀しい神様」と題して、老犬への思いをユーモアを交えて書いておられた。(原文のまま)
『今年の夏は暑かったので、13歳になる雌の老犬を玄関に入れてやると、それからまったく外に出なくなった。よほどこたえたのか、秋になっても庭先に戻ろうとはしなかった。
その犬を連れて散歩をするが、ときどき彼女のおかげで、健康でいられるのではと、感謝したくなる。あと数年で別れるのかと思うと、淋しいものがある。
先日も妻の乗用車の荷台に乗せようとしたが、ためらっていた。どうしたと促すと、以前のように飛び乗ろうとしたが、跳躍がうまくいかず、あごを打ちつけて落ちた。
相手もわたしもぼうぜんとしたが、どうやら足の筋肉が弱まり、自分で上がれなくなったらしい。それでこちらが抱え上げて中に入れたが、犬もショックを受けているように見えた。
「おい、おまえもすっかりおばあちゃんになってしまったな」。わたしがからかうように言っても、自尊心を傷つけられたのか、そっぽを向いてままだ。
「わたしも年をとっているんですから、ごんちゃんだって例外じゃありませんよ」。更年期障害で苦しんでいる妻がかばうように言うと、彼女のほうには哀れっぽい視線を向けた。目も少しずつ白濁している。ものを言わぬだけ、よけいにかわいそうになるが、同情しても年は戻ってこない。
玄関で寝起きはしているが、わたしは毛深い“愛人”と妻との妻妾同居だとたわけたことを言って、妻には白い目で見られている。13歳の老犬では、妻よりもオバサンということになりそうだ。
歩く姿はまだ元気なので、長生きしてくれと祈っているが、もう家族との遠出は無理かもしれない。かつては蛇とにらめっこしたり、キジを追いかけて頭から水路に落ちたりしていたが、シバイヌと洋犬のハーフで、近所でも評判の“愛人”だった。わたしがよくえさを与えるので、とくに懐いている。
妻に、もう家に上げてやろうかと言うが、毛が抜けて大変だからと拒否している。冷たいものだ。ひょっとしたら、彼女に妻の座を取られると思っているのか。そう言うと「できれば、わたしが代わってもらいたい」と切り返してきた。
家族の「族」という文字は、弱い人間が群がり集まって生きることをいう。息子も出歩き、2人だけの生活が多くなってきたので、心の弱いわたしは、犬と擬似家族をつくっているのではと考えてしまった。
「お互いに、生きているうちは慰めあっていこうぜ」と言うと、相手はこちらが持っている煮干を見て、ワンと催促するように一声ほえた。よしよし、元気な声だ。きっと長生きするよ。そう言ったあとに、彼女の寿命がわかる自分が、哀しい神様のように思えてきた。』
老犬への溢れるばかりの愛情が伺えて、何だか、とても切なくなってくる。ペットを飼うということは共に生きるということなのであろう。
動画サイトに、さまざまな家の手伝いをしてくれる犬の映像があった。こんな犬がいたら、もう「猫の手」は借りなくてすみそうだ。
人間の年にすればもう百歳に近いそうだから大往生であったろう。赤ん坊の時から19年間、家族の一員として愛し、生活を共にしてこられたが、近年は、高齢のため弱ったハナコちゃんの介護にご自分の時間の大半を費やしておられたようだ。こういうご主人様にめぐり合ったハナコちゃんは幸せであったろうと、独り身の私はうらやましくさえある。
ペットといえば、私も今から40年数年前に子猫をしばらく飼ったことがあるが、1ヶ月もしないうちに突然いなくなって二度と戻ってこなかった。つまり子猫に愛想をつかされたのである。畜生といっても飼い主の愛情の度合いは分かるのであろう、それ以来、生半可な気持ちでペットを飼うものではないと肝に銘じている。
ハナコちゃんの訃報を聞いた同じ頃、わが購読紙に、作家・佐藤洋二郎氏が「哀しい神様」と題して、老犬への思いをユーモアを交えて書いておられた。(原文のまま)
『今年の夏は暑かったので、13歳になる雌の老犬を玄関に入れてやると、それからまったく外に出なくなった。よほどこたえたのか、秋になっても庭先に戻ろうとはしなかった。
その犬を連れて散歩をするが、ときどき彼女のおかげで、健康でいられるのではと、感謝したくなる。あと数年で別れるのかと思うと、淋しいものがある。
先日も妻の乗用車の荷台に乗せようとしたが、ためらっていた。どうしたと促すと、以前のように飛び乗ろうとしたが、跳躍がうまくいかず、あごを打ちつけて落ちた。
相手もわたしもぼうぜんとしたが、どうやら足の筋肉が弱まり、自分で上がれなくなったらしい。それでこちらが抱え上げて中に入れたが、犬もショックを受けているように見えた。
「おい、おまえもすっかりおばあちゃんになってしまったな」。わたしがからかうように言っても、自尊心を傷つけられたのか、そっぽを向いてままだ。
「わたしも年をとっているんですから、ごんちゃんだって例外じゃありませんよ」。更年期障害で苦しんでいる妻がかばうように言うと、彼女のほうには哀れっぽい視線を向けた。目も少しずつ白濁している。ものを言わぬだけ、よけいにかわいそうになるが、同情しても年は戻ってこない。
玄関で寝起きはしているが、わたしは毛深い“愛人”と妻との妻妾同居だとたわけたことを言って、妻には白い目で見られている。13歳の老犬では、妻よりもオバサンということになりそうだ。
歩く姿はまだ元気なので、長生きしてくれと祈っているが、もう家族との遠出は無理かもしれない。かつては蛇とにらめっこしたり、キジを追いかけて頭から水路に落ちたりしていたが、シバイヌと洋犬のハーフで、近所でも評判の“愛人”だった。わたしがよくえさを与えるので、とくに懐いている。
妻に、もう家に上げてやろうかと言うが、毛が抜けて大変だからと拒否している。冷たいものだ。ひょっとしたら、彼女に妻の座を取られると思っているのか。そう言うと「できれば、わたしが代わってもらいたい」と切り返してきた。
家族の「族」という文字は、弱い人間が群がり集まって生きることをいう。息子も出歩き、2人だけの生活が多くなってきたので、心の弱いわたしは、犬と擬似家族をつくっているのではと考えてしまった。
「お互いに、生きているうちは慰めあっていこうぜ」と言うと、相手はこちらが持っている煮干を見て、ワンと催促するように一声ほえた。よしよし、元気な声だ。きっと長生きするよ。そう言ったあとに、彼女の寿命がわかる自分が、哀しい神様のように思えてきた。』
老犬への溢れるばかりの愛情が伺えて、何だか、とても切なくなってくる。ペットを飼うということは共に生きるということなのであろう。
動画サイトに、さまざまな家の手伝いをしてくれる犬の映像があった。こんな犬がいたら、もう「猫の手」は借りなくてすみそうだ。
前にシェルティーがいたのですが、癌で死んでから、ペットを飼うのをよそうと家族で話したのですが、気持ちの立ち直りの早い息子がトイプーを連れて帰ってきました。
かわいいのですが、また先立たれるのは嫌ですね。