東京への行き帰りに読む本として、ベッドサイドに積まれた本の中から選んだ。多分読み終わっているだろうが、拾い読みしてみると新しい感じがしたので持って行った。
彼の本は沢山読んでいるが、どれも彼(あるいは編集者)が表題につけるほどセンセーショナルな内容ではない。読んでなるほど、その通りと思うが、その内容はあまり記憶に残ていない。
今回読んで、いくつか心に留めたい事項があったので抜き書きしておく。
まず彼は人種によって知能に差があることを述べている。イギリスの認知心理学者リチャード・リンの著書「知能における人種的ちがい」2015第二版に基づいて。ヨーロッパ系白人は95~100、サハラ以南のアフリカ65~75、中南米白人95前後、アフリカ系65~75、北東アジア105前後。
言語知能が低いと保守的になる。
アフリカを起源とするサピエンスは、ユーラシア大陸に広がるなかで、(おそらくは寒さに対応するために)高い知能を獲得していった。だが、集団ごとに異なる自然環境・社会環境に直面したことで、知能の分布には偏りが生じた。大陸系では北ヨーロッパと東アジア系のIQが高く、アシュケナージと(おそらくは)バラモンという高知能集団が存在する。
産業革命以降の「知識社会化」によって、知能のわずかなちがいが増幅され、それが個人の運命を大きく左右するようになった。
認知心理学では、政治的にリベラルなひとは保守的なひとに比べて知能が高いことが繰り返し確認されている。リベラルと保守を分けるのは言語的知能と新奇なものへの好みにある。
言語的知能が低いと(いわゆる口べただと)、世界を脅威として感じるようになる。なんらかのトラブルに巻きこまれたときに、自分の行動を相手にうまく説明できないからだ。
言語的知能の高い子どもは見知らぬ他人との出会いを恐れなくなり(怒られても言い返せるから)、口下手な子供は親族や友人の狭い交友関係から出ようとしなくなるだろう(自分の行動を説明する必要がないから)。
世界を恐れない(言語的知能の高い)子どもは、異人種の友だちや外国人との恋愛、留学、一人旅まで「新奇な体験」全般に興味を抱くようになるはずで、これが「ネオフィリア(新奇好み)」だ。それに対して世界を脅威と感じている(言語的知能の低い)子どもは、いつも同じ仲間とつるみ、知らない相手を遠ざける「ネオフォビア(新奇嫌い)」になるだろう。
高度化した知識社会ではネオフィリア(リベラル)の方が社会的・経済的に成功しやすくネオフォビア(保守)はうまく適応できない。世界でもっとも知識社会化が進んだアメリカでは東部や西海岸の都市に裕福なエリートが集まり、民主党(リベラル)の牙城となる一方で、トランプ支持者はラストベルト(錆びついた地域)と呼ばれる中西部の荒廃した街に吹きだまっている。
サトシ・カナザワはリチャード・リンの国別IQを使って、知能が社会のリベラル度とどの程度相関するかを統計解析した。リベラルな国の方が高い税率を受け入れ、所得格差が小さく、世俗化が進んで宗教の影響は小さくなり一夫一妻が徹底される。
日本にはなぜ華僑財閥がないのか?
中国と接する韓国も同じで、小さな中華街はあるものの、グローバルな財閥はどれも韓国人が創業者だ。金王朝の独裁によって経済発展が大きく遅れた北朝鮮ですら、中国系が経済を牛耳っているという話は聞かない。
それに対して、タイ、インドネシア、マレーシア、フィリピンなど東南アジア諸国はどこも華僑財閥が経済を支配している。
だがもとを辿れば、華僑は福建省や広東省の貧農や、中国のなかできびしい差別にさらされてきた客家の子孫で(科挙に合格した)士大夫を頂点とする中国の知識社会の最底辺に位置していた。
これはドミニカ、ブラジルなど中南米で日本人移民が成功する人が多かったことと同じで、東南アジア社会で生き延びなければならなかった極貧の中国人の子どもたちは、現地の友だち集団のなかで優位なものをなにも持っていなかったーー唯一、東アジア系の高い知能を除いては。
そんな子どもたちが、生き延びるために、遺伝的なわずかなちがいに自らの可能性のすべてを賭けた。そう考えれば数世代で巨大財閥をつくりあげたとしても不思議はない。
華僑は、知能の優位性のある地域でしか財閥をつくることができない。
以上、初めて読んでみると腑に落ち、納得させられる言説だ。しかしかなり荒っぽい展開だと思うがほかにすぐ反論する術が思いつかない。