真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

【Ray:文王は天命が師儒僧侶にあった時代に道盤を掌った聖人!】【ゆっくり歴史解説】周王列伝 第1回 聖なる王 文王【周】ゆっくり中国古代史語り

2023-09-30 23:58:09 | 道すなわち真理

道盤統掌が文王の時代、3000年間釈迦牟尼仏が天盤を掌っていました。

因に文王の後、1900年から10800年間天命が火宅に降り、天盤を弥勒古仏、道盤を掌っているのは弓長祖です。

日本の大和朝廷統一の時代、縄文・弥生・古墳時代を通して「諏訪王朝」が存在し、全国各地に諏訪社またとして遺っています。

また「御柱祭」として世界中に伝承されています。

その道徳的(忠孝節義)を貫いた聖人が「文王」であった。

実を取った神仕組みが綿々と続いています。

「サンカ」の伝承もこの時代この地の遺産!

仏教伝来とともに聖徳太子によって神仏習合の基礎が築かれ、日本の歴史が温存された。

日本人の精神性は「侍(サムライ)」として「大和魂」として一般化されてきた。

「まぼろしの諏訪王朝」にはそのロマンあふれる歴史が詳らかに記録されています。

増澤光男著【まぼろしの諏訪王朝】 203頁

=汎謀曰訪。汎與訪雙声。方與旁古通用。薄也。洪範王于訪于箕子。晉語。文王諏於蔡原而訪辛君。韋曰。諏訪皆謀也。本釋詁。許於方声別之曰汎謀。从言。方声。敷亮切。十部。

=聚謀也。左伝。咨事為諏。魯語作咨才。韋曰。才當為事。按釋詁。謀也。許於取声別之曰聚謀。儀礼今文假詛為諏。大玄作(言奏:一体の字)。从言。取声。子干切。古音在四部。

概訳:「訪」とは、ひろく謀ることであり、「諏」とはおおぜいに謀ることであって、つまり諏も訪もともに謀るという意味なのである。相談してものごとを決めること。

師尊様曰く

弥勒浄土の一大性質は大乗(マクロ)であり、神を信じる本義は「信受真伝:真伝を信じて受ける」ですが、この「信」には、誠実の意味があり、根拠の意味があり、疑いない意味があり、敬い崇(あが)め奉るという意味があり、本当に確実という意味がある。

人々の願いのこの「信」はこれらの意義を包括していると雖も、しかし、その中で最も超越して且つ直入的な意味は、「信」は「同じである」ことである。

有識論者であるから神を信じる者というべきものでもない。

天と同心・同見・同行であってこそはじめて天を信じると言える。

故に、あの本々招かれてきた人、いわゆる天国の子はかえって門外に排除され、その基業をも失ってしまった。

しかし、元来人々には絶対排除されると思われていた人が逆に盛宴上の賓客と成った。

形勢が逆転されたのは、天国にはただ一つの等級しかないからであり、それはつまり「信」の等級である。

想うところ、信州・諏訪には「信」があり、それに基づく「和」がある。

周文王の聖なる「道」があった。

【ゆっくり歴史解説】周王列伝 第1回 聖なる王 文王【周】ゆっくり中国古代史語り


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【Ray:古代から求道者と隠遁者(世捨て人)がいました!魔は最もらしく心に忍び込みます!】※お金の価値観が180度変わります! 闇のカオスから脱却せよ!闇から世界を救うエコビレッジビルダー山納銀之輔

2023-09-30 19:34:38 | Rayの呟き

お金の価値観が180度変わります! 闇のカオスから脱却せよ!闇から世界を救うエコビレッジビルダー山納銀之輔


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第三章 天性の変化と修法 (七)宿命と運命の改変

2023-09-30 19:27:32 | 天道の淵源

(七)宿命と運命の改変

宿命とは一応、輪廻に入っても転生した霊が債務を帯びて生まれてきた時の命を言います。

「命(めい)宿る」「宿っている命」とも解釈しますが、前世の功罪がどうなっているかはその人の生まれた状態によって判断すればわかります。

同じ時と場所に生まれ、同じ環境に育てられても人によって智能の程度と性質の強弱に違いが生じたり、平等の教育を施しても感度に利鈍の別があるのは、そのような理由があるからです。

宿とは、つもる、たまる、又はやどす、との意味ですから、前の物が積りたまってきた命のことをあらわしていいます。

年が変わっても昨年の借金は帳消しになりません。

年度換えになっても前年の残額(黒字赤字にかかわらず)は、今年度に繰り越してきます。

新しい車に乗り換えたからといって、違反した事項は取り消しできません。

死んで地獄で清算されても医(いや)されても霊魂に傷が残ります。

地獄はわれわれの魂の傷を浄め医やすことがあっても、滅し尽くすことはできません。

罪を滅ぼし得られるのは人間界で功徳を積むことによってこそ補えるのです。

つまり、人間界で犯した過ちは、人間界に生まれて償(つぐな)い贖(あがな)う必要があります。

そのような使命を受けてきたのが宿命であり、現在のわれわれを左右する運命となります。

今、述べたように宿命は出生と同時に一応定まって来た命ですが、運命は「命を運ぶ」意味から、われわれの意思によって善へも悪へも運べるのです。

正しい道に決意して進めば聖賢に達し、悪の誘惑に負けてしまえば、奈落の底へ沈んでしまいます。

仏典に八大地獄(はちだいじごく)・八大寒誘惑(はちだいかんゆうわく)と、その他数々の刑罰地獄があると載っているのは、例えば水の清濁分離機(清濁分離機)であり、浄化槽(ろかそう)・濾過槽(ろかそう)のような存在で、これも上天の特別の御配慮にあずかるところなのです。

われわれが敢(あ)えて地獄を否定するのはむしろ科学的であり、自然の摂理に逆(はん)しているといえます。

恐いから強く否定して己を慰めている愚論と見てよく、むしろ逆に地獄はもっと精密細密な装置で構成された、正邪清濁を分判する淘汰場であるといえます。

仙仏と凡俗はその理にかなわない行いに端を発するものであり、善悪の行為はその人の迷悟の観念の違いによって分かれてゆくものであることをしるべきです。

言い換えれば、今のわれわれの決意次第で、迷途(めいど)転じて明悟となり、賢者となり得る訳です。

道を求め、徳を積めば過去の歴世の罪業を消滅することができます。

そうなれば暗愚な人であっても心温かい賢明な人となり得るでしょう。

われわれの握る運命という舵(かじ)は切りようによっては過去の負債を帳消しにし、なお、大成果を証することができます。

六万年前の昔に返れば、過去に犯した数々の罪に悩まされることはありません。

世の中はもとより根っからの悪人はいません。

ところが厳として悪事を行っている事実があり、悪の結果として表われているのは一体どのようなわけでしょうか。それは愚盲な人があまりにも多いからです。

結果的に悪くなったり、また今、悪事を働いている人でも、悪を行っていると気づかない場合もあります。

なぜなら良い動機と思って行っても悪の結果にもなり得るからで、結果を見透す眼が開かれていないから判断力に乏しい訳で、もし心眼が点破されていたならば、いかにして過去の宿命を贖い、いかにして未来を切り開いてゆくか自ら判然となります。

その嗅ぎは速やかに明師に逢って指点を受けることです。

定まった命を背負って出生してきたのが宿命であるなら、勤勉奮発(勤勉奮発)や堕落退廃(だらくたいはい)によって変わってゆくのが運命です。

もって生まれ定まった宿命はなるほど避けられないでしょうが、過去により良く自分を勤修練磨(健修練磨)していたならば現在の境遇は、ずっと好転しているはずであり、違った運命の星の下にうまれていたわけです。

過去の世に散乱した心をもっと修養したり、収拾していたならば、今世の智能的働きはもっと冴え聡明であり、暗黒にとらわれて途惑うこともなかったはずです。

つまり前世においてすでに今世の原因を積んでいたことが分かれば、今生の心の持ち方が来世の良しあしを決める基礎であることも分かり、今に永遠の解脱法も得られることが理解できます。

昔、降生当時が第一天性であり、輪廻転生してきたのが第二天性であるから、第二先天性はわれわれの意思によって開拓できることが察せられます。

天道降生に遭(めぐ)り会えるのは、このような決意を容易にならしめ、直指人心(じきしじんしん)・見性成仏(けんしょうじょうぶつ)に至らしめられることに等しいのです。

しかし、運命は開拓によってよりよく改められるといっても、可能な人と不可能な人と早晩の違いがあります。

素直と純真に一貫せる熱心さが備わっていれば、第二先天性のもたらした宿命をなお一層良い方へ導き、大好転を獲得できますが、怠惰・傲慢・卑屈の性格を兼ね備えてしまうと、向上が不可能だけはなく、悪の連鎖反応を起こして、いよいよ悲惨な末路を辿(たど)らねばなりません。

正しい法を得れば、すべての宿命や運命を素晴らし方向へ改変することができるのであります。

続く


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十大願~六、貌視前人:先輩を軽視し

2023-09-30 19:25:48 | 十大願

貌念心存豈英賢 貌念(びょうねん)心に存せば豈(あに)英賢(えいけん)か

視之弗見理妙玄 見れども之(これ)見えず理は妙玄(みょうげん)

前車之鑑當自警 前車(ぜんしゃ)の鑑(かがみ)正に自警(じけい)せよ

人體天真自然安 人(ひと)天心を體(さと)れば自然に安らぐ

解:

軽んじた念(おも)いが心に存在しているならば、英明な賢人とは云えません。

天道はこの肉眼で視れども見えず、この耳で聞こうとしても聞こえない非常に微妙な玄理(げんり)で誠心(まごころ)を以て悟るのです。

それで過去の修行者に鑑(かがみ)にして、先輩を軽視して、成功した修行者があるだろうか。

或いは先輩に随(したが)いて成就したのか、自分で慎んで修行し、人が天心を体(さと)って、天意に循(した)がっての行いならば、自然と安やらぎます。

若(もし)も先輩を軽視している念頭があるならば、その人の修行は正規の軌道をはずれたのです。憶(おも)うに

一、草木は根が無ければ長く保つことが出来ず、人は指導を受けなければ、その目的を達することが出来ません。

私達も前人の開荒(かいこう)によって始めて天道と縁を結び、自分の姿を見出して修行し出したのです。

だからその目標はまだ定まっていないし、道理も明らかでないから、どうしても前人の指導を受けなければなりません。

その恩に報いるに、前人を尊敬し、その辛苦(しんく)を体(さと)りて共に協力して天道を布(ひろ)め、後輩を指導して行くのです。

若(もし)も前人を軽視すれば、後輩にも軽視されるでしょう。

二、犯しやすい缺点

1,尊敬しない:功徳費(くどくひ)や賽銭(さいせん)の出入りを疑い、前人の品行を疑って尊敬しない。

金銭問題に対しては、その功徳費や、賽銭は、その人の誠心で出したので、上天ではその多少に対しても功徳簿に記入します。

若も先輩に暗昧(あんまい)な処があれば天譴(てんけん)を受けるのです。

故に諺(ことわざ)に、眞の布施は假(いつわ)りの和尚(おしょう)を怕(おそ)れずと言われています。

次に先輩の学歴、社会の地位、財勢(ざいせい)などは自分より劣っているからとで尊敬しない。

修行は学歴、地位、財力によって上下を分けてはいけません。

上天に親(しん)なく、惟(ただ)徳これを輔(ふ)す、と言われています。

そして前人の陰口を言い、後輩の道念を退(しりぞ)いたとなれば、この罪は軽くないのです。

2,悪意を以て批評す:人の噂(噂)は必ず確かめなければ、噂は噂を呼び、道紀(どうき)が乱れてきます。

若も先輩に缺点があれば、善意でこれを諫(いさ)めて正しくし、意見を聞いてくれなければ、自分は正しく謹守(きんしゅ)して修行に勵(はげ)むのです。

『人のふりみて我がふりをなおせ』

3,過ちを諫正(かんせい)せず:先輩に過失があるのを諫(いさ)めずに、却(かえ)って阿諛(あゆ:おべっか使い)をすると、先輩は錯(あやま)ちに又錯ちを犯し、後輩の道念に影響を及ぼすも、先輩を軽視しているに属します。

三、先輩に錯(あやま)ちあるを知って諌めなければ、その過ちは我にあり。

善意で諫正(かんせい)しても聞き入れないならば、その罪は彼自身が担い、天譴(てんけん)を逃れる事はできません。

※能(よ)く後輩の諫正(かんせい)を聞き入れて過ちを改める前賢は幾人か、能く勇気を出して善言を以て前人を諫正(かんせい)する後輩は幾人か?

続く


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性理題釋~八十八、、明師真道(めいししんどう)と尊師重道(そんしじゅうどう) 完

2023-09-30 19:23:12 | 性理題釋

八十八、、明師真道(めいししんどう)と尊師重道(そんしじゅうどう)

修道のための経典を読んで見ると、そこに説かれているのは、道を得ることが修道の鍵であると説かれています。

それは、明師より伝えを受けることであります。

『君の聡慧(そうけい)も顔閔(がんびん)に過ぐるや、明師に遇わざれば強猜(きょうさい)するなかれ』と申された如く、又『千経万典を読むも明師の一点に如(し)かず』と申された如くであります。

明師の指点(してん)を得ると共に、親しく口訣(くけつ)を伝え受けることによって、始めて得道(とくどう)したことを知るべきであります。

故に昔の修道者は、必ず『千里に明師を訪ね、万里に口訣を求む』苦行がありましたが、機縁(きえん)未だ至らずと雖も、且つ人の心志を試煉したのであり、これも亦大道の至貴至尊(しきしそん)なる所の見るのみであります。

大道は理天より伝えられたものでありますが人が得道すれば、気(き)と象(しょう)を超越して理に還るとが出来る訳でありまして、すべてこれを証明する者を、始めて真天大道を体得したと申すのであります。

然るに理天は本来、声色形象(せいしょくけいしょう)がないために、勿論衆生凡人は迷って無極理天(むきょく利点)を悟れず、又解り難いものであります。

或いはこれを知っても、なおその門を得ずして入れば、天に通じ難い訳であります。

天命の仏祖様方がここに出世し、天を継いで極を立て、道を行い教えを説いて、天に代わり宣化(せんか)するのでありますが、その名を奉天承運(ほうてんしょううん)の明師と申すのであります。

つまり、ただ一人その明徳を明らかにするだけではなく、すべての人々は指点を受け、口訣を承(たまわ)る者は、均(ひと)しくよくその俊徳(しゅんとく)を明らかにすることが出来る訳であります。

明師は代々相承(あいうけたまわ)り往きし聖人を継いで来たりて道を開くのであります。達摩祖師様も仏様の心印を承り、初めて東土(中国)に来て衣鉢(いはつ)を伝えましたが、然しその衣鉢を信じ亡くなってから、道は火宅(庶民)に転じて行って、衣鉢を伝えなくなりました。

天命は隠顕(いんけん)の間にあって、『性と天道は聞く得べからず』と申された時ではなくなりました。乃(すなわ)ち天道は、その時に非坐れば伝えないだけであります。

時期は三期末劫(まつごう)に至り、真の仏、弓長(ゆみなが) 子系(しけい)両位(りょうい)が、天命を承り、人身をまとうて世に降られ、三層即ち気天界・人間界・地獄界の原性(げんせい)を普渡し、広く中庸の大道を揚(あ)げて、末期一着の大事を整理し、そして苦海に彷(さまよ)う原子(仏子)を救う訳でありますが、すべてその指点得た者は、即ち三界の五行を頓超(とんちょう)することが出来るのであり、永遠に生死輪廻の苦しみを受けずに済むわけであります。

現在普く機縁ある群衆には、天・人・鬼(き)にも応じられて普伝(ふでん)する訳で『一子成道すれば、九祖昇天す』という境地であり、諸仏方の弘願(こうがん)を了却(両脚)し、苦海の衆生を渡し尽くすことは、空前絶後のことであります。

諸仏様方の天を凌(しの)ぐ大恩大徳は,我々の思量(しりょう)し難いものであります。故に我々はこれを尊び、又これを重んずることが、原来(がんらい)の性分(しょうぶん)に従うことを流露(りゅうろ)するのであります。ましてや徒(いたず)らに口先で説くだけでは、おおむね生死を流浪(るろう)することを覚悟せねばならず、又常に苦海の苦悩に沈まねばまりません。

自ら知れば、一歩にして直ちに超越出来るのが、真道の貴い所であります。真道の貴い所を知れば、これを得たことの容易ならざることを知り、道を重くせねばなりません。

真道を重くし、而して又、明師の大恩大徳に感謝して、明師を尊ばねばなりません。道を重くして師を尊ばざれば、悟ったように思っても頑空(がん食う)に入ることになり、これを名づけて辺見(へんけん)と申し、あらゆる木石と同じ訳で、道を成就することは出来ない訳であります。

師を尊びながら、道を重くせざれば、たやすく人道に落ち、虚(むな)しい世情にしずむ訳で、人に修道していると見せかけて真実の修行をせず、郷原(きょうげん:偽善者)と同様で、終に天人合一の宗旨に合わない訳であります。

故に修道する者は、必ず先ず、明師の至尊(子孫)なる事、真道の至貴(しき)なることを知らねばなりません。

そしてこれを尊び、又これを重くし、自性(じせい)より発して、終始一貫。知行合一(ちぎょうごういつ)すれば、則ちすべて明師に逢い、真道を得たことを枉(ま)げないことになるわけであります。


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