緊急メッセージ🌹【なぜ動物を食べるのですか?】マスター・クートフーミ #無条件の愛 #スピリチュアル #手放し #統合 #ゆるし #癒やし #思いやり
(一)天道と宗教
縁深くして数多い人類の中から選ばれた人は、真の面目が明らかとなり蔽われた心霊の眼を開くことができる時がきました。
稀有な尊い生死解脱の法を掴み得ることは人間として生まれて最も幸福なことです。
この決定的救いの瞬間を約束された時、孔子様は感激のあまり声を上げて、「明日に道を聞かば夕べに死すとも可なり。」と言われました。
これは、朝頃に道徳の話を聞けたら夕べにはもう死んでもよい、という普通一般的な解釈ではありません。
この場合言う道とは即ち天道の神秘・心伝を指しています。
一概に道と言いましても浅い深いの区別があって、生死の輪廻を断ち切り、聖賢の位に登り、一切の煩悩・苦厄を拭き払う段階になると通常の宗教行事や、並の道理説法や読経では到達できません。
「天機は時運に非ざれば降されず、地に非ざれば伝えられず、人に非ざれば授けられず。」永遠に霊魂を救い得る秘宝は容易に一般の面目に顕現されないものです。
地域にも深い因縁があります。正法を得るに適した土地でなければ伝えられず、人もまた祖徳厚く善縁の深い人でなければ授けられないものであります。
昔の聖人や仙仏は、かつて行者として修業していた折は、言語に絶する艱難辛苦を冒し、それを克服し、耐え忍ばれました。最先に人間の欲望の一切を断ち切り、名誉・利欲・権力・恩情・愛情・酒・色・財産・気煙を捨て去り、出家受戒して方々に明師を訪れ、あらゆる苦行難行をされ道を求め続けられました。
あるいは深い山の洞窟に入り、あるいは食事を断ち、瞑想座禅をされて、十数年、二十年の禅と荒行を断行されました。
又、俗塵に混っているとなかなか六根の清静が得られない為に世を隔離した幽谷か人里を遠く離れた森林に入って精・気・神の三宝を煉られたり、眼観鼻、鼻観心という坐行をして全精神の無我三昧をはかられました。
このようにして大勢のなかから、純無垢の一人のみ、密かに天命の真伝が授けられるもので、決して短期間や即席の修行でなし得られるものではありません。
この悟りの法眼が開かれた場合、人生の真諦は言うに及ばず、天地の化育に参賛でき、宇宙の妙玄にも通じ徹することができます。
つまり、あらゆる森羅万象、宇宙全体を左右する源動力であり、われわれはこれを「無極の真理」と申し、つまり天地万物を創造し、日月星辰を運行される根本であります。
宗教道徳は人間処世の間の在り方について、その方法と指針を教える役割を果たすのみであります。これによって人道的宗教の教えは、この大真理の一部であることを知ることができます。
孔子様は天道と宗教をこのように比較されました。「天の命これを性(たましい)と謂い、性を率いるこれ道と謂い、道を修めるこれ教と謂う。」と、つまりわれわれの霊魂はひとしく天命によって生まれたものであり、従ってこの霊性を救うには道が必要であり、明師により心眼の点破を受けなければならないことを強調されています。
そして、この道に至るために修めるのが宗教であります。
要約すると、
宗教とは、人格の完成を期し、霊魂の救いの法を得るに至る段階であり、
天道とは、完成者・純熟者に法を与えて生と死を超えた境界、すなわち理天へ至らせる法であります。
釈尊は、宗教を筏に喩え、天道を彼岸に準(なぞ)られました。筏は彼岸に至る道具であり目的ではありません。
宗教は、天道に至る道程であり、方法であり、手段であります。
結局最後には天道の至法によってこそ、父母未生以前の真の面目を得ることができます。
ですが、宗教を決して天道と別個に考えるべきではなく、天道という頂上に至る数多い登山口の一つです。
頂上に至る道はなにも宗教に限ったことではありません。
日常一般の中にもあり、もろもろの道も結局は山の頂に至る途上であります。
一朝、悟るところあって放心を求め、そして「真の自分を覚る」、すなわち真の自分を自覚すれば、天道に到ったと言えるのであります。
道教・仏教・儒教ともに聖道・天道を根幹として教えを立てられたのであります。
老子様は「修心煉性・抱元帰一、つまり、心を修め性を煉り、元気を抱き一を守る。」と申され、
釈尊は「明心見性、万法帰一、つまり心を明らかにして本性を見、すべての天性を養い、すべての法を一に帰す。」と申され、
孔子様は「存心養性、執中貫一、つまり本心を存念し、天性を養い、中道を執り一に貫く。」と申されました。
この三教は言葉と工夫が異なっていますが、その根本原理は同じく一つであります。
人間の本性は本来無極の真理、すなわち天性で純善でしたが、生まれ落ちた後において物欲のために清く、円く、美しいはずの性(たましい)がだんだんと蔽(おお)われて質性となり、本来の純円を失うに至ったのであります。
例えば、太陽は常に雨の時も曇りの時も照り輝いていますが、われわれの眼の前を雲が遮り太陽を見ることができないのと同じです。人に置き換えていえば雲は欲と迷いで、それに遮られて明るい天性を見ることができないのであります。
続く
六、道場の仏規礼節もすなわち「戒」であります。
戒殺は仁慈がり、戒盗には義があり、戒淫には礼があり、戒妄語には信用があり、お酒を飲まない事には智慧があります。
中庸の道は戒、定、慧から離れることは出来ません。
七、戒律は家庭が和やかに楽しくなるのを助け、社会を調和させます。
ただ人々が持戒し、自己との約束を知ることです。
八、戒律は微細なもので、ちょっとの不注意で容易に犯してしまいます。
もし戒律をめんどうだと嫌がり、根本的に理解しようとせず、このようにして福報を漏らしたなら、いくら努力しても最後にはなにもなくなります。どうして惜しくないことがあるでしょうか。
将来帰空したのちはただ天仏院の修煉員になるだけです。
ゆえに、戒律は知らないわけにはいきません。
菩薩行を修める人は、煩わしさを恐れないのです。
その人は賑やかな市街の中で修道し、その煩悩を菩提へと転化します。
羅漢(自了漢)は染められることを恐れて、深山の古い洞窟に避難して修行しました。
九、戒律を束縛だと思ってはいけません。
又、戒律を持って他人のよしあしを定評してはいけません。
五戒を修めるか修めないか、持戒するかしないかはすべて個人自身のことです。
満点の修道をするか、あるいは不合格の修道をするか、これは各々の功夫によるもので師(師尊様)はあなたに強制しません。
人がもし自己に対し厳格に要求せず、常に都合の良いやり方で行っていては、修行は成就する事はできません。
十、殺、盗、淫、妄の四種の戒を「性戒」と言います。
いかなる人であろうとも、又知る知らないにかかわらず、只犯しただけで自性を傷つけ、必ず因果を負わなければなりません。
酒は「遮戒」であります。
遮は停止の意味です。何故なら酒は一切の罪業の発端なので必ずやめなければなりません。
それでこそ殺、盗、淫、妄などの罪業を犯さないのです。
十一、水は位置エネルギーより電気エネルギー、光エネルギー、熱エネルギーが生産されます。
水は電気ではなく、電気は水ではありません。
それは質量と能量の互換です。人は業を造るとすぐに第八識に輸送され、業力に転換して、六道輪廻を生じます。
人が持戒修行すれば上昇する力量が招じて、因果を突破することができ、修行しなければ能力は自然と降下します。
続く
六十七、三五凝結(ぎょうけつ)の功
三五は道教に止まらず、儒(じゅ)と仏においても亦同じであります。
儒教では三綱五常(さんこうごじょう)であり仏教では三皈五戒(さんきごかい)であり、道教では三花五気(さんかごき)であって、その名をことにしながら理は同じで、功をなし遂げた時には、一仙(いちせん)・一仏(いちぶつ)・一聖(いちせい)となるのであります。
これは即ち外の三五であり、又内にも三五がありますが、これを簡潔(かんけつ)に申しますと、無極老〇(むきょくろうぼ)様の壇詩(だんし)に『二五相交えて性命全く、三五凝結して人天を貫く』ともうされています。
一例をとって申しますと、一月(旧暦)の月の初めの月光は暗いが、三五の十五、即ち十五夜になれば月が円満になるのと同様に、人生も三五の十五才になれば成丁(せいてい:成人)するのであります。
大道も此の如くであります。
何を二五となすかと申しますと、それは日月であります。
又何を三五となすかと申しますと、性の上に二五を加えたものを申すのであります。
二五は天に於いてはは、日月をなすのでありますが、能く相対して照らすのであります。
人も、もし回光(えこう)して凝結し、分散せぬようにすることが出来るならば、それが即ち本原(ほんげん)へ返還する法であります。
経書上の話には、道義(どうぎ)が沢山含まれているが、もし明らかならざれば,一性一竅(きょう)を抱いて推解(すいかい)すべきであります。
明師を訪ね、指点(してん)を得たならば、自然に一節一節を知る事が出来るのであります。
わかった後には一切を抛開(ほうかい:一切を投げ捨てる)することが出来るであり、又よく自らこれを修めてなし遂げることが出来るのであります。
何故かと申しますと、経典に『吾説く所の法は、筏(いかだ)の如きの喩(たとえ)にして、岸に上り得れば、亦船を要せぬ如きなり』と申されました。
続く
十五、万事に小心翼々として用意周到を期すべし。
大事は、慎重なる故に誤り少なくも、小事は油断する故に収拾の付かぬ危機を迎う。
眞に小事を完(まっ)とうする人にてこそ、大事を預けられるを能うなり。
天道は易行(いぎょう)の如くなりも難行と謂えり。
謹みて心虚しくして事に当られたし。
続く