Ray:働かなくともよい社会は、直ぐに実現できる環境!
生活保護受給者の存在も、人類全体の生産性を高める事に繋がる理由
Ray:働かなくともよい社会は、直ぐに実現できる環境!
生活保護受給者の存在も、人類全体の生産性を高める事に繋がる理由
社会を浄化するには、『ソ―シャルワーカー』がポイントです。
ネットで見たトランプ大統領の発進は極めて重要だと思います。
新しい金融システムを受け入れる社会は、この軌道がBPPFに至る基本構造になります。
社会全体が改革に向かうには、個々の尊厳を尊重する社会の意識が最も重要になります。
まもなく日本社会は統合医療計画に変わって、世界に通じるソーシャル社会のプランを作り上げます。
ちなみに現在の専門職の給与は400万円前後だそうですが、ソ―シャルワーカーのシステムで、100万人以上の雇用も生み出すことができます。
本当の意味で意識の高い人々がも社会に認められ、安定した収入を得て、コミュニティを支える仕組みがつくられる時代です。
現在、地域自治体や医療機関にソーシャルワカーが活躍していますが、高齢者支援や適応障害の子供たちなどの更生などについてドイツ式を排除することで多くの成果を上げることができます。
国家や地方自治体、司法や警察、勿論教育機関などあらゆる公的な機関を相互につなぎ弱者を擁護し、誰もが平等であるということを証明するため、その能力を開発するシステムがネットワークされることが期待されます。
社会全体の進化は、同時に世界とつながってレベルアップされます。
日本の叡智は瞬く間に世界が共有する仕組みになります。
アセンションというのは、個人的にも社会的にも公明正大であり、誰からも理解されるアセンションであるために、実践を重視する時代に入ります。
6/12(金) 10:09配信
6月11日、トランプ米大統領は、警察問題に関する大統領令を発令する計画を発表した。
テキサス州ダラスで撮影(2020年 ロイター/Jonathan Ernst)
[ダラス 11日 ロイター] - トランプ米大統領は11日、警察問題に関する大統領令を発令する計画を発表した。
ただ、黒人男性ジョージ・フロイドさんが警官の暴行で死亡した事件をきっかけとした抗議活動を受けた包括的な改革案は支持しない立場を明確にした。
【グラフィックス】米デモ制圧、警察が使った武器一覧 トランプ大統領はダラスの教会で開いたイベントで大統領令について、警察に対し、権力行使に関する全国的な基準を採用するよう勧告する内容になると説明した。
また、警察訓練の改善や、ソーシャルワーカーが警察官とともに職務に当たる試験的なプログラムを政権として支持すると述べた。
一方、警察予算を削減して教育や福祉などに資金を振り向けることを求める動きは一蹴した。
「このところ、全国民の公正、平等、正義をいかに実現するかという議論が活発に行われている」とした上で「残念ながら、分断をあおり過激な主張を推し進めようとする動きが一部で見られる。さらなる貧困や犯罪、苦しみを生み出すだけであり、われわれは支持しない。こうした動きには、警察の予算を削減し、解体しようという過激な取り組みが含まれる」と述べた。
5月25日に起きたフロイドさんの事件後、トランプ大統領が警察や人種差別の問題を巡り、政策案を提示するのはこれが初めて。
最終更新:6/12(金) 11:11
ロイター
転載:https://feature-job.yahoo.co.jp/contents/guide/category032/social-worker.html?utm_source=yahoosearch&utm_medium=shortcut&utm_campaign=guidequery
ソーシャルワーカー・ケースワーカーってどんな仕事?
福祉の分野でコーディネーター的な役割をする。身体上・精神上の障害のほか、さまざまな事情で日常生活をおくるのに困難がある人やその家族の相談にのり、助言や指導、援助などをする。
勤務先は福祉事務所などの行政機関から企業、病院などさまざまである。
公立施設で働く場合は、一般行政職の公務員試験に受かることが必要で、「生活指導員」「相談員」などと呼ばれる。
また公立・私立にかかわらず、国家資格である社会福祉士を持っていることが就職の条件になりつつある。
この資格を取得するにはさまざまなルートがあるが、福祉系の大学(4年制)で指定科目を勉強し、国家試験を受けるのが一般的。
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(三)一理の中に無限の真理が蔵され、すべてのものの生命となり変わる
人間の限られた小智識ではどうしても限界・意識界を超越した窮りなき大自然の質量を計算したり、明らかに解剖したりすることはできません。
もちろん、その本体と妙用は如何なる名句妙文をもってしても描写し尽くされるものではありません。
老〇様(ラウム)のお姿を浅薄(せんぱく)な小智や文章で表して説明するのはあたかも一群の盲人が象の身体の一部分を触っているようなもので、ある一部が解明できてもその全体を知ることは不可能です。
いかに上手に譬(たと)えて説明しても、相を借りて理を悟らせる以外にその実態を表現することはできません。そこは誠をもって近づくだけです。
感ずれば応ずる真霊の世界をまた数学的に足したり、引いたり、割ったり、掛けたりすることもできません。
不増不滅の理に人間の定めた枠で当て嵌め(は)ようとするのが無理なことです。
この真理には厳格な面と慈愛の面が含まれていますが、そのいずれに通ずるにしても敬虔な求道精神によって深く体得することができます。
老子様は「無明は天地の始まり、有名は万物の母なり。」といわれ、形体はいかに大きくとも無から比較すれば微かなものです。
無限大の無の中から有形体が芽をふき生じてくるもであります。
また、「天下の物は有より生じ、有は無より生ず。」ともいわれ、「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生ず。万物は陰を負いて陽を抱く。沖気(柔らかく・やさしい気)をもって和するを為す。」といわれました。
空・虚・無・道・天などの名称は、この真理の別称であります。
形象・物体は気の合体であり、光子・電子なども気から流露された分子であります。
気は理によって造化され、陰陽の二気を有しています。
一が二を生ずるとは、言葉を変えていえば無極の理から太極の気を生じたという意味です。
数字上から言っても、万数の始まりは一に起原しています。
〇(零:れい)は一より先との説もありますが、〇(零)を伸ばしてもやはり一です。
一は縮めて「、:点」と化し、そこに妙が生ずるのです。
道動いて太極を生じ、太極動いて陽儀を生じます。
陽は動性をもち、動の極は静であり、静は陰を生じます。
陰中に陽があり、陽中に陰があります。
これを両儀といい、一動一静、たがいに相和し交感し、次第に木火土金水の五行が生じてまいります。
五行の気か順布し、大地が自転公転して春夏秋冬の四時が秩序を乱すことなく行われるのです。
創造の妙は不可思議な力をもって物象に変化を来たし、万物がそれに応じて発生進化してくるのです。
万物は必ず天地・陰陽に挟まれて生育し、絶えず沖虚(奥深くしてむなしい)の原気が二気を調和しています。
一はすなわち道であり、万物万数の起点なのです。
「〇」も「、」も、一を拡大したり、短縮したりしたもので、これがそもそも大道の大奇蹟的な働きなのです。
伏羲氏は一を画いて開天となし、老子様は「一を説いて天地を生育する」といい、孔子様は「吾れの道は一を以て貫く」といい、孟子様は「夫(そ)れの道は一のみ」といわれていますのも、同じく天人一貫の理を解かれているのであります。
一理をもって万理に通じます。
一理の中には無限の真理が蔵されて、すべての物の生命と成り変わります。
一はかくして変化不可思議ですが、また極めて自然であり、それぞれの存在に応じてやがては万物を収息終結させます。
窮りなき慈愛と智能をもって森羅万象・日月星辰・地水火風を含む万端を変わりなく一定の法則に従って養うことができます。
このように衝突せず、混乱もなく整然として天体宇宙が各自の路を運行しているのは、老〇様(ラウム)が形として顕れられた権化であります。
われわれは、老〇様(ラウム)の無生無死であられることを忘れてはなりません。
理の天は唯一であり独一です。
天地宇宙を散漫なく統一する力といってもただ、霊以外に何もありません。
声もなく、臭いもなく、生ずることもない無尽無窮の大霊といえます。
道徳経に「天は一を得て清くなり、地は一を得て凝(かたま)り、人は一を得て聖人となる。」とあります。
天は清く、地は凝り、人が聖人となる、一の理はきっとすばらしい偉大な力をわれわれに与えるに違いありません。
この一理を得た人は迷いの帷(とばり:かたびら、たれまく)から高く悟りの境地に飛躍できる霊妙力を有しています。
ここでいう天は太極であり、天道では「気天」と称しています。
太極を生ずるとありますが、これは理天が気天を生ずる意味です。
理天は不動天であり、気天は宗動天であります。
続く
淫戒(二)
十、まだ結婚していないなら、現在この家をうまく経営して初めて別の家に行って経営することができます。
夫婦、父母、家庭は、みな有縁だからこそ集まっています。
この縁を円満にする方法を考えることです。
この縁を重荷と見なして、逃避してはいけません。
もし今世で円満にならなければ来世又一つの孼縁となります。
十一、一切の婚姻は必ずその因縁に従っています。
いかなる人であっても他人の因婚を羨ましがったり、結婚はとてもいいと言って、人に結婚に導いたりしてはいけません。
又、人の結婚に極力反対してもいけません。
その人にはその人の縁があるのですから、その因縁に従って行われなければなりません。
自然に発展することがよいのです。
十二、離婚した人の眼の前で自分たちの結婚は幸せと自慢してはいけません。
十三、道場を恋愛の場所と思ってはいけません。
なぜなら仏堂は清らかな場所なのです。
もしお互いに有縁であれば、外で交際してもいいのです。
十四、青年男女は身を潔く、自愛しなければなりません。
婚姻は父母の意を経て周公大礼を行った後、始めて正式な夫婦となります。
婚前に男女関係があってはいけません。
十五、淫は宇宙間で最も人を束縛するものです。
もし断つことができないなら仏の観想法を用いて使ってみるとよいです。
人の体を観想すると最も不清浄です。
鼻水、なみだ、大小便…などどれ一つでも汚穢出ないことはありません。
水商売をしている女郎に対して観想を行うと、彼女は私達の累世の父母姉妹です。(一切の六道衆生は皆、私達の累世の父母なのです。
進入し、犯すことはできません。
金銭で取引する邪淫の行為は最も不道徳です。
十六、馬に乗った時の振動は、容易に淫欲をうみます。
又、動物虐待でもあります。
修行人は牧場で馬に乗ってはいけません。
十八、淫を犯した果報
(1)三悪道に堕ちます。
それは禽獣の行為で倫常に背きます。
(2)生きている時は、妻は貞淑ではありません。
友達の奥さんと戯れてはいけません。
そうしないと将来の自分の妻、娘も人に遊ばれます。
鳥の巣やアリ塚などを破壊してはいけません。
そうでないと結局ある一世で翻弄されて、家は破壊され、人は滅ぼされます。
(3)淫慾は因をなし、生死は果をなします。
菩薩行を修めるなら先にこの関門を断たなくてはいけません。
菩薩は因を畏れます。
もしまだ淫慾があるなら、因縁は中断されずに、結ばれておりますので三界を超出し、生死を了脱することはできません。
しかし夫婦の男女関係を断つことは容易なことではありません。
ただ持戒でき、人道をきちんと行い、正当な結婚であれば大丈夫です。
「慾」は人体の自然現象なので、抑圧するより緩和を保持し、もって生理の変態を引き起こさないようにします。
十九、戒淫の果報
(1)諸根に調和がとれ、動態より永遠に離れ静態になり、禅定が多くなって、真の智慧が増加する。
(2)(邪淫を戒める者は)生存中は、父母や、親族や、妻や身内のものは純潔でごたごたしていません。
目上によく仕え、父母に孝養を尽くし、兄弟と仲良くし、祖父母に孝行します。
又、女性は過失から離れ、諸々の衆生を再び悪に染まらせません。
(3)人天が尊敬し、皆の賞賛を得ることができます。
(4)(正淫を戒める者は)成仏して相貌は端荘です。
(5)生死を解脱し、早く菩提を証します。
続く
七十五、六門を常に閉づ
六門とは、眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(い)であります。もしこの六門を閉ざさず、随意(ずいい)に出入りすれば、ただ成道(じょうどう)出来ないばかりではなく、臨終(りんじゅう)の時に、六道輪廻(ろくどうりんね)に落ちる恐れがあります。
何故かと申せば、眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)は四生(しせい)の門であり、又四道(しどう)とも為すのであります。
眼が花色(かしょく)を貪(むさぼ)り過ぎて甚だしければ臨終の時、性(せい)は眼より出づる訳でありますが、来生は必ず飛禽(ひきん)に転生し、人々の賞玩(しょうがん)を受ける訳であります。
耳が邪言(じゃげん)を聞き過ぎて極度になれば、臨終の時に性は耳より出て、来世は必ず胎生(たいせい)に転じ、牛・馬・羊・騾(ろば)の類になりますが、その耳は人言に通じて、人の使用を受ける訳であります。
鼻が異香(いこう)を嗅(か)ぎ過ぎて極度に達すれば、臨終の時に性は鼻より出づる訳出ありますが、来世は必ず蚊(か)・蠅(はえ)・蛆(うじ)・蟻(あり)に転生して、一切の悪臭(あくしゅう)の汚穢(おわい)を賞(もてあそ)び、人を咬(か)んだり、血を吸ったりして、命を喪(うしな)う訳であります。
口舌(こうぜつ)でよく人の名節(めいせつ)を傷つけ、人の是々非々(ぜぜひひ)をよく論ずる者は、臨終の時に性は口より出づる訳でありますが、来世はかならず鱗(りん)・虫(ちゅう)の類に転生するのであります。
口は八卦(はっけ)に於いて坎(かん)に属しますが、坎は水に属しますので、鱗(うろこ)の象(かたち)となるのであります。
人生に於いて、もし身を以て邪僻(じゃひ)な行動をとり、自然に逆らい、親不孝をして、色々の不法な行為をなせば、来生は必ず悪報(あくほう)に逢(あ)うのでありますが、この循環の理は一定して変わらぬ者であります。
世間には、たまに品行が端正(たんせい)で、行為の善良な人がおりますが、ただ仏様との縁がなく、道を受けられない者は、来世に公(こう)・侯(こう)・将(しょう)・相(そう)となって一世の永禄(えいろく)を受けられます。
然しそれも数年の栄光であって、臨終が至れば又地獄(じごく)へ帰るのであり、これを六道輪廻(ろくどうりんね)と申すのであります。
故に仏様は、人々に六門を謹んで閉ざし、六道の輪廻を免(まぬが)れるよう教えたのであります。然し外の五門は守り易い訳でありますが、内の意門(いもん)が閉じ難い訳であります。意は脾臓(ひぞう)に藏(おさ)まっていますが、これを名づけて陰神(いんしん)と申します。
仏教には一つの笨法(ほんぽう)がありまして、二十六時中(一日中)一心を玄関(げんかん)に注(そそ)ぎ、老陽(ろうよう)の真火(しんか)を以て焼煉(しょうれん)して、愚(ぐ)の如く癡(ち)の如く、乾々(けんけん)として息(や)まず、百日の工夫(くふう)があれば、心清智郎(しん瀬一郎)の味わいを得ることが出来るのであります。(注:二十六時中は現在では四十六時中)
この修行を久しくして行けば、道心(どうしん)を以て事に当たることが出来るのであり、六門を閉じようとしなくても、自然に閉ざされるのであります。
続く