武内一忠先生ツアー「阿蘇の鬼と縄文水源巡り」Part1神社の秘密を解き明かす
高橋良典氏の著書(徳間書店、太古、日本の王は世界を治めた!)によると、実在の歴史がアナグラムによって神話化されると、過去の生々しい記憶は和らぐものの、本当のことはアナグラム( つづり字の位置を変えて、別の語句をつくること)を適用した関係者以外にはなかなかわかりにくく、もしアナグラムを用いたこと自体が忘れ去られてしまえば、神話はあくまで神話として理解されない。
神代文字のマスターキーで、このアナグラムで世界の遺物を解読する高橋氏の考察は、類を見ません。
それによると、日本神話の高天原は印度のデカン高原で諸々の文化とともに、出雲族(弥生人)として日本に入ってきました。
当時、出雲族は中国の斎の国やタイなどを支配していた大国だったそうです。
祭りごとが日本とユダヤが同じなのは、出雲族が元であるため、という経緯になりますが、この出雲族がアッシリアに追われたユダヤ10氏部族ではなく、アッシリアの一部がナリスマシで日本を支配しているのが現状だと思います。
なぜなら、もし神聖なユダヤ人(縄文人)だったら、天皇制でなく早くから共和制を取り入れたと思います。
日本の古典文化と言われる能や神楽、神輿、その他神社の祭りごとが派手で暗い色調だからです。
泥沼の様な日本史の中から、自分の本質を捜し当てる事は、仏教の受戒などののように、崖から突き落とされるような機会が必要だったと思いますし、信者と言われる人たちが、キリストの磔のように罪を償ってくれる儀式を拝んで、自己満足するような仕組みに変えられているようです。
その結果どうなっているか、アッシリアからの侵入者の暗い重さの通り、流れにさからう方法が見つかりません。
能・お神楽・歌舞伎などなど陰鬱で理解し難いものが日本の文化とされていますが、お面をかぶったり、おやま(女形)、派手な演出や衣装、幽霊が歩き回るようなうらみやむさぼりを課題にした、摩訶不思議な世界観だったのです。
見れども受け入れがたい日本文化なのです。
今、日本が暗い雰囲気から変換できないのも根本的な問題がありそうです。
支配階級に限界があるからです。
彼らも歴史の真髄を求めてきたのですが、原罪を負っている者を、創造の始めに天が受け入れることには無理があります。
12氏部族はどこに行ったか、日本に帰還したのではなく、国をもたない流浪の民として世界の人種と交わり、また人類を牽引して教育や経済を発展させてきた遺伝子として、今誰にも知られずにあるかもしれません。
アイヌもユダヤ人もナリスマシ。
私達は為政者によって創作された歴史を学ぶより、泥沼の蓮のように美しい華を咲かせる自身を省みることが重要です。
その地点から、一貫した天運である「弥勒浄土」の玄関にいたることで、曖昧なすべての問題が解決します。
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【ゆっくり解説】皇室紋章の隠された起源 日ユ同祖論の衝撃の事実【都市伝説】
正しい宗教は源が同じです。キリストの磔は、実際は一人で十字架ではなく一本の柱だったという説がありますが、上図のように処刑されたと伝わっています。
しかも実際にはないゴルゴダ(頭蓋骨:しゃれこうべ)の丘だったと伝ています。
なぜでしょうか、宗教は同源であることがこの謎によって明らかになります。
佛教で如來仏という仏の名称があります。
如來は 梵語で「真理から来た者」という意味で和訳が”如來”。
仏の中で、最高の境地に至った存在、最高位にあります。
【如來】の字を解析すると【如:女と口】生命を生み出す口、【來: 十と人が3人】真中の一人は真理から来たもの、左右の人は上図の左右の罪人(陰・陽)をあらわしています。
十字架の「一点」から來た者、真理が公開されるその時に復活する者を意味しています。
ヨハネ 福音書14章6節 「吾は道なり真理なり性命(いのち)なり…」で十字架が道であり真理であると伝えています。
古来「十字」は顔面(ゴルゴダ:頭蓋骨)で切っていました。
真理はタテ・ヨコの交わる【聖なる一点】であることを伝えてきました。
釈迦の弟子スプーティ問「解脱に至る道は、どのような道でしょうか。」
釈迦曰「解脱に至る道によって解脱を得るのではない。また道でないものによって解脱を得るのではない。スプーティよ、解脱がそのまま道であり、道がそのまま解脱である。一を得ることが、その一切である。解脱とは一味の境地である。眞の道は、口を以て伝え 心に印し刻むもので、もし汝が実相を観、靈覺の境界へ到達したい念があれば、一切の諸法と文字を離れ、着想と執念を捨てて人心の真諦を直指しなければならない。しかる後に本性を観て成仏(解脱)できるであろう。」と答えました。
達磨大師が神光(慧可―禅宗の開祖)に「神光よ、眞伝は文字をあさって得られるものではない。自らの心霊に明師の面授と指点を受ける必要がある。
紙上に画いた餅は食べられないのと同じように紙上に書かれた法は因果から逃れ輪廻転生の路から解脱する事は出来ない。
釈迦が摩訶迦葉に「吾に正法眼蔵あり、涅槃の妙心、実相無相にして微妙の法門、不立文字、教外別伝、これを摩訶迦葉に附嘱す」【粘華微笑・玄嚢鼻直】経典には書いていない「一指相伝の秘法」を伝えました。
「道」すなわち「真理」を得たものは修道することにより、七次元へ遷移する縁と機会が与えられています。
3.11で2万の人が五次元遷移しました。
つまり三次元でいう「死」を伴う遷移ですが、まだそれを理解できる意識レベルにいたっていないため、それぞれにおいて選択の方法があったり、時期が明確でないことが説明されています。
重要なことは、「五次元は永遠ではない」と言うことです。
五次元は、これから約1万年後までには消滅しますので、五次元に遷移してそこで本格的で高度な学びと修道をして「道」を得なければ七次元に遷移できません。
五次元に入ったそのほかの者は、また選択して5百年以内に三次元に「道」を得るため戻ってこなくてはなりません。
そこで五次元の怠惰が習慣化し修行しなければ、輪廻に回されます。
古来、この世で多くの聖賢が難行苦行の末「道」を求めたのはそのためです。そして、命掛けで慧命を継承してきました。
宇宙の存在、あるいは地底の存在(法華経の十五品で説かれているように五次元アガルタの聖なる者)が地上にあらわれ、人類と一緒に修道するのも、七次元に遷移することのできる「道」を得るためです。
宇宙の多くの存在が人間として肉体を得てこの世に生を受け、今この大事な時期に自分の役目を果たし目的を達成しようとしています。
地球の人口が80億人にも膨らんでいるのは、宇宙の存在が大挙して降りてきているためです。
人間として肉体を得なければ「道」を得られないという物理的で神聖な機密(天機)があります。
肉体は小宇宙でその神秘に秘密があります。
さらに重要なのは、古来聖仏・菩薩は、この世の「すべての人々を救う」という誓いをたて降世してきています。
2012年12月21日の変化に関係なく、この世において死ぬまで人々を救う使命があると思う者は、この世に残る選択をします。
その者はそのように自ら望んで生を受けています。
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(五)創造の不可思議は人間の知能と観念を絶する
元気の陽は子の刻に生じ、元気の陰は午の刻に生じます。
つまり子・丑・寅・卯・辰・巳は太極の陽儀で午・未・申・酉・戌・亥は太極の陰儀です。
両儀は二至二分(冬至・夏至・春分・秋分)して四相を生じます。
陰陽が固定しているから東西南北の四方の位置は中を抱いて自然に判明し、気は変化して春夏秋冬の四季に大別されます。
春夏秋冬は中節して春分・夏至・秋分・冬至に分別され、これを加えて八節となります。
これが八卦の基本位となります。
冬至を坎(かん)となし、立春を艮(ごん)となし、春分を震(しん)となし、立夏を巽(そん)となし、夏至を離(理)となし、立秋を坤(こん)となし、秋分を兌(だ)となし、立冬を乾(けん)となします。
一節は三気をつかさどり、変じて二十四気になります。
二十四気は季節と暦の日との関係を示す目安となります。
太陽の通る道(黄道:おうどう)は赤道と約二十三度半の傾きをしていますが、黄道上を太陽が動いて赤道の南側から北側に移る時が春分で、以後順次黄道上を二十四等分した点を太陽が通過する時刻を二十四節の入節時刻とします。
春分から六つ目の節気が夏至でさらに六節して秋分、また六節して冬至となります。一気はさらに三候をつかさどり変じて七十二候になります。
一候は五日に奇数し、併せて三百六十五日四分の一になります。
毎年五日三刻余りますが、これを気盈(きえい)といいます。
来年の春を算するには二十四気に五日三刻を加えればよいわけです。
太極の気は半陰半陽であり、陰気は寒く陽気は暖かい両面の気候を有しています。
冬至半夜の子刻(ねのこく)から陽気が漸次上昇してまいります。
子・丑・寅・卯・辰・巳までが六陽であり、万物がそれに連れ立って生盛してきます。
巳から夏至に至るまでは天は陽であり、泉(地下)は陰となります。
ゆえに地上は暖かく変わり、地下は冷気が残ります。
夏至から段々後進して陽気が減退し、陰気が増進してきます。
午・未・申・酉・戌・亥から冬至に入ります。
こんどは泉(地下)が陽気を保ち、天が陰に変わります。ゆえに地下は暖かく地上は厳しく寒気を帯びてきます。
つまり夏至と冬至が一年の陰陽の極点になっている訳です。陽気が上昇すれば春になり、百穀草木が発芽し、夏とともに長じて来ます。
つまり陽が主となって万物は生成するわけであります。
陰気が下降すれば暑さが減退して秋となり、穀物の結実となり、樹木百草は枯れ、黄色を帯びて萎(しお)れ、冬とともに衰退してしまいます。
つまり陰が主となって万物を収蔵するわけであります。
二十四気・六十四卦・七十二候・三百六十度はすべて天地の経緯を表すものであります。一気・一卦、あるいは一度一度ごとに気候は同じではありません。
宇宙天体から地上万物の生育には不可思議な力をもって雑然とした中に正しい秩序と法則を守って変わりない運行を続けています。
あるいは雑然としたように見えて、その実は正しい天意によって組立られた一つの精巧な機械ともいえます。
時計の部分品は約三百六十ほどありますが、雑然として箱の中に入れただけでは動かないでしょう。
一つ一つの部分品を精密に組立ているからこそ正しいときの刻みができます。
よけいな部品に見えても一つの組織の中から見て欠くべからざる存在なのです。
このようにして空中に妙あり、昼夜四季が古今東西を通じて謬(あやま)らず、年々行流して息(や)まず、周天を運転しているのです。
宇宙天体の日月星はなに一つ不必要なものはなく、地球・象天の万物万類も無益の存在のようなものを、老〇様(ラウム)が造られることはありません。
形体として顕れた以上はそれぞれの役目や作用があります。
われわれがそれぞれの物体の正しい用途を知らなければ、真なる天理と神意を理解できたと申せないでしょう。
人体の各部分も同様の貴重な意義をもっています。
老〇様(ラウム)は男女の数を厳格に半分ずつに分けて生じ、万物万類に同様の形の物を造っておられません。
一つしかないものとしてその物を絶対的に価値づけています。
こうして気天・象天は大理天の中に含まれ、ご意志のままに支配され、綿密に合しては離れられません。
天は三つに区分して説明していますが、その連絡は確固として一貫しています。
われわれ人間は大海原の一つの砂にも値しない微小な存在ですので三天を一体にしか見ることができません。
理天を体とすれば、気天・象天はその用です。
理天が本源・上流であれば気天・象天はその支流・末流であるわけです。
樹木でたとえると根本と枝葉の間柄であります。
われわれの限界には気天・象天が大きく反映して、どうしても無限大の理天の広大さが理解でないだけです。
理天は時間と空間を超越した霊のみの世界でありますので、時間と空間の中に制約されたわれわれの知能と観念では想像に絶するものがあります。
霊の世界は霊の悟りの速やかなる人にのみ把握できますが、ただ実験と分析だけで試みようとする究明態度ではいよいよ真理から遠ざかるだけであります。
理は分けるよりも合わせる方がより早く悟れます。
それが妙なのであります。
昔の書に、ある人が、常日頃、自分が使用している荷車があまり重宝なので不思議に思い、一体この車の便利さは、どこの部分にひそんでいるのかと思いました。
そこで車の部品を一つ一つ分解しましたが、車の便利な根元はどこにも見いだせなかった言う話があります。
その必要な部分の一つ一つが無駄なく組立られ合してこそ、その中から妙なる作用が生じてくるのです。
それはなにも車だけに限ったことではなく、われわれの身体の組み合わせにせよ、万象の成立にせよ、同様のことが言えます。
理は用いられてこそ尽きぬ働きを示すことができます。
快い音楽が聞こえ、うまい御馳走が目につけば道行く人は足を止めるでしょう。
でも道といい理というものは語って聞かせても誠に淡白で味も素気もありません。
眼をよろこばせることもなければ耳を楽しませることもありません。
この眼や耳を楽しませるものは理の用であり、道のはたらきであり、用いられたものであります。
道はさまざまな形に現われると、それぞれ区別して名がつけられます。
しかし、その名も区別もやはり道の現れで、やがては混沌未分の「道」すなわち「理」に返るのであります。
この働きはすべて人間の智能と考えを絶するものであります。
続き
妄語戒(二)
十一、妄語戒は比較的戒律を行持しがたいです。
平常の話の中で、人の自尊心を傷つけたり、人を怒らせたり、うそ、偽りを言ってはいけません。
くれぐれも他人の夫婦の和を破壊してはいけません。
夫婦の事は当事者同志のことです。
干渉してはいけません。
そうしないと運が悪くなります。
舌はできるだけ内に収め、外に放ってはいけません。
人に益を与える「善なる心の言葉」や「益を潤す言葉」をたくさん話すことです。
十二、常に他人を毀謗しないよい言葉を話せば、広く善縁を結ぶことができます。
十三、次のいくつかは口によってお金を儲けます。
修行人はこれらに従事しないことです。
(1)弁護士、検察官…古人は「一世話役人になったら九世にわたって牛になる。」と言います。
この職業に従事する人は往々にして一言で人の生死を判定するので、客観的、又公平にあるかを注意し、賄賂の行為があってはいけません。
もし権勢によって是非を判断するなら容易に人命をいい加減に扱うようになります。
(2)占い師…占い師は常に「あなたがもしこれこれのようにしなかったら、これこれのような結果にあうでしょう。」というような話をしますが、これは「悪口」です。
この種の仕事をしている人は、話すことを婉曲にして、客観的に忠告することがよいです。
(3)風水師…容易に「もしあなたが修めなければ何年後にはこのようになります。」のような決定的言い方をし、他人を傷つけます。
(4)道士…祖先が亡くなった時、道士に法律を頼み祖先を超渡します。
もし彼が本当に超渡できるなら、閻羅王は彼に対して容赦するでしょうか。
三世因果の業力をどうやって清算するのでしょうか。
ゆえにこれは習慣、風俗で、人々を安心させるだけに過ぎません。
もしお経を読むなら持斎し、修行している方に来てもらう事です。
もし持斎をしていない人は自分の罪業が山ほどあり、自分を渡す事ができないのにどうして他人を超渡することができるでしょうか。
十四、三世に渡り妄語を行なわなければ、舌の先は鼻に触れることができます。
舌が赤くつややかで唇の厚い人は比較的人情味があり、親切です。
女性の門歯が幅広く厚いなら夫を助け、家の財産を守ることができます。
歯に隙間があると財産を浪費します。
歯が鼠のようだと心機が多いです。
歯が長短出入りがあってふぞろいなのは前世にたくさん妄語を言ったからです。
女性の声がかん高いのは猛々しく狂暴であり、声が低く沈んでいるのは事がうまく運びません。
女性の声が柔和であると一生涯福報があり高貴です。
眉毛が目をおおっていれば家族の庇護を受け又後代を庇護することができます。
十五、修道人は占いをせず、而して命を運転します。
命運がよくなくても、改造することができます。
命運を改造するには心を改造することから開始します。
たた外相(例えば紋眉のたぐい)をかえても効果はないのです。
顔形がきれいでなく、はっきりと話ができず、口才なくても、もし妄語戒を守ることが出来れば、将来間違いなく話がうまくなります。
十六、清口は素食を食べるだけではありません。
素食を食べることを「斎食する」と言います。
清口は悪口を言わず、両舌をせず、綺語はいわず、妄言をしないことです。
十七、男性は「三字経」を口に出してはいけません。
女性は夫を罵ったり、子供を叱ったりする時には限度があります。聞くにたえない言葉で罵ってはいけません。
十八、他人が家庭問題で悩んでいる時に、その人に離婚を勧めたりその人を刺激することを言ってはいけません。
もしこれが原因でその人が自殺したら、妄語戒を犯しただけではなく殺戒も犯したことになります。
十九、衆生を救うため、あるいはその人の煩悩を除くために善意の噓は犯すうちに入りません。
二十、修行人は悪口(人を罵ったり、低俗な言い方をしたり、耳触りな話し方や、三字経のようなもの)から遠く離れるべきです。
人の心を乱し、悩ませる言葉(他人の心をかき乱し、その人の魂の抜けたような状態にさせる言葉)や事を壊す言葉やその人を苦しめる言葉(人に苦しみを与える言葉)から遠く離れるべきです。
続く