真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

天道略説~(六)得道、修道、伝道の意義 完

2024-05-02 18:55:44 | 天道略説

(六)得道、修道、伝道の意義

天道の秘法である「三宝」は今から七十余年前、第十七代路祖の時代から普く縁ある人々に、一層容易(たやす)く授けることを

老〇(ラウム)から許されました。

只今は第十八代弓長(ゆみなが)・子系(こがかり)祖に至り、更に広く妙法を世界各国に佈伝されております。

点伝師はみな寝食を忘れて衆生を一人でも多く、彼岸へ救い上げようとして懸命に奔走中であります。

仏堂を設置した壇主は一隻の船の船長となって心ある人の覚醒を促しております。天道の秘法普伝は現在の時期に適応した

老〇(ラウム)の応急措置であります。それは人心の罪悪と狂気によって目前に凄(すざま)じい災難を招きつつあるからであります。

世界の末日、世の終わりと言われる程、世を挙げて戦々恐々として危惧(おそ)れている時期であります。

この暗黒、陰険な秋に当たり

老〇(ラウム)は九十六億の霊の原子(もとのこ)を事前に理天へ救い帰らせたく、弓長祖に全権を委任し、先に道を求道者に伝え授けることになりました。

善悪混沌とした世の中に善縁者を捜し出すことは難しいことですが、過ちを改悛悔悟(かいしゅんかいご)する人は誰でも紹介人、保証人の導きによって、仏堂に迎え入れられ、儀式を挙行して道の至宝を賦与(あたえ)られます。

その昔、聖人尊者はこの御宝を得る為に予め十数年、二十数年も苦の禅行を経過しないと授けられないものです。

得道しなければ、体内の神通関門が分からないし、従って霊性の出入りする玄関を悟れません。

このようでは寿限の時、確実に理天(極楽、天国)へ帰れるとは約束できません。

もう一つ大事な事は一旦、身命に拘(かか)わる危難の時にも仙・仏・神・聖との連絡が全然できないことであります。

この心法を得ることが何よりも先決問題であります。

釈迦は出家以来、仏陀迦那地(ブッタガヤーチ)の畢波羅樹(ビツバラジュ)の下で誓いを立てて前後十六年間、静坐冥想して、最後に燃灯仏から授記して頂きました。

観音菩薩は興林国(こうりんこく)、妙荘王(みゅそうおう)の第三王女として生まれながら富貴栄華に惑わされず出家し十四年間苦行して漸く(ようや)く得道をしました。

達摩大師は印度(インド)、香技国(こうきこく)の第三王子でありながら、二十七代、般若多羅(はんにゃたら)の下に帰依し、更に願を立てて中国に渡り九年間、熊耳(ゆうじ)山の洞窟で面壁して修煉しました。

黄帝は七十一名の天下の師に随(したが)って修道したが道を得られず、遂に十三歳の広成子(こうせいし)に縋(すが)って漸(よう)やく念願を叶えられました。

神光は達摩大師に道を授けて頂きたい熱心の余り、断固、左臂(ひだりひじ)を断ち切った程であります。

邱祖(きゅうそ)は師の命令を聞いて得道する前に大飢餓を七十二回、短い断食を無数に断行して苦難を忍び通しました。

これはほんの例に過ぎませんが、明師に出会うために、このような長い歳月さえも厭わず、敬虔な心持を抱いて求め続けた程であります。悲願に達せられて得道後、更に霊光の純熟を煉り、磨き、なお進んで今度は衆生人類に伝道をされたのであります。

所が現今の宗教人は大方、この点を悟らないで、簡単に伝道という言葉を乱発しておるようです。

得道して先ず自分が救われてから、然る後に他人を助けるのが順序であります。

宗教の法による修行は「修道」の域から出ておりません。

「修道」は「得道」の前程工作であります。天道を得るまでの段階に過ぎないのです。

と言って天道は決して宗教と別個の存在ではなく、一脈相通ずる最高峯であります。

宗教の務めの範囲は倫理、礼教、道徳、善行を教え、天道の目的地へ導く道(みち)しるべであります。

天道は宇宙を包含(つつ)み、限りない真理を網羅している大本であります。

霊性(たましい)や生命を救度(きゅうど)、挽回してくださるものであります。

修道によって、いかに人格教養が高くなっても得道して

老〇(ラウム)からのお恵みの秘宝を得なければ結果的に霊(たましい)の救いは難しいものです。

世界中で天道よりも幅が広く奥の深い道はありません。

私達一般庶民にも簡単に授けて頂ける原因は先に述べたように時勢の変遷によって不測の災難が恐ろしい牙を剝(む)いて正に私達に襲い掛かろうとしているからです。

その防御法として最上の道を先ず最初に与えてくださるのです。

各宗教に帰依している人でも臆(おく)し憚(はばか)ることなく、誠心から真伝を得るようにお勧めいたします。

教義、戒律に執着しないで超宗教的な心持を抱いて真理を求めていくのが当然であります。

老〇(ラウム)は決して人を罰しません。

真理探究と正道参悟するには、小さな人間の考えで決めた規則にこだわったり、縛られたりすることもありません。

私達が認め信じなくても

老〇(ラウム)の御子であることに変わりはないのです。

固定的な観念に囚われず忠実に素直に本心の覚(めざ)めるまま躊躇(ちゅうちょ)せずに道を得るのが本当です。

そして直ちに近隣、知人や親類家族の方々を紹介して得道の機会を与えてあげて頂きたいのです。

修道は得道後さらに指導して貰えば急速に進歩して行きます。

今は時期的に見て一番、好機会に恵まれています。

この時にこそ不滅の功徳が培(つちか)えるのであります。六万年来の罪の消滅ができるのであります。霊魂の親神様である

老〇(ラウム)に最も喜ばれ、安心していただけるのであります。

人間に生れて一番人間らしい仕事ができるのであります。

自分の職業と仕事の合間合間に伝道が許されるのであります。

出家修煉するのではなく、在家のまま道を得て、道を修め、更に人々に佈(つた)えれば結構であります。

この絶えない憐れみと愛の光に満ち満ち天道に遇(めぐ)り会えた事実としての貴方の御縁は普通人よりも深く、祖先の徳は誰よりも高いことを証明しています。

亦、貴方にとっては三生(さんせい)の幸いであることも悟って頂きたいのであります。

どうぞこれを縁結びとして今後共、ひたすら天道に邁進し共々に世人に

老〇(ラウム)の福音と栄光をお伝えすべきであります。神も人も深く貴方に期待と希望をかけている次第であります。


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天道略説~(五)人生の意義

2024-05-01 17:36:00 | 天道略説

(五)人生の真義

人の世の生活は愉快で楽しく素晴らしいと思う人もありましょうが、実際は非常に苦しく煩(わずら)わしいものであります。

貧乏には貧乏としての苦しみがあり、金持ちには金持ちとしての悩みがあります。

同じ苦しみでも人によって、或いは致命的であり、或いは軽微でありますが、ここに人生の寿命を平均七十五歳として、その中に楽しみと苦しみが何程(どれほど)ずつあるかを論じてみましょう。

三分の一の二十五年間は夜間の睡眠時間として、残りの五十年間に何程の苦しみがあるかを先ず述べてみたいと思います。

生存していく為に受ける種々の困難は確かに苦しみの障害です。

五十歳の初老担って愈々(いよいよ)老人の境に入りますと若い人に比べて視覚、聴覚は段々衰えていきます。

気力が日に日に衰弱し、記憶の減退や歯の脱落など次々と苦しみが身に沁(し)みて感じられます。

万病の併発、身体の故障等、相次いで起こり、或いは長年病床で呻吟(しんぎん)する様は決して楽ではありません。

死亡も亦、苦悶(くもん)の極みであります。

愛するということも身を焦がす段階になれば苦しみになります。

最愛の父母、妻子、兄弟との死別、生別も生身を割(さ)かれる思いであります。

憎悪(にくしみ)や怨恨(うらみ)も、お互いの限りない苦痛であります。

憤怒(いかり)や嫉妬(しっと)をするのもされるのも精神を痛めつけられます。

求めても得られない悩み、欲しくても思う通りに行かない焦燥(しょうそう)、才能が他人に劣る僻(ひが)み、衣、食、住の不安、災難に対する恐怖等、何一つ苦でないものはありません。

愚痴も煩悩(ぼんのう)も妄想も顛倒(てんとう)も雑念も闘争も喧嘩もみな苦しみの類(たぐい)に入ります。

私達の生涯には以上述べた苦しみをみな少なからず受けて来たか、受けなければならないものであります。

これらを除いて外に何程の楽しみと喜びが残っているでしょうか。

ほんとうに僅(わずか)なものです。

稲妻の閃光(せんこう)の如く瞬間的なものだけです。

人間の浅薄(せんぱく)な喜悦や快楽の後には必ず大きな悲哀と憂愁が待ち構えています。

他人の家庭や身分は幸福そうでこれを羨ましいと思っても、本人の立場から言わせれば、それなりに身を切られる様な苦しみがあるのです。

富貴の苦しみも貧賤の苦しみも同じように深刻な苦悩であります。

精神的、肉体的の差はあっても、本質的に苦痛は変わりありません。

こんな生活は義理やお世辞にも幸福とは言えません。

その為に宗教に入って精神の拠所を求めている人達もありますが、果たして悠久的に安心立命を得られるかは疑問です。

天道ではこれら一切の苦厄と恐怖と煩悩の因縁を洗い浄めて下さることを確信してお約束できます。

智慧の光を明らかに現わしている人には暗黒の陰影は破片(かけら)程も存在し得ないのです。

修道している人の心境と精神は已に苦しみを脱却している為、普通人の謂う苦しみは天道人には適用されません。

人生の航路は一筋の長い旅を続けているのと同じことです。

意のままに行かない種々の苦しみと悩みは限りなく私達の身辺に纏(まと)わり着いて離れません。

しかし若しここに全然苦しみと悩みを感覚しない人があるとすれば、なんと素晴らしく、全く羨ましくてあやかりたいと思いませんか。

そんな人がると信じますか。

それがあるのです。

天道を修めている人です。天道を修めている人は直接、神様の御神示に従って諸事を行っていますから苦悩は自然に解消されるのです。

人間の一生は夢であり、幻であり、泡沫(ほうまつ)であります。

仮定的、虚偽的の存在なのです。

霊の世界!これこそ私達が当然求めて到達せねばならない処であります。

ここだけが私達の真実に生きるべき境界(きょうがい)であります。

ここに帰ってこそ真の意義があり、実相の存在が得られるのです。

ここに至る道が神の道、天道であります。

続く


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天道略説~(四) 因果の縁を断つ

2024-04-30 19:22:27 | 天道略説

(四) 因果の縁を断つ

物事には原因があって結果があると同じように人間の万事も因果の繰り返しと循環であります。

来るしみも楽しみも因果によって招いたものであり、喜びも哀しみも因果によって顕れた現象であります。

「因果は懼(おそ)ろしい」と思い込んでいる人も多かろうと存じますが、決して恐ろしい不吉だけが因果ではなく、善も悪も、正も邪も、吉も凶もみな因果の中に含まれています。

恐ろしい怕(こわ)いと思うのは、良くない結果だけが強烈に胸を打つか、悪い事ばかりをしている人が多いからです。

起因に基づいて結果があるのは天道の規律であり、大自然の法則であります。

火のない所には煙が立たず、原因のない結果は絶対にありません。

賢い人、愚かな人、聡明な人、白痴な人、幸運、不運の原因はすべて前世に善行か悪徳を為したかによるものであります。

こうして私達の現在の行いや振る舞いの一挙一動は、やがて将来か来世の結果に歴然と現れてきますから、ほんとうに心して注意しつつ行為しなければなりません。

そして私達一人一人の小さな行いでも大きく社会の上に現れてくるものです。

現在、世界中至る所に争乱と災難が起こりつつ有るのも過去の人類が犯した罪悪、宿業の報復であります。

人心が悪ければ悪い程、災難も重く惨(すさ)ま軸成るのは当然のことです。

老〇(ラウム)から与えられた霊魂をすっかり汚く穢(よご)してしまい、平気で悪智、奸計(かんけい)を弄(もてあそ)んで他人を騙(だま)したり陥(おとし)入れたりしています。

殺害をしたり姦淫(かんいん)をしたり放火をしたり、螻蛄(けら)以下の破廉恥(はれんち)な行為をしたりすると、その結果は餓鬼道(がきどう)、畜生道(ちくしょうどう)に陥(お)ち、亦は「象天界」の苦しい人生の酷(むご)い応酬をうけなくてはなりません。

世を撹乱(こうらん)し地球を亡ぼすような罪悪を犯せば万年に霊の苦しみを受け続け、永久に浮かばれません。

一切の罪を消滅するには道を求め、道を得て、世を救い、人類を道に目覚めさせるべきです。

この道が天道であります。

昔の聖人行者は得道する為に難行苦行をした訳です。

宗教に依り修めて到達する目的も天道であります。

元より天道と一般宗教は本質的に異なっています。

それは天命があるのとないのとで大きく区別されます。

宗教の法によって到達し得る究極の天界は「気天界」だけであります。

この境界は依然 縁起縁滅があります。

暫定的に気天神としての位に居ても期限が尽きれば亦、人間として転生しなければなりません。

勿論 帰天神に昇進するにも、それ相応の善果徳行が必要です。

釈迦は気天を滅道(楽の因果)と云い、人間界地獄界を苦集(苦の因果)と申されました。

たとい楽な因果であっても暫定的であり、有限的であります。

天道によって到達する境界は「理天界」であります。

理天は無苦集、無滅道であり、無際限、無期限の極楽天国であります。

天命は絶対的至上の命令です。

この秘密蔵を得ることによって永遠の救いが与えられます。

皮相な学問だけではなく、聖人の心を心とする真髄を得るのです。

この法は微妙の法門ですが、決して無根拠のものではなく、真実に瞭(はっき)りと仏堂の前で授記して頂けます。

釈迦は迦葉に正法眼蔵の別伝を授け、孔子は曽子に一貫至善の心法を伝え、達摩は慧可に直指人心の妙法を与えました。

こ密宝は乃ち天道の真伝であります。

この心法を授けられることによって総ての苦悩と災厄が除かれます。

畜生、動物、人間、地獄、悪鬼、亡者及び気天神をひっくるめた因果の輪廻(サンサーラ)を根こそぎ解脱して下さいます。

霊がこの苦海の世界に輪廻、循環してから六万年余り、数え切れないほど、幾千世転輪の辛酸を餘儀(よぎ)なくされています。

天道の法を得ることによって、霊の籍が理天に移されるだけではなく、一旦、不祥の災厄が起こった時には、仙仏をお迎えして護庇(ごひ)して頂けます。

やがて寿命が尽きた暁には、一歩にして久遠の楽しい理天に帰ることができます。

実に因果の起滅を断ち切る法は昔からの道、即ち天道のみであります。

 


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天道略説~(三)天道の聖訓

2024-04-29 18:46:24 | 天道略説

(三)天道の聖訓

天道では直接、神様から御啓示を頂く特典が許されています。

御神事の様式は一部宗教で催(もよう)している「霊媒(れいばい)」とか、或いは「巫女(みこ)」「扶機(フーチィ)」「イチコ」「ヨリキ」「御台(ごだい)さん」亦は心霊学研究のグループで行っている「霊言現象(トランス・スピーチ)」「守護霊(しゅごれい)」や催眠術(ヒプノコジ―)等による心霊界との暗示や連絡とは全然異なっています。

斯様な連絡法によって着いてくる霊は狐精(きつねのせい)とか狸精(たぬきのせい)、蛇精(へびのせい)の妖精類(アリーるい)か亡者、死霊等、低級な遊魂(ゆうこん)が憑(かか)るだけであります。

釈迦、弥勒、観音、達摩、キリスト、マホメッド、孔子、孟子、老子などのような過去に天命を受けた仏、仙、神、聖や菩薩の御霊はとても降臨できません。

天道ではこれらの神格のある仙仏は勿論、より以上の親神様である

老〇(ラウム)の親しい御降壇(ごこうだん)を年に五回も許されています。

普通、開壇の時が特別事情による請訓(せいくん)の時には天命を奉(う)けた神格のある神仏が啓示訓諭(けいじくんゆ)にあたられます。

御臨壇の時は天壇の前で天才と称する少年少女(完全菜食無我無念)の身体を使い、静かに砂盤(すなばん)の前に直立し両手で木筆(もくひつ)を軽く持って黙祷しますと、瞬間的に神様の御霊(みたま)が入れ替わり、左横書きに何人にも鮮やかに見て分かる文字で画き現わされます。

非常に速度は早く滾々(こんこん)と湧き出る泉の様に後から後から現われて参ります。

左横に立っている人才が早速声高に読み上げ、そのまた左横にいる地才が即座に書き留めます。

三才の合霊は丁度水の流れるように続けられます。

昼夜を問わず何時いかなる天壇でも御臨壇を仰がれます。

御神事の時間は仙仏によって一時間か二時間、或いは五時間、六時間も書かれます。

亦は一昼夜連続される場合もあります。

この様な有難い特典は古今東西を通じて天道にしか許されていないことを明言いたします。

この厳粛な飛鸞宣化(ひらんせんか:砂文字)に参列できる方は余程、御縁の深い人でないと許されませんが、貴方も是非一度このような感激の式典に参加したいとは思いませんか。

さぞ貴方の生涯にとって意義深いことと信じます。

もし生涯の記憶と神の真実を知りたいと望まれましたらお申し込みになれば開催時に招待して頂けます。

それは素晴らしい、有難い一言に尽きます。若し貴方に御縁が深く神様が必要を感じられた場合には個人的に指名されて、特に将来の進行方針を明示や暗示で導いて下さいます。

神様は私達の前途を見透され正しい方向へご指示を垂れ賜うのです。天道の伝道者は総て御神事による御聖訓に基づいて講和し且つ行動します。

御聖訓こそは現代に即応した生きた経書聖典であります。

人間の言葉ではなく直接、神様から賜った貴い訓諭の集録であります。

御聖訓を読んでいる間に言い知れない喜悦と希望が湧いてまいります。

人生の不可解なことも解明されます。

人間のことは言うに及ばず、大霊界(理天)の内情か事細かく窺(うかが)われます。

それに地獄界、幽冥界(ゆうめいかい)の凄惨(せいさん)や処刑、罰罪も明瞭詳細に記され、読む人をして目の辺りにその状況が手に取る様に分かります。

御聖訓を読むことによって各宗教の真髄も分かり、亦総ての宗教を超越した崇高な心持にもなれます。

雑念や煩悩に苦しめられている場合、静かに一章だけでもお読みなれば忽(たちま)ち消散(しょうさん)して清らな智慧の泉が湧いてまいります。

不正邪悪な心が起こった時、一節や一頁だけでも読まれますと、直ちに軽率な行為は矯正され未然に犯罪を防げます。

憤怒(ふんぬ)疑惑がある場合、十分間黙然するとすぐ氷解して感謝と信頼に変わってしまいます。

能力が集中して物事に正しい判断が得られます。

高尚な真理を読まれますから広い智力と偉大な才能が発達してまいります。

何時も絶えず読んでいると知らず知らずに私達の血となり肉となって、人格教養が段々高くなって行き、謙遜な心寛大な心を持つことができます。

自然に太古の聖人、尊者の様な気魄(きはく)と威厳(いげん)も具わって参ります。

迷っている時はこれによって光明の彼方に導かれます。

妙智慧が開かれますから記憶力が増進してきます。

斯様に御聖訓の力は真に絶大且つ尊厳なものであります。

絶えず人生の辛酸を受けている私達にとっては、どうしても即刻に確実な安心立命のご指示が必要です。

どうぞ常に天道の御聖訓を肌身離さず携帯して寸暇を割いてお読みなるよう勧めいたします。

必ずや肉体的の救いと永久に霊的な救いが得られることを固くお約束申し上げます。

続く


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天道略説~(二)天命と道脈

2024-04-28 22:18:44 | 天道略説

(二)天命と道脈

天道は天命によって伝えられています。天命とは

老〇(ラウム)の命令に従って人間界に生れ、

老〇(ラウム)

に替わって古今を通じて謬(あや)まらない真理を樹立し、万古不易の定理を明らかにし、人々の迷昧(まよ)った行為を指導し、明確に未来を示唆するのがその使命であります。更に人心を浄化し、霊魂を地獄界、人間界、気天界の際限ない輪廻の苦しみから永遠の極楽理天へ救い上げるべく心法を授けてその役目を果すものであります。天命の法則は絶対的尊厳をもつ人類の燈台であり、指針であります。時代と時運と土地に応じて、それぞれ立派な聖業を完成されて再び理天に帰っています。

天命拝授の資格者はその時代でも一番 高徳英邁(こうとくえいまい)の人であり、衆に秀でた智慧深甚(しんじん)のお方でないと天命は降しになれません。従って十数億人中に一人しか居ない訳であります。この方を真の明師と申します。昔、求道の修業者は真の明師に会って永遠の救いを得たい為に、熱烈に修煉に寧日誠(ねいじつまこと)を尽くし、山岳僻地であろうと、天の彼方、地の果てであろうと倦(う)まずにあるき通して探し求めました。栄達も富裕も権力も財欲も捨ててひたすらに天命のある真の道、天道を求めて行きました。

雨風であろうと、雪霜であろうと、寒暑の辛苦もいとわず千里万里を行脚いたしました。如何程宗教の教義に明るく、亦、経典聖書に詳しくても教外別伝(しゅうきょういがいのべつのつたえ)不立文字(ぶんしょうやもじをつかわない)口授心印(くちでさずけこころでいんする)の秘法を得なければ、聖なる霊の確実な超抜(すくわれ)はむずかしい事は百も千も承知していたからであります。昔、道統の継承(うけつぎ)は一代祖から一代祖だけにしか譲り伝えられませんでした。天地開闢の始めは原始時代の為、人間に天命統掌の重責を担わせられないので、神仏を遣わして約四万年に亘る長い間、天盤を掌(つかさど)られ増した。「天盤」とは宇宙の総理に当たるお役目であります。天地の終始の全期間を通じて

老〇(ラウム)は天盤を十大神仏に担わせておられます。一柱一柱によって掌握の期間は同じくありません。次に各神仏の天盤、統掌年月と時代を列記しますと、

第一代 赤愛仏(せきあいぶつ) 南方に居す。  治世 6000年 卯の会

第二代 生育子(せいくし)   北方に居す。  治世 4800年  〃

第三代 甲三春(こうさんしゅん)東方に居す。  治世 3720年 辰の会

第四代 酉長庚(ゆうちょうこう)西方に居す。  治世 7080年  〃

第五代 空谷神(くうこくしん) 西北方に居す。 治世 5284年 巳の会

第六代 龍野氏(りゅうやし)  東南方に居す。 治世 5516年  〃

第七代 継天仏(けいてんぶつ) 東北方に居す。 治世 5800年 午の会

代理仏 伏羲氏(ふくぎし)   西南方に居す。 治世  500年  〃

                八卦完成の功徳により特命

第八代 燃灯仏(ねんとうぶつ) 青陽時代の天盤 治世 1500年  〃

第九代 釈迦仏(しゃかぶつ)  紅陽時代の天盤 治世 3000年  〃

第十代 弥勒仏(みろくぶつ)  白陽時代の天盤 治世10800年 未の会

伏羲氏が八卦を完成してから人類の開化が著しく目覚ましくなり、文字、礼教が整いましたので始めて人皇(じんのう)、伏羲に聖道の「道盤」の天命が降されました。伏羲から神農(農業・薬学の祖)に伝わり、黄帝(衣服・度量・鍼灸の祖)堯帝・舜帝(道徳の最も平和の時代)、禹帝(治水の祖)湯帝、文王(後天の八卦を完成)武王、周公(礼教を制定した)へと続きました。この時代は1500年間あって青陽時代と云いまして天命は専ら帝王の間しか伝えられませんでした。周公が終って時運に応じて聖人・老子(道教の祖)に天命が降されました。これ以後孔子(儒教の祖)曽子、子思、孟子、釈迦(仏教の祖)へと続き、印度に(インド)に於いて、迦葉(釈迦の大弟子)阿難(仏典を著わす)商那阿修(しょうなあしゅう)、優波彩多(ゆばさいた)、提迦(だいたつか)、弥遮迦(みしゃか)、婆波密(ばはみつ)、仏陀難提(ぶつだなんだい)、伏駄密多(ふくだみつだ)、脇尊者(きょうそんじゃ)、富那夜舎(ふなやしや)、馬鳴(めみょう)、伽ナ摩羅(かなまら)、龍樹(りゅうじゅ)、

伽那提婆(かなだいば)、羅睺羅多(らごらた)僧伽難提(そかなんだい)、伽夜舎那(かなしゃな)、鳩摩羅多(くまらた)、闇夜多(じややた)、婆修盤頭(ばしゅうばんとう)、摩羅(まのら)、鶴勒那(かくろくな)、師子(しし)、波舎須多(はしゃすた)、不如密多(ふにょみた)、般若多羅(はんにゃたら)、達摩(だるま:印度第28代祖だが中国に来て第一代祖となる)へと伝わりました。西天28代祖の達摩大師は亦、命を受け中国に渡って神光(しんこう:慧可別称あり)に授け神光から僧璨(そうさん:第三代祖)、道信(第四代祖)、弘忍(ぐにん:第五代祖)、慧能(えのう:第六代祖)、白馬祖(はくばそ:第七代祖:釋教終わり儒教起こる)、羅祖(らそ:第八代祖)、黄祖(こうそ:第九代祖)、呉祖(ごそ:第十代祖)、何祖(かそ:第十一代祖)、袁祖(えんそ:第十二代祖)、徐楊祖(じょようそ:第十三代祖)、姚祖(ようそ:第十四代祖)、王祖(おうそ:第十五代祖:収円の初まり)、劉祖(りゅうそ:第十六代祖:三教〔釋・儒・道〕合一す)と聖人、尊者の間に天命が伝えられました。天道道脈の継承(うけつぎ)は尊く、厳しく、相伝わっています。この期間は三千年間、紅陽時代と云います。路祖(ろそ:第十七代祖)から白陽時代になり、所謂、現代であります。白陽時代は最も長く一万八百年間あって、しかも道徳の世界、太平の世界が具現されることになっています。しかし、現在の時代を見渡しますと、平和どころか最も人心が腐敗し、道徳が頽廃している哀れな現状であります。神様のお仰せによりますと、人心の堕落は必然的に罪業縮孼(ざいごうしゅくげつ)を造り、これらが積もって遂に目前に大きな災難、厄運を醸し出そうとしているそうです。さらにこの災いは空前絶後の凄しい残酷な結果に終わると申されています。罪を造った人は皆、浄(きれ)いに清算され淘汰されるのです。乱世の極が只今であり、混沌と太平に入る過渡期が現代であると申されます。つまり現在の時勢が一番危険であり焦眉(しょうび)の急に迫られている訳であります。ここに天道が庶民に広く公開を許され一人でも多く良民を未然にこの未曽有の災難から助け出そうとしています。現在は十八代、弓長祖(ゆみながそ)・子系(しけいそ)に至って万教帰一、三曹済度の大使命を合わせ受け、一番短期間に最も多数の人を救うことになっています。世界中、至る所に伝えられ、仏堂は縁ある家庭に設けられています。民族の優劣を区別せず、老幼男女を問わず、御縁ある人には見な千古の秘法を得受できることになりました。弓長祖(ゆみながそ)・子系(しけいそ)の行かれない地方へは点伝師を派遣して啓発伝道にあたらせておられます。現在の人心は益々極悪非道に堕ち、世の中は悪で充満しています。これを除去し浄化洗浄するのが弓長祖(ゆみながそ)・子系(しけいそ)の重責であります。霊魂を直接、天国極楽へ済度してくださるのも道盤の統掌である弓長祖(ゆみながそ)・子系祖(しけいそ)のお仕事であります。

弓長祖子系祖


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