令和5年10月時事解説・時局分析|藤原直哉理事長(収録版)202310
アンドロメダ・シリウス・プレアデスなどなど地球に文明を築き、一方では地球の環境を創ってきました。
その創造性には個性があって天に活かされましたが、文明が成熟すると内部分裂が起こり、地球の破戒を誘発させてきました。
内部分裂が起こった原因は根源創造の能の能力に近づこうとする欲望が内在しているからでした。
縄文人が世界に文明を築くことができたのは、天に対する畏敬の念があったからで、ナーガ族のラピタ(出雲族)は東南アジアから、インドまでを治めていた時代が降下(廃れる)してくると、日本にその秘密があると考え日本支配に移行してきました。
この間、天命は印度(釈迦)に移り、達摩大師によって中国に戻り(老水干潮)、神光(慧可:禅宗の開祖)に伝えられ、達摩大師から17代呂祖によって、火宅に転じました。
つまり、古代巨石時代も大和朝廷という国家が造られた後も、天命は隠中にあって、古代地球の創成に貢献のあったものは、今日身体を得て中華に生まれて来て、はじめて古代の念願であった「根源創造主への憧れ」つまり悟りを得て、永遠の命と創造力を得ることができるわけです。
それが弥勒浄土です。
『もう隠せない真実の歴史』武内一忠さんインタビュー(日本人の教養:日本の古代史編)
退歩即墜陥穽中 退歩せば即ち陥穽(かんせい)の中に堕(お)ち
縮念莫忘自心情 縮念(縮年)するも自心(地震)の情を忘(わ す)るる莫(な)し
不与世俗争好歹 世俗と好歹(こうたい)を争わず
前程速奔有光明 前程の速奔(そくほん)せば光明有り
解:修行に嫌気を抱いてこの世で迷えば、陥穽(かんせい:地獄)に堕ちます。
その道念が縮(ちじ)まる時も自分の心情を忘れてはなりません。
このように慎んでいるならば、世の中での功名貨利(こうみょうかり)を争わずに、修道の前程に向かって奔(はし)れば前途に光明が待っているのです。それで
一、求道した後に、我が性は天から賦(あた)えて下さったのだから、更に徳を立て功を立てることに勤めるに、精進、忍辱(じんじょく)、持戒(じかい)、布施、禅定(ぜんじょう)、智慧の六波羅蜜(ろくはらみつ)を究めて、明心見性(めいしんけんしょう)に至らし、明善を初(もと)に復(か)えすには試練を畏(おそ)れず、奮門(ふんもん)して一歩一歩と踏み締めて、怠(おこた)らず畏れずに勵(はげ)む可(べ)し。
二、犯しやすい缺点(けってん)
1,志恒(こころざしつね)ならず:始めは勤めているが終(つい)に怠(おこた)り、好奇心に躍(おど)って奇跡なければ退き、行いては輟(やす)み、試練を畏れて退縮(たいしゅく)す。
2,無形に昧(くら)し:天道の修持(しゅうじ)は自然で形なく、人道を尽くして天道に合わし、左道(さどう)の奇法(きほう)や異術(いじゅつ)はない。故に己の心を修めて性を養い、衆生を教化することで、もしも只(ただ)奇異(きい)を求めるならば、これは皆道とは縁がなく、菩提心を断つことになる。
3,声色名利(せいしょくめいり)に迷っている:世間に住んでいるからには、世間の財貨を用売るのだが、その取ると捨てるにも寸分があり、これを把握できずに只時勢の波に随(したが)えば、今まさに智慧の試練に値(あたい)しているので、利を貪(むさぼ)れば利が現れ、財が欲しければ財が得られる時である。若(もし)も試練がなければ、どうして九品(くぼん)の蓮台(れんだい)に分けられようか。
三、学びては逆流を行く船の如し、速やかに悟りて退(しりぞ)く莫れ。
唯(ただ)道を行いて天恩に報い、将に親心を水に流す莫(な)し、理天の路は遠けれど、一歩行けば一歩と近し。眞道に試練は古(いにしえ)よりあり、黄金百煉をへて光澤(こうたく)顕れ、玉も磨(みが)かずば光なし。
疾風(しっぷう)の中に勁草(けいそう)あらわれ、百折(ひゃくせつ)を歴(へ)て英雄出ずる。始終(しじゅう)志を定めて立ち、中途半端は残霊(ざんれい)となる。
続く
(五)第一先天性と第二先天性および後天命
性命の二字を解釈すると、性は先天的であり、命は後天的であります。
先天後天を含めた霊が性命になる訳です。
長命・短命に肉体を有している間に限っていえるのであって、先天性は不生不滅です。
心命の働きが次の転生の運命となります。
先天性にも第一先天性と第二先天性に区分して性質が違います。
普通われわれが「先天的」と使っているのは、ほとんど第二先天性に属しています。
第一先天性は相(たが)いに関連性をもっていますが、根本義に差異があります。
理天にいた頃の霊、絶対神性を帯びるところの純陽の霊、人間界の生活に染められたことのない霊、霊そのものの本の姿、これが第一先天性の霊です。
過去に因果を結んだことのある霊、輪廻に循環されたことのある霊、前世の宿命を持ち続けてきたのが第二先天性の霊です。
第一先天性は主であり、第二先天性は諸々の印を作り、それが縁となって後天性に引き継がれてきたのです。
従って、後天性の挙動や行為は重要な役割を果たすわけで、死亡して来世に転生すれば、今度は第二先天性の部類に所属されていきます。
第一先天性をもつ諸々の霊は平等に輝いて上下・大小の差別なく一様の大きさと光沢を具え、その数は九十六億あります。
九は陽数であり、六は陰数です。
周易では陽爻(ようこう)を九と呼び、陰爻(いんこう)を六と呼んでいます。
転じて陰陽半合万物生々(いんようはんごうばんぶつせいせい)の道です。
つまり九十六億は陰陽界を含むすべての霊数であり、すなわち原子霊であります。
老〇様(ラウム)から賦与された当初の霊ですから、勿論、賢愚・善悪の別なく純粋そのものです。
第二天性になると、それぞれ長期間の転生や輪廻を経過してきた関係上、数からいっても大きさからいっても差異が生じてきます。
つまり、個々別々な運命と宿縁を帯び、その範囲も仙仏・聖賢から一般の善悪を含む人間動物畜生、鬼邪亡霊と広汎に分類されていきます。
霊光の輝きも多種多様、千差万別になって細分されたり半減されたり、あるいは曇りのために全然精彩をかいたりしまったりしていきます。
今世の後天性(命)の働きが来世では第二先天性に編入され、それにつれてまた、新たな因果関係が成立します。
従って、今のわれわれの持っている生命は、過去の複雑な因果の繰り返しと賞罰によって、老〇様(ラウム)によって造られた当初の原子霊はどのくらい大きいかと問われると、これは無形であり、微妙なるが故に計算できませんが、少なくとも現代の人間、つまり限りない罪業を背負ってきた人々は、当初の原子霊の純円さから、比較して相当に霊力を失っているといえます。
妖邪、畜生に至っては論外の至りです。
人間は迷悟の違いによって仏聖神仙ともなり、夜叉・悪鬼ともなります。
内に修めれば神仙となり、外に放心すれば散霊と変じてしまいます。
第一先天性の命ずるままに従って行動すれば、善悪を積み、後天命の欲するままに所業を行いますと、罪業を重ねてしまいます。
礼記(らいき)に「人心静にして天の性なり、物に感じて動ずるは情の欲なり。」と記され、また、孔子様は中庸に「喜怒哀楽の未だ発せざるを中と言い、既に発して皆中節にあるを和と言う。」とあります。
中が第一先天性であり、和を為す心が第二先天性です。
ところが殆どの第二先天性は和を欠く事のみ行い、今の恥ずべき後天命の行動となり変わってしまいました。
告子様は性の定義を「性とは知覚運動を指して言っているので、性には善と不善の差異があるわけではない。」とされています。
孟子様は断然としてそれに反駁(はんぱく)し「人も牛も犬も皆、知覚運動を持っているのだから性も同一といわねばならないでしょう。牛や犬と人は同じ生活ではあるが、人と犬や牛を同等だと言おうとするのですか。」と言われました。
つまり人間の霊は、牛馬に比較して善の純度が高いという意味です。
本性は善であるが、第二先天性はすでに過去の世の貸借を担ってきて先天性に変わったものです。
また、ある人は「性は定まった本体を持っているものではなく、教育の仕様一つで善行をさせることもできる。」と主張しています。
つまり、人の心は白糸のようで、どのようにでも染めることができるといわれます。
孟子様の弟子である公都子(こうとし)様は、ある人に「人の性には先天的に善なる人もあれば不善なる人もある。それは教養や習慣でどうにもならぬことである。たとえば堯(ぎょウ)のような明君をいただいても、その臣下には象(しょう)のような度し難い男もある。彼の不善の性はどうしようもない。また、琥曽(こそう)のような頑迷な男を父に持ち、その子に舜(しゅん)のような聖王があらわれている。舜の性が善であるために親の不徳は移るべくもない。また、紂(ちゅう)のような横暴な人を兄の子に持ち、且つその人を君主としながら、その下に微子啓(びしけい)や王子干(おうしかん)等という仁人があらわれていて、一向に紂王(ちゅうおう)の不徳の影響を受けていない。これらは皆、善も不善も人の先天的なもので、教育や境遇ではどうしようもない。」といわれました。
つまり、善の先天性は第一先天性で不善の先天性は第二先天性であります。
続く
八十六、修道の人も生死を恐れるや
人生は、生まれて来た以上、必ず死んで行かねばなりません。
大丈夫(だいじょうぶ:覚者)の死を見れば、ちょうど帰るが如くであります。
今日の生ある事は、即ち後日の死の起点となるのであり、又今日の死は、即ち来る日の生の起点となる訳であります。
陰陽の循環は、聖賢と雖もそれを免(巻ぬが)れることは出来ません。
故に修道する人は、この生死の二字を最も重視すると共に、又その反面最も重視せぬ訳であります。
何故かと申せば、もし死を恐れぬと言えば、何故吾々は道を学んで、永生きを求めているかと申さねばなりません。
又もし死を恐れると言えば、私達道を求める人に、何故塵世(じんせ)を軽く見るようにし、生死を度外に置くようにするのでしょうか。
尚更天道を修め上げた時には、超生了死(ちょうせいりょうし)の境地、即ち生をのり越え、死を終わらすのでありますから、どうして又世間の人間の寿命の長短を重視する必要がありましょうか。
続く