三十三、現在、道の降世した理由
此の道は、現われたり隠れたり致しますが、因(ちなみ)に昔は時期がまだ来ていなかった事からちょうど隠(ひそ)んでいた時期でありました。
故にこの道を知る人は非常に少なかったのであります。
現在ちょうど、三期末会(まつえ)に値(あたい)したので、道が公開普渡した理由は、最近世風が衰微(すいび)し、人心が昔と異なり、三教は滅びかけ、道徳は地に落ちて、あらゆる競争はいよいよ烈しくなり、社会の悪化はますます深まって、未だかつてなかった空前の大劫難が造成された関係に因り(よ)り、近頃は水・火・刀兵・瘟疫(恩益)・雑災が次々に起こって地球の到る所に及ぶようになりました。
此れらの劫運は、実に悪気の造る所に因るものであるが、然しながら人は全部悪人ではなく、善根をもっていて迷わない人もいます。
決して玉石が俱(とも)に焚(や)かれる事はありません。
そこで、諸天の仙仏神聖方は慈悲の心を抱き、上帝様にお慈悲の道を世に降し、善良な人を渡し給えと哀懇(あいこん)されました。
幸いに上帝様の恩恵(おんけい)を蒙(こうむ)り、正にこの道が降世され、大開普渡されました。
善良な人々を、同じく覚路(かくろ)に登らしめて早く彼岸に達し、娑婆(しやば)世界を浄化して楽土となさしむのであります。
これは仙仏様方の救世の御心であり、道が降世して普渡された由来であります。
続く
三十二、心好いのに何故入道するや
普通の人で、もし善良な原子に属しているならば、この道を一聞すれば踴躍(ようやく)して入道し、修道しながら力を尽くして道を提唱するのであります。
おおかた善人や君子は世道や人心を思わぬ時はありません。
現今世道は軽薄になって地に落ち、人心は奸詐(かんさ)になり険しくなって悪気が沖天(ちゅうてん)したために、種々の悪劫(あくごう)を招くようになりましたが、道を憂う君子は朝夕法を説き、衆生救済に余念がありません。
今日、天道が現れたのを求め得て、その普伝された事を喜ばぬ者がありましょうか。
入道の最高の目的は、超生了死して本源に達還することと、閻魔王の裁きや輪廻の苦しみを再び受けない所にあります。
もし、徒(いたずら)に心が好いといわれても、それは時があるので、それは濁世(だくせ)の一善人に過ぎず、転生して福報(ふくほう)を受けるだけであります。
しかし、福禄(ふくろく)亦尽きる時があるので、その尽きる時が到ればどういう結果になるか知れません。
これに較(くら)べると、入道した者は、明師の指点を受けて永く輪廻の苦しみを脱し、安らかに無窮(むきゅう)の福を享(う)ける事が出来るので、日を同じくして語ることは事は出来ません。
我々が細かく玩味(がんみ)すべき孔子様の郷原(きょうげん:偽善者)を悪(にく)んで申された言葉に『徳の賊(ぞく)なり』という一語と、亦悟って見なければならぬ『朝に(あした)に道を聞けば夕(ゆうべ)に死すとも可なり』という貴い名言は、即ち心の好い事は本より入道したのと違う事を申されたのであります。
続く
三十一、三教のいずれが最高
三教は本来、無極の一理を説いているので、当然いずれも高低を以て説くべきではありません。
然し世俗では三教を比較して仏法を最高と申しているのであります。
それは三千年前から今日まで道統の運勢が仏教にあったからであります。
応劫経(おうごうきょう)に『混沌から始まり十仏が天運を掌る(つかさど)る』と申しておりますが、その中、すでに過去七仏は過ぎて、後は三仏即ち、燃灯仏(ねんとうぶつ)・釈迦仏(しゃかぶつ)・弥勒仏(みろくぶつ)が掌(つかさど)る事になっております。
始めに燃灯仏が過去一千五百年間、天の運勢を掌りました。
釈迦仏はその後を受けられましたが、周の昭王の甲寅(きのえとら)年四月八日に聖誕され、父の姓を刹利(せつり)、国号を浄飯王(じょはんおう)と称し、母の名を摩耶(まや)夫人と申されました。
十九歳に出家され、仏の授記(じゅき)を得て、四十九年間法を説かれ、経典を遺(のこ)して、万歳(ばんざい)世を渡されました。
其の道は、人の性を指示して仏を成し、直ちに本源を探求せしめ、気象を払って理に入らしめましたが、後世の人が仏教の祖と称えました。
老子様は姓を李(り)、名を耳(じ)、字(あざな)を伯陽(はくよう)、号を耼(たん)と申し、周の定王の丁巳(ひのとみ)年に楚(そ)の国の陳郡に聖誕され、周の敬王の下で官吏をせられましたが、母を精敷(せいふ)と申され、八十年間受胎し、李(李)の木の下で誕生したので、李(り)という姓を定めました。孔子様から理を問われた後、青牛に騎(の)って函谷関(かんこくかん)に出られ、西に胡王(こうおう)と尹喜(いんき)を渡しました。
其の道は淡白で心を養い、その法は抽坎填離(ちゅうかんてんり)の修行法で、色象(しきしょう)を去り気より理に入らしめ、水火(体内の物)を済(もち)いて金丹を煉るのであり、道徳経、清浄経等を遺し世を教化しましたが、世間では老子様を道教の祖と申します。
孔子様の道は政と教を兼ね、象(かたち)に入って象に執着せず、気を超越して理に入らしめるのであって、人々が尽(よ)くわかるように説かれましたが、世に儒教の祖と申します。
三教の大道はすべて性理を以て宗旨となしており、その網常倫理(こうじょうりんり)は均しく人の天性の中に流露されますので、性体が明らかになれば人倫網常は学ばずして自ら正されます。
これは明体達用で根本が固ければ枝葉が栄えるのは自然の道理であります。
仏教がその妙道心印を失い、道教がその金丹口訣(きんたんくけつ)を失って、経を念じ呪文(じゅもん)を誦(とな)えて、ただ物乞いをし、儒教が心法性理を失い、世の文人が文章の句を尋ねるに過ぎない事は実に惜しむべき事であります。
即ち知・止・定・静を問い、視聴(しちょう)を内に返す工夫をし、窮理尽性(きゅうりじんせい)・養性率性(ようせいりつせい)の法を知るものが幾らもいなくなりました。
三教聖者の宗教は廃絶(はいぜつ)の境に達してしまいましたので、性理真伝は必ず三教を斉しく偏せず片寄らずして“儒教の礼節を行い、道教の工夫を用い、仏教の規律を守る”修業をするならば、小さく用いれば延年益壽(えんねんえきじゅ)ができ、大きく用いれば明道成真ができますので此の道を修める方は、ここに注意しなければなりません。
続く
三十、三教合一
三教は本来、一理より生じたもので、門戸を分別し、言論が同じくないと雖も、然しながら、その窮極(きゅうきょく)は、一理に属するのであります。
故に三教は倶(とも)に時代に因って設けられ、天運に応じて興り(おこ)り、天にかわって宣化せぬもはありません。
そして人心を救い、悪を教化して善となし、不良をして良となすのであります。
道家に於いては、虚無(きょむ)を以て本となし、虚霊(きょれい)を保養することを重くして、無極(むきょく)に帰らすのであります。
釈家に於いては、静寂(せいじゃく)に帰らしめる事を重くせられ雑慾を滅除するのであります。
儒家(じゅか)では、明徳を明らかにし私欲を浄め尽くすことを重くして、天理を純全(じゅんぜん)にするのでありますが、天理は又至善(しぜん)でもあります。
この至善は即ち静寂であり、静寂は又無極であり、無極は又真理でありますから、三教の宗派に分かれていると雖も、皆無極の一理から生じたものであります。
仏教では『万法帰一(ばんぽうきいつ)と明心見性(めいしんけんしょう)』を説き、
道教では『抱元守一(ほうげんしゅいつ)と修心煉性(しゅうしんれんせい)』を講じ、
儒教では『執中貫一(しつちゅうかんいつ)と存心養性(ぞんしんようせい)』を説きまして、
三教の法の伝え方が同じくないと雖も、それは皆一を以て本源となし、心性を以てその入門となしております。
これに依って見れば一理から分かれて三教をなしておりますので、ちょうど、人の一身を精・気・神の三花となしているのと同様であります。
現在三教が合一されたのは、収円の姿であって、なお本原に還る事を意味し、倶に迷わざる霊性となり、合わせて一つの真理に帰る事を現わしているのであります。
続く