真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

釈迦略伝~(五)成道 (六)説法 最終回

2023-09-01 20:23:36 | 釈迦略伝・釈迦仏説因果経・観音菩薩伝・慈航渡世問答・達磨大師伝

成道・悟り・超生了死・解脱・・・この神聖で崇高な境涯は天の機密です。苦行六年下山してからさらに六年の歳月をかけて求道を赦されたその醍醐味を凡情で理解できるものではありません。ある人には見えることが隣にいる人でも見えない異次元体験がありますが、高次元と3次元の天機伝承の幽玄な機微は経典にも比喩で記されています。達磨大師も四諦句で「不立文字(文字をたて《表わさ》ない)・教外別伝(教えの外に別に伝える)・直指人心(直接人の心を指す)・見性成仏(性《霊》を見て仏と成る)」と禅宗の極地として経典に記していますが、機密ゆえに今では様々に解釈され本質から離れています。

本釈迦略伝で「天上の明星を観見せられ、豁然と大徹大悟なさり、成道せられました。」とありますが クライマックスで釈迦に道を伝えたのは燃燈仏(ねんとうぶつ)という高次元の存在です。※燃灯仏:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%87%83%E7%87%88%E4%BB%8F

人類は今まさに太子(釈迦)と同じ立場におかれています。

 大英博物館所蔵 釈迦牟尼佛画像

(五)成道

太子が正覚山の森林の中で苦行された六年の間、わずかに日に一麦一麻(いちばくいちま)の食をいただきました。

そのため体はやつれはて、ちょうど枯れ木同様になりました。

そこで太子は自分で“道は慧解によって成し、慧解は根によって成り、根は飲食によって補うものである”と悟りました。

“断食もまた道を得る原因になるものではないから、私は食をいただきながら成道しようと決心し、坐から立たれ、尼連禅河へ行って体を清めようとしました。

然し、この六年間の断食のため、身は骨と骨を包んだ皮膚だけが残り、立とうと思っても立ち上がれませんでした。

ちょうどこの時、森林の傍らより牛を放牧する名を難陀波羅(なんだはら)と申す一人の少女が参りました。

そうして太子に向かって一礼を挙げ、牛乳のお粥を一杯捧げました。

太子はその牛乳のお粥を召し上がって漸く体力の回復を得ました。

太子のお伴をして随っていた憍陳如等五人の比兵(びく)が牛乳のお粥を飲まれる太子を見ました。

そこで、太子が下山しようとする情勢だと驚き怪しまれ、“太子の道心は後退した故に、我等は既に太子のお伴をする必要はないと考え、太子と別れて西方の波羅奈斯(はらなし)地方へ行ってしまいました。

残された太子は一人で山を下り、歩きまた歩いて仏陀迦耶(ぶったがや)地方に着きました。そうして畢波羅樹(ひつはらじゅ)の下で大決心をされ「我今もし無上の大菩提を生ぜずんば、むしろこの身は砕けども、終にこの座を起きたざるべし」と誓願しました。ちょうどこの時、一人の童子が一束の青草を抱えて来て太子に捧げましたので、静坐に好都合でした。

そこで、太子はこれより自修せられ、静坐冥思(せいざめいし)をされましたが、この静観中、無数の環境を経過しました。

三十五歳になられる年の十二月八日真夜中に天上の明星を観見せられ、豁然と大徹大悟なさり、成道せられました。(前に、一人の童子が一束の青草を抱えて来て、太子の静坐のため捧げたと話しましたが、この草を吉祥草と称し、童子を吉祥童子と申し、またこの成道せられた道場を吉祥道場と称します。)

(六)説法 最終回

太子は成道なされた後、まず弥桜山の阿修羅迦藍及び欝陀羅摩の二人の仙人を渡そうとされました。

そうして弥娘山に来られて、初めて二人の仙人は既にずっと以前に亡くなられたことを聞きました。

そこで、道をかえて波羅奈斯国(はらなしこく)の鹿野園(ろくやおん)に行かれ憍陳如等五人の比丘のため四聖諦の法を説き、五人の比丘を度されました。

御仏様は鹿野山に住まれること僅か三ヶ月にして五十六人のお弟子を得たのであります。

そこで、御仏様が入山なさる前に頻姿沙羅王と嘗て「最初にまず我を度し給え」との口約があったために、それから道を変えて王舎城へ行かれました。

成道なされた後、第二・第三年目には、御仏様は王舎城において法を説かれたため、全城内の人民は、皆姿羅門教を離れ、仏門に帰依してしまいました。

成道なされた後、第四年目には、御仏様は吠舎離国(べしゃりこく)の大林精舎に遷られて仏法を説かれました。

成道なされた後、第五年目には御仏様は大林精舎におられ、戒律を説かれましたが、諸弟子を率いて、大林精舎から霊鷲山(りゅうじゅせん)に遷られ、そこにおられました。

この年、父君浄飯王が病気で危篤の消息を聞き、迦比羅国に父王の病気見舞いに帰られました。

そうして父王のために仏法を説かれました。父王が亡くなられた後、儀法により葬儀を営まれました。

成道なさってから第七年後に、御仏様は憍薩羅国(ぎょさらこく)の首都舎衛城におられ、教化をなされました。

この年、波斯匿王(はしどくおう)は、多くの太子が亡くなられたので、祇園精舎を建てられました。

成道なさってから第九年後に御仏様は摩伐羅補羅(まけいしばらほら)及び波羅奈斯・吠舎離等の各都邑(みやこ)をお廻りになられ、教化の説法をなされたのであります。

成道なされた後、第十三・第十四年目には、御仏様は憍薩羅国におられ各都邑を巡廻して教化なさりました。

成道なされて第十五年後に、御仏様は迦比羅国に帰られて、仏法を説かれ、又印度の各都邑を巡廻なさって衆生の教化をなさいました。

成道なされて後、第十七年目には御仏様は竹林精舎におられ、仏法を説かれました。

成道なされた後、第十八年目には御仏様は舎衛城におられて説法なされました。

成道なされて後、第十九年目には御仏様は竹林精舎におられ、摩伽陀国に来られて、各村々を教化なさりました。

成道なされた後、第二十年目には祇園精舎におられて、仏法を説かれました。

成道なされた後、第二十一年目には、御仏様は諸弟子の中より阿難尊者を選び出し、左右に随待せしめ、諸弟子に説法をなさりました。

阿難尊者はこれより後、二十五年間、博く仏法を拝聴して暗記なさることに終始一貫しました。今日、衆生が仏法を聞き得ることができるのは、多く阿難尊者の念持の功によるものであります。

成道なされた後、第二十二年目より第三十六年に至るまで、各地方のお招きに応じて、大林精舎、祇園精舎及び霊鷲山の三道場を往来しながら仏法を説かれました。

成道なされた後、第三十六年目より、御仏様は霊鷲山に於いて法華経を説かれましたが、会せて八年間、第四十四年目に至ってはじめて説き終わりました。

成道なされた後、第四十五年目に御仏様は拘尸那城附近の醢蘭若(けいらんにゃ)河地方の娑羅樹の下で入滅(涅槃)なされました。

(涅槃)時、西暦紀元前九百五十二年2月十五日午後六時でありました。

お釈迦様のご降誕以来、出家・苦行・成道・説法・円寂に至るまで、合わせて八十歳になられます。即ち涅槃は中国の周穆王(しゅうばくおう)五十二年2月十五日に当たります。

 

優曇華の花

仏教経典では、3000年に一度花が咲くといい、その時に金輪王が現世に出現するという。『金光明経』讃仏品に「希有、希有、仏出於世、如優曇華時一現耳」とある。また『法華経』、『南史』にも出る。

次元上昇の時、お釈迦の生き方が遠い過去の話ではないように思います。 


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釈迦略伝~(三)出家 (四)苦行~1・2

2023-08-31 19:47:39 | 釈迦略伝・釈迦仏説因果経・観音菩薩伝・慈航渡世問答・達磨大師伝

「道」というのは宇宙の「真理」のことを名づけたものです。「理」とも言います。2つの字をあわせて「道理」ともいいます。この「道」を、天に関して「天理」といい、地に関して「地理」といい、物に関して「物理」といい、人に関しては「性理」「良心」「本性」といいます。もし、天に「理」がなければ、日月は光を失い、地に「理」がなければ、万物は生ずることがなく、もちろん四季の区別もなくなります。

人に「性理」がなければ、この体を主宰するものがなく、生命も存在しないことになります。これから解るように、「道」が天地万物の根本で、人にとっては「本性・霊」は自分自身の主人公です。もちろんSpiritualの霊魂 という本質的な意味も同じ意味です。

「道」はまた「路」(軌道)ともいえます。それは、人の霊性は一本の正しい路を通って人の身体の入口(玄関)から入り(赤ちゃんが生まれたときオギャ~と泣いた瞬間)、人に生命を与え、生きている間、玄関(松果体との関係は未整理)に留まって人の行動を指揮して、寿命を終えて身体を離れるとき、もと来た正しい路を戻って天(唯一絶対創造主の懐)に帰るべきですが、役目を忘れ迷ってこの路を見失い、長い苦しみの転生を経験してきました。

今、「道」が公開され宇宙(天)や地底(地)の限りない支援が得られ、壮大な創造主の恩恵に浴しています。この機会に古い魂の角質を捨て本性(霊)を輝かして、神としての存在を実践して役目を果たし、縁に従い正しい「道」を得て、ふるさとに還る旅路を歩んでいます。まさに過去の聖人、お釈迦様やキリストがたどった同じ旅路をです。

 大英博物館所蔵 釈迦牟尼佛画像

(三)出家

悉達多太子が降臨されたときのことですが、父君浄飯王は阿私陀(あしだ)という一人の仙人を招いて太子の相を見てもらいました。 

阿私陀仙人は太子の相を見て歎きながら「太子の尊容は偉大です。

その実には三十二相が具わり凡人ではありません。

もし出家しなければ、必ず転輪聖王となり、五つの天竺(てんじく)を統括することでしょう。

五天竺というのは東・西・南・北・中央の五印度(全印度)を指します。

もし出家すれば、必ず三界(天・地・人)の導師となられるでしょう。

悲しいかな私はすでに老いてしまい太子の説法を拝聞することができないのが残念です。 

浄飯王は阿私陀仙人の言葉を一通り聞かれ、大変喜ばれる一方、また悲しまれました。

そして〝どうか、太子が私を離れて出家することなく、転輪聖王となるように“ と心ひそかに願い、あらゆる方法を考えて太子の出家を妨げました。

太子には世間のあらゆる楽しみを与え満足させようと思い、それ以外のことには目もくれないよう三殿を建てて太子に与え、多くの宮女と召使をはべらせました。 

浄飯王は太子を一種の真情で愛し養育して、一国の富が傾くほどのことがあっても惜しみませんでした。 

太子が17歳になったとき、浄飯王は善覚王(ぜんかくおう)の王女耶輪陀羅(あしゅだら)を妃に迎え入れ多くの美姫をよんで毎日歌舞や管弦をして人間の快楽を尽くさせました。

しかし、太子の心中は人間の生・老・病・死の無常を深く悟り、求道の念は日とともに増し、このような宮中の楽しみも太子の心を動かすことは不可能でした。

ある日、太子が父君の面前に参って、出家しようとする強い志を詳しく申し上げました。

するとこの話を聞いた浄飯王は驚きながら「汝がもし成し、一切の衆生を救おうとするなら、まず父のこの苦悩を救うべきではないか、一刻も早く位を汝に譲って梵行を修めることに勤しみたいと思う、それが父の宿願である。」と申しました。

しかし、父君のこのような話は太子の出家の志を動かすことはできませんでした。   

太子が19歳になったときに、耶輪陀羅妃が一子を生みました。羅喉羅(らごら)と名づけられました。

一般国民はみな王孫の誕生を喜びました.しかし太子はひそかに〝一子が生まれたので父王の命にそむいて出家しても、多少ながら父君の憂いを減らすことができるであろう”と考えました。

そして遂に決心し二月八日の夜ふけ人が寝静まったころ、宮中を出て馬車に乗り迦比羅城を離れ去ってゆきました。

(四)苦行~1

悉達多太子は迦比羅城を離れて17里あまりを走り、藍摩市(らんまし)につきました。そしてさらにこれより東に進み、阿跋彌河(あばみがわ)の深い森林の中に入り、四方静寂なところを一箇所選んで修道の場所に当てました。

この時は、髪や髭をそり、袈裟を着て宝服を脱ぎ、車夫に持たせ馬車と共に城に帰らせ父王に奉還することにしました。

そうして「人生は早かれ遅かれ離別するものであって、いずこに一緒に居住することができましょうか」との口信をお伝えしました。

それからまた東に向かって進み、跋迦仙(ばがやせん)を訪ねました。

跋迦仙は婆羅門(ばらもん)の一人の苦行者であって、苦行しなければ解脱できないと説いていました。

太子が跋迦仙が苦行されるのを見て、跋迦仙に[汝はなぜこのように苦修するのですか」と問いました。

すると跋迦仙は[欲によって天に生是利、来世天上の楽果[楽が]を得んと欲すれば、苦修せざるを得ざるを得ない、それのみなり」と答えました。

太子は「汝の求むるところの天上の楽果は亦、究竟にあらず、諸天は楽といえども、福報限りあり、福業尽きれば、また六道輪廻の苦報受けるを知るべし、汝の楽と説くところのものは、究竟苦しみのみなり」と告げて、遂に跋迦仙のところから離れてゆきました。

さて、太子が迦比羅城を離れて後、まもなく父王はことの詳細を知り万分の驚きをなして、直ちに臣下を派遣し四方を探させました。

ちょうど慌しく探し回っている時、車夫が馬車を率いて王城に帰ってきました。

車夫は出城の経過と太子の口信をいちいち浄飯王に申し上げました。

そこで浄飯王は二人の大臣と師夫を派遣し、太子を迎えて帰るようにしました。

この一行が跋迦仙のところに着きますと、跋迦仙は「太子はすでにここを離れて北の方にいかれました。」と申しました。

一行はまた北の方に向かって追っていきますと、樹下に座しておられる太子を発見しました。

一同は大喜びして、父君が如何に太子を思って心配しておられるかを告げて速やかに城に帰るようにすすめました。

(四)苦行―その2

太子はこの話を聞き、堅く謝絶しました。

そして遂にこれらの臣下を捨てて阿羅邏迦藍仙人(あららからんせんにん)のところに去って行きました。

この時、これらの臣下は、太子の決心を知り、挽回できないものと分かりました。

そこで相談し、従う人の中より阿若憍陳如(あにゃぎょうちんにょ)・跋提(ばだい)・婆沙波(ばしゃば)・摩訶男(まかなん)・阿(あしつ)の五人を選び、お供として随従し、そのほかの臣下はみな迦比羅城に帰って行きました。

太子はこれら五人を伴い恒川(がんじすがわ)を渡り、摩訶陀国に入って王舎城を過ぎようとしました。

王舎城の人々が山のように集まって悉達多太子を見に来ました。

この時、頻婆沙羅王(げんばしゃらおう)が城の楼上より遠く人海の様子をご覧になり、悉達多太子が来られるのを知って、臣下に言いつけて御駕をやめさせ槃茶婆山(はんだばさん)に迎えました。

頻婆沙羅王は自ら迎えに出られ太子にお会いしました。

そして「貴下は何故出家したのか、もし早く即位することができない故に出家したのであれば、わが国の半分を汝に与えるので統治を請う。

もし何か不足することがあるならば、我まさに全国を汝に捧げ、我は退居し臣下として仕えることを願う。

なおまた不足ならば、我は我が大兵をして四隣を侵略して汝の統治に帰させましょう。」と申しました。

すると太子は感謝しながら「我が生老病死の四苦を断ち、無上の解脱を得るに有るなり。いずくんぞ世間の五欲を求めて出家せしや、唯、王に願わくば仁をもって汝の国を治め庶民を虐待すべからざるなり」と申しました。

頻婆沙羅王は太子の話を聞き終わり、高潔なる心を発した太子に心打たれ、地に跪き「貴下が若し解脱を得られるならば、請い願わくば最初に我を度し給え」と願い出ました。

太子は王の御厚意に感謝しつつ、また前進しました。

そして尼連禅河を渡り、城北の弥楼山「見る戦」に向かい、優楼頻羅迦葉(うるびんらかしょう)・那提迦葉(なだいかしょう)・迦耶迦葉(がやかしょう)の三師を訪ねてゆきました。

太子が三師の説くところの法を聞き終わり、真道ではないことがわかりました。

そして後にまた弥楼山の麓にある阿羅邏迦藍及び鬱陀羅摩(うつだらま)の二人の仙人を訪ねましたが、太子はまた二人の仙人の説くところの法も解脱が不可能であることを悟りました。

それから解脱は唯自修するにあると決心して尼連禅河の東岸の前にある正覚山上の一箇所を占め、修道の場所として父王から送ってくる食料を謝絶し、そこで六年間の苦行を続けられたのであります。

続く


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釈迦略伝~(一)前生 (二)降臨

2023-08-30 20:06:26 | 釈迦略伝・釈迦仏説因果経・観音菩薩伝・慈航渡世問答・達磨大師伝

この世界は3次元ですが、小さい時から異次元体験をしたことのある人は以外に多いと思います。もともと人は4・5次元の存在ですがだんだんと密度が濃くなってもう忘れかけていたところです。

今回から全6回に分けてお釈迦様の伝記を掲載します。お釈迦様が実際どのような方でどのようにして真理を求めたか、その要点が記されたものです。歴史的な証拠や遺稿を参照して様々な釈迦伝説がありますが、本編は天界の高次元の仙佛 済公活仏(さいこうかつぶつ)様が実際の物語を解りやすく伝えるものです。

夢と思っている現実の世界、あるいは現実と思っている幻の世界が交叉している物語のようですが、真実の物語というのは天命に添った生き方、その人が役目を果たすために歩んできた道のりです。私たちは多次元の存在です。.あらためて過去の聖人の歩みをたどりながら、聖人の人生から真理の重要性について汲み取っていただきたいと思います。

 大英博物館所蔵 釈迦牟尼佛画像

済公活仏著 釈迦略伝

(一)前生

お釈迦様の前世は、歌利王(かりおう)にご体を切り裂かれた故事があります。

ある時、歌利王が多くの妃や宮女を引き連れて山に狩りにゆきましたが、疲れて山で休んでいるうちに眠ってしまいました。

しばらくして目を覚ますと、連れてきた多くの妃や宮女は一人もおりません。

山をあちこち探し尋ねると、一つの山洞があり、妃や宮女はその山洞の前で僧侶の説法を聞いていました。

歌利王は大いに怒り、僧侶に向かって「汝は婦女をなぜここに誘ったのか」と責めたてました。

僧侶は「われは実に無欲なり」と答えました。

すると王はまた「いかにして、汝は色を見てもなお無欲と申すや」と詰問しますと、僧侶は「持戒あるのみ」と答えました。

王はまた「何を持戒と申すや」と問いますと、僧侶は「忍辱なり」と答えました。

王は「忍辱と聞くやいなや大怒りして刀を抜き僧侶に切りつけ、「汝に問うが痛かろう」というと、僧侶は「実に痛からず」と答えますと、王はますます怒り僧侶の身体を切って節々に分解しつつ「汝に問うが我を恨むや」と問うと、僧侶は「既に無我なり、いずこより怒りや恨みが来たるや」と答えました。

この時、四天王が震怒し一時に強風が起こり、石や砂が飛んで天龍八部が一斉に護法しました。

僧侶の分解された身体はまた元通りになりました。

歌利王は大変恐れて僧侶の前にひざまずき、伏してあやまちの赦しを請いました。僧侶はただちに王に代わって、天に赦しを求めました。

するとまたたく間に天気は晴れわたりました。

そこで王も改心し善功をつむことを誓いました。

僧侶もまた「もし成仏することを得られれば、我まさに汝を先に度す」と発願しましたが、その僧侶こそが後世の釈尊でした。

歌利王はすなわち五百世後お釈迦様誕生の時の憍陳如(ぎょちんにょ)でした。

憍陳如はまた阿若憍陳如(あにゃぎょちんにょ)ともいい、中印度迦比羅城(かびら城)のバラモン種族に生まれました。

卜術(占い)に長じ、お釈迦様誕生の時も、いち早く召されて卜を占なったことがあります。

その後お釈迦様が出家して、尼連禅河畔の山中で苦行された時、憍陳如は実にお釈迦様に随侍していた五大弟子の一人でした。

(二)降臨

釈迦の二字は、

中国語に訳せば能仁(のうじん)となり、牟尼(むに)の2字は寂黙(じゃくもく)になります。

お釈迦様の父親は、中インド迦比羅国の国王で浄飯王(じょはんおう)といい、母親は麻耶(まや)夫人といいました。

麻耶夫人は勤倹で、質朴質素な方で贅沢な生活を喜ばず説法や道の教えを聞くことを好まれました。

44歳のとしの時に天から神人が降りてくる夢を見てお釈迦様を懐胎しました。

麻耶夫人は臨月にあたる4月8日に藍比尼園(らんびにえん)に参りましたが、ちょうどこの時、園内はのどかで暖かい春の日で無憂樹(むうじゅ)の花が爛漫に咲き乱れていました。

世間で釈迦牟尼佛という方がこの日ここで降誕されました。

推算してみると、西暦紀元前約1029年(記録では紀元前400年前後が多い)にあたり、中国では周昭王(しゅうしょうおう)24年のことでした。

中国の歴史上にも、その4月8日には山や川が振動して五色の光が大微星をつらぬたと記録され、また太子の蘇田(そでん)というものが国王に「大聖人が西方に生まれ、一千年後にその教えがこの地にも及ぶことでしょう」と奏上したと記録されています。

お釈迦様はご誕生後、母の麻耶夫人と共に迦比羅城に帰りましたが、父の浄飯王は生まれた太子をご覧になって大変喜び、悉達多(しったるだ)と名前をつけました。

悉達多の三文字は「一切成就」の意味になります。

麻耶夫人は、お釈迦様誕生後七日にして亡くなりました。

そこで、麻耶夫人の妹君の波闍波提(はじゃばだい)夫人が代わって愛護養育しました。

悉達多太子が七歳になって、婆羅門(ばらもん)の学者の一人跋陀羅尼(ばつだらに)が師として学問を教えました。

しかし迦比羅国の領土はわずかに5百方里余りの一小国で、諸大国の間に挟まって群雄と対立しなければなりません。

そこで浄飯王は、孱菩提婆を招聘して太子の師として、もっぱら武芸を教えるようにしました。

悉達多太子は聡明であり、文武に通じたのでその名声は内外を震わせました。

続く


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釈迦略伝~(五)成道 (六)説法 最終回

2023-05-07 21:22:11 | 釈迦略伝・釈迦仏説因果経・観音菩薩伝・慈航渡世問答・達磨大師伝

成道・悟り・超生了死・解脱・・・この神聖で崇高な境涯は天の機密です。苦行六年下山してからさらに六年の歳月をかけて求道を赦されたその醍醐味を凡情で理解できるものではありません。ある人には見えることが隣にいる人でも見えない異次元体験がありますが、高次元と3次元の天機伝承の幽玄な機微は経典にも比喩で記されています。達磨大師も四諦句で「不立文字(文字をたて《表わさ》ない)・教外別伝(教えの外に別に伝える)・直指人心(直接人の心を指す)・見性成仏(性《霊》を見て仏と成る)」と禅宗の極地として経典に記していますが、機密ゆえに今では様々に解釈され本質から離れています。

本釈迦略伝で「天上の明星を観見せられ、豁然と大徹大悟なさり、成道せられました。」とありますが クライマックスで釈迦に道を伝えたのは燃燈仏(ねんとうぶつ)という高次元の存在です。※燃灯仏:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%87%83%E7%87%88%E4%BB%8F

人類は今まさに太子(釈迦)と同じ立場におかれています。

 大英博物館所蔵 釈迦牟尼佛画像

(五)成道

太子が正覚山の森林の中で苦行された六年の間、わずかに日に一麦一麻(いちばくいちま)の食をいただきました。

そのため体はやつれはて、ちょうど枯れ木同様になりました。

そこで太子は自分で“道は慧解によって成し、慧解は根によって成り、根は飲食によって補うものである”と悟りました。

“断食もまた道を得る原因になるものではないから、私は食をいただきながら成道しようと決心し、坐から立たれ、尼連禅河へ行って体を清めようとしました。

然し、この六年間の断食のため、身は骨と骨を包んだ皮膚だけが残り、立とうと思っても立ち上がれませんでした。

ちょうどこの時、森林の傍らより牛を放牧する名を難陀波羅(なんだはら)と申す一人の少女が参りました。

そうして太子に向かって一礼を挙げ、牛乳のお粥を一杯捧げました。

太子はその牛乳のお粥を召し上がって漸く体力の回復を得ました。

太子のお伴をして随っていた憍陳如等五人の比兵(びく)が牛乳のお粥を飲まれる太子を見ました。

そこで、太子が下山しようとする情勢だと驚き怪しまれ、“太子の道心は後退した故に、我等は既に太子のお伴をする必要はないと考え、太子と別れて西方の波羅奈斯(はらなし)地方へ行ってしまいました。

残された太子は一人で山を下り、歩きまた歩いて仏陀迦耶(ぶったがや)地方に着きました。そうして畢波羅樹(ひつはらじゅ)の下で大決心をされ「我今もし無上の大菩提を生ぜずんば、むしろこの身は砕けども、終にこの座を起きたざるべし」と誓願しました。ちょうどこの時、一人の童子が一束の青草を抱えて来て太子に捧げましたので、静坐に好都合でした。

そこで、太子はこれより自修せられ、静坐冥思(せいざめいし)をされましたが、この静観中、無数の環境を経過しました。

三十五歳になられる年の十二月八日真夜中に天上の明星を観見せられ、豁然と大徹大悟なさり、成道せられました。(前に、一人の童子が一束の青草を抱えて来て、太子の静坐のため捧げたと話しましたが、この草を吉祥草と称し、童子を吉祥童子と申し、またこの成道せられた道場を吉祥道場と称します。)

(六)説法 最終回

太子は成道なされた後、まず弥桜山の阿修羅迦藍及び欝陀羅摩の二人の仙人を渡そうとされました。

そうして弥娘山に来られて、初めて二人の仙人は既にずっと以前に亡くなられたことを聞きました。

そこで、道をかえて波羅奈斯国(はらなしこく)の鹿野園(ろくやおん)に行かれ憍陳如等五人の比丘のため四聖諦の法を説き、五人の比丘を度されました。

御仏様は鹿野山に住まれること僅か三ヶ月にして五十六人のお弟子を得たのであります。

そこで、御仏様が入山なさる前に頻姿沙羅王と嘗て「最初にまず我を度し給え」との口約があったために、それから道を変えて王舎城へ行かれました。

成道なされた後、第二・第三年目には、御仏様は王舎城において法を説かれたため、全城内の人民は、皆姿羅門教を離れ、仏門に帰依してしまいました。

成道なされた後、第四年目には、御仏様は吠舎離国(べしゃりこく)の大林精舎に遷られて仏法を説かれました。

成道なされた後、第五年目には御仏様は大林精舎におられ、戒律を説かれましたが、諸弟子を率いて、大林精舎から霊鷲山(りゅうじゅせん)に遷られ、そこにおられました。

この年、父君浄飯王が病気で危篤の消息を聞き、迦比羅国に父王の病気見舞いに帰られました。

そうして父王のために仏法を説かれました。父王が亡くなられた後、儀法により葬儀を営まれました。

成道なさってから第七年後に、御仏様は憍薩羅国(ぎょさらこく)の首都舎衛城におられ、教化をなされました。

この年、波斯匿王(はしどくおう)は、多くの太子が亡くなられたので、祇園精舎を建てられました。

成道なさってから第九年後に御仏様は摩伐羅補羅(まけいしばらほら)及び波羅奈斯・吠舎離等の各都邑(みやこ)をお廻りになられ、教化の説法をなされたのであります。

成道なされた後、第十三・第十四年目には、御仏様は憍薩羅国におられ各都邑を巡廻して教化なさりました。

成道なされて第十五年後に、御仏様は迦比羅国に帰られて、仏法を説かれ、又印度の各都邑を巡廻なさって衆生の教化をなさいました。

成道なされて後、第十七年目には御仏様は竹林精舎におられ、仏法を説かれました。

成道なされた後、第十八年目には御仏様は舎衛城におられて説法なされました。

成道なされて後、第十九年目には御仏様は竹林精舎におられ、摩伽陀国に来られて、各村々を教化なさりました。

成道なされた後、第二十年目には祇園精舎におられて、仏法を説かれました。

成道なされた後、第二十一年目には、御仏様は諸弟子の中より阿難尊者を選び出し、左右に随待せしめ、諸弟子に説法をなさりました。

阿難尊者はこれより後、二十五年間、博く仏法を拝聴して暗記なさることに終始一貫しました。今日、衆生が仏法を聞き得ることができるのは、多く阿難尊者の念持の功によるものであります。

成道なされた後、第二十二年目より第三十六年に至るまで、各地方のお招きに応じて、大林精舎、祇園精舎及び霊鷲山の三道場を往来しながら仏法を説かれました。

成道なされた後、第三十六年目より、御仏様は霊鷲山に於いて法華経を説かれましたが、会せて八年間、第四十四年目に至ってはじめて説き終わりました。

成道なされた後、第四十五年目に御仏様は拘尸那城附近の醢蘭若(けいらんにゃ)河地方の娑羅樹の下で入滅(涅槃)なされました。

(涅槃)時、西暦紀元前九百五十二年2月十五日午後六時でありました。

お釈迦様のご降誕以来、出家・苦行・成道・説法・円寂に至るまで、合わせて八十歳になられます。即ち涅槃は中国の周穆王(しゅうばくおう)五十二年2月十五日に当たります。

 

優曇華の花

仏教経典では、3000年に一度花が咲くといい、その時に金輪王が現世に出現するという。『金光明経』讃仏品に「希有、希有、仏出於世、如優曇華時一現耳」とある。また『法華経』、『南史』にも出る。

次元上昇の時、お釈迦の生き方が遠い過去の話ではないように思います。        


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釈迦略伝~(三)出家 (四)苦行~1・2

2023-05-06 18:39:34 | 釈迦略伝・釈迦仏説因果経・観音菩薩伝・慈航渡世問答・達磨大師伝

「道」というのは宇宙の「真理」のことを名づけたものです。「理」とも言います。2つの字をあわせて「道理」ともいいます。この「道」を、天に関して「天理」といい、地に関して「地理」といい、物に関して「物理」といい、人に関しては「性理」「良心」「本性」といいます。もし、天に「理」がなければ、日月は光を失い、地に「理」がなければ、万物は生ずることがなく、もちろん四季の区別もなくなります。

人に「性理」がなければ、この体を主宰するものがなく、生命も存在しないことになります。これから解るように、「道」が天地万物の根本で、人にとっては「本性・霊」は自分自身の主人公です。もちろんSpiritualの霊魂 という本質的な意味も同じ意味です。

「道」はまた「路」(軌道)ともいえます。それは、人の霊性は一本の正しい路を通って人の身体の入口(玄関)から入り(赤ちゃんが生まれたときオギャ~と泣いた瞬間)、人に生命を与え、生きている間、玄関(松果体との関係は未整理)に留まって人の行動を指揮して、寿命を終えて身体を離れるとき、もと来た正しい路を戻って天(唯一絶対創造主の懐)に帰るべきですが、役目を忘れ迷ってこの路を見失い、長い苦しみの転生を経験してきました。

今、「道」が公開され宇宙(天)や地底(地)の限りない支援が得られ、壮大な創造主の恩恵に浴しています。この機会に古い魂の角質を捨て本性(霊)を輝かして、神としての存在を実践して役目を果たし、縁に従い正しい「道」を得て、ふるさとに還る旅路を歩んでいます。まさに過去の聖人、お釈迦様やキリストがたどった同じ旅路をです。

 大英博物館所蔵 釈迦牟尼佛画像

(三)出家

悉達多太子が降臨されたときのことですが、父君浄飯王は阿私陀(あしだ)という一人の仙人を招いて太子の相を見てもらいました。 

阿私陀仙人は太子の相を見て歎きながら「太子の尊容は偉大です。

その実には三十二相が具わり凡人ではありません。

もし出家しなければ、必ず転輪聖王となり、五つの天竺(てんじく)を統括することでしょう。

五天竺というのは東・西・南・北・中央の五印度(全印度)を指します。

もし出家すれば、必ず三界(天・地・人)の導師となられるでしょう。

悲しいかな私はすでに老いてしまい太子の説法を拝聞することができないのが残念です。 

浄飯王は阿私陀仙人の言葉を一通り聞かれ、大変喜ばれる一方、また悲しまれました。

そして〝どうか、太子が私を離れて出家することなく、転輪聖王となるように“ と心ひそかに願い、あらゆる方法を考えて太子の出家を妨げました。

太子には世間のあらゆる楽しみを与え満足させようと思い、それ以外のことには目もくれないよう三殿を建てて太子に与え、多くの宮女と召使をはべらせました。 

浄飯王は太子を一種の真情で愛し養育して、一国の富が傾くほどのことがあっても惜しみませんでした。 

太子が17歳になったとき、浄飯王は善覚王(ぜんかくおう)の王女耶輪陀羅(あしゅだら)を妃に迎え入れ多くの美姫をよんで毎日歌舞や管弦をして人間の快楽を尽くさせました。

しかし、太子の心中は人間の生・老・病・死の無常を深く悟り、求道の念は日とともに増し、このような宮中の楽しみも太子の心を動かすことは不可能でした。

ある日、太子が父君の面前に参って、出家しようとする強い志を詳しく申し上げました。

するとこの話を聞いた浄飯王は驚きながら「汝がもし成し、一切の衆生を救おうとするなら、まず父のこの苦悩を救うべきではないか、一刻も早く位を汝に譲って梵行を修めることに勤しみたいと思う、それが父の宿願である。」と申しました。

しかし、父君のこのような話は太子の出家の志を動かすことはできませんでした。   

太子が19歳になったときに、耶輪陀羅妃が一子を生みました。羅喉羅(らごら)と名づけられました。

一般国民はみな王孫の誕生を喜びました.しかし太子はひそかに〝一子が生まれたので父王の命にそむいて出家しても、多少ながら父君の憂いを減らすことができるであろう”と考えました。

そして遂に決心し二月八日の夜ふけ人が寝静まったころ、宮中を出て馬車に乗り迦比羅城を離れ去ってゆきました。

(四)苦行~1

悉達多太子は迦比羅城を離れて17里あまりを走り、藍摩市(らんまし)につきました。そしてさらにこれより東に進み、阿跋彌河(あばみがわ)の深い森林の中に入り、四方静寂なところを一箇所選んで修道の場所に当てました。

この時は、髪や髭をそり、袈裟を着て宝服を脱ぎ、車夫に持たせ馬車と共に城に帰らせ父王に奉還することにしました。

そうして「人生は早かれ遅かれ離別するものであって、いずこに一緒に居住することができましょうか」との口信をお伝えしました。

それからまた東に向かって進み、跋迦仙(ばがやせん)を訪ねました。

跋迦仙は婆羅門(ばらもん)の一人の苦行者であって、苦行しなければ解脱できないと説いていました。

太子が跋迦仙が苦行されるのを見て、跋迦仙に[汝はなぜこのように苦修するのですか」と問いました。

すると跋迦仙は[欲によって天に生是利、来世天上の楽果[楽が]を得んと欲すれば、苦修せざるを得ざるを得ない、それのみなり」と答えました。

太子は「汝の求むるところの天上の楽果は亦、究竟にあらず、諸天は楽といえども、福報限りあり、福業尽きれば、また六道輪廻の苦報受けるを知るべし、汝の楽と説くところのものは、究竟苦しみのみなり」と告げて、遂に跋迦仙のところから離れてゆきました。

さて、太子が迦比羅城を離れて後、まもなく父王はことの詳細を知り万分の驚きをなして、直ちに臣下を派遣し四方を探させました。

ちょうど慌しく探し回っている時、車夫が馬車を率いて王城に帰ってきました。

車夫は出城の経過と太子の口信をいちいち浄飯王に申し上げました。

そこで浄飯王は二人の大臣と師夫を派遣し、太子を迎えて帰るようにしました。

この一行が跋迦仙のところに着きますと、跋迦仙は「太子はすでにここを離れて北の方にいかれました。」と申しました。

一行はまた北の方に向かって追っていきますと、樹下に座しておられる太子を発見しました。

一同は大喜びして、父君が如何に太子を思って心配しておられるかを告げて速やかに城に帰るようにすすめました。

(四)苦行―その2

太子はこの話を聞き、堅く謝絶しました。

そして遂にこれらの臣下を捨てて阿羅邏迦藍仙人(あららからんせんにん)のところに去って行きました。

この時、これらの臣下は、太子の決心を知り、挽回できないものと分かりました。

そこで相談し、従う人の中より阿若憍陳如(あにゃぎょうちんにょ)・跋提(ばだい)・婆沙波(ばしゃば)・摩訶男(まかなん)・阿(あしつ)の五人を選び、お供として随従し、そのほかの臣下はみな迦比羅城に帰って行きました。

太子はこれら五人を伴い恒川(がんじすがわ)を渡り、摩訶陀国に入って王舎城を過ぎようとしました。

王舎城の人々が山のように集まって悉達多太子を見に来ました。

この時、頻婆沙羅王(げんばしゃらおう)が城の楼上より遠く人海の様子をご覧になり、悉達多太子が来られるのを知って、臣下に言いつけて御駕をやめさせ槃茶婆山(はんだばさん)に迎えました。

頻婆沙羅王は自ら迎えに出られ太子にお会いしました。

そして「貴下は何故出家したのか、もし早く即位することができない故に出家したのであれば、わが国の半分を汝に与えるので統治を請う。

もし何か不足することがあるならば、我まさに全国を汝に捧げ、我は退居し臣下として仕えることを願う。

なおまた不足ならば、我は我が大兵をして四隣を侵略して汝の統治に帰させましょう。」と申しました。

すると太子は感謝しながら「我が生老病死の四苦を断ち、無上の解脱を得るに有るなり。いずくんぞ世間の五欲を求めて出家せしや、唯、王に願わくば仁をもって汝の国を治め庶民を虐待すべからざるなり」と申しました。

頻婆沙羅王は太子の話を聞き終わり、高潔なる心を発した太子に心打たれ、地に跪き「貴下が若し解脱を得られるならば、請い願わくば最初に我を度し給え」と願い出ました。

太子は王の御厚意に感謝しつつ、また前進しました。

そして尼連禅河を渡り、城北の弥楼山「見る戦」に向かい、優楼頻羅迦葉(うるびんらかしょう)・那提迦葉(なだいかしょう)・迦耶迦葉(がやかしょう)の三師を訪ねてゆきました。

太子が三師の説くところの法を聞き終わり、真道ではないことがわかりました。

そして後にまた弥楼山の麓にある阿羅邏迦藍及び鬱陀羅摩(うつだらま)の二人の仙人を訪ねましたが、太子はまた二人の仙人の説くところの法も解脱が不可能であることを悟りました。

それから解脱は唯自修するにあると決心して尼連禅河の東岸の前にある正覚山上の一箇所を占め、修道の場所として父王から送ってくる食料を謝絶し、そこで六年間の苦行を続けられたのであります。

続く


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