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真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

第九章 道親諸賢への信書 後半 完

2024-04-25 22:26:17 | 天道の淵源

昭和50年頃から日本では100万人を越える方が「求道」していますが、多くの人が波動が高い世界のため体得できないため去って行きました。

現在、世界は急速に覚醒が進み、また個人においても大きな変化が始まっていまっす。

このBlogを見ている方で既に求道し復帰したい方はご連絡ください。

第九章 道親諸賢への信書 後半

道理・道義を説く立場の人は、聞く人の程度の高低に合わせて理義の深浅を傾けるべきで、一つの方式に固まってはなりません。

自分の説法には責任を感じ、良心に従い、誇大化を戒めるべきです。

自分の講和によって相手に信仰心が湧き、正法を悟り、使命を認識して普伝の旗手の担い手になれば、その功績は莫大であります。

逆に自分の不修学・不精進によって相手を認識不足にさせ傷つけた場合は、相手がよき人材であるほどに後悔が続きましょう。

勿論、相手の縁の加減もあるでしょうし、そこまで想い詰めて苦しむこともありませんが、修行者としてはそこまで考える必要があります。

道親として行功を重ねていくに従い、徳も高くなり、その一言一句は直接、道務に影響してきます。つまり過失は許されないのです。

天道では個々の徳を重視していますので年齢の差別はありません。

老を敬い、賢を尊ぶのを前提として、老若男女を打って一丸としています。

年配の豊富な体験と知識を用い、若い人のほとばしる生命力を支えとして循々たる誘(いざな)いを必要としています。

才能ある者は適宜に平等に任用されるのが大道の本義です。

何十年伝道しても、昨日自覚して伝道を始めても、人を救う立場に変わりはありません。

功徳はその人個人の者であり、任務は公の仕事ですから混同して考えるべきではありません。

功徳は天が結果として与えてくれるものであり、任務は我々が目下急拠行ぜねばならない役割であります。どうか互いに尊敬し合い、長所を伸ばし、欠点を埋め合わせて、いかなる階層の人にでも順応して説破できる力を培って頂きたいのです。

お互いの因果が違いますから、個性も異なって各人各様の思考や見解が生じてきます。

一つの型に統一する必要はなく、その優れた所を尊重し伸ばして、良き人材の感化に当たってほしいものであります。

性来、雄弁・能弁の人もあれば、想う事を詞で表せない人もあります。しかし誠ある人は言動をもって感化しますから上手に話せないことを苦にすることはありません。

多数の人に話すのに越したことはありませんが、一人一人をおろそかに扱わないように僅(わず)かな人にでも心血を注ぐべきです。

むしろ本当の成全・感化の成果は少人数や個別説法の中から期待されることが多く、勝れた説得力は一人一人の個性に適合し、心琴(しんきん)に触れるか触れないかにかかわります。

新しい土地、未知の地方に縁を繋いで、伝道の基礎を確立する影響力は、その及ぼした範囲と浸透程度によっていよいよ盛んになります。

従って、よく説くと同時により悟り学び自己を観詰(みつ)める事が大切です。

自分独りの時間を持つことは必要です。

独りで考える時間を造り、更に人の話を聞けるよう努めるべきです。相手は何を表現しようとするのか、その詞(ことば)に現れ出ない心言を聞くべきであります。

人を救う立場の人が相手を知らなければ感化力が半減します。

相手を知れば相手に親しみ溶け込んで一体になれます。

徳ある者は必ず雄弁でありますが、饒舌家(おしゃべり)は必ずしも徳があるとは言えません。

誠なき語(ことば)は人の心深くに感じられません。

徳ある者は無駄話がなく必要の度合いに応じて、その口をついて語が出てきます。

足は地について空転せず、厳しく自ら実行して成果を挙げるべきです。

考える時間が必要と申した真意は、その反応として行為に実があるように願っているからです。

聖賢仙仏から直接指示を受け、根本的に多くの智慧・智識を得ている我々は至福です。

早く自分の手で道務の上に悠久の白陽史に遺るに足る輝かしい仕事を完成すべきです。

前賢・同僚への批判の口を噤(つぐ)み、後賢・迷頑の人への啓発の口を大きく開いて獅子吼(ししく)すべきです。

遠大の計画も足元から細密な地固めをせねばなりません。

伝道者の立場は苦を嘗(な)めるための役目であり、楽を享(う)けるための地位ではありません。

快挙を賞(ほ)める人はなく、過失を責める人もないでしょうが、全て自分と

老〇様との約束のうちに完璧に処理されるのです。

手段も結果も宜しくし、天事を双肩に荷って巨歩邁進し、大飛躍あることを望みます。

厳格な真理探究と敬虔な信仰報恩を秘め、理性と感情の秀れた覚者となり、異端を化し、妄信を断ち、純真性を保持すべきです。

師を尊び道を重んじ、悪癖を改め、心徳を培い、一刻正に万金に値する貴重な光陰を惜しんで、九六の原子を光明の覚路へ導いてもらいたいのであります。

老〇様の御心を奉戴(ほうたい)し、恩師の御意を承継し、普度収円の天業完遂に心尽くされるよう願います。

最後に諸賢の道業成就を深く老〇様にお祈り申し上げます。


第九章 道親諸賢への信書  前半

2024-04-24 17:53:04 | 天道の淵源

第九章 道親諸賢への信書

各地の伝道・修行に精勤なされている道親各位に信書を呈し、心から御苦労をねぎらいます。

縁あって天道の門に入り、師授の至宝をいただいたお互いの幸運を喜び、共に歩調をあわせて師命を遂行し、三曹済度・万国普伝の栄えある聖業に共に尽瘁(じんすい)できる我が身の光栄を感謝せずにはおられません。

過去前賢の払われた犠牲と心血の数々が現在の実績を築き、今の諸賢の労苦と努力がさらに大きな功徳となって、未来白陽の世に称賛され、満八百年間敬仰を受け続けることでありましょう。

三天の大事を果たすことは誰にでも出来ることではなく、その人を得て始めて完うできるのであります。

諸賢も選ばれて道を行ぜられる感激を深く抱き、比類なき任務を痛感し、誇り高い得道者に恥じないよう那挙止行動をなされることを望みます。

承け継いだ大任はさらに飛躍と拡張を計ると共に道務の充実に尽くして前進して頂きたいと存じます。

我々一人一人に十箇条の洪願があって始めて得道できたことを忘れてはなりません。

その願を深く自覚し、さらに人々に天人の理(ことわり)を明らかに説き、人々を地獄から理天へ、暗黒から希望へ向かわしめるよう、説論・勧化に精出すべき必要があります。

同じ時に得道をしても道義を悟って精進する者に加霊と進歩があり、迷執し怠惰する者は遅れて退嬰(たいえい:尻込み、引っ込みじあん)せざるを得ません。

天道には強制すべき戒律や掟(おきて)がなく、全く自由で無名・無位を誇りにしています。

形式に固執せず、ただ天性の発露に従って甘んじて法施に献身するだけです。

神様が全てを主宰し支配なさっておられますから、正しい行為ならば、人が知らず見えずとも周囲を意識すべきではありません。

人間は人間の善行・徳行に階級を定めて論功行賞を加えることはできません。

罪罰も然りであります。

被支配者が支配者的態度や立場になれないし、またなってはなりません。

すべてこの普度収円が終わり、三会竜華会(さんえりゅうげえ:三期収円の時老〇様の御前に於いて功徳に応じて、弥勒古仏によって論功行賞が行われ、封神せられる場所のこと)の時に至って過去二会(青陽・紅陽)の分も含めて、老〇様が弥勒祖師に命じて始めて総決算が致され、功罪の断定がなされるので弥勒祖師の出を待たなければ誰一人として口を開けて論ずる資格はありません。

人の至誠は必ず天に通じます。

むしろ功徳は形の上に顕れた面に少なく、深い信仰を持った人には意識感が全くないものであります。

ただ、得道者は伝道せねばなならないという使命感を強くすればよいと存じます。

人間本来の智能・実力に大差があるとは思えません。

自覚するや否や、やる気があるや否やにかかって物事が運ばれ、成就の遅速に繋がって来ます。

自分の心念がやらねばならないと自覚した時、またはそのような使命を感得した時は、実力の五倍も十倍も本願を発揮でき、逆にそれを忘却した時に半減し、成就できることすら失敗してしまいます。

どうか純粋な初志を貫いて天命に遵い、恩師が与えてくれた了願の機会に信頼を無にしないよう、強い自信を抱いて衆生の頑迷を打破し呼び起こしていただきたいのであります。

一人の人材として立派にその役割を果たすのに、自信と他信の二面性を心に刻む必要があります。

他信とは、自分の外の者が信じてくれることであります。

老〇様から信任され、恩師から信用され、人々から信頼される人であることです。

自信とは、自らが信じ、自らを信じることであります。

真理を探究し、妙玄を参悟して正しい信仰を確立することが肝腎です。

天命を信じ、天盤道盤の応運を疑わずに心深くに受け入れることが修行の基礎になります。

ただ、過信と不信、過大評価と過小評価の弊を避けるため、中を失わずに努力を続けるべきであると存じます。

己が道を深く悟れば別に道義を学ぶ必要はありませんが、人に説くのに他が知っている以上に知らなければ人を化せない不都合があります。

万人を感化するために万人の智慧を越す必要があり学ぶのであって、目的を忘れてはなりません。

なかんずく首要なのは至誠と熱心であります。

真心の伴なわない論理・論義は空虚の響きしかなく、天にも人にも通じません。

従って高邁(こうまい)な論理と説法のできる人であると共に、敬虔な信仰者・礼拝者であることが必要です。

老〇様を敬い尊び、師命を畏(おそ)れ従うと共に自らの脚下を固く踏まえて進むべきです。

自分に信ずる心が不足して一体誰が信じてくれましょう。

諸賢は今まで道務の宏展に少なからず奔走した以上に、今後も諸賢の立たれた足場を拠点として、それぞれの任務を展開し遂行されるでしょうが、特に同じ船に乗り同じ目的に向かっている道親間の団結を強く計ることに尽力して欲しいと思います。

共同運命帯を締めている我々に一人は東に漕ぎ、一人は西に漕ぐようではいたずらに船を遅らせるだけであって、他を置き去りにして自分だけでは進められません。

むしろ大目標に皆の視線を集中させ、向きを同じくし、心を協(あわ)せて全力投球されることが必要で、そのために常に近く親しく、相互に誤解を生じないように認識を深め、交誼(こうぎ)を厚くすることを望みます。

人の差し延べる手を待たず、自ら接近して融和を求め、溝が生じないよう務めるべきであります。

個々の能力と智慧に限度・限界があっても多数の結集した働きは無限です。

一握りの砂を投げても痛くないが、半握りの砂を固く石にして投げれば人の肉を破り血を流します。

善悪に依らず団結は恐いものであります。

群集心理は、善い方にも悪い方にも、向け方によって働きも変わって来ます。

悪い要素が主導権を握れば強い破壊力となりますが、至善の道への牽引力が強ければ輝かしい霊光が宇宙・人界に充満しましょう。

同じ一つの心で働きを分散すれば成就も大きく、一人では支え切れないような重圧・障害であっても皆が手を借して力となれば、軽減し消滅しましょう。

何種類かの生野菜を盛り合わせにして食べれば個々の毒素が相克して消えるのと同じく偏執な習癖も埋め合っていければ自然に浄化されます。

お互いに霊気の交流を近く繁くすることを提唱します。交わり合って磨くうちに新しい智慧、強力な霊能が急増して未知の経験を体得することができます。

続く


第八章 天道の修道法(三)外功の修法ーその3

2024-04-23 20:34:57 | 天道の淵源

(三)外功の修法ーその3

弓長祖は万国教主の大命を承けて万霊を救われるため、在世中から御多忙事には分身として代表師(点伝師)を任命され、宣道布法に当たらせていました。

今は肉身をお隠しになっていますが、御霊は三界を駆け巡られ、万ハ百年間、道盤を統掌されておられます。

その間にも御分霊をされて各仏堂に至り、適時に御指示なり、点伝師の御任命などをされて各地の縁者上岸の便を容易にならしめておられます。

辺疆窮村(へんきょうきゅうそん)でも山間僻地(さんかんへきち)でも皆師命を帯びて勇んで知音・縁人を求め、恩師の御慈悲を一人でも多くに及ぼそうと努力しています。

点伝師は自発的に命を奉(たつまつ)って衆生済度にあたり、寝食・寒暑を忘れて点伝を続けています。

自分の費用を使い、自分の時間をさき、艱難辛苦を辞せず、誹謗と中傷を怨まず、犠牲と献身を喜び、忠実に師命に遵い、伝道に勤めています。

点伝師の任命は壇主、或いは熱心な道親の中で平素から衆生の模範に足る人格者、祖徳と平生の品格が秀(すぐ)れ、大道に対する貢献度が慎重に検討され、厳選の結果、始めて任命されます。

もちろん恩師が沙盤を通じて大命を降下されるのですが、その前に前人・前賢の推薦・保挙を受けて、その中から採用されています。

聖凡を兼ねて道を行ずる点伝師の苦労は出家修行の比ではありません。

孟子様は、「天の将(まさ)に大任を其の人に降さんとするや、必ず先ず其の心志を苦しめ、其の筋骨を労し、其の体膚(たいふ)を餓(う)やし、其の身を空乏にし、行い其の為す所に払乱す。心を動かし性を忍びて、その能わざる所を曽益(そうえき:ふやす、加える)する所以(ゆえん)なり。」と言われたのはそっくり点伝師の使命と心構えを表現しています。

天がその人に世衆を救度して欲しい大任務を授けようとする時は必ずまずその心志を苦しめ、その筋骨を労しめ、その体を餓え、その膚を瘠(や)せしめ、その身を貧困の窮境に陥(おとしい)れ、その行なおうとすることは心に思うことと常に喰い違わせるのです。

それも天はその人の理義の心を動かし興起(こうき:感動して奮い起きる)させ、気稟食色(きひんしょくしき)の性を堅く忍ばせ、誘惑に打ち勝たせ、種々の困苦に当面して才力識見を広め、そのまだよく知らず行うことのできない所を完成するように増益させようという思召しであります。

仏堂を開設すれば一隻の船を建造したのと同じく、一人を紹介・保証して心法を得させたら、一つの霊を苦海から、老〇様のお側(そば)へ救い上げたことになります。

仏堂を開設して縁を結ぶ功徳は無量で、丁度天橋を架設したような素晴らしい業績に相当します。

それは、原人が理天に帰るのに必ず由らなければならない路順だからです。

仏堂は家庭内に簡素に設置され、広く近隣・親類知人の善縁者を救っていますが、縁の深い土地と家と人でなければ許されません。

開壇者は壇主と称し、その仏堂で得道した人はその恩恵を受けられます。

仏堂には常に天命を報じた仙仏の御降臨があるので、礼拝・整頓・献香や得道者往来の送迎から接待に至るまでの壇主の負担や気苦労は筆舌で尽くされません。

それだけに、その仏堂で上岸した原子霊は、後日功成り徳遂げ成道した暁には、済度の便に供した苦労の報いがあります。

外功三施(げこうさんせ)の働きの中の仕事は数多く、自分に与えられた財産を自分の伝道に費やす財施、自分に与えられた限りの智能を尽くして語り説く法施、道務推進の一方の旗手を担って円滑を計るべく聖事に携(たずさ)わる無為施、自分の置かれた立場と環境を大事にし、基盤として化導(けどう)に尽くす道事は数々あります。

さらに点伝師と壇主を補佐し、新得道者の理解を深めるためにおいては常に模範的な情操豊かな人であり、家庭に居ては身を修め家を斎(ととの)え、会う人に頭を低くし、縁ある人に逢えば道を説き続けます。

引師・保師の役割も極めて重要で智慧深き人には古法深く広理を語り、知識広き人には社会・人類の要諦・本義を説き、一般人には解り易く、その縁の深浅に応じて徐々に深遠霊妙へ導いて円熟の加速を促しています。

得道儀式に欠かすことのできない上執礼「かみつりー」・下執礼(しもつりー)の司式から表文奏呈の天文を記録される壇内の弁事人員の挙動は常に荘厳を極め、仙仏のはたすべき役柄に身心を潔浄して仕え奉っています。

人の生命を扱う帳儀の記載に全精神を傾けて整理される各位の神聖さは、幾十年の荒行に勝る大証果が得られます。

人霊救拯(じんれいきゅうじょう)の諸手続きに参画させて頂ける人の身は光栄です。

さらに神人連絡の直接機関を担当される三才の功積も抜群です。

天才の存在は数々の道書に紹介がある通り、白陽万八百年に残されるべき聖訓の機守を務めています。

若い層から抜擢されていますが、祖徳・前縁の深い人でないと大役を果たせられません。

天霊の神示を誦読される人才、天啓の聖句を正確に記録速写される地才の霊気も高度に修められている人でなければ服務できないものであります。

常に動じては人を救い、静にしては己を悟る努力を続けるべきで、内的にも外的にも車輪の回転に速度が加わるごとく、あらゆる行事に心から任じて手伝うべきです。

済世とは世を救うこと、時の弊害を正しくし、民の難儀を救うと解されますが、今の時が一番済世を必要とすべきではないでしょうか。

真の指導者は衆の使用人です。高徳の人は常に群衆の中に在らねばなりません。

修行者に位の順序は決められません。

理天に帰って、老〇様の果証があるまでは、人間で人間の功罪を定めることはできません。

己の非凡性を過剰に考えるべきではなく、特権意識にかられると優越感に煽(あお)られる如きは劣等意識の最も強い人で徳に執する愚者です。

清静経(せいじょうきょう)に、「上徳は徳とせず、下徳は徳に執す。執着の者は道・徳に明らかならず。」とあり、道徳経にも、「上徳は徳とせず。是を以て徳あり。下徳は徳を失わず。是を以て徳なし。」と行者に戒めています。

すなわち最上の徳は、徳を実行しても自分自身はそれを意識しません。

それが真の徳です。

それに反して、下級の徳は、僅(わずか)な徳でも、それを実行すると、いつまでも忘れることがないから真の徳がないのであります。

一挙一動ともに良い模範を示し、お互いに誠実を持って敬愛し、何事も謙虚・礼譲にし、心を低くし濫(みだ)りに貪らず、悪い癖性を発して人の印象を壊してはなりません。

顔色を柔らかくし、詞(ことば)に条理を尽くして循々として善く誘(いざな)い、迷信的言詞を避け、怪力乱神を語らず、恩師の諭された、

(一)天機を修める勿(なか)れ。

(二)顕化(けんげ:奇蹟)を修める勿れ。

(三)人情(情実)を修める勿れ。

三箇条を尊守し、大真理の権限を犯すような態度を示すべきではありません。

師の御命ならば水火も辞せず、仁を行うにあたっては先生・先輩に遠慮する必要はありません。

理天の地位は大徳ある人のために残されています。

真の原人なら一度得道すれば躊躇わずに衆生を救います。

功徳を積まない人は、たとえ仙仏の転生であっても小さな霊的位しか与えられません。

「上天に親(しん)なく惟(ただ)徳ある者を輔(たす)く」

老〇様は不偏不倚(ふへんふい)、中にして道を行ずる人に味方されます。

御聖訓・神示を結集印刷して広く世を警(いまし)めたり、道書を註疏(ちゅうそ)して後学に伝えるごときは、天人の福縁を結ぶ役目で極めて重要です。

古書に、「一生、世を勧めるには口で以てし、万世、世を勧めるには書で以てす。」とあります通り、善書が世に及ぼす影響は大きく、一本万利に増えて後人から讃仰(さんぎょう)を受け、世の続く限り消えることがありません。

善財は施しにくく、良いと思って施しても悪い結果になる恐れもありますから、よく考えて万古不易の真理に通ずる道であれば力を惜しむべきではありません。

得道した人は皆道親(どうしん)と呼ばれます。

道を親しむ、道の親類と解されますが、相協力し、師の教訓や前人の高説には謹聴して、それを霊気の中に記憶して人々に語り明かすべきであります。

さらに功徳を積めば過去の罪も消され、親の霊を超抜することもできます。

しかし、功中に罪あることも深く認識し、行動の軽卒を十分反省し、傲慢不遜(ごうまんふそん)になり、秩序を乱し、仏規を犯し、聖地を攪乱(かくらん)する如きことをすれば、高い仕事をしているだけに衆目に映って罪がつけ加えられます。

衷心(ちゅうしん)から慎むべきであります。

以上が外功の詳説であります。

天道の修道法を記しましたが、諸賢の修行に益すれば幸いです。

どうぞよく修道して頂き、自分の行道の中に取り入れて、大道普伝に役立つことを念願して本章を終えます。

続く


第八章  天道の修道法(三)外功の修法ーその2

2024-04-22 17:45:04 | 天道の淵源

(三)外功の修道ーその2

恩師弓長祖は我々に諸人を救う心構えとして、四つの要素を諭されました。

(1)黄婆臉(なこうどのかお)

仲人の顔になれという意味です。

天の縁を結んであげるのに顔の皮を厚くし、恥ずかしがらず、正しいと信じれば躊躇せず仲人役となるべきです。

(2)兎子腿(うさぎのもも)

兎の足のように頻繁に通い続けよとの意味です。

頑迷な人が多い世の中に一度二度話して理解して悟る人は少ないため、疲れずに歩くべきです。

(3)英雄胆(えいゆうきも)

英雄のごとく物怯(ものおじ)せず、誰にでも勇気を鼓(こ)して説き伏せる意味です。

相手の学識・権勢など恐れて、せっかくの縁を錯(あやま)ることなく向かうべきです。

(4)宰相の肚(さいしょうのはら)

宰相の海のような大きな腹を養うべきであるとの意味です。

小事に拘(こだ)わらず寛容にして腹を立てず、清濁合わせ呑む(の)む大きな人物になるべきです。

以上の諸要素を体得していれば、救われざる人はないことを諭されています。

これは孔子様が、「君子の道なる者三。吾能くすること無し。仁者は憂えず、知者は惑わず、勇者は懼(おそ)れず。」の心構えと軌を一にしています。

つまり、君子が道として履(ふ)み行うべき重大な事柄が三つあるが、自分はその中の何(いず)れをも十分に実行することができない。

三つとは、一つは仁者の徳を積んで内に疚(やま)しい所のない憂いなき態度であり、 

二つは知者の事理に通じて物事の分別に迷わぬ態度であり、

三つは勇者の義に勇んで潔矩(けつく:守るべき正しく清い行い)の道、忠恕の道を行うのに懼れぬ態度である、

と述べられました。

外功への心構えとして仏教の四弘誓願(しくせいがん)に共通の義を見出します。

つまり、

(1)衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)

苦海の衆生はたとえ無量無辺であると言えども、誓ってこれを済度し尽くそうとする願望。

(2)煩悩無辺誓願断(ぼんのうむへんせいがんだん)

煩悩は数限り無いと言えども、誓ってこれを断じ尽くそうとする願望。

(3)法門無尽誓願学(知)(ほうもんむじんせいがんがく)

法門は無尽であると言えども、誓ってこれを学知しようとする願望。

(4)仏道無上誓願成(証)(ぶつどうむじょうせいがんじょう)

誓って無上の道、仏果を完成しようとする願望。

更に、

(一)未済度の者を度し、

(二)未解の者を解しめ、

(三)安心せざる者を安(やすん)ぜしめ、

(四)未涅槃(みねはん)の者に涅槃を得しめるなど、

四十八願あり、三誓偈(さんせいげ)ありで、地蔵古仏のごときは、地獄の亡霊がことごとく極楽へ救われるのでなければ、自分は誓っても地獄から出ない願を立てられたほどで、余程の心願を深くしなければ貪欲・瞋恚(しんに:自分心と違うものに怒り恨む)・愚痴の熾盛(しせい:勢いが激しい人)な世人を挽化することはできません。

若し道を得て自分しか顧みず、清閉安逸を図り、己の安心立命のみ考えて衆生済度を念頭から離したら、私利私欲の類と変わりなく自己陶酔に墜入って、逆に道から遠離してしまいます。

千丈の崖からまさに堕ちようとする兄弟を見て果たして平然としていられるのでしょうか。

船上から海に沈み溺れている同胞を無関心で眺めていられるでありましょうか。

孟子様は、「人皆忍びざる所有り。之を其の忍ぶ所に達するは仁なり。」と言われました。

これは、人には惻隠の心があって、愛するものには気の毒と思う、この心を推して愛さないもの、無関心な人にまで及ぼせば、無慈悲なことをしなくなるであろう。

これを仁というと言われたのです。

法輪を転ずると仏語にありますが、これは正法を得て、その法を自己本霊において転ずるのみならず、能く衆生の悪を摧破(さいは:滅ぼし打ち破る)して善法に依らしめ、一人や一処(ひとところ)に停滞せず、展転して人々に広く伝わることは猶(なお)車輪のごとくであるように願う行です。

法を得ても独り占めにすれば功徳にならないどころか徳を害(そこな)います。

孔子様の説く「潔矩(けっく)の道」も、自分を推量してそれを標準とし、尺度として他人を正しくする想いやりの道です。

しかも、我々は六万余年来、累世に山積の罪業・宿孼(しゅくげつ)を犯しています。

一世の罪悪は三世生まれて善徳を積んでも補いきれません。況(いわ)んや歴世に重なって今日まで至った過失の数々は拭い浄められるものではありません。

一個人の罪ですから無限性を帯びているのに、それが億万の人の所業となればいか程になるか、毒素の形式は斯様(かよう)にして世に蝕み、災難となって地上を滅ぼそうとしています。

今個人だけではなく世を挙げて混乱し、中心を失った人類は戦々兢々(せんせんきょうきょう)としています。

忍びよる末劫の足音に心ある人は神飛び、魂震い、その巨大な残忍と凄惨な災厄に戦慄を禁じ得ないほどであります。

天道降世の主要目的は、老〇様に替わって九十六億の原子霊をこぞって理天へ救い帰らせるにあります。

老〇様は絶対御慈悲で好生を徳とし、万類が善くなることを願われています。

災難は罪を淘汰するもので、人間が自ら招いたに過ぎません。

道徳・世風の頽廃、人心の悪化に伴って厄難も比例して重く反応してきます。

これらの災難を消滅・軽減する道は正法を布衍(ふえん:水が満ち溢れるように広く伝える)し、抜本的な救助として先に法を伝え、心眼を点破し、大威神力をもって災いの氾濫を防止されるのです。

受難時に得道者は神咒(しんじゅ)・心印なる秘法を使うことによって神仏の御加護を受けられますから、心法を広域に伝えた人は外功の成就者と言えます。

十七代路祖以前は特定の人だけに授けられていましたが、今は全ての国・地域・人類・民族におよそ縁ある人なら、ことごとく法船に挽きあげることが許されました。

この聖事に尽瘁(じんすい:心を尽くして骨を折る)することの意義は、いかに深いか繰り返して強調せざるを得ません。

仏堂は固定した場所に設けられていますから、遠隔地・辺疆地(へんきょうち)で集まりにくい場合は移動仏堂と言って、誰彼の家に限らず、臨時に架設して近縁の便を計ることができます。

仏堂の法船は縁者の家に暫時でも錨を降ろして停泊し、名利恩愛・酒色財気に迷える人々を呼び覚まし、還源の時期が到来したことを警告しているのです。

従って道を得た人は急いで更に救いの手を苦海の同胞に差し延べなければなりません。

乗り遅れないように、見失わないように、眼を光らせて凝視すべきです。

誰にでも故郷があり、親戚・知友があります。

その家に行って勤め、移動仏堂を設置すれば、何十か何百かの霊を理天へ連れて帰ることになり、今まで何千年来の互いの因果を浄め、生死流転に結末をつけて大歓喜を味わうことができます。

衆生の仏か、仏の衆生か、恩顧は互いにあるべきで、老〇様は我々の罪を軽くさせるために絶好の機会を与えられたと考えることが望ましいのです。

今のように時勢が混沌としている時に、何時突発事が起こって伝道できない状態になるか分かりません。

猫の眼のように今は一番変遷がいちじるしく、安閑を許されない時期で、天時は正に緊急を極めている時と思って頂きたいのです。

「先んずれば人を制す」で、遅れては功徳の破片も拾えなくなります。

世の先覚者となり、喜々として法の開拓にいそしむべきです。

続く


第八章 天道の修道法(三)外功の修法ーその1

2024-04-21 19:36:42 | 天道の淵源

(三)外功の修法  その1

外功とは外的に道務を推進して正法を普伝し、衆生を済度し、劫難を消滅し、人々の煩悩・不安・恐怖を除去する聖事に携(たずさ)わる行です。

三期にあたり恩師弓長祖は、老〇様の大命を拝して三曹の神人鬼を救い、万教を帰一し、白陽万八百年の道盤を掌(つかさど)ることになりました。

斯(かか)る大業に徒弟の一人として助力させて頂けることは幸運なことで、この時とこの場所に生まれ合わせた恵みを喜ばなければなりません。

この仕事を成就させるために諸天の神聖、満天の仙仏とともに下界し、あらゆる方法を講じて挽回を手助けしておられます。

弥勒祖師と恩師が天盤・道盤を相助けて統掌される事実を、もっと声を高くして世人に知らせる義務と責任があります。

老〇様は、この度の大収円事に、過去の青陽・紅陽に救済された四億の真人を挙(こぞ)って降世させた程で、老〇真書に「爾等群仙(なんじらぐんせん)等しく世に下り、荒(あれ:荒れ地)を開き草を打(な)ぎ、他(みろく)を幇助(たす)くべし。西方に一仏子も留めず、天宮(りてん)に一菩薩も留(のこ)さず。」とあります。

老〇様の御心情を察し、いかに世の悪化を嘆き悲しんでおられるかを理解できます。

親の御意志を承(う)け、それに副(そ)うことを成し遂げる行が孝ですから、この前代未聞の大神事に全身全霊を賭けて赤心を捧げ尽くすのが、大聖賢の器たる人の行ではないでしょうか。

今、天は我々に何を望んでおられるか、「天に順(したが)えば存(のこ)り、天に逆らえば亡ぶ」の理(ことわり)どおり、天の意を知り、天の命を聴き、天事に参画して永遠の世に留まることを願うべきです。

天界からの使命を受けて一大事を補佐するためにこの世に降ろされたことを考えて、我々は六万余年間、輪廻に彷徨(さまよ)ってやっと人身を得ました。

せっかくの機会を逸(いつ)せず、積極的に普伝に走り、万霊帰根のために献身するのを惜しむべきではありません。

孔子様は、「志士仁人(ししじんじん)は、生を求めて以て仁を害することなく、身を殺(さつ)して以て仁を成すこと有り。」と言われました。

志士とか仁人とか言われる人は自分の身を生かさんがために仁道を害(そこな)うことなく、むしろ反対に、自分の身を犠牲にしても仁道をなし遂げて行くべきで、キリスト様のように人々の罪を贖(あがな)うためには十字架に釘打たれても本望でありました。

論語の中に、孔子様は、子貢(しこう)様の「仁者とは何か」との質問に、「夫(そ)れ仁者は己立(おのれた)たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す。

能(よ)く近く譬(たと)えを取るを、仁の方(みち)と謂う可(べ)きのみ。」と答えられました。

つまり、仁者は自分がその立場に立ちたいと思う場合には、まず以て人を立ててやり、自分が事に通達したいと思う場合には、まず以て人を事に通達させてやることで、かくのごとく万事につき、ごく手近かに我が身の上にたとえを取って自分の心に考え、それを推して人に及ぼして行く、これが仁に到達する方法であるという意味です。

目下の天下が最も混沌としている時に、天道が唯一の救いの法として、人々を光明の彼岸へ導こうとしています。

老子様は、「大道廃(すた)れて仁義あり」といわれました。

世に大道が廃れたために仁義の大道が唱導され、霊を根本から救おうとされています。

こうして外的に人に接して正法を授け伝える行が外功の修法であります。

外功は天道を得た人であれば、誰でも篤(あつ)く行うべきです。

普伝には時期がありますから、短期間に緊急になさなければなりません。

天道の単伝時代には、内功を充実して明師の開悟を受けてから、外功を行じて衆生を済度していました。

菩薩行とは、仏たることを目的として修める自利(自己のために修行)と利他(他人の利益を目的とする行為)の円満なる大行で、つまり内功をして菩提・真理・妙理を求めつつ、衆愚(しゅうぐ)・衆迷(しゅうまい)を醒(さ)まし救う行のことです。

目的は人々を救うのですが、そこに到達するのに己が明瞭に悟境に至らねばなりません。

そのための修行が内功でしたが、今は先に悟りの法を与えて頂いた我々にとっては、天運に呼応して外功を建てる事を主題にし、外功によって影響する力と徳をもってさらに内功を容易に充実成らしめればよいのです。

むしろ外功のない所に内功はあり得ません。内功は磨くことで己の霊光を輝かす行ですが、外功は徳を積むことで器を大きくし霊気を増やし、徳力を広く修める行です。

宝石に例を取って言えば、内功は細工し、煉磨して仕上げる行で、外功は量を増やし、目方を重くし、質を充すよう計る行です。

小さな宝石を百年磨いても限られた分量以上にはなりません。

可能ならやはり量質ともに大きくして更に煉磨することが望ましいのですが、この徳を立てることは時と運と福の具わった人でないと作得(なしえ)られるものではありません。

『真実の徳、永遠の朽ちない徳を建立するには、一体どのような行をすればよいのか』が中心課題になります。

通常の善事・善徳は、人のため、社会のために利益になることに己を虚(むな)しくして尽くすことを指します。

慈善事業や公益事業、難事・難題の解決救済に我と我が身を忘れる人、私財を投じて災害・困苦の人々に施し与える人等、種々その人合った善事を行っています。

この様な善事が与える相手・環境に及ぼす時間と範囲との長短・大小・深浅によって徳の厚薄・高低に繋がって来ます。

その結果が良い後世となり、未来の幸福、善い果報となって現れてきます。

善事を行う人が意識するや否にかかわらず、その良善の報いはその善行が尽きるまで享けることができます。

しかし、これらの善行は有限な範囲にしか及ばされていない為に、大小があっても限りあるもので、徳の究極・絶対の徳ではありません。

及ぼす際限に至り、影響力を失うと、その徳も失われる訳で徳の根本ではありません。

これより一歩進んで心の不良化を正し、不足不満を充たし、不安と恐怖を除き、精神の安定を計るのが心の救いであります。

この法は聖人の経典・聖書を誦(よ)ませ、祈りと礼拝を教えて人の行為・生活全体が善良になるように計る導き方です。

これは大きな陰徳となって受けた人の生きている限り、尊敬と崇拝が受けられます。

しかし、これは身体という形が存在している間の心を救ったのであって、たとえ修めて来生の霊気に輝きがあったところで、霊自体を完全に生死の輪廻から解脱させることはできませんから、次の生においてまた迷昧してしまえば、その人の与えた徳も尽きて、これまた究極の徳、絶対の徳とはなりません。

究極・絶対の善事は霊魂を根源から救って理天へ帰らせる行をすることです。

六万年間の因果の縛りにある諸々の霊を親元に帰らせることほど、功徳のある行はありません。

再びと転生させなくともよい法を与えることは今後、何回も転生して受ける苦を助けてあげるより大事な救いとなります。

永遠に極楽・天国へ生命を救い得た功徳は世におけるいかなる利益・所得より大きいのです。

いつの時代でも誰もができることではなく、今の我々だけにこのような聖事を果たす機会が与えられたのです。

これが第一の奇功(きこう:珍しく優れた功績)です。

老〇様に代わって原人を済度すれば、倍速的に霊気が充実し、霊光が輝いて来ます。

人の本性を救い、原霊を回復させた数量が多ければ、その分だけ反応して功徳が重なります。失われた原子霊を回収させる業に多く貢献した人は、それに比例して自己霊も高く大きくなるわけで、大衆に接する度合いの多い人は元神の円通を容易ならしめます。

救う人と救われる人の霊気は一方的に流通せず、交互に利益を及ぼして、ますます明敏に高められて行きます。

そのためにはもっと心願を重くし、誠心を深くし、労苦を辞せず、時々刻々衆苦を哀れむことを念頭に存するべきです。

外功を行う最適な場所が仏堂ですから、開壇に尽力することが最大の貢献になります。

この世は五濁(ごじょく)の苦海であり、これを救うための仏堂は法船にあたる役目で、法船に依ってこそすべての霊を載せて理天へ帰らせることができるのであります。

いかなる人であっても、仏道に前において得道し法を授けて頂かなくてはなりません。

仏堂は家庭の一間に安設され、近隣知人に法を伝える便を計っています。

簡単な設壇ですが、天命ある天灯(てんのともしび)をひと度、点じますと百歩周辺に護法の神仏が擁護して亡霊・鬼邪等神格のない霊が入ることを禁止しています。

つまり仏道は理天に帰る神聖な中継地・聖地です。

一か所の仏堂を設置した功績は莫大なもので、いかに巨大な寺院・教会であっても正法を授け、神仏の直(じ)かの御降臨を得られませんから、一か所の仏堂設立に尽力した功績は何百・何千の寺社堂塔を建立するより大きい訳で、白陽万八百年の青史(せいし)に長く留められます。

奇功とは不可能時事を可能にする奇(く)しきことで、人の複雑な因果を解き開いて天の故園(固円)へ帰らせるのは最も困難なことです。

一人一人の因果は違いますから、一々解きほぐして自在身にさせるのですから、これ以上の大徳はありません。

三期の世の人は糖衣錠(とういじょう)の薬のように表面は善美という甘い皮で邪悪という苦い成分を含み、形の面では善悪を判別できなくなりました。

更に歴世の罪業を背負ってきていますので、真理・神仏に対する猜疑心(さいぎしん)で固まっているのを説き伏せるのに難儀します。

物象に神の顕化(けんげ)を見出そうとしたり、神霊を科学して理解しようとする人に真実の義を悟らせるのにも相当心身を費やします。

天を罵詈(ばり)し、神仏を冒涜(ぼうとく)し、行者に悪口雑言を浴びせたり、道脈・祖師を誹謗(ひぼう)した利する人達ばかりで充満しています。。

堕落の環境の中に破廉恥(はれんち)的行為や流行に血眼(ちなまこ)になっている人に清らかな天言を聞かせ、厳粛な本性に立ち返らせようとするのは、難中の難と言わねばなりません。

その困難を推して正しい心法を得べく説き聞かせるべきです。

そのために受けるいかなる誹謗や屈辱でも耐え忍び、大いなる慈悲を懐(いだ)いて倦(う)まず厭(いと)わず、互いの永性を願うべきです。

続く