真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

離苦求樂(苦を離れ樂を求める)その六 完

2023-10-12 18:51:57 | 離苦求樂(苦を離れ樂を求める)

怨憎会苦(えんぞうえく)。(怨んだり憎んだりする人と会う苦しみ。)

例えば、同じ職場のある人とは、何をするにも意見が一致しない。

その為にその人を怨んだり憎んだりする。

その人の会いたくないけれど、同じ職場である為に、どうしても顔を合わせなければならない。

その人を見ただけで心が苦しくて仕方がない、というような人に会わなければならない。

これが怨憎会の苦しみです。

愛別離苦(あいべつりく)。(愛し合いながら別離する苦しみ。)

「会うは別れの始めである。」とは、聖人のお言葉でございます。

どんなに愛し合う親子夫婦、兄弟姉妹であったとしても、別れなければならない時が必ず来ます。

これが無常の法則なのです。

求不得苦(きゅうふとくく)。(求めても得られない苦しみ。)

求めても求めても得られ無い苦しみは夜寝ても夢になって現れてくる程です。

五陰熾盛苦(ごいんしきせいく)。(五陰が心の中に起こって燃え盛る苦しみ。)

五陰とは般若心経の中にある色、受、想、行、識(五蘊〈ごうん〉)であります。

我々は、我執があるが故に惑いが起こる、惑によって業が起こり、その報いとして苦しみを受けるのです。

我々はこの意味が解った時、本当の極樂を得る為に苦しみの因を離れていかなければならないのです。

先ず、我執を取り除き、惑いをなくして行く、そして、業を行なわないようにする、そうすれば苦しみの結果を受けなくなります。

これが即ち、苦を離れ樂を得る境地でございます。

私達が、道を修める目的は、苦を離れて、本当の極樂の境地に至る為であります。

集業受苦、修道証滅。(業を集めて苦を受け、道を修め滅を証〈あか〉す。)

一般の方々は、業を集めて苦しみを受けているわけですが、道を修める私達は、道を修めることが因であり、その結果、心の中が非常に清らかな境地になるわけです。

これが修道する人の果であり、滅の境地を証すことであります。

Ray:滅の境地を証す:一切の執着を無くす。解脱する。


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離苦求樂(苦を離れ樂を求める)その五

2023-10-11 21:39:53 | 離苦求樂(苦を離れ樂を求める)

忍辱波羅密多至上菩提果。(忍辱波羅密多〈にんじょくはらみつた〉は至上の菩提果なり。)

忍辱とは、六波羅密の一つですが、仮に何か嗔ることがあったとしても、それを抑えて耐え忍ことです。

波羅密とは、到彼岸、即ち悟りの岸に到ることです。

苦海であるこの世を此岸(しがん)と申します。

忍辱波羅密したならば、最高の菩提果を得ることができます。

菩提果とは、佛果です。

人間社会の地位のようなものを理天では果位と申します。

(ち)とは、どちらかが正で、どちらかが邪であるかをはっきり分別できないことです。

例えば物を貪る、それが得られないならば、怒りを起こす、そして、痴の境地に陥るわけです。

苦報是果。(苦報は是れ果なり。)

我執が因となって惑業を行う、これが縁である。

これによって、十悪業が造られ、苦が生じてきます。

この苦しみが、この因と縁の報いであります。

これを果といいます。

三苦とは、苦苦(くく)、行苦(ぎょうく)、懐苦(かいく)。

四苦とは、生、老、病、死。

八苦とは、四苦と怨憎会苦(おんぞうあいく)、愛別離苦(あいべつりく)、求不得苦(きゅうふとくく)、五陰熾盛苦(ごいんしきせいく)。

身為苦本、是身無常。(身は苦の本を為す、是れ身は無常なり。)

我々の身そのものが苦しみの根本を為し、この世に生まれて来ると、もう既に苦しみが来るわけです。

そこでお釈迦様は、是れ身は無常なり、と申されました。

人の身は無常である。

黒い頭の毛をした人が間もなく白い髪となり、そして、この世から消えて行かねばなりません。

これは一つの簡単な物語ですが、ある人が年をとって死にました。

そして、閻魔王(えんまおう)の所へ行って、「どうして私を殺して、地獄へ連れて来たのですか。」と申しました。

すると閻魔王は、「あなたの寿命が来たからあなたは死んで地獄に来たのです。」と言いますと、その人がまた、「何日の何時頃、あなたは死ぬという手紙をどうしてくれなかったのですか。」と文句をつけました。

そこで閻魔王は、「あなたの髪は白かったでしょう。」「勿論白かったです。」「あなたの歯は抜けていたでしょう。」「抜けていました。」「私はもう既に、あなたの体に手紙を上げましたよ。」と閻魔王がその人に言いました。

髪は真白になって来る。

歯は抜けて来る。

顔が皺(しわ)だらけになって来る。

これは、既にこの世を行く手紙が閻魔王から来た、と考えても間違いないわけです。

これはもうこの世から去るべき時が間もなく近づいていることを意味しているのです。

ですから、三苦とは、

苦苦。(苦しみを苦しむ。)人間は、生まれ落ちると、直ぐ苦しみを苦しみ始めわけです。

行苦。(行うを苦しむ。)行うとは、一つの苦しみがあって、その苦しみを果たす為に行うのであるが、また次の苦しみを生み出して、又苦しむ、遷流(せんりゅう)即ち流れを移して行くのです。

壊苦。(壊〈こわ〉れるを苦しむ。)例えば、自分の命と同じ位大切にしている骨董品を子供が割ってしまったとします。

しかし、子供を叩いてみても、怒って見ても元通りになるわけではありません。

そこで非常に惜しんで苦しむ境地です。

次に八苦でございますが、中でも生老病死は非常に公平で、一國(こく)の王様であろうとも、この苦しみを逃れることはできません。

生苦。(生まれる苦しみ。)私達が母胎に宿っているとき、丁度、真暗な部屋に閉じ込められている様な状態です。

お母さんが食べられたものを僅かいただきながら、十ヶ月して苦しみながら生まれるのです。

この苦しみは、すべての人々が同じく受けているのです。

老苦。(年をとる苦しみ。)年をとりますと、顔にしわが出る。歯が抜けて物を食べても美味しくない。

足腰が痛む。これは如何に親孝行の息子がいたとしても、親の苦しみを代わることはできません。

病苦。(病気の苦しみ。)健康な時には、健康の有難さは解りませんが、病気に罹(かか)りますと痛みと精神不安が交錯して非常に苦しむわけです。

死苦。(死の苦しみ。)人が死んで行く時には、この体は丁度壊れかかった家のような状態です。

死にたくないけれど、体がもう壊れかかっているのでやはり死んで行かなければなりません。

死んだ後、どこに行くのでしょうか。

初めてあの世のことが心配になってきます。これが死んで行く時の苦しみです。

続く


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離苦求樂(苦を離れ樂を求める)その四

2023-10-10 17:56:58 | 離苦求樂(苦を離れ樂を求める)

次は意の業です。身の業・口の業は形に現れていますので、これは努力すれば非常に改めることができますが、この意の業は目に見えないものが業を起こしているので改める事が非常に難しいわけです。

同じ業でも身で犯したものを過ち、口で犯したものを錯(あやま)ち、意で犯したものを罪と申します。

意の業は先ず念が起きるわけです。

念は物を貪ることから始まります。

貪(どん)とは、名誉、利益、財貨、色、酒を貪ることです。

例えば、自分は持っていないけれど他人は持っている、それを自分のものにしようとする、これも貪です。

貪(むさぼ)りが起こり、それが完全に自分の手に入ってしまうならば、問題ないかも知れませんが、我々の心の中の貪りが完全に果たされることは、ほとんどない訳です。

嗔(しん)とは、求めても手に入らないと嗔(いか)りが起きます。

私たちの佛性は非常に浄(きよ)らかで圓満なものでありますが、嗔りが起こって来た時には、あの真黒い雲が十五夜の月を被(おお)うが如く、私達の明らかな佛性が被われ、無名の境地に陥(おちい)るのです。

你火我不火、燒你不燒我。(你〈なんじ〉は火〈おこ〉るも我は火〈おこ〉らず、你を燒いて我を燒かず。)

火という字は、嗔(おこ)るという意味です。

腹が立った時、胸が熱くなるでしょう。結局その胸の中に火が起こってくるわけです。

あなたがおこっても、私は起こらないようにしなければなりません。

もし、あなたが嗔(おこ)った場合、あなたの佛性が燒かれていくのです。

私がおこらなかったならば私の佛性は燒かれません。

続く


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離苦求樂(苦を離れ樂を求める)その三

2023-10-09 17:16:53 | 離苦求樂(苦を離れ樂を求める)

十悪業の要点だけを申し上げます。

先ず身の業から考えて見ましょう。

殺(せつ)とは、生き物を殺して自分の為にすることです。

これは殺生養身(せっしょうようしん)と申し一番恐ろしい業であり、大きな罪です。

又殺生には直接殺生と間接殺生があります。

ある人は生き物を買ってきて自分で料理を作りました。

これは直接殺生です。

又、別の人はすでに殺したものを買ってきて料理を作りました。

これを間接殺生と申します。

直接殺生も間接殺生も同じ罪です。

盗(とう)とは

孟子曰く

非其有而取之者盗也。(其の有〈もつ〉に非ずして之を取る者は盗なり。)

人の者を盗ることだけが盗ではありません。

自分の物になるべき物でないものを受け取る、これも盗です。

淫(いん)とは、色情因縁のことです。

正式の夫婦以外の関係は皆淫です。

次は、口の業です。

悪口とは、人の悪口を言ったり、人をののしったり、人の是々非々を言うことです。

両舌とは、二枚舌のことです。口の中には舌は一枚しかないのに二枚舌ということは、人のありもしないことを言ったり、甲の是々非々を乙に言ったり、乙の是々非々を甲に言って喧嘩を引き起こしたりすることです。

綺語(きご)とは、事実でないことを、人の気持ちを引くように話して言いふらすことです。

妄語(もうご)とは、噓のことです。

この中でも、一番守らなければならないのは悪口です。

これは絶対修道する人は言ってはなりません。

清口の愿を立てたが、もし悪口を言ったならば、もう既に清口ではなく、汚れた口になってしまうのです。

お釈迦様は五分律経(ごぶりっきょう)の中で、悪口を言うことは身を傷つけることと全く同じだ、と申されました。

昔も今も修道者には切磋琢磨(さっさたくま)があるわけですが、釈尊の弟子達も袈裟を着た修行者でありながら、お互いに悪口を言い合っていたので、お釈迦様は、次の物語をなさいました。

「私が過去に修行していたお寺の横に大きな湖がありました。

その湖の中には、大きな亀がいました。

その大きな亀は大きな鷹(たか)と友達でした。

日照りが續(つづ)いたある年、その湖の水が全部乾いてしまい、亀は生きることが出来なくなってしまいました。

そこで亀は、鷹に

『湖に一滴も水が無くなって、私は今にも死にそうです。なんとか助けてください。』

と頼みました。

鷹は考えたあげく何とか助けようと思いました。

しかし、

『もう一日待ってください。明日、必ず来てあなたを助けましょう。』

と言ってそこを飛び去りました。

その次の日、二羽の鷹が木の枝を口にくわえて飛んできました。

そして、二羽の鷹は亀に

『この枝の丁度真中のところをしっかりくわえてぶら下がりなさい、我々が両橋を加えて飛ぶから‥‥。』

と言いました。

ところで、この亀はよくこの鷹の悪口をいう亀だったのです。

そこで鷹は

『今日こそお前は悪口を言えないぞ、もし、この枝をくわえているのに悪口を言ったら、口が開いて落ちてしまい、そして、死んでしまうだろう。』

と鷹は亀に言いました。

すると亀は、『助けてくれるなら、今日は絶対に口は開きません。』

と二羽の鷹に誓いました。

ある村の上を通りかかった時、村の子供たちが大きな声で

『あれ、今まで見たこともないものが空を渡って行く。』

というので村の人達が全部そこに集まり、手を叩きながらこの様子を見たわけです。

この様子を見た亀は、腹が立ち

『お前たちには何の関係もないのに、何を言っているのか。』

と大きな口を開けて喋ったところ、亀は落ちて死んでしまいました。

お前達も何時も人の是々非々を言い合い、お互いに切磋琢磨しているけれど、私達の一番大事なことは、生死の問題です。

この問題を解決する為に、我々は修道しているのであって、小さいことを引っぱり出して、是々非々を論じ合って何のいい結果があろうか。

以後は絶対に悪口を言って、自分の身を傷つけるようなことをしてはならない。』

と、この話を結ばれました。

続く


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離苦求樂(苦を離れ楽を求める)その二

2023-10-08 19:32:45 | 離苦求樂(苦を離れ樂を求める)

惑には、見惑・思惑・困惑・迷惑の四つがございます。

見惑とは、見たものに対してはっきりと見解が定まらず迷うことです。

思惑とは、一つの例をとって考えて見ましょう。

今百歳の人がいたとします。

その人は百歳ではまだ足りないから、千歳まで生きたいと考えたとします。

人の寿命は、百歳位が限界ですから、このように考えることは、既にその考えが間違っているわけです。

間違って考えることを思惑と申します。

困惑とは、困(こん)とはくくられることです。

くくられるとは、道を受け、道のよいことを知っていながら修養しようとしない境地です。

もう一つは、この世のすべてのものが仮のものであることが、道の話を聞いて解ります。

しかし、仮物に執着する、これが即ち困惑です。

迷惑とは、“人に迷惑をかけた”という迷惑ではありません。

字は同じですけれど、意味は違います。

人間世界の声色貨利によって人は迷うわけです。

そして、これに迷うことは非常に悪いことであることを知りながら、あくまでも執着して離れない、その為に道を進むことが出来ない。これを迷惑と申します。

人間にはこの四惑のとりこになっているのです。

我々は牢屋に閉じ込められた囚人ではないけれど、目に見えない四惑によって牢屋に閉じ込められた囚人と同様にとらわれの身となっているのです。

起惑、造業、受苦。(惑を起こし、業を造り、苦を受ける。)

四惑を起こせば、必ず業が造られます。

業には十の悪行がございます。

この十悪業は、身で造る業、口で造る業、意で造る業の三つに分けられます。

意に貪(どん)・嗔(しん)・痴(ち)。

口に悪口(あくこう)、両舌(りょうぜつ)・綺語(きご)・妄語(もうご)。

身に殺(さつ)・盗(とう)・淫(いん)があります。

これを合わせますと十悪業となるわけです。

人は、身(しん)・口(く)・意(い)の三業が不浄の為に非常に苦しみを受けています。

私達は、その苦しみを免れるために修道しているわけですが、修道することにより、だんだん三業が清浄になるわけです。

続く


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