真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

天道推奨~(六)仏堂の役目と意義  完

2024-06-18 17:19:29 | 天道推奨

(六)仏堂の役目と意義

天道に於いて最も重んじている荷は、古来からの不立文字(ふりゅうもじ)心法であります。

この師資相承(ししそうじょう)の三宝得授(さんぽうとくじゅ)を行う儀式場が仏堂であります。

九分九厘まで天道の理を説明できても肝腎の秘伝は漏洩(漏らす)ことはできませんから、心有る人は仏堂に跪(ぬか)づいてこそ始めて神聖な法を得られるのであります。

仏堂の場所は本堂以外は殆ど各家庭に奉置(ほうち)され、二つの大きな御利益を齎(もた)らせて下さいます。

一つは衆生(ひとびと)を済度する一隻の法船としての役目を果たし、心から道を得たい方は此処(ここ)で荘厳(そうごん)なる儀式を挙行(きょこう)し、絶)た)ゆまない悪因果の輪廻に終止符を打って、自在の身にさせて下さいます。

もう一つは優先的にわれわれの家庭及び、隣近所を常に守護してくださる特典があり、一旦(いったん)、何か不祥事故が突発した場合には、未然に除去して頂けます。形式を重んじていませんので、堂内の装飾や設備は繫雑を(はん雑)を避けて簡素化されていますが、御降臨なされます神様は、無上最高の神、人類、万有、創造の神であらせられる、老〇(ラウム)様であります。

小さなわれわれの家庭一間にも斯様(かよう)な、至上無比の親神様をお祭り申し上げられますのも、時機に恵まれているからであります。

と云うのは、此の三宝は萬経(まんきょう)の中に蔵(かく)していない天機であって、授法(じゅほう)の感激的状景は未得道者の参列を許されません。人間だけではなく、われわれの肉眼に映らない一切の神格のない、気天神(きてんしん)や亡者霊、動物霊、畜生霊或いは邪神、邪霊の接近も拒絶しております。

仏堂で一番大事なのは、真ん中に安置申し上げているお天燈(ともしび)であります。

この天燈(おひかり)は、老〇(ラウム)様の御神体を象徴して普段は余り点(つ)けられません。

一度これを点(つ)けますと、忽ち、老〇(ラウム)様に通じる通天燈(つうてんとう)に変わります。

点灯中は、直径、百歩周辺には、神格の高い仙仏が常に固い守護陣となってくださいます。

例えば、弥勒仏、釈迦仏、孔子、老子、キリスト、マホメッド、観音様、達摩大師等の優れた神仏、聖者の方々であります。

これを見ましても、仏堂の持つべき意義と尊厳は実に甚大なものであることが分かります。

我々は毎日、このように堅固な保佑(ほゆう)の下に於いて、安心立命、無憂無愁(むゆうむしゅう)の生活が送られる訳であります。

仏堂の模様はわれわれが、勝手な創像(そうぞう)や設計に基づいて奉置(ほうち)するのではなく、すべて、老〇(ラウム)様のお指図に従うもので、弓長恩師(ゆみながおんし)又は子系師母(しけいしぼ)の御許可を受ければこそ効用と、霊験が得られるのであります。

開壇を許された幸運者は自動的に壇主となれます。開壇しなくとも特に熱心であり、且つその仏堂と縁故の有る人も壇主に任じられる場合があります。

勿論、壇主の資格者は、前世に数多くの積善と厚い祖先の余徳の然(しか)らしむ所であり、わけても佳(よ)い時期に世に生れ合わせた事に原因します。

人間界に一個所の仏堂を安置しますと必然的に、理天界に於いても高大な天院が設けられ、設壇者の不朽(ふきゅう)の號(ごう)も併せて白陽の青史に留まります。

従って挫折することなく、仏堂を何時までも保持できる人は、福が最も多い訳で洋々たる未来が約束されて目出度(めでた)い限りであります。

仏堂内は非常に静粛(せいしゅく)と清潔を重んじ、朝にお茶をお供えし、朝、晩に芳(かんば)しい、お香を献じて礼拝すればよいのであります。

平素、青果やお花、菓子類をお供えしてわれわれの真心を表せば結構であります。

献供(けんきょう)後のお茶や果物を御一家で召し上がりますと、言い知れない甘味、香味を味わうことができます。

老〇(ラウム)様や諸神聖の御恵みとわれわれの真心が加味されますから、一層、美味しく感じられ、心身の汚れと不純を一掃して下さる感が強いのであります。

憂欝(ゆううつ)や陰気に閉ざされている時は静かに仏堂にお這入(おは)りになって御覧なさい。

名状(めいじょう)し難い程の歓喜が生じ、すっかり爽快な気分に変わってしまいます。

不安や恐怖に取り憑(つ)かれた場合は天灯(ともしび)か祖師の顔をジッと仰いで御覧なさい。

間もなく落ち着きと勇気が得られることでありましょう。

雑念や煩悩に苦しまれている時等、暫く仏堂の前に跪着(ぬかづ)けば急(す)ぐにでも清静な心境となり、智慧心が湧いて問題は解決されます。

仏堂の持つ威光は冷淡の人を溶かし温和にし、無情残虐の人を化して慈悲仁愛に変わらせる程であります。

それは、偏(ひと)えに、老〇(ラウム)様の御神燈(ごしんとう)が有する摩訶不思議(まかふしぎ)の力の然(しか)らしめる所であり、一切の魔障(ましょう)と邪気を吹き飛ばして雲散霧消(うんさんむしょう)するもであります。

仏堂開設を所望(しょもう)の方は本堂へその旨、申し伝えれば適切なる指導を受けられるのであります。

実(げ)に縁は縁を結び、徳は徳を重ねて無限の進歩を遂げるものであります。

「若し成仏を想えば勤めて礼拝を要す。されば、常に聡明なる智慧心を持す。」(弥勒真経)


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天道推奨~(五)理天界と三界天の説明

2024-06-14 21:00:46 | 天道推奨

(五)理天界と三界天の説明

「天」は無極理天界と三界天(気天・象天・地獄)の二段階に区分されます。

われわれの霊(たましい)は六万余年前、無極理天から、この三界天に降下転生させられ、今に至るまで果てしない生死の波に浮き沈みしているのであります。

霊が如何なる系統を経過して循環させられているかを簡単に説明したいと思います。

元より無限の空間を地理的に線を劃(かく)すことは不可能ですが、衆生(ひとびと)に分かり易いように、特に図面で表しました。

厳密(げんみつ)に云って、真理や天界をどんなに上手に描いても、どんなに立派な言葉で比喩(ひゆ)しても、その実態を表明できないのであります。

形が無くては絵に画けないし、相が無くては言葉で表現できません。

粉飾(ふんしょく)や形容をしますと、人為的になって自然の本質から、むしろ遠離して行くものであります。

只「相を借りて理を悟る。」必要から敢(あえ)て解釈を加えることにしましたが、そこは賢明なる読者の理解に俟(ま)ちたいと思います。

キリスト教では只、天は唯一創造神の在(ま)します楽園(パラダイス)だけとし、洗礼(バプテスマ)を施された者はすべて天国に行けると云われます。

そうでない人は、人間生活を終え次第、災(も)え盛(さか)る火と硫黄(いおう)の地獄へ堕(お)ちて焼け亡ぶであろうと説かれます。

つまり人間界と神の御国と地獄を三界としました。

老子は無為、無形の境界と有為、有形の世界に分け、無為を道と云い、一(いち)とし、有為を陰陽界に分け、二とし、而して三を以て萬有(ばんゆう)を生じたと申されました。

無形を天地の始まりとし、有形を萬物の母としたのであります。

孔子は乾(けん)を天とし、坤(こん)を地とし、その上に上天があって、上天が存(ま)しまし、その載(とし)は無声無臭(むせいむしゅう)にして極まりないと申され、四時(しじ)を行い百物を生じても、何も言わないと強調されました。

つまり天地の天の上に更に上天我あると申されたのであります。

釈迦は生死流転、已(や)むことなき迷界を分類して、食、淫、睡眠の三欲が強盛(きょうせい)なる「欲界」と欲界の如き欲はないが、微妙なる形体を存する「色界」と純極楽浄土と空無辺処(くうむへんしょ)、無所有処(むしょうしょ)、非想非々想処(ひそうひひそうしょ)の「無色界」の三界と、無間(むげん)、大焦熱(だいしょうねつ)、焦熱(しょうねつ)、大叫喚(だいきょうかん)、叫喚(きょうかん)、衆合(しゅうごう)、黒縄(こくじょう)、等活(とうかつ)の八熱地獄に八寒地獄の「地獄界」が有ると説き、衆生が自ら造った悪業(あくごう)はすべて地獄に赴(おもむ)いて刑罰をうけなければならないと申されました。

無色界には無量寿(むりょうじゅ)、無量光(むりょうこう)の仏が無量寿劫(むりょうじゅごう)の昔から在(ま)しますと云われます。

これらは名称が違っても、天国、上天、無為、無色界とはすなわち老〇(ラウム)様が親しく主宰し給う、光明、自然、清浄(しょうじょう)、自在、最勝(さいしょう)の理天界であります。

各聖者も授記法伝(じゅきほうでん)によってこそ、始めて、その境界へ至ることができると力説せられていますが、今や時代が流れて正法が廃(すた)れ、聖道が失われて還源の路が途絶(とだ)えてしまいました。

教徒(きょうと)達は信ずれば自然に行けると云っていますが、複雑な三界の搦(から)み合いに、法を得ずして、生と死を超越して三界を飛び出すことは困難であります。

罪を造った人は一様に地獄、幽冥界(ゆうめいかい)へ墜落することは諸説によっても明らかであります。

人間、象天界(しょうてんかい)と地獄界の連(つなが)りは「罪造り」がある限り終局なく続くことでしょう。

善を施せば、その大小によって、富貴貧賤(ふうきひんせん)に生れ、悪を作(な)せば、亦その軽重に応じて羽(う)、毛(もう)、甲(こう)、麟(りん)の四生に分生させられ、悲劇的な宿命が大きく支配力となってわれわれを苦しめるのであります。

何れにしても人間、地獄の二界は有形無形の刑罰場であります。此処に一つの重要な境界が存在していることを力説したいと思います。

つまり「気天界(きてんかい)」であります。気天界を抜けては天界の解釈が成り立たないものであります。

孔子の云う「上天ー天ー地」の天であり、老子の示す「無為ー陽界―陰界」の陽界であり、釈迦の「無色界―色界―欲界」の色界であります。

釈迦は色界を欲界の如き婬(いん)、食、睡(すい)等の貪欲より離れているが、未だ無色界の如き、全く物質を離れ、名声を隔(へだ)てた純精神的になっていない中間的な気的世界であると申されました。

平常、われわれは教義の上では、信仰し、帰依(きえ)し、善徳を培(つちか)えば、極楽天国へ往(い)けると教えられていますが、この場合に云う、極楽天国とは気天界の誤りで天道では昔から、得道せざる限り、絶対に地上界から理天へは直接に帰れないと示し下さっております。

理由としては人間、百年の善徳は至って僅少(わずか)の数しかなく、寸善的(すんぜんてき)行為では歴世(れきせい)の罪業を洗滌(せんじょう)し尽くされず、永遠に極楽の気分を享受するに値しないと申されます。

自然的法則は極めて厳しく、為した行為の報酬しか与えぬものであります。

限定ある善徳に対する褒賞(ほうしょう)として、それ相応の期間だけに楽幸(らくこう)が授かるものであります。

この中間的階層が気天界であります。

余程、大功徳を修めた人ならば、時の明師から理天界へ直ちに救い上げられますが、大方は期限が尽きるのを待って降世し、再修練を命ぜられるものであります。

大善功者でも縁運薄く、明師に恵まれずに世を去られた人は、一応、気天を通じ、機の熟するのを待って理天に救われると申されます。

三界の輪廻は丁度「8」の字型の二つの連環作用を交互に繰り返している訳であります。

此の三界を三曹(さんそう)とも申しますが、すべて理天の管轄下(かんかつか)にあることは勿論であります。

三曹は同じ一つの繋がりを持っていますから、やがて滅尽の時期がやってまいります。

災難が起こる度毎に大きな変動を来しますし、人為的破壊力によっても影響をされます。

究極の安全地帯でない訳であります。天道降世は実に三界に大きな朗報をもたらし、起死回生の機会を与え、救い難い現状を救い、神、人、鬼共に苦悩、災厄のない理天界へ救い帰らせる役目を果たすものであります。

老〇(ラウム)様はそれを最も切望し、期待しておられるのであります。

続く


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天道推奨~(四)各神仏の天道証明 (5)儒聖孔子(じゅせいこうし)の證道(しょうどう)

2024-06-06 20:37:41 | 天道推奨

(5)儒聖孔子(じゅせいこうし)の證道(しょうどう)

一貫して伝わっている天道は妙理を伝え、天機の秘宝を至(もっと)も微(び)としている。

広大の理を細密の義及びその体用をすべて網羅(もうら)し尽くしている。

物に本末有り、事に終始有るのは当然で、其の先後を知ってこそ天道に近づいたと云えるものである。

人の神(こころ)を知れば定着を得て清浄のになり、安心立命から仁慈的深慮(じんじてきしんりょ)に進んでやがて大完成を得られるであろう。

心の在り処を知らずに只修めるだけでは私の曰(い)った「天命之れ性と謂い、性に率(したが)うを之れ道と謂う。」の理(ことわり)が解せないだろう。

天機は朗(あき)らかに書(しょ)に洩らしているが明師に遇(めぐ)り会わなければ心得(しん得)は不可能である。

若し今直ちに心を低くして天道を求めなければ異類(いるい)に彷徨(さまよ)い続けて魂は超(すく)われないだろう。(中略)

究局(きゅうきょく)の明徳を明らかにし、至善の極所に達し、大理学(だいりがく)の道に至れるのは斯の時だけで、天命を畏れ遵(したが)ってこそ大同の世が促進され一人一人が親民(しんみん)となれよう。

緡蛮(めんばん)の黄鳥(おうちょう)でさえ落ち着いた安全な丘や森を求めて棲(す)もうとするのに人間と為(な)って小鳥に劣るとはどうしたことか。

わが天性の帰宿(きしゅく)と還源(かんげん)を計る為に吝(やぶ)さかであってよかろうか。

当(まさ)に天道降世に備え、逸早(いちはや)く意(こころ)を決して、日に新たに、日々新たにして人々を同化すべきである。

己れの本性の在り処を会得(え得)した暁(あかつき)にこそ、物欲、邪見を格徐(かくじょ)して意が誠となり、心が正しくなり、身が修まり、家が斎(ととの)い、而して国治まり、天下は太平になるだろう。

天道はすべての条件を叶(かな)えてくれるが、伝えられる時期はそう持続されないだろう。

速やかに道を行い、遅れることなく、私の列国伝道に習って、大いに伝播(でんぱ)し、真理を探究し、功徳を立て一番と奔走して貰いたい。

私の道を学ぶ人は切に此の点を重視し、且つ精勤することを願うものである。(後略)


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天道推奨~四、各神仏の天道証明 (4)耶蘇基督(イエスキリスト)の證道(しょうどう)

2024-06-02 16:25:24 | 天道推奨

(4)耶蘇基督(イエスキリスト)の證道(しょうどう)

私が身を殺して仁を成した事は既に聖書で伝えている。

十字架を後世に遺して停(とど)まる時はない。磔(はりつけ)の刑は新約の詳述(しょうじゅつ)の通りであり、世に在りし時、天命を承(う)けて四方に真なる命を伝えるのに苦労した。

然れども、事、志に反して全く納(い)れられず、裏切りを受けたが帰天後、漸(ようや)く認められて名を万古に遺した。

那(か)の時は文化華やかりし頃だが、ユダヤには一人も聖人が生まれていなかった。

傲慢(ごうまん)の結果は己を滅ぼすが、人心の邪逆(よこしま)と詭詐(いつわり)は施(ほどこ)す術(すべ)もなく、真実への迫害は決して軽くはなかった。

暗中に一人心悲しかったのは、当時の天道が、今のように普伝されていなかった事である。

遂(つい)に継承者を見出さない儘(まま)、涙を含んで天命を帯び回(かえ)ってきた。

何と福の浅かったことか。

私の門下よ。

道を得ずして只、習い学だけでは神の御国(みくに)に帰れないことを知っているだろうか。(中略)

私の教えも元は一理より来たもので、共に同じく、老〇(ラウム)の御子である。

私の教えに心伝を失った後、暫く(しばら)くして時代は白陽に換(かわ)った。白陽の老祖、弥勒仏は命を領(りょう)し、慈憫(あわれみ)を懐(いだ)いて世に望まれた。

其の時、私は老祖に門下をも本源(りてん)へ挽回(ばんかい)するよう託した。

幸いにも弥勒仏は願いを聞き入れて、大いに徒達(でしたち)を救おうとされたが、慨嘆(なげかわ)しいことに門下は、全然、耳を借(か)そうともせず、規(おきて)を堅く守って従おうともしなかった。

私の一片の善意は無礙(むげ)にされたので非常に失望落胆した。毎日、暗涙(なみだ)をもって洗面(せんめん)を用いているが、門下に望むらくは今、天道が公にされた時に当たって速やかに参(さんご)されたい。

私は意(こころ)有って汝らを度(すく)い還(か)えそうとしているのである。

若し私の言葉に従えば必ず将来には光明が約束されるが、信ぜずして徒(いたず)らに規(おきて)を固執(こしつ)し、後になって耶蘇(イエス)は何も指示しなったと恨(うら)んではいけない。(後略)


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天道推奨~(四)各神仏の天道証明 (3)観音菩薩(かんのんぼさつ)の證道(しょうどう)

2024-05-31 17:23:15 | 天道推奨

(3)観音菩薩(かんのんぼさつ)の證道(しょうどう)

昔から天命ある天道は単独のまゝ聖者の間で伝承されていた。

たとえ、王者、権力者であっても奥玄(おうげん)を慕い求める以上は、その身を捨てねばなるまい。

私も例外ではなかった。

明師を尋ね得ることは実に容易ではなく、種々雑多の苦や魔の鍛錬を受けるものである。

資性(しせい)が如何に優れていても、生死の関門となる一竅(いっきょう:秘宝の一つ)を点受されないと霊光は被(かぶ)られたままで闇然(あんぜん)たるものである。

若し一度(ひとたび)、その妙戸(みょうこ)を開かれ、更に内攻外功を修めたならば、自在の菩薩性を観じ得て聖賢に証することができよう。

道は貴(とうと)く、理は真にして法門は二つとなく、偉大なる天命は天地を貫徹(つらぬ)き、王者聖者の間だけに道統(道等)が継がれていた。

今日まで経過すること六万余年、白陽の時勢と変わり、普遍済度(ふへんさいど)の機会に恵まれたが、惜(おし)むらくは殆んど世の仮相に惑わされて真道を誤まり、魚の目玉を真珠と混同してしまったようである。

色声(しきしょう)は人を迷わすことが酷(ひ土)く、世道人倫を顚覆(てんぷく)し、道徳礼教を滅ぼす程である。

正に殺気が天を冲(ちゅう)しているが、この現象は人を加害して己に利した寃(あだ)の報いによる。

憐(あわ)れにも罪なき原子等(もとのこら)は恐惶(きょうこう)不安の状態である。

老〇(ラウム)は善悪・玉石(ぎょくせき)が共に焼却されるのを見るに忍びず、天道を降してすべての霊を苦厄から解いて浄土へ度(すく)い還そうとしていられるのである。

(詩)大いなる眠りに落ちている人々の中から賢良を呼び起こす。

   真なる宗旨は二つとなし。

   海の波浪(なみ)は風強きによりて起こり、劫(わざわ)い

   は貪恋(むさぼり)に由りて変わる。

   本性を観透(みとお)せば虚(むな)しき景色を識(し)

   れ。

   恰(あたか)も水に映(うつ)る月、鏡に映る花の如し、

   音韻(音韻)、調律(ちょうりつ)は人を苦の坑(あな)に

   顚(おと)すが道は理天へ引(みちび)いて回(かえ)る。

  (後略)


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