真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

性理題釋~二、人と道との関係

2023-06-30 21:59:53 | 性理題釋

二、人と道との関係

 中庸に「道は須臾も離る可からざるなり、離る可きは道にあらざるなり」 “道は片時も離れることができないものである。

離れられるものは道ではない” 道とは真理であります。

人が必ず通じなければならない路であります。

人が平常道徳に依存しているのは、あたかも汽車が軌道の上を走り、船が水上に浮かび、飛行機が空中を飛ぶ様なものです。

もし汽車が軌道を離れ、船が水を離れ、飛行機が空気を離れれば、危険この上なく必ず大事故を引きおこします。

同様に人がもし道を離れると、社会に於いては法律の制裁を受け、死後は陰府(地獄)で閻魔王の制裁を受け、輪廻に墜ち、四生(胎生、卵生、湿生、化生)、六道(天道、人道、地獄道、阿修羅道、畜生道、餓鬼道)の間を転変して止むことなく、無辺の苦海を彷徨うこと極まりがありません。

孔子様は「君子は死すとも善道を守る」と申され、又、「君子は道を憂い、貧を憂えず」「君子は道を楽しむ」などと言って“道を体得された方は死を以て道を守り、貧乏を嘆かず、道の足りないことを嘆き、又、道の成就されることを楽しみにした”と申されました。 

顔回(顔子)は道を得て、拳々服膺して、片時も道を忘れることなく、そして終身これを失いませんでした。

曽子は道を得て、戦々兢々として畏れ慎み、一日己の身を三省しました。このようにして見れば、道と人との間の密接な関係がありますが、惜しいことに世人は皆これを度外視しています。

孔子様は「誰か能く出ずるに戸によらざらんや、何ぞこの道に由らざるはなし」と言って“何びとと雖も戸によらずして出づることができましょうか、又、何ごともこの道によって、その物事が成就するのに、世の人々はこれを知らないのである”と嘆かれました。

※ 三省: 曽子曰く

吾れ日に三たび吾が身を省みる

1、人のために謀りて忠ならざる乎:友人の相談にのって、それのみならず、その人のために行動して忠実であったか。

2、朋友と交わりて信ならざる乎:真義を欠いていなかったか。

3、習わざるを伝うる乎:よく呑み込んでいないのに相手に教えていなかったか。

続く


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第三章 天性の変化と修法 (三)利欲の心をなくすれば本性に帰り善となる

2023-06-30 21:57:45 | 天道の淵源

(三)利欲の心をなくすれば本性に帰り善となる

天性を明かに露(あら)わすには、先に気稟性(きひんせい)を浄化すべきです。

気質性は善ともなり、不善ともなる性質ですから、本人の自覚と周囲の環境の具合により悪化したり、または立戻ってきます。

人間の誕生は過去の因業により宿命づけられて環(めぐ)り生まれてきたのですが、それでも一応は霊性が清算されて美しくなり、一点の欲望も悪心も邪念もありません。

恨(うら)まず妬(ねた)まず、人を傷つけることもありません。

天賦の純真は見栄も飾り気もなく、ありのままに露(あら)わして表裏はありません。

それは虚霊不昧(きょれいふまい)の天性を表しているのです。

ところが次第に大きくなるに従って、眼耳鼻舌の感覚に偏りが生じて、官能が旺盛となって物を必要以上に求め欲します。

始めは、食べる物に対する争いが、今度は物を集積するため喧嘩をはじめます。

人間の肉体の生長に比例して欲望の度合いも深くなり、果ては利欲・色欲・名誉欲・権勢欲へと拡大して止む所を知らなくなります。

一人の所業の影響はまだ小さいのですが、集団をつくり、徒党を組んでしまいますと、環境を威圧する力となって時代をすり変えてしまうようにもなります。

刺激ある人生に進歩を促し、生存競争は新しい発展を生ずるのですが、気質性から習性に変ずる段階になると利己の目的に陶酔して不道徳のかぎりを尽くします。

悪の流れに投入してしまうと、本性が麻痺されて制止がきかなくなります。

悪い風俗がはびこり、淫(みだ)らな行為が横行してそれを平気で見られるのは病疾の徴候が明らかです。

進歩発展が人道を破壊し、徳義を失わされるようであるなら、われわれはすぐにでも進歩発展をやめなければなりません。

気稟性は半善半悪ですから、何らかの機会でふたたび良心の呵責(かしゃく)を受け、ある程度悪事をやめますが、一旦習性に変ずると病はいよいよ膏肓(こうこう:どうにも手のつけられない誤りや癖)に入って癒(なお)り難(にく)くなります。

人の本性は元来善であるが利欲によって一時的に姿を変え、醜い姿を見せるのです。

その貪欲の情を化して美しい姿に引き戻すべきであります。

次に孟子様と告子様の本性論を述べてみたいと思います。

告子様は「人の性格は、柔らかい杞柳(きりゅう:こぶ柳)のようなもので、善とも悪とも決定的な性格をもって生まれてくるものではない。

だから人間が仁義道徳の行いをするのはちょうど、杞柳を曲げて作った曲げ物と同じく、その天性を曲げて仁義道徳の行いをするように仕立てているのであって、本来の天性として仁義慈悲を具えていない。」と述べ、人の静は境遇次第で変化すると説かれました。

孟子様はその論拠の誤りを質(ただ)して「杞柳はそのまま曲げ物にならず、必ず大工を加えねばならない。あなたは杞柳の本性に従って傷め直さないで曲げ物を作れるのか。それとも杞柳の本性を傷め曲げて作ろうといわれるのか。人が仁義道徳をなすのは杞柳で曲げ物を作るのに同じだといわれたが、杞柳の本性に従わず、それを傷めて作るものとすれば人が善行を行うのもやはり天性を傷め損ねて実行するというのか。」人が正しい行いをしたいのは自然であり、本性の発露なるが故なのです。

告子様はまた、人生について「人の性は定まった形はなく一所に渦巻いている水にも似ている。それは、ぐるぐる回っていて出口がないけれども、その水を東の方へ切り落とせば東の方へ流れ、西の方へ切り落とせば西の方へ流れてゆき、一定の方向というのはない。人の性もそれと同じく善と不善の根本の差別はなく、ただ習慣によってどうにでも変わってゆくのは、水の流動性とよく似ている。」と論じられました。

孟子様はそれに反駁(はんぱく)して「水流には一定の方向がなくて、東とも西とも差別のつかぬものであるが、上から下へ移ってゆくという区別のつかぬことがあろうか。東へ切り落として東に流れるのはその地勢が低いからである。人の霊性が本来善であることは水が低い方へ流れてゆくのに似ている。人の性は古今賢愚、その他一切の条件を問わず不善なる者はいない。いかなる水も低い方に下って流れないものはないのと同じである。それがいかなる訳で不善の存在になるかを水に例えていえば、水は本来、低い方に落ちてゆくのが性であるが、その水を人が手を打って跳(おど)らせば額の上へも越すであろう。またその下流を塞(ふさ)ぎ止め激して逆行させれば、水は逆に流れて山の上にもつくようになろう。しかし、それらはともに本性ではなく、打ち、または激する力に迫られて、已むなくそうなるのである。本来性は善である。人々が時として不善な行いをするのは必然の勢いで鼻くその本性の善が小欲にかられ、また利害のために迫られて一時的にその光彩を失っただけで、激する力が取り去られれば自然下へ下へと流れる。人もまた、利欲の心を失くすれば、本性に帰って善をなすようになる。」と教えられました。

怒りを抱いて正に人殺しに出かけようする人であっても、無心の赤子が井戸に這い落ちるのを見て急ぎ抱き上げて救う真・善・美の本性があります。

人を殺すとか加害するのは、感情であり、欲望であり利害に流れた気質性、習性の故であり、人の難儀を見て自動的に救い助けるのは、潜在している天性の為す業(わざ)であり、天性の顕れなのであります。

続く


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【Ray:朝令暮改の科学!】『どうして宇宙は今の姿になったのか?』 東京大学 Beyond AI 研究推進機構 サイエンスカフェ(第7回) 特別編集版

2023-06-30 13:41:01 | ONEメッセージ

宇宙は重力と一点(核)の集中力でバランスがとれています。

ダークマターというレッテルは論外ですから、学説はコロコロと変わります。

お釈迦様が「天上天下唯我為尊(大宇宙の中で我が最も尊い)」と言われたのは、釈迦自身が尊い、という自我自賛ではありません。

聖人がそのような低俗なことをいうはずがありません。

一点の扉を拓き、解脱し超生了死を果たした人が聖人と称せられるのは、人類降生の目的を果たしたからであります。

その目的とは、求道によって進化の軌道(永遠の命)という宝を得ることができ、その仏性(あなたの本性)の用(はたらき)は、大宇宙の拡大に寄与し、地上で96億の原霊をその役割に帰すことができるからです。

大宇宙の調和をもたらす天命です。

この佳期を「弥勒の世」といい中華(地球)5000年の天運が成就する未の会(10800年)を迎えました。

『どうして宇宙は今の姿になったのか?』 東京大学 Beyond AI 研究推進機構 サイエンスカフェ(第7回) 特別編集版


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令和5年7月時事解説・時局分析|藤原直哉理事長(収録版)202307

2023-06-30 08:06:45 | ONEメッセージ

令和5年7月時事解説・時局分析|藤原直哉理事長(収録版)202307


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【Ray:歴代の東大の哲学者は上に「道」に対する論文を奏上しています!】安冨歩「「道」とは何か? :『論語』と『老子』の世界観」ー東洋文化研究所公開講座 2017 「アジアの知」

2023-06-30 06:57:23 | 道すなわち真理

解釈には後天と先天(天界)があります。

この動画は後天(人心)によるものですが、儒教も判然半悪の朱子学であるため

一例ですが、済公活仏様の性理題釋では以下のようです。

弥勒の世に至って火宅(困窮する一般)の人が、先天の学問を詳細に学ぶことができます。

そこに原人がいますから、仙仏の直接の引導により悟りに至ることができます。

1、道の真象

天地の創造される以前には、宇宙は渾然としたエネルギーで、混沌として、一つとして形のあるものはなく、音もせず、臭いもなく、極めて空虚であって、至って玄妙なものです。

道祖曰く、天地の創造される以前は名称がなく、即ち◯・円(えん)の様なものとしました。

名のある物は万物の母であって、即ち「一」の字のようなもの、道の偉大さは名状しがたいが、強いて名づけて「道」と言いました。

円は「一」の静止状態であり、一塊(かたまり)の玄理であって、これが道の全貌です。

一は円の動態です。

この一を根本とし、それが散ずると萬物が生成されました。

これが道の運用です。

円が動けば一を生じ、一が縮まれば「・点(てん)」となります。

・点が伸びれば一となります。

即ち、円、一、点、は動静・伸縮の像であって変化して窮まりありません。

これらのものが宇宙に充満して、一となり、これを巻いて固めると點となります。

即ちその偉大なこと際限がなく小さいこと内腔がない、宇宙に存在する物、貫通されないものはなく、包容(ほうよう)しないものはなく、これが宇宙に充満し、森羅万象包んで、しかも真に空虚で微妙なものであって、あらゆる霊の主宰であります。

これが天にあるものを「理」と称し、人にあるものを「性」と言います。

理は万物に共通の性であり、性は万物が具えている「理」であります。

人はそれを持っていますが、持っていることを自覚していません。

これを悟るものは神、聖人となり、これに迷うものは鬼の世界に墜ちて行きます。

故に曰く、千・万の経典を読破するよりも一点を知ることを良しとします。 

この一点は四方を統合して万善を兼ね持ちます。

人を思いやる心は仁の始めであり、悪を恥じる心は義の始まりです。

正邪をわきまえる心は智の始まりであり、人に譲る心は礼の始まりです。仁義礼智の中心に信があります。

すなわち、

   

    |

義  信 ― 仁

    |

    礼

 となります。

その深長な意義は味わって猶つきないものがあります。

故に老子曰く、大道は形がないが、天地を生成する。

大道は感情がないが、太陽や月を運行して分秒も違わない。

大道は名前がないが、万物を永久に養育する。

天地生成前、道がその体系を形造り、天地生成後に道はその効用を広げました。

安冨歩「「道」とは何か? :『論語』と『老子』の世界観」ー東洋文化研究所公開講座 2017 「アジアの知」


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