令和5年9月時事解説・時局分析|藤原直哉理事長(収録版)202309
予言の解説
日本には「竹内文書」という古史古伝があり、創造神(第1代神)を「元無極躰主王大御神 (モトフミクライヌシノオオミカミ)」、またの名をメシア、ナンモ、アミン、ノンノ、カンナガラ、などとしています。
みなさんがこれから到達する境地を主宰するのが「明明上帝無量清虚至尊至聖三界十方萬靈真宰(唯一絶対之創造主)」で、現在世界中に道徳規範を弘め弥勒浄土の到来を告げています。
この動画の「メシア」という意味と根本は同じで、創造主或いは創造主が遣わしたものに変わりはありません。
ナンモ、アミン、ノンノ、カンナガラなど 天地が始まって以来、今回世界に広げられた救済は「それまで想像していたものではないもの」の意味が含まれます。
元無極躰主王大御神が唯一絶対之創造主であると解釈して憚(はばか)らず、メシアとは「それまで想像していたものではないもの」 決してこの世に形象としてあらわれたことのない存在、「唯一絶対之創造主」が「主宰」する絶対的な恩恵と捉えて、「釈迦の予言」の解釈をご参照ください。
釈迦滅後2500年後にマイトレーヤーつまり弥勒仏が東海の鶏頭城(日本列島の頭、北海道が鶏頭の形)の閻浮提(大雪山)に降り立ち、火と水(仏教もキリスト教も共通)によって清められた人々を九大部洲(世界)より悉く集められます。
仏教では、内院と外院に分け内院は悟りを啓いた人が参集します。
因に釈迦入滅は紀元前952年2月15日(80才)で、釈迦が天盤を掌るのがそれから3000年とされていますので、弥勒仏(弥勒眷属:道を得て修道し悟りを啓いた道親)が継承するのは丁度今ごろです。
※参照 仏説「兜率天(とそつてん)」と五七億六千万年の弥勒浄土
酒井勝軍や出口王仁三郎など秘密結社や政治に関わった偏狭的な予言は混乱を招くものです。
ポピ族、ポールソロモン、死海文書なども西洋的断片的な予言です。
大事なのは、唯一絶対之創造主が主宰する時に救済されるということが、人類史の始めから預言されているということです。
天が人に使命を与える時には、その使命を全うできるよう、過酷な試練を与えます。
「天のまさに大任をこの人に降さんとするや、必ずまずその心志を苦しめ、その筋骨を労し、その体膚を餓えしめ、その身を空乏にし、行いにはその為すところを仏乱す。心を動かし、性を忍び、そのよくせざるところを曽益するゆえんなり」(『孟子』)
人類が活かすかどうか、この数年は激しい問責にさらされることになります。
※北海道の方言で「ナンモ」という言葉をよく使います。イントネーションが普通の日本語と違います。アイヌ語かどうかわかりませんが、「何も問題ないよ」「大丈夫」「いいよ」という意味の言葉です。 「ごめんね」「なんも! (大丈夫、気にしないで)」や、「お土産ありがとう」「なんもなんも(いえいえ、どういたしまして)」のように使われます。
終末予言に書かれているメシアは日本人か!?その人物像に迫る!なぜ日本人がメシアに名指しされているのか!?
七、現在の一瞬に全身全霊を賭け、未来の大成を期すべし。
過去を悔やむとも遅く、未来を案ずる要なし。
只、この一日を伝え宏めば、昨日は報われ、明日は約束される。
何も為さざれば、後に命無く職無し。
偏(ひと)えに一日一日の充実せし積み重ねが将来の道を開くなり。
続く
成道・悟り・超生了死・解脱・・・この神聖で崇高な境涯は天の機密です。苦行六年下山してからさらに六年の歳月をかけて求道を赦されたその醍醐味を凡情で理解できるものではありません。ある人には見えることが隣にいる人でも見えない異次元体験がありますが、高次元と3次元の天機伝承の幽玄な機微は経典にも比喩で記されています。達磨大師も四諦句で「不立文字(文字をたて《表わさ》ない)・教外別伝(教えの外に別に伝える)・直指人心(直接人の心を指す)・見性成仏(性《霊》を見て仏と成る)」と禅宗の極地として経典に記していますが、機密ゆえに今では様々に解釈され本質から離れています。
本釈迦略伝で「天上の明星を観見せられ、豁然と大徹大悟なさり、成道せられました。」とありますが クライマックスで釈迦に道を伝えたのは燃燈仏(ねんとうぶつ)という高次元の存在です。※燃灯仏:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%87%83%E7%87%88%E4%BB%8F
人類は今まさに太子(釈迦)と同じ立場におかれています。
大英博物館所蔵 釈迦牟尼佛画像
(五)成道
太子が正覚山の森林の中で苦行された六年の間、わずかに日に一麦一麻(いちばくいちま)の食をいただきました。
そのため体はやつれはて、ちょうど枯れ木同様になりました。
そこで太子は自分で“道は慧解によって成し、慧解は根によって成り、根は飲食によって補うものである”と悟りました。
“断食もまた道を得る原因になるものではないから、私は食をいただきながら成道しようと決心し、坐から立たれ、尼連禅河へ行って体を清めようとしました。
然し、この六年間の断食のため、身は骨と骨を包んだ皮膚だけが残り、立とうと思っても立ち上がれませんでした。
ちょうどこの時、森林の傍らより牛を放牧する名を難陀波羅(なんだはら)と申す一人の少女が参りました。
そうして太子に向かって一礼を挙げ、牛乳のお粥を一杯捧げました。
太子はその牛乳のお粥を召し上がって漸く体力の回復を得ました。
太子のお伴をして随っていた憍陳如等五人の比兵(びく)が牛乳のお粥を飲まれる太子を見ました。
そこで、太子が下山しようとする情勢だと驚き怪しまれ、“太子の道心は後退した故に、我等は既に太子のお伴をする必要はないと考え、太子と別れて西方の波羅奈斯(はらなし)地方へ行ってしまいました。
残された太子は一人で山を下り、歩きまた歩いて仏陀迦耶(ぶったがや)地方に着きました。そうして畢波羅樹(ひつはらじゅ)の下で大決心をされ「我今もし無上の大菩提を生ぜずんば、むしろこの身は砕けども、終にこの座を起きたざるべし」と誓願しました。ちょうどこの時、一人の童子が一束の青草を抱えて来て太子に捧げましたので、静坐に好都合でした。
そこで、太子はこれより自修せられ、静坐冥思(せいざめいし)をされましたが、この静観中、無数の環境を経過しました。
三十五歳になられる年の十二月八日真夜中に天上の明星を観見せられ、豁然と大徹大悟なさり、成道せられました。(前に、一人の童子が一束の青草を抱えて来て、太子の静坐のため捧げたと話しましたが、この草を吉祥草と称し、童子を吉祥童子と申し、またこの成道せられた道場を吉祥道場と称します。)
(六)説法 最終回
太子は成道なされた後、まず弥桜山の阿修羅迦藍及び欝陀羅摩の二人の仙人を渡そうとされました。
そうして弥娘山に来られて、初めて二人の仙人は既にずっと以前に亡くなられたことを聞きました。
そこで、道をかえて波羅奈斯国(はらなしこく)の鹿野園(ろくやおん)に行かれ憍陳如等五人の比丘のため四聖諦の法を説き、五人の比丘を度されました。
御仏様は鹿野山に住まれること僅か三ヶ月にして五十六人のお弟子を得たのであります。
そこで、御仏様が入山なさる前に頻姿沙羅王と嘗て「最初にまず我を度し給え」との口約があったために、それから道を変えて王舎城へ行かれました。
成道なされた後、第二・第三年目には、御仏様は王舎城において法を説かれたため、全城内の人民は、皆姿羅門教を離れ、仏門に帰依してしまいました。
成道なされた後、第四年目には、御仏様は吠舎離国(べしゃりこく)の大林精舎に遷られて仏法を説かれました。
成道なされた後、第五年目には御仏様は大林精舎におられ、戒律を説かれましたが、諸弟子を率いて、大林精舎から霊鷲山(りゅうじゅせん)に遷られ、そこにおられました。
この年、父君浄飯王が病気で危篤の消息を聞き、迦比羅国に父王の病気見舞いに帰られました。
そうして父王のために仏法を説かれました。父王が亡くなられた後、儀法により葬儀を営まれました。
成道なさってから第七年後に、御仏様は憍薩羅国(ぎょさらこく)の首都舎衛城におられ、教化をなされました。
この年、波斯匿王(はしどくおう)は、多くの太子が亡くなられたので、祇園精舎を建てられました。
成道なさってから第九年後に御仏様は摩伐羅補羅(まけいしばらほら)及び波羅奈斯・吠舎離等の各都邑(みやこ)をお廻りになられ、教化の説法をなされたのであります。
成道なされた後、第十三・第十四年目には、御仏様は憍薩羅国におられ各都邑を巡廻して教化なさりました。
成道なされて第十五年後に、御仏様は迦比羅国に帰られて、仏法を説かれ、又印度の各都邑を巡廻なさって衆生の教化をなさいました。
成道なされて後、第十七年目には御仏様は竹林精舎におられ、仏法を説かれました。
成道なされた後、第十八年目には御仏様は舎衛城におられて説法なされました。
成道なされて後、第十九年目には御仏様は竹林精舎におられ、摩伽陀国に来られて、各村々を教化なさりました。
成道なされた後、第二十年目には祇園精舎におられて、仏法を説かれました。
成道なされた後、第二十一年目には、御仏様は諸弟子の中より阿難尊者を選び出し、左右に随待せしめ、諸弟子に説法をなさりました。
阿難尊者はこれより後、二十五年間、博く仏法を拝聴して暗記なさることに終始一貫しました。今日、衆生が仏法を聞き得ることができるのは、多く阿難尊者の念持の功によるものであります。
成道なされた後、第二十二年目より第三十六年に至るまで、各地方のお招きに応じて、大林精舎、祇園精舎及び霊鷲山の三道場を往来しながら仏法を説かれました。
成道なされた後、第三十六年目より、御仏様は霊鷲山に於いて法華経を説かれましたが、会せて八年間、第四十四年目に至ってはじめて説き終わりました。
成道なされた後、第四十五年目に御仏様は拘尸那城附近の醢蘭若(けいらんにゃ)河地方の娑羅樹の下で入滅(涅槃)なされました。
(涅槃)時、西暦紀元前九百五十二年2月十五日午後六時でありました。
お釈迦様のご降誕以来、出家・苦行・成道・説法・円寂に至るまで、合わせて八十歳になられます。即ち涅槃は中国の周穆王(しゅうばくおう)五十二年2月十五日に当たります。
完
優曇華の花
仏教経典では、3000年に一度花が咲くといい、その時に金輪王が現世に出現するという。『金光明経』讃仏品に「希有、希有、仏出於世、如優曇華時一現耳」とある。また『法華経』、『南史』にも出る。
次元上昇の時、お釈迦の生き方が遠い過去の話ではないように思います。
(五)人生の真義
人の世の生活は愉快で楽しく素晴らしいと思う人もありましょうが、実際は非常に苦しく煩(わずら)わしいものであります。
貧乏には貧乏としての苦しみがあり、金持ちには金持ちとしての悩みがあります。
同じ苦しみでも人によって、或いは致命的であり、或いは軽微でありますが、ここに人生の寿命を平均七十五歳として、その中に楽しみと苦しみが何程(どれほど)ずつあるかを論じてみましょう。
三分の一の二十五年間は夜間の睡眠時間として、残りの五十年間に何程の苦しみがあるかを先ず述べてみたいと思います。
生存していく為に受ける種々の困難は確かに苦しみの障害です。
五十歳の初老担って愈々(いよいよ)老人の境に入りますと若い人に比べて視覚、聴覚は段々衰えていきます。
気力が日に日に衰弱し、記憶の減退や歯の脱落など次々と苦しみが身に沁(し)みて感じられます。
万病の併発、身体の故障等、相次いで起こり、或いは長年病床で呻吟(しんぎん)する様は決して楽ではありません。
死亡も亦、苦悶(くもん)の極みであります。
愛するということも身を焦がす段階になれば苦しみになります。
最愛の父母、妻子、兄弟との死別、生別も生身を割(さ)かれる思いであります。
憎悪(にくしみ)や怨恨(うらみ)も、お互いの限りない苦痛であります。
憤怒(いかり)や嫉妬(しっと)をするのもされるのも精神を痛めつけられます。
求めても得られない悩み、欲しくても思う通りに行かない焦燥(しょうそう)、才能が他人に劣る僻(ひが)み、衣、食、住の不安、災難に対する恐怖等、何一つ苦でないものはありません。
愚痴も煩悩(ぼんのう)も妄想も顛倒(てんとう)も雑念も闘争も喧嘩もみな苦しみの類(たぐい)に入ります。
私達の生涯には以上述べた苦しみをみな少なからず受けて来たか、受けなければならないものであります。
これらを除いて外に何程の楽しみと喜びが残っているでしょうか。
ほんとうに僅(わずか)なものです。
稲妻の閃光(せんこう)の如く瞬間的なものだけです。
人間の浅薄(せんぱく)な喜悦や快楽の後には必ず大きな悲哀と憂愁が待ち構えています。
他人の家庭や身分は幸福そうでこれを羨ましいと思っても、本人の立場から言わせれば、それなりに身を切られる様な苦しみがあるのです。
富貴の苦しみも貧賤の苦しみも同じように深刻な苦悩であります。
精神的、肉体的の差はあっても、本質的に苦痛は変わりありません。
こんな生活は義理やお世辞にも幸福とは言えません。
その為に宗教に入って精神の拠所を求めている人達もありますが、果たして悠久的に安心立命を得られるかは疑問です。
天道ではこれら一切の苦厄と恐怖と煩悩の因縁を洗い浄めて下さることを確信してお約束できます。
智慧の光を明らかに現わしている人には暗黒の陰影は破片(かけら)程も存在し得ないのです。
修道している人の心境と精神は已に苦しみを脱却している為、普通人の謂う苦しみは天道人には適用されません。
人生の航路は一筋の長い旅を続けているのと同じことです。
意のままに行かない種々の苦しみと悩みは限りなく私達の身辺に纏(まと)わり着いて離れません。
しかし若しここに全然苦しみと悩みを感覚しない人があるとすれば、なんと素晴らしく、全く羨ましくてあやかりたいと思いませんか。
そんな人がると信じますか。
それがあるのです。
天道を修めている人です。天道を修めている人は直接、神様の御神示に従って諸事を行っていますから苦悩は自然に解消されるのです。
人間の一生は夢であり、幻であり、泡沫(ほうまつ)であります。
仮定的、虚偽的の存在なのです。
霊の世界!これこそ私達が当然求めて到達せねばならない処であります。
ここだけが私達の真実に生きるべき境界(きょうがい)であります。
ここに帰ってこそ真の意義があり、実相の存在が得られるのです。
ここに至る道が神の道、天道であります。
続く