真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

【Ray:政府医療補助金は、DSの隠れた一時搾取!ロックフェラーの西洋医療は崩壊!】、壊れだした病院医療

2023-09-24 23:02:19 | ONEメッセージ

Ray:経団連がロックフェラーの手先、パソコン診療にょって医者のロボット化!医療崩壊の最大原因は、コロナワクチンによって、政府および医者のモラルハザードが問われ、患者が目覚める!

壊れだした病院医療


Rayの呟き~聖徳太子が敬えという「三宝」とは、仏・法・僧?

2023-09-24 22:47:49 | Rayの呟き

一般に、聖徳太子の十七条憲法の第二条の「三宝」について、「仏・法・僧」という解釈に留まっていることに疑問を持っていましたが、以下の本格的な訳文で納得できました。

十七条の各条が関連していて、釈迦の六時経(釈尊が三十五歳で覚りを開いてから八十歳で亡くなるまでを、五つの時期に分ける。華厳時(華厳経を説いた)→鹿苑時(阿含経を説いた)→方等時(維摩経、勝鬘経を説いた)→般若時(般若経を説いた)→法華涅槃時(法華経、涅槃経を説いた)、そして、最後の時期に説いたのが法華経)にも劣らない極めて崇高な律令理念でした。

四天王寺編「聖徳太子と四天王寺」の訳文

聖徳太子の十七条憲法 http://kjs.nagaokaut.ac.jp/mikami/slide/17joukenpou.htm

抜粋:二に曰わく、篤く三宝を敬え。三宝とは仏と法と僧となり。即ち四生の終帰、万国の極宗なり。いずれの世、いずれの人か、この法を貴ばざる。人、はなはだ、悪しきものすくなし。よく教うれば従う。それ三宝によらずんば、何を以てかまがれるを直さん。

万国も治まり、輪廻を脱します。

弥勒浄土は、この「三宝」を伝えることが核心です。

「三宝とは仏と法と僧となり」とは、修道し仏に成る(成就)するには、僧となり法(三宝)を敬う、道があるという意味です。

和を以て尊しも「三宝」によって極めることができるわけです。

聖徳太子は「道:三宝」を得て、悟りの境地に達していました。

「三宝」が、達摩の四諦句「不立文字(文字で表さない)、教外別伝(経典など教えの外に別に伝える)、直指人心(心の在り処を直に指す)、見性成仏(本来の性を見て仏と成る)」である故に、歴史的に謎が多いわけです。

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【Ray:縄文時代と弥生時代は道の探究で繋がっていた!】ラピュタ族から辿る海洋民族の流れ ゲスト:武内 一忠さん

2023-09-24 22:31:49 | 道を求める聖なる物語(人・日本・世・宇宙)

九州の地で武内一忠さんが、古代の歴史を精微に探求していただいたお陰で超古代から今日までの隠された歴史が、一貫して繋がっていたことが明らかになってきました。

「一に忠」が名は体を表と言いますが、正に奇蹟です。

動画中の後半で「虹が出て太陽が沈んで虹が出るそこに月が上がるその時、超人が魂を持ち上げて星に届ける・・・」などは、「宵の明星の光をかりて燃灯仏から明師(超人)の一点を授記する」という、お釈迦様が悟りの秘宝を得る物語を予言している抒情詩です。

「水によって地球を整え人間を降ろした。宇宙で唯一の水の惑星は地球だけ。この謎が永遠のテーマ」という武内一忠さんの憂いも一気に明らかになります。

弥勒浄土(中華:地球)を仏堂にして、大宇宙すべての生命が霊の故郷に帰還する機会はすでに実現しています。

超古代から続いてきた神々の探究は、老子によって、紀元前1000年前、人類が読み書きを覚え、学び修道し、真理を体得する魂の段階に入りました。

道徳経八章に、上善如水。水善利万物而不爭。処衆人所惡、故幾於道。居善地、心善淵、與善仁、言善信、政善治、事善能、動善時。夫唯不爭、故無尤。

【書き下し文】 
上善は水の如し。水は善く万物に利し而して争わず。衆人の悪む処、道に於いて幾し。
居善地は、心善の淵、善は仁を與、善よき信を言いい、善よき治おさめを政まつり、事ことは善よく能かない、善よき時ときに動うごけ。夫それ唯争ただあらそわず、故ゆえに尤とが無なし。

意    解】
最も理想的な生き方は水のようなものです。水は万物にメリットを与え、他のものとは争わない。人々の嫌うところを処理してくれ、「道」に近いものである。
居善地(道すなわち真理)に住み、心を善く広く持ち、善い慈しみを与え、善い言葉を語り、善い政治を行い、善い結果を出し、最も善い時に動くもの。およそ争わないので恨まれることもないのである。

※居善地の儒学者によってまちまちです。道徳経の中には「玄牝の門」とか「谷神」とか「一于」と解釈がまちまちな一句があります。これらが「道」です。居善地に住み、とは

中庸の「天命之謂性、率性之謂道、修道之謂教。道也者不可須臾離也。可離非道也。是故君子戒慎乎其所不睹、恐懼乎其所不聞。」

「天命これを性と謂ひ、性に率(したが)ふこれを道と謂ひ、道を修むるをこれを教と謂ふ。道なるものは須臾(しゅゆ)も離るべからざるなり。離るべきは道にあらざるなり。是の故に君子は其の睹(み)えざる所に戒慎し、其の聞こえざる所に恐懼す。

「上善」とは、最も理想的な生き方。
そういう生き方をしたいと願うなら、
水のあり方に学べというのである。

水には、学ぶに足る特徴が三つある。

第一に、きわめて柔軟であることだ。四角な器に入れれば四角な形になるし、丸い器に入れれば丸い形になる。器なりに形を変えて、少しも逆らわない。

第二に、低いところに身を置くのは誰でもいやがることだが、水は、人の嫌がる低い所、低い所へと流れていく。つまり、すこぶる謙虚である。自分の能力や地位を誇示しようとしない。

第三に、ものすごいエネルギーを秘めている。急流ともなれば、硬い岩石をも打ち砕いてしまう。

水は柔軟、謙虚、秘めたるエネルギーの三つの特徴を持っている。人間もそれを身につけることができれば、理想の生き方に近づけるのだという。

ラピュタ族から辿る海洋民族の流れ ゲスト:武内 一忠さん


十大願~はじめに

2023-09-24 20:56:00 | 十大願

求道の儀式で誓う「十大願」を詳細にご説明いたします。

以下の文章中「下礼者」の意味は、儀式を運行する「上礼者」と左右対称に並び、儀式中「十大願」を求道者を代弁して天に奏上する役割です。

下礼者に従って求道者が天に奏上しますが、内容を理解しないまま求道するのは天に対して不敬ですから、事前に学ぶように配慮されています。

今はまだ準備段階ですが、内容を吟味し心構えを養って下さるようご参照いたします。

また仏教では、下記記載の大乗菩薩「四弘誓願」を根本に据え今日のために修行してきました。

天道では、天界(気天界:五次元)も公開されていますので、求道者の「四弘誓願」は、大宇宙や地底世界そして人界に対して、その大いなる志(願)が発せられることになります。

十 大 願

私達が天道を求めてより、新たに何かを失っていた、人生の大切な良心を探し求めました。

けれども、良心は本来生まれてきた時から身についているのに、何故これを求めるのに儀式上で十大願を立てなければならないのでしょう。

又、この十大願は下礼者(かれいしゃ)に従って続けて言ったので、この内容は真正(ほんとう)に理解していないと思います。

今日ここで皆さまと一緒に此の十大願の内容を研究してみましょう。

古より聖人・仏陀も願を立てて始めて求道することが出来るのです。

願は誠心の表れであり、誓願は修行の志であり、目的地に達成する力量でもあるから、願力とも云うのです。

大乗菩薩にも四弘誓願(しこうせいがん)があって、

一、衆生は無辺にして願わくは度するを誓う。

二、煩悩は尽きるなく、願わくは断たんと誓う。

三、仏門は無量にして願わくは学ばんと誓う。

四、仏道は無上にして願わくは成らんと誓う。

と言うように、誓願を立ててこそ、この願を全うする為に力量を発揮し、始めて目的地に達成できるのです。

では私達の誓った十大願は何でしょうか。

先に儀式上で述べられた言葉をここに挙げ、それから一つ一つ研究して見ましょう。

続く


第三章 天性の変化と修法 (一)天性は円通無礙(えんつうむげ)であるが人心は喜怒哀楽に変ずる

2023-09-24 20:52:45 | 天道の淵源

(一)天性は円通無礙(えんつうむげ)であるが人心は喜怒哀楽に変ずる

天性の変化と修法について述べてみたいと思います。

形象なき天性を論理的に説明ができても、実際にこれを深く分析・解剖し、その由来と起源を明らかにすることは、困難な問題でもあります。

しかしこれは、われわれ天道人の最も重大な課題であって、自分をもふくめて、すべての人々の天性を明らかに浄化し、元の姿に回復させる責任があります。

天性とは、われわれの「真如」の姿であり「本来の面目」であります。

つまり、われわれにも一如来が存在している訳で、汚れなき美しい光明体なのです。

それが歴世の輪廻に入り、悪の因果と業縁を繰り返しているうちに、すっかり堕落腐敗して本性が極度に汚染され、光沢を失ってしまいました。

果ては残霊と化したり、破廉恥行為によって天真爛漫な本性が深い傷痕を残してしまいました。

たとえ家の中に電球がついていても、戸口や窓を締め幕を引いては光が遮断されてしまいます。

聖賢に値するほどの霊も、それを内に秘めては人々に及ぼす徳光にはなりません。

また何百燭光の電球も、内の発光線が切れていては本来の用途を喪失(そうしつ)するのと同じく、仙仏の器たる本霊を持っていても神と通ずる線が切れていては元の機能が損なわれます。

腐敗するには腐敗する原因があり、悪化するには必ずその由来があります。

それを究明し、それを根治して真理・神仏との交わりを結ぶのが、天命を帯びて働くわれわれの本務であります。

天道は、われわれの真面目を復活して欠けることのない円通無礙(えんつうむげ:すらすらと物事が運ぶ)の姿に返らせる法授がります。

天性とは、父母未生以来の面目であり、人間の喜怒哀楽の情、いずれにも意未だ流れていない時の中に和なるところの霊をいっているのであります。

修道とは、この玲瓏(れいろう)天真なる天性の清明に到達することを目標とし、悪濁なる俗塵に曇らされた霊気をだんだんと浄化して行くを言います。

われわれの霊の当初は、老〇様(ラウム)によって賦(さず)けられ、純然たる羅漢・菩薩の姿であり、神の御子にふさわしい聖霊でありました。

もともと神ラウムが創り給うた原子霊でありましたが、約六万年間、三界を転生しているうちに絶え間なく過失と清算が繰り返され、その過程をへて現世に賢愚聖凡の別が生じたわけであります。

宿命とは、前世の貸し借りの因縁を背負って今生に受けている境遇のことで、一つの霊が過去に何百回、何千回と形を換えて生まれてきた果であります。

人間降世より約六万年と聖訓にあります。

人生百年ですから、まともに人間に生まれても都合六百回はこの地上に顔見せしている勘定になります。

動物や虫・魚類になりますと、寿命がずっと短くなりますからそれを含めると、何千回地獄と人間界を往復してきたかわかりません。

人間として百年間の人生に数多くの因果関係を結んでいます。

それが何百回の転生の間に、縦横に、前後に、いかに因縁を結んだかはかり知れません。

こうした複雑な因果は、波紋が広がるように幾重にもわれわれを囲み、左右前後に網目のような関連性をもって溺(から)み繞(まつわ)っているありさまであります。

運命や環境は皆そこから織りなす結果であって、心の作用によって聖賢仙仏智成、悪魔・夜叉の霊とも変じてしまいます。

心霊を修め、修行することがいかに貴重な問題であるか、それは天国と地獄にわかれていく重要性を帯びているのです。

「差は毫厘(ごうりん)なれどこれ千里に遠し」という諺にありますが、迷いと悟りの違い、修煉するかしないかの違いによって、今後永遠にその人と、子孫に対して禍か福をもたらすものであります。

麗しい本性に立ち戻って物事を行うなら、万事に欠け余りもなく多方面に和して成さざるものはありません。

物事が不明なのは、天性が明らかでないためであり、妙智慧の輝きがない故です。

人間界に生まれ、この肉体に霊気が流れて、「心」と変化してしまいます。

本より性・心・身は一体であり、この三つが組み合わされ始めて一個人の生命が成り立つのであります。

孟子様は「性は本善なり」と主張して「本性は相近づくものであるが、習性になると相遠ざかるものである。」といわれました。

官能の赴くままの心は後天的なもので、性命、すなわち霊魂は上天、老〇様(ラウム)の与え給うもので皆一様であります。

「天性」とは、「上天の与え給うた霊性」という意味で、人間を主宰し、絶対善的存在であり、純善無垢の透明体であり、一点の悪のまじり気もない姿であります。

ところが当初は遮ることのできない霊明な光彩があっても、天性が一旦肉体に流れ入りますと、喜怒哀楽を含む心と変じてしまいます。

心は身体の発達に従って、欲求の度合いが強くなってまいります。

眼・耳・鼻・舌・身・意が六根で、これが色・声・香・味・触・法という身外の物象に牽引され偏り、染まり、放蕩化してしまいます。

もともとの心は天性の使官であり、天性にかわって身体に発令し、正しい行動を左右するものであります。

つまり天性は本体であり、心はその用であります。

続く