真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

蛍の光|オールドラングシン [Auld Lang Syne] | アカペラ | 良いお年をお迎えください^*^

2023-12-31 21:29:54 | ONEメッセージ

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Rayの呟き~道と教(宗教)とはどうちがうのか

2023-12-31 20:09:41 | Rayの呟き

孔子・中庸:天の命ずるこれ性と謂い、性の率いるこれ道と謂い、道を修めるこれ教えと謂う。道は須臾も離れるべからざるなり。離れるべきは道にあらざるなり。

道は性理の本体で真理です。これを人に与えれば性(霊)となります。故に「性理」または「良心」とも言います。

この性理は私たちの先天的(生まれる前からのもの)根本で、生命の大本です。人は誰でも皆これを受けてこの世に生まれ、またそれぞれの因果や性理に応じて死にいたります。

このように生と死は必ず経由する路であり、古来最も神秘的なこの「性理真伝」を文字で書や経典などには書きあらわさず、口頭で授けられ「以心伝心」のうちに伝えられてきました。

そして、唯一絶対の造物主の天命により、この世に降りてこの道を伝えるために来た者は、たとえ仙佛、聖人といえども、この機密をもらすことは決して許されませんでした。

そして、儒教の四書五経、仏教の金剛経、老子五千言の道徳経・清浄経・黄庭経などのところどころにこの証を秘蔵し、それとなく読む者に暗示を与えてきました。
時の実りによって、老子には元始(ゲンシ)、孔子には項屣(コウモ)、釈迦には燃燈佛(ネントウブツ)が法灯を伝授しました。このように天命を受けた明師が降臨して、この道を伝えてきました。

それに対し教は、道の伝授により、道より発生したところの法と行事によって人々を教化する行為です。道が主体で教は功用になります。樹木にたとえればその根元が道、枝葉が教です。いわゆる五教(仏教・儒教・道教・キリスト教・回教)は皆この道から発生したものです。

儒 教 存心養性 執中貫一  (一を貫く)     忠恕    聖(ひじり)

仏 教 明心見性 万法帰一(一に帰す) 慈悲  仏(ほとけ)

道 教 修心煉性 抱元守一  (一を守る)  感応 神仙(せんぶつ)

耶蘇教    洗心移性  黙祷親一  (一に親しむ)博愛 神(かみ)

回 教 堅心定性 清真返一 (一に返す)  清真 僕(しもべ)

※日本伝承の 一厘の仕組み、〇チョンも同じ道の心印です。

このように五教の起源と宗旨は同一です。この「一」は、「道」であり「真理」であり、孔子はこれを「吾が道は一をもって之を貫く」と言われました。

教は善行を奨励し、修養して徳を積み、出世(社会を離れ)して修行を極め、道を得るための準備をする段階です。道は教の真髄で、道を得ることより師の指示・伝導を直接得ることができ真の人として進化に万全の備えをすることができます。

孔子の弟子の子貢が「孔先生の文章や学問は学ぶことができましたが、先生の性と道に関して学ぶことができなかった」と謂っています。前者は教であり、後者は道のことです。

これが道と教の相違点であり、教は何時でも授けられますが、道は非常時(歴史的な節目)でなければ授けられません。

道は時には隠れ、時には顕現するものです。それは、道は時に応じ世にくだり(興り)人を選んで伝授するからです。

教はどんな時代でもあります。道が伝えられない時でも教は存在し、道が盛んに興るときでも教はやはり存在しています。

その理由は、教は人道の基本を強化するものであり、なるがゆえに道は教を離れることはなく、教もまた道を離れることはありません。

なぜなら道がもし教を離れれば、教が道から離脱し、異端邪説に走ってしまうからです。

道を信奉すれば、生死を超越して、輪廻を離脱し、西方極楽に登り、あらゆる災難を避け、恨仇を解消し、罪を消滅し、運命を改善して果報が得られます。

故に古人が「天上天下を通じ唯一道のみ最も尊し」と言われたのも決して虚言ではありません。

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道徳経の老子について

2023-12-31 20:06:52 | 道すなわち真理

 

老子の出世については殆どその源を知ることが出来ません。

混沌以来何時の世にもあらわれています。

上代三皇時代には萬法天師と稱せられ、中代三王時代には盤古神王と稱せられ、後代三皇時代には鬱華子と稱せられています。

亦神農時代には大成子と稱せられ、黄帝(軒轅)時代には廣成子と稱せられ、千變萬化種々化身なされて、大道の道統を傳える為に顕現されました。 

そして何時の世に化身されても、通じて變らないのは、天道の偉大なる尊さを証明し、天道を後世の人に永く伝えさせる為、心愿深く天命に則り或いは儒聖と化し、或いは佛祖と化し、或いは道仙と化して顕れたり、隠れたりされて、その功績は測り知れません。或いは清靜経を著したりして、眞にその功德は無限です。

諸經中には、無極太極の來源を喩え、先天後天の變化を説き、明善復初の關竅(かんきょう)を示し、亦己を煉って基を築く法則や、濁を去り清を留める奥妙、水火昇降の法輪、返本還源の原理を詳明されています。何れも一句を以て天地を包含し、一言を以て古今を貫き、あらゆる理に隈なく通徹して説かれました。

その玄理は非常に幽玄奥妙であり、その言葉は古今東西人類の龜鑑に準えられ、その思想は永く後世の人に繼がれています。

老子は道教の祖であり、姓は李、名は耳、字は伯陽と稱し、諡して耼(たん)と言いました。

聖母、玄妙玉女が殷王の陽甲、庚申の歳に太上老君が五色の霞の光に擁られて、空際に降り、五色の流れ玉と倏(たちまち)變って口の中に呑み込んだ夢をみて遂に聖胎を凝り八十一年間孕まれたと説かれています。

そして殷王の武丁、庚辰の歳三月十五日(農暦2月十五日)楚の苦縣、頼郷曲仁里に於て降誕されました。

その時、聖母は李の樹に手をかけられ、左脇から生れたそうです。生れた時から白髪であり、頭の周圍に圓い毫光が燦燦と輝いていました。

生れると同時に能く言語が通じ、自由に行動が出来ました。

その周りを九歩行き、左手で天を指し右手で地を指して「天上天下唯我獨尊し」と言われました。

そこで李の樹を指して名字とされた事は、よく知られています。

嘗て孔子が老子に禮を問うた所「子(なんじ)の言う所の者は、その骨と皆、已に朽ちたり。

獨りその言葉在るのみ。

且つ君子はその時を得れば即ち駕し、(他人を使いこなす)その時を得ざれ即ち蓬累(乱れが重なる)して行く。

吾、これを聞く。

良貨は深く蔵して虚しきが如く、君子は成德ありても容貌は愚かなるが如しと。

子(なんじ)の驕氣と多欲と態色と淫志を去れ。是皆子(なんじ)の身に益無し、我子に告ぐる所以は是くの若而已。」と循循(じゅんじゅん)と説かれた。

孔子は、其の後、弟子達に向かって老子を次のように評された。

「鳥は吾れその能く飛ぶを知り、魚は吾れその能く游ぐを知り、獣は吾れその能く走るを知る。走る者には以て網を爲るべく、游ぐ者には以て綸(いと)を爲るべく、飛ぶ者には以て矰(いぐるみ)を爲るべきであるが、龍に至っては吾れその風雲に乗じて天に上るを知ることが出來ない。吾れ今日老子を見るに、それ猶、龍の如きである」と嘆じられた程でした。

老子は眞に天命を得た人であり、眞に學問があっても、それを隠して名なきを以て務めとし、誇りとしました。

一部學者間では厭世即す世間を厭がって世間を離れ、社会を逃避したが如くに説きますが寧ろ老子は世を愛し衆を愛しました。

老子ほど德を以て、その身を愛し、その家を愛し,その郷を愛し、その邦を愛し、その天下を愛した人は少ないのです。

あまりにも崇高な理念の爲に一般に汚染された衆生は、反って老子を煙たがっています。

老子こそは超越的立場から、人心挽回や世風矯正に盡くされています。

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第二章 天人一貫の妙理 (八)人生同天

2023-12-31 20:03:37 | 天道の淵源

(八)人生同天

われわれの天性は無極の真、老〇様(ラウム)から給わったものであります。

陰陽二気かが交感して万物を化し、同時に秀麗なる霊と自在な形体を賦与されているのであります。

万物は一陰一陽によって生じます。

われわれ男女の交感によって生まれます。

男は乾(けん)で女は坤(こん)です。

また、われわれの性命も先天と後天とに分かれております。

懐胎十ヶ月に満ち、先天の性が後天の気に接したときに泣く一声で、霊が気に合して秘竅(ひきょう)より体内に性が宿ります。

この時、先天の気が隠れ、後天の気が口と鼻より入り、肉体が性に支配されることになります。

先天の性は後天の気と相対関係となり、身体(象)と深いつながりを持つことになります。

この性は純粋な霊理なる絶対的善であります。

父母が未だ生まれていない以前の真の面目であり、始まりもなく終わりもありません。

天真にして、独り露(あら)われた真常の本体には凡聖もなく賢愚もなく貴賤貧富(きせんひんぷ)の別もありません。

天地は仁義礼智死信の五常の徳を中心にして運行しており、人間もまた同じく五常の徳を中心に行動し生活しなければなりません。

孟子様は「万物皆我に備わる。」と申されておりますが、全宇宙にあるものは悉(ことごと)くこの小さい体にそなわっているのであります。

真の理天はわれわれの身体の霊にあたり、気天は気脈・体温・呼吸にあたり、象天は身体にあたります。

身体における一呼一吸は生存を保ち、神経の感、気脈の循環は一分一秒といえども、忽(ゆる)がせにできず、密接な関係によって体内珀骸(体内非薬害)・五臓六腑(ごぞうろっぷ)のことごとくを活かしております。

人間の身体を構成している原子などは肉体であり、象天であります。

性霊は形体も声音も味覚も臭覚も無いからといって全然ないのではなく、霊的感覚は寸時も怠っていません。

たとえば頭を殴れば頭に痛みを感じます。

身体だけではなく、精神的にも痛みます。霊・気脈・身体、この三者は一体に組み合わされ、結合は全く天然的にできており、実に妙合だといえます。

もし、霊を欠けば、呼吸できず。ついには身体は亡んでしまいます。

気天・象天の瓦解は恰(あたか)も人間の老衰にたとえられ、年と共に漸次、視・聴・味・香・触感が薄れ、健康がすぐれず、五行中、何かが衝動を起こすとついに息を引き取り、肉体は亡んでしまいます。

ただ霊のみ勃然(ぼつぜん:突然起こる様)として残り、生前に造った功徳か罪業かに従ってそれぞれ、天堂・地獄へと別れてゆくのであります。

生前に成した因果は死後その霊が享(う)けるので快楽・苦痛の境界は結局、生前に成した業績如何(いかん)によって定まるゆえに、天人ともに一貫の理が含まれているのであります。

老〇様(ラウム)を大きな清泉に譬(たと)えれば、われわれの霊は一つの碗中の水にひとしく、この水を清浄に保たねばなりません。

また老〇様(らうむ)を発電所に譬(たと)えていえば、われわれは電燈であります。

電源がなければ電燈は点(とも)りません。

一寸(ちょっと)のまであっても連絡を切ることはできません。

電気の消費分量は正確に記録されるごとく、われわれの一挙一動はすべて、老〇様(ラウム)の許(もと)に逐一知らされています。

罪が多いか少ないか、重いか軽いかは糸毫(しごう)の差もなく報告されています。

不思議なことは、妄想、意の善悪、これらは一つの思想反応となって、われわれの態度に顕れてくるものです。

蔵(かく)しても蔵し通せるもではありません。

顔回(がんかい)様は己を克服するのに「礼に非ずば視ず、礼に非ずば聴かず、礼に非ずば言わず、礼に非ずば動(おこ)なわず。」と述べ、これを四勿(しぶつ)または四非(死火)と称しますが、曽子(そうし)様は「吾、日に三度(みたび)吾を省みる。」と述べ、心にゆるみを生ずるのをおそれ、「戦々恐々、深淵に臨むが如く、薄氷を履(ふ)むが如し。」 また「十目の視る所、十手の指す所、それ厳なるかな。」と絶(た)ゆまない努力をされたのであります。

顔曽両聖は敬(うやうや)しく、これを心に抱き寸刻も良心を偽ることがなっかたのであります。

曽子様は心の意念一度うごけば十目十手から鑑視される如く慎めと戒めているのであります。

肉体は親が生んでくれたものに違いありませんが、もっと大事な霊魂を生んで下さったのは天地生育の神、老〇様(ラウム)であります。

われわれは父母に対する孝養を怠らないとともに、老〇様(ラウム)に対しても、ひたすら孝行の赤心を捧げねばなりません。

孝行も道とは神に求めるのではなく、老〇様(ラウム)の求めに忠実に応え、一人でもより多くの岐路に迷える同胞を人の世の苦海から輝かしい天道の恩典に浴せしめることであります。

済度の好機を誤らないように、少しでも多くの功徳を建てねばなりません。

孔子様曰く「身を立て道を行い、名を後世に掲げ、以て父母の名を顕わすはこれ孝の終わりなり。」と、心すべきお言葉を諭(さと)されました。

どうか一日でも早く天人一貫の理を悟り、更に勤行練達(ごんぎょうれんたつ)して原霊を回復させ、天人に一貫できる霊光を、ますます光り輝かせるよう望むしだいであります。

続く


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済渡の心構え 応用 五

2023-12-31 20:02:07 | 済渡の心構え

五、老幼・貴賎・迷悟を皆、教師とすべし。

宇宙間、万物群生一切、天命を受けて生成活動す。

故に一つとして無為無益なる存在なし。

全ての物は顕に微に語り掛けんとし、一切の者は聖に凡に教え訓さんとす。

謙虚にして万声を傾聴せば悉く引導説法ならざるはなし。

続く


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