真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

第一章 天道の淵源 (四)法灯伝授の機微について

2023-09-12 21:14:25 | 天道の淵源

(四)法灯伝授の機微について

弓長恩師は達摩大師の正脈を継承して十八代目の道統を担い、心眼の開悟を普く衆生に対して行っておられます。

天命の法灯は霊妙不可思議な伝法をもって千四百余年間守り続けられて今日に至ったのであります。

達摩初代祖は南天竺印度香至国の第三皇子として聖誕されましたが、王位に恋でるのを嫌い印度二十七代、般若多羅尊者に師事すること四十年、師の遺嘱(いしょく)を守り中国の縁が熟したのを悟られて、粱の普通八年九月、ふたたび中国に天命を担って神光二祖に伝えられました。

神光二祖は、三教(道教・儒教・仏教)を読破し、四十九年間経典を講自、人天百万の弟子がいました。

最初大師に会っても、経典の文句に依存してとても高慢な態度をとっていました。

法の器が大きく利根の深い大智英邁(だいちえいまい)で、衆に卓越する知能を持っておられましたから、色々の試練と感化によってようやく正道に目覚められました。

わけても大師の子の言葉が開悟の決定的な意思となりました。

「神光よ。真伝は文字を読みあさって得られるものではない。自らの心霊に明師の面授と指点を受ける必要がある。紙上に画いた餅は食べられないのと同じように、紙上に書かれた法は因果から逃れ、輪廻転生の路から解脱することはできない。真の路は口をもって伝え、心に印し刻むもので、もし汝が実相を観、霊覚の境界へ到達したい念があれば一切の諸相と文字を離れ、着相と執念を捨てて、人心の真諦を直指されなければならない。しかる後に本性を見て成仏できるであろう。」と説破されました。

二祖は求道の志、熱烈の余りに弟子を捨て、一途に大師を熊耳山(ゆうじさん)に追い。雪の中に三日三晩坐し、自ら刃をもって左の臂(ひじ)を断ち切って真心をあらわし大師から心法を得られました。

それで大師を初代祖と奉り、神光祖を東土の二代祖と奉っています。

坐禅は単なる外形的なもので、要はその神髄の心法を得ようとするためのものです。

結跏趺坐(けっかふぎ)といって、足を組んでいるのは精気神の循環が脚部に流れるのを遮断して法輪の転環を容易にさせ修煉する方法であり、坐禅が目的ではありません。

大師の面壁九年の禅行はなおも霊光を磨き、一層純熟にして道を後世に挙揚されたいがためであります。

神光二祖は初祖から「慧可(えか)」と道号が付され、道脈を僧璨(そうさん)三祖に伝えられました。

僧璨三祖から道信四祖に伝えられ、道信四祖から弘忍(ぐにん)五祖に伝えられ六代慧能(えのうそ)祖に至るまで絶えることなく、師資相承(ししそうじょう)の伝統を守り続けて参りました。

心法は、地位・学問や社会経験が深いことによって得られるものではありません。

六祖は文字を知りませんが、智慧はもっとも聡明でありました。

弘忍五祖が晩年に道脈を後継者に付嘱されるに当たって、ある日弟子門人を集め「世人にとって生死のことほど重大なことはない。

汝らの終日を見るにただ目前から来世の福しか求めず、生死の苦海から永久の離脱を求めようとしない。

己(おのれ)の本性が迷ってしまえば如何なる福もあり得ない。

正法は解明し難いものである。汝らはいたずらに私の言葉を記し、修持して任が終わったと思ってはならない。

今汝らは各自に智慧を観、意のままに本性般若の実相を偈(げ)に記してみよ。」そして「もし語意が私の心法に符合するところがあれば衣法(えほう)を付そう。」といわれ、弟子たちの修行の深さを試されました。

時に門下高僧、七百余名の中の上座、神秀(しんしゅう)は学問内外に通じ、衆の敬仰の的になっていました。

この人でなければ誰も当たる人はないであろうと大衆の賞める声を密かに聞いた神秀は、夜中に起きて壁に一偈を書き留めました。

すなわち「身は是れ菩提樹、こころは明鏡台の如し。時々に勤めて払拭し、塵埃をして惹(ひ)枯らしむることなかれ。」

五祖は神秀の作であろうと思いましたが、賞讃(しょうさん)はしても法嗣(ほうし)として付法をする気には慣れません。

自己の身体を樹に例えたり二十六時中掃除や打坐をすれば世の汚れを浄められる意味ですが、真如の本性を観るに至らないことを指摘いたしました。

ところが入門八か月にしかならない無学者でいつも田舎者といわれる慧能祖が、これを聞いて即座に口でもってこう答えられました。「菩提、本、樹に非ず、心境も亦台に非ず、本来無一物、何ぞ塵埃を払うことあらん。」

五祖は大いに驚き、慧能の見性を知り、夜中密かに部屋に召して、無上微妙・秘密・円明真実の正法眼蔵と法宝を授けました。

天道は頓修頓悟の法であるので、法器や智慧の大なる人は、一度の心眼点破でも大徹大悟が可能であります。

神秀様は客観的に自分の心身を台とか樹とか形象に結びつけて、漸修漸悟(ぜんしゅうぜんご)の段階を歩んでいました。

慧能祖はそれ以上に深く、無為を主体にして無相無念、無一物境界に自己を融合させておられました。

慧能祖は祖脈を継いで六代祖となられましたが、当時の仏教界の頽廃(たいはい)を嘆き、正法を儒者の白馬祖に伝えられました。

道脈の移り変わりは時と運に応じて不思議な妙用を齎す者であります。

その時、かような偈を白馬祖に遺されました。「釈迦、我より宗風(そうふう)を絶つ、儒家我を得て万法に通ず。日後三期に普度が開かれ、正心誠意、中庸に合す。」と明らかに証明されています。

孟子様から仏教に移った天命は、約九百五十年を経てふたたびと儒聖に伝わったわけであります。

これを「道が火宅に伝わる」といいます。火宅とはすなわち苦悩に充ちる世界の意味です。

つまり、今日までの祖師は出家した僧職であるのに比べて、白馬祖以降は普通の家に住む人の中から道脈の祖師が出現することになりました。

続く


五戒~二、殺戒(三)

2023-09-12 21:13:03 | 五戒~活仏師尊慈訓

殺戒(三)

二十一、釣りざおや釣り針などは売ってはいけません。

そうでなければ釣った魚によって仕返しされます。(釈迦族も池の魚を大量に釣ったため一族は仕返しで滅びました。)

二十二、卵を持った母魚を殺しますと普通の魚を殺したより罪業がさらに重いです。

一つの卵は一つの命です。

二十三、焼き肉はあまりやらないほうがいい。豚は最もしつこくて、肉がたべ終わるかあるいは腐るまで屍を守り、その後やっと転生します。

豚を殺す人はこう言います。

「豚や、豚や、恨むなよ。おまえは人間の一品料理なんだ。みんなが食べなければ私は屠殺しない。買った人にかたきを取ってくれ。」

これから見ますと人々はみんな殺生がよくないことを知っていますが、ただ戒めるのが難しいのです。

二十四、現在の医学は発達していますが、奇病はかえってだんだん多くなっています。

これはただ殺業の果報であると解釈する外ありません。

二十五、殺虫剤を撒くのは良くありません。

虫達も生きたいと思っています。

家の中をきれいに掃除すれば、虫はあまりよってきません。

たくさん殺せば殺す程虫たちは多くなります。

ちょうど、虎は人が食べないから多くはないけれど、鶏やアヒルや豚は食べる人が多いからだんだんと多くなるのと同じです。

二十六、殺業には軽い、重いがあります。

下の人が目上の人を殺すこと、例えば父母を殺したり、恩師を殺したりすることは逆罪であり、必ず三悪道に堕ちます。

精神錯乱しての殺人、聖賢を救う為、あるいはたくさんの人を救う為の殺人は、罪が比較的軽いです。

しかしやはり因果はあります。人は成佛までの距離が近いので、人を殺す罪は重くなります。

動物は成佛までの距離が比較的遠いので、動物を殺す罪は比較的軽いのです。

二十七、菩薩道を修めるなら、心の動きはいつも善心を維持し、又、万物は同体だという気持ちを維持しなければなりません。

ある人はこう言います。

鶏、アヒルは人に食べられるために生れてきたのだ。食べないと空中を飛び回っていることになるではないか。

しかも虎は人を食べ、蚊は人の血をすいますが、まさか虎に食べられるために、蚊に血を吸われるために生れてきたのでしょうか。

人は自分ならどうなるかを考えて相手の気持ちを思いやる必要があります。

そうしてこそ自己の生命を誤らないのです。

二十八、仏像は古くなって壊れたら、包んでちゃんとしまっておかななければなりません。

焼き捨てはいけません。

焼いて灰となりごみくずと一緒にすることは、仏に対して不敬となります。

仏は在世中「仏身の血を出してはいけない。」の戒律があります。現在仏はこの世にいなくなったので仏像はその代表です。

ゆえに悪心をもって仏像を壊してはいけません。

二十九、母親が鶏を殺そうとしたらできるだけ諫めなければいけません。

もし諫めを聞いてくれなかったら佛號を唱え、往生咒を念じなさい。

三十、清口愿を立てた後は、もともと飼っていた動物は、命が尽きるまで養い、死んだら埋葬して転生するようにと唱えます。

他の人に売ったり、他の人にあげたりして殺してはいけません。

続く


性理題釋~七十、修養の工夫(くふう)

2023-09-12 21:11:50 | 性理題釋

七十、修養の工夫(くふう)

止まるを知りて而る後に定まるあり、とありますが、仏教では禅定(ぜんじょう)と申し、妄念(もうねん)を起こさぬことを禅(ぜん)と言い、坐して本性(ほんしょう)を見つめるを定(じょう)と申します。

止まるを知ることは、明師(めいし)の指点(してん)を受けなければ、止まることを知ることは難(むずか)しい訳であります。

定まるとは聖人であっても増(ま)さず、凡人(ぼんじん)であっても減(へ)らず、定まって変わらざる所の意味を申したのであります。

下句(かく)の、而(しか)る後に能く静かなり、能く安らかなり、能く慮(おもんばか)り、能く得(う)るとあるのは、すべてこの「能く」の字を用いております。

文字の上で固(もと)より定まるありと申したのは、増(ま)さず、減(へ)らず、垢(あか)つかず、浄まらざる境地であります。

又能くの字は一分の力をかりた言葉であります。

力には大小や長短の分別がありますが、静(しずか)・安(やすらか)・慮(おもんばかる)・得(うる)の修行法に於いても、原(もと)より性はことごとく同じでありますけれども、その用いられる力の同じでない事に因って、得る所の涅槃(ねはん)の妙徳(みょうとく)も亦同じではありません。

故に修行法には三乗(さんじょう)の法があり、蓮台(れんだい)にも九品(ぼん)の蓮台があると申すのであります。

続く


十八道芸 七、八、九

2023-09-12 20:59:05 | 十八道芸

七、天候に合わせて適した服装で安心して出かける。裁縫、ほころび、必要に応じて直に作れるようにする。裁縫ができるようにする。

八、古より今日に通じる五音六律、美しいメロディーで聖歌を歌い、衆生を改悪・改善に導く。

九、道親の往来接待をとどこおりなく円満にし、立ふるまいをスマートに且つ活発に動く。

続く


済渡の心構え 応用 十八

2023-09-12 20:50:42 | 済渡の心構え

十八、一寸だに聖業に打算・代償を求むべからず。

利害得失を超出(ちょうせつ)せし伝道こそが奉仕行の究極なり。

捨てなば与えられ、与えれば拾われん。

物心共々無にして、一身一家が道に投ぜば衣食住は随(つ)いて廻るなり。

只、無心こそ道を歩み抜く至上の方策なり。

続く