(二)無一物故に無尽蔵であり、真空にしてこそ妙有を生ずる
なぜなら、現象界(色)があって始めて受・識・行・識の四蘊(しうん)が生ずるものであります。
故に無色の気界であっても因果賞罰が繰り返えされている境界であり、毀誉袤貶(きよぼうへん:ほめたり、そしったりする世間の批判)の行われる天界であることが理解されます。
つまり、相対性の陰陽の霊気が交流している所でありますから、現代語で表現するなら、世界の四次元性、時間空間の相対性、有限性の天界と申せます。
理天界は想念思索なく、陰陽の対立もなく、一のみをもって万有を貫き永遠に存在して尽きる所がありません。
善悪是非を超越し、天地・乾坤を包み、男女・陰陽に変じていない元の原理の姿なのです。
バリティ(光子)に例をとって申しても、偶と奇の二種類があり、電子を分析するとまた陽イオン・陰イオンがあります。
かくして人間頭脳の研究の限界は陰陽界を脱することはできません。
西遊記に、孫悟空は釈尊の前で大法螺(おおぼら)を吹き、筋斗雲(きんとうん)に乗って十万八千里を駆け走り五陰山に至り、そこに名前を記録して帰って見れば釈尊の掌中に自分が乗っており、書き留めたはずの自分の筆跡が中指にあったと記されています。
人間は傲慢な態度で無限の世界に挑戦して征服を試みようと力んでいますが、ちょうど反り返った孫悟空の姿が想い浮かべられます。
この妙玄甚深(みょうげんじんしん)なる大理天には、敬虔な信心と祈りをこめてこそ通ずるもので、猜疑心を抱いたり物理を探求するような心構えで知ろうとすると反って遠ざかるのみであります。
天道の秘宝を得て霊眼を開かれますと、その悟り得る範囲は天体図で画けない遠い星座の世界から、小は電子よりもっと緻密(ちみつ)な理に深く遠く達することができるのです。
無極は、天体日月から人間・五行・万有を絶対的慈愛をもって変則なく運行し続けています。
天地未判然の前、独り際限のない永遠の太古から存在し続けているのです。
世人は太極を始まりと知っても、主体である無極を知りません。
無極は無始無終で真常にして変わりなく、無限の空間性と無窮の時間性を有しています。
寂然たる純真体であって陰でも陽でもありません。
すなわち空であり、無であります。
しかし、無は無ではなく空は空ではありません。
清浄経(せいじょうきょう)の中に「空を観るに亦空、空も空の所無し。空の所すでに無なれば、無無もまた無なり。無無すでに無なれば湛然(たんぜん)、常に寂す。」とあります。
あらゆる有無の形体はこの無から生長されないものはなく、空の中に妙有る所以であります。
釈尊はこう申されました。「色は空に異ならず、空は色に異ならず、色は即ち是れ、空なり。空は即ち是色なり。」すなわち色象は妙空に由って造化されたものであり、この妙空を悟り透すには、自然の形象を推して真空の存在を証明できる訳であります。
この空はわれわれの観念にある滅び尽くされ、破壊された後の空虚の姿ではなく、また無味乾燥として、消失し終わった状態の空でもありません。
無尽無窮に造化の理が密蔵され、化育生成の正気が充満して、有為の形体を創造する妙理が溢れ盈(み)ちているのです。
宇宙森羅万象、生きとし生けるものを設計する全智の働きとそれを創造する全能の力を包含し、過去も現代も未来もその形体を現わされなっかたが、すべてのものの運行と生育に欠ける所がありません。
われわれは形あるものを珍重し、加工された製品を宝として保存していますが、すでに形象として生じたものはただ破壊と滅亡があるのみです。
ところが無極の真空は、万有を生み出す偉大な力を蔵(ひ)め、無限の創造性を含んでいる雄大なる絶対無なのです。
無にこそ真実があり、妙味があります。
老子様は「惚(こつ)たり恍(こう)たり。その中に象あり、恍たり惚たり。その中に象あり。窈(よう)たり、冥(めい)たり。その中に精あり。その精は甚(はなは)だ真なり。」また「吾は名を知らず、強いて名づけて大道と謂う。」そして「大道は無形にして天地を生育し、無情にして日月を運行し、無明にして万物を長養す。」と無の働きの窮(きわま)りなきを教えておられます。
孔子様は「四時(春夏秋冬)を行い。百物を生ずるもの天何をか言うや。」と、感嘆されました。
孔子様の説く「天」と老子様の言う「道」はすなわち天道の根本義を指しておられます。
真に無形・無情・無名の世界こそ絶対の世界であり、そこにこそ一切の象があります。
無一物なるが故に無尽蔵であります。
絶対無の懐の中にこそ一切の有は存在し得るのです。
あらゆる宇宙生物はその暗示や意思に基づいて働きます。
道も空も無も天も名称こそ異なっていますが、同じ無極であり理であり、老〇様(ラウム)のお慈悲深いお姿であります。
有形の物象はいかに剛(かた)くても終始があり、やがては破滅を免(まぬが)れません。
釈尊は「一切有為の法は夢幻泡影(むげんほうえい)の如し、また電の如く露の如し、応(まさ)にかくの如く観るべし。」と申されました。
物象はいかに貴くとも本末があり終始がありますが、それに執着して真諦を見失っているようです。
生者必滅の原理から考えても、人間界に真常を求める事態がまちがいであります。
御聖訓に「日月は光なりと言えども終いに尽くるあり。」とあります。
久遠に不易の法を求める人は、まずこの真偽を見極めて妙理に徹する必要が肝心であります。
続く