真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

【Ray:行政は市民評議会の事務局に!】日本の行政は…

2023-09-16 20:28:36 | 新しい時代の統治・金融システム・BPPF(個人年金基金)

国家や地方財政の崩壊を演じるDSに対し、国家も地方財政の負債も事実上はチャラになっています。

新しい金融システムが国際的に合意されるまでは、旧体制のまゝで進行しなければなりません。

鍵となるのが国際的(特に中国)な高齢化及び年金問題に対する国際的な常識の補完です。

嘱隷社会から個の尊厳に大転換している最終段階に人々の生命が脅かされている中、健康と教育がまず大事な課題です。

公務員は給与を払う親方日の丸意識を脱しなければならず、コロナ対策で確認されたように意識が低い立場に追い込まれています。

健康(食・医療・福祉)問題や教育問題は、DSが最も力を入れている分野で、国や行政を頼りに改革することは期待できず、市民サイドで解決しなければなりません。

古代から培われてきた共和制は、偽旗ではなくコモン・ローという市民憲法や議会制民主主義という思想で実現化を目指してきた人類ですが、その機能を担ってきたのが「市民による評議会」です。

健康問題も大企業による食品薬害、医療薬害・・・、そして教育では奴隷社会を維持するためのシステムによって社会・家庭の隅々まで汚染されています。

これらの大問題を浄化するには、「市民による評議会」の立ち上げが急務です。

勿論、実際の社会システムで実践されている「裁判員制度」など現実問題に対処する形で、変容可能なあらゆるシステムが実績を踏まえて位置に付ける段階にあります。

社会が今相互に交流できているのは、こうした先人の知恵の素地が機能しているからで、DSなどが消滅したときに直ちに立ち上がることができるわけです。

人々の心の覚醒と相まって、日本の地域復興が世界モデルとして陽炎のように萌え上がってきます。

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日本の行政は…


第二章 天人一貫の妙理 (二)無一物故に無尽蔵であり、真空にしてこそ妙有を生ずる

2023-09-16 20:23:18 | 天道の淵源

(二)無一物故に無尽蔵であり、真空にしてこそ妙有を生ずる

なぜなら、現象界(色)があって始めて受・識・行・識の四蘊(しうん)が生ずるものであります。

故に無色の気界であっても因果賞罰が繰り返えされている境界であり、毀誉袤貶(きよぼうへん:ほめたり、そしったりする世間の批判)の行われる天界であることが理解されます。

つまり、相対性の陰陽の霊気が交流している所でありますから、現代語で表現するなら、世界の四次元性、時間空間の相対性、有限性の天界と申せます。

理天界は想念思索なく、陰陽の対立もなく、一のみをもって万有を貫き永遠に存在して尽きる所がありません。

善悪是非を超越し、天地・乾坤を包み、男女・陰陽に変じていない元の原理の姿なのです。

バリティ(光子)に例をとって申しても、偶と奇の二種類があり、電子を分析するとまた陽イオン・陰イオンがあります。

かくして人間頭脳の研究の限界は陰陽界を脱することはできません。

西遊記に、孫悟空は釈尊の前で大法螺(おおぼら)を吹き、筋斗雲(きんとうん)に乗って十万八千里を駆け走り五陰山に至り、そこに名前を記録して帰って見れば釈尊の掌中に自分が乗っており、書き留めたはずの自分の筆跡が中指にあったと記されています。

人間は傲慢な態度で無限の世界に挑戦して征服を試みようと力んでいますが、ちょうど反り返った孫悟空の姿が想い浮かべられます。

この妙玄甚深(みょうげんじんしん)なる大理天には、敬虔な信心と祈りをこめてこそ通ずるもので、猜疑心を抱いたり物理を探求するような心構えで知ろうとすると反って遠ざかるのみであります。

天道の秘宝を得て霊眼を開かれますと、その悟り得る範囲は天体図で画けない遠い星座の世界から、小は電子よりもっと緻密(ちみつ)な理に深く遠く達することができるのです。

無極は、天体日月から人間・五行・万有を絶対的慈愛をもって変則なく運行し続けています。

天地未判然の前、独り際限のない永遠の太古から存在し続けているのです。

世人は太極を始まりと知っても、主体である無極を知りません。

無極は無始無終で真常にして変わりなく、無限の空間性と無窮の時間性を有しています。

寂然たる純真体であって陰でも陽でもありません。

すなわち空であり、無であります。

しかし、無は無ではなく空は空ではありません。

清浄経(せいじょうきょう)の中に「空を観るに亦空、空も空の所無し。空の所すでに無なれば、無無もまた無なり。無無すでに無なれば湛然(たんぜん)、常に寂す。」とあります。

あらゆる有無の形体はこの無から生長されないものはなく、空の中に妙有る所以であります。

釈尊はこう申されました。「色は空に異ならず、空は色に異ならず、色は即ち是れ、空なり。空は即ち是色なり。」すなわち色象は妙空に由って造化されたものであり、この妙空を悟り透すには、自然の形象を推して真空の存在を証明できる訳であります。

この空はわれわれの観念にある滅び尽くされ、破壊された後の空虚の姿ではなく、また無味乾燥として、消失し終わった状態の空でもありません。

無尽無窮に造化の理が密蔵され、化育生成の正気が充満して、有為の形体を創造する妙理が溢れ盈(み)ちているのです。

宇宙森羅万象、生きとし生けるものを設計する全智の働きとそれを創造する全能の力を包含し、過去も現代も未来もその形体を現わされなっかたが、すべてのものの運行と生育に欠ける所がありません。

われわれは形あるものを珍重し、加工された製品を宝として保存していますが、すでに形象として生じたものはただ破壊と滅亡があるのみです。

ところが無極の真空は、万有を生み出す偉大な力を蔵(ひ)め、無限の創造性を含んでいる雄大なる絶対無なのです。

無にこそ真実があり、妙味があります。

老子様は「惚(こつ)たり恍(こう)たり。その中に象あり、恍たり惚たり。その中に象あり。窈(よう)たり、冥(めい)たり。その中に精あり。その精は甚(はなは)だ真なり。」また「吾は名を知らず、強いて名づけて大道と謂う。」そして「大道は無形にして天地を生育し、無情にして日月を運行し、無明にして万物を長養す。」と無の働きの窮(きわま)りなきを教えておられます。

孔子様は「四時(春夏秋冬)を行い。百物を生ずるもの天何をか言うや。」と、感嘆されました。

孔子様の説く「天」と老子様の言う「道」はすなわち天道の根本義を指しておられます。

真に無形・無情・無名の世界こそ絶対の世界であり、そこにこそ一切の象があります。

無一物なるが故に無尽蔵であります。

絶対無の懐の中にこそ一切の有は存在し得るのです。

あらゆる宇宙生物はその暗示や意思に基づいて働きます。

道も空も無も天も名称こそ異なっていますが、同じ無極であり理であり、老〇様(ラウム)のお慈悲深いお姿であります。

有形の物象はいかに剛(かた)くても終始があり、やがては破滅を免(まぬが)れません。

釈尊は「一切有為の法は夢幻泡影(むげんほうえい)の如し、また電の如く露の如し、応(まさ)にかくの如く観るべし。」と申されました。

物象はいかに貴くとも本末があり終始がありますが、それに執着して真諦を見失っているようです。

生者必滅の原理から考えても、人間界に真常を求める事態がまちがいであります。

御聖訓に「日月は光なりと言えども終いに尽くるあり。」とあります。

久遠に不易の法を求める人は、まずこの真偽を見極めて妙理に徹する必要が肝心であります。

続く


五戒~四、淫戒(一)

2023-09-16 20:21:23 | 五戒~活仏師尊慈訓

淫戒(一)

一、満腹して暖かいと淫欲を思います。

万悪は淫を始めとなします。

物質生活があまりにも裕福になると、かえって反対の効果が出てきます。

以前の人は粗末な食生活でしたが、健康で長寿でした。

現在の人は海のもの、陸のもの、空のものを食べ尽くし、かえって不健康です。

お腹一杯食べるといろいろな妄念が生まれます。

加えて目前のますメディアの発達によって大いに誇張され、悪い事をし尽くし、にえたぎるように流れ続ける万丈の紅塵の中で誠に憐れです。

以前白楽天が鳥巣禅師にこう聞きました。

木の上で眠って落ちませんか。

白楽天は、かえって自分が万丈の紅塵の中にあって落ちるかと考えたことはありませんでした。

二、食べて死ぬ人や遊んで死ぬ人はいますが、かえって修行して死んだ人はいません。

三、宇宙の中で最も人を束縛するのは「淫」です。

あらゆる毒薬と比べてさらに害があります。

もし切り捨てることができなければ、代々にわたって輪廻します。

四、三世諸仏は淫欲を最も汚い事だと見ています。

菩薩道を修める以上は、この方面は自ら抑制しなければなりません。

淫を戒めることは夫婦関係を断絶する事ではありません。

夫婦関係は正淫となり、礼を以て節制します。

夫婦以外の男女関係は邪淫となります。

例えば金銭取引や結婚以外の情などは一切の社会問題の源になっていて、戒め除かなくてはなりません。

五、淫慾が一旦発生すると、親族を念頭にいれず、一切の人倫、綱常、道徳、法律に背き、古えの山の中の修道者のように、甚だしきに至っては猿や羊などの動物と関係を生じます。

六、淫慾は火の如く、一旦火がついたら収拾が尽きません。

もし根本治療をしたいなら、人心の浄化から始めるべきです。

内心より平息しなければなりません。

平常はお腹一杯食べてはいけません。(満足と暖かさは淫慾を思います。)

家にいる時は裸足になって脚を涼しくしておくことが最も好いです。

そうすれば火気を降下させることができます。

淫慾を離れたいなら、一切の容易に思いを引き起こすもの、例えば書物、小説、雑誌、映画、牛肉場などのようなものから離れるしか方法はありません。

目を悪に染めないことが最もよいことです。

男性はこれらのことを見るのが好きな為に目から先に爛れます。

平常多くの経を読み、お経を暗誦して、一旦淫慾が起こったなら、いそいで経文を暗誦してそれを降伏すれば、自然とだんだん薄れていきます。

慾を断つのは牛の筋肉を切るが如く、はなはだ容易ではありません。

(1)凡夫俗子は欲望から逃れることが難しいですが、しかし節性はしなくてはなりません。

夫婦は天地倫常の根本であります。

互いにお客様のように尊敬し、平常は心霊を以て互いに交流しなければなりません。

もし、ただ放縦な淫慾を知っているだけだったら、鳥や獣と違うことがあるでしょうか。

初一日、十五日仏菩薩の聖誕の日に夫婦関係は宜しくありません。

先祖や家族が亡くなったら、四十九日間戒める必要があります。

(2)夫婦関係、これは短い間の快楽だけと思い、永久の快楽ではありません。

身体の健康やうまく家庭を営むことを重要だと思わなければなりません。

つまり夫婦関係は生活の中の付属品に過ぎず、主要なことではないのです。

人は礼を守ります。

礼があって家庭の秩序が維持できます。

(3)淫慾は生死の根本です。

もしこの関門を未だ断つことができなければ、永久に生死輪廻の中にいなくてはいけません。

続き


性理題釋~七十四、四相と四賊

2023-09-16 20:19:56 | 性理題釋

七十四、四相と四賊

眼耳鼻舌(げんにびぜつ)を四相と申し、一身の主宰(しゅさい)者である性を輔佐(ほさ)するものであります。

もし、視(し)・聴(ちょう)・臭(しゅう)・説をするのに片寄れば、四賊(しぞく)となり、本性を傷害(しょうがい)するのであります。

故に孔子様は、四勿(よんなか)れを以て顔回を(がんかい)を戒めましたが、この理を説かれたのであります。

所謂(いわゆる)我相(がそう)をなくし、人相(にんそう)をなくす事も、亦この四相と相連(あいつら)なるもので、眼は施(ほどこ)す事を主とするので人相に相当する訳であります。

もし能く衆生(しゅじょう)を静観(せいかん)すれば皆赤子(せきし)の如く、怨親(えんしん)を択(えら)ばず、平等に済渡(さいど)するのであるから、これを人相をなくしたと名づけるのであります。

耳は静まる事を主とするので、我相(がそう)に当たります。

もし能く身は幻であることを知り、世間の無常(むじょう)なることを悟って、身命を(しんめい)を惜しまず、ただ大乗の(だいじょう)の仏の教法を悟る事が出来れば、これを名づけて我相をなくしたと申すのであります。

鼻は香を嗅(か)ぐ事を主とするので寿者相(じゅしゃそう)になります。

もし自分の無生(むせい)の実性(じつせい)をはっきりと悟るならば、心境は意識の流動に随(したが)わず、ただ方便として願力(願力)を行持(ぎょうじ)刷るので、これを名づけて寿者相(じゅしゃそう)をなくしたと申すのであります。

口は語る事を主とするので、衆生相(しゅじょうそう)になりますが、もし世間の心を了する事が出来て、永く了して更に続けば、これを名付けて衆生相をなくしたと申すのであります。

総論として、仏果を得たいと欲するならば、謹んで四相を防(ふせ)がねばなりません。もし四相が不浄(ふじょう)なれば則ち罪を犯す事限りなく、本来の面目を見る事は難しいのであります。

続く