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ぽかぽか春庭「将軍の図書館&古代の武蔵国」

2008-11-23 11:06:00 | 日記


将軍の図書館

2005/04/23 09:32 土
春散歩>国立公文書館①将軍の愛読書

 千代田区北の丸公園にある国立公文書館。国が保管している歴史的な資料・公文書を保存公開している。
 一般公開の特別展企画展がいろいろあったのだが、歴史研究などに関わっている人でもなければ、公文書館へ足を運ぶ人は少ないだろう。

 私も、となりの近代美術館はときどき訪れるが、公文書館にまで足をのばしたことはな
く、無料公開されている施設とはいっても、なんとなく縁遠い場所と思ってきた。

 公文書館で4月5日から24日まで公開されている特別展「将軍のアーカイブズ」を見る気になったのは、近代美術館で開催のゴッホ展がとても混んでいて、ゆっくり絵を見ることができそうになかったから。
 少し人混みがおさまるまで、となりの公文書館で時間つぶしをしようと思ったのだ。
 特に見たいものがあるわけでもなし、ただ時間がつぶせればいいと思って入ってみたのだが、おもいのほか興味深く、おもしろく見て回れた。

 アーカイブとは、文字資料、絵画資料、映像資料などの記録保存所のこと。また、保存所に納められている公文書古文書そのものもさす。
 「将軍のアーカイブズ」は、江戸幕府が江戸城内の紅葉山文庫に所蔵してしていた書籍類をさしている。紅葉山文庫は、将軍の「公式図書館」にあたる。

 紅葉山文庫には、徳川家康が書物蔵を設置して以来の、15代にわたる将軍の蔵書や資料が収蔵されてきた。古文書、古地図、中国からの輸入書など、さまざまな貴重な資料がある。

 江戸城開城の際、紅葉山文庫もそっくり明治新政府が受け継いだ。
 現在は「独立行政法人国立公文書館」が、資料を管理保存している。これらの貴重な文書の現在の所有者は「国民」であるのだから、だれでも閲覧利用できる。

 政治体制が変わった多くの国では、貴重な書物や資料が散逸してしまうことが多い。お隣中国でも、王朝が変わるごとにたくさんの書物が散逸した。比較的近い時代の清王朝のものでも、二度の革命の間に数多くの文書や宝物がなくなってしまった。

 江戸城が、幕府から天皇側へ無血開城された価値は、いろいろある。江戸を戦場にすることがなかったおかげで、江戸市民の命も散らずにすみ、紅葉山文庫の書籍もそっくり保存された。

 虫食いのあとも残る数々の展示。
 この本を家康が実際に読んだのだ、と思って眺めると、歴史の時間をさかのぼり、書を読む家康の姿が彷彿としてくる。

 今回の公開では、「吾妻鏡」をはじめとする家康自身の愛読書などが展示され、八代吉宗が閲覧した医学書などもある。 <つづく>

2005/04/24 11:20  日
春散歩>国立公文書館②将軍の図書館

 紅葉山文庫には、家康以下代々の将軍が出版させた活字出版物も多種残されていた。
 筆で一字一字書写する以外に本を残す方法がなかった時代を経て、江戸時代には活字を利用した印刷本が、幕府の事業として出版された。文化において諸藩を圧倒することも、幕府の力の誇示の方法であった。
 木活字による「伊勢物語」、朝鮮王朝制作の銅活字を輸入して印刷された「文献通考」などの出版、また古事記、明月記(藤原定家の日記)などの書写も続けられた。

 将軍の注文で中国から輸入された漢書類の中には、中国国内にはまったく残っていない貴重な書物もある。もし将軍が一書を買い求めなければ、貴重な文献が永遠に消えてしまっていただろう。
 中国では早くに失われた貴重な書物が、江戸で再出版され、中国へ逆輸出された例もある。

 紅葉山文庫の書物管理は徹底していて、いつ誰が借り出して読んだのか、詳細な記録が残っている。
 八代将軍吉宗は、テレビの中では「暴れん坊将軍」として知られてきたが、実は、本の虫といえるほど「本好き将軍」」だった。実に頻繁に書物を閲覧している。
 1723年の記録だけをたどっても、当時40歳だった吉宗が1年間に200冊以上の書物を閲覧しているのだ。

 展示されていた吉宗の閲覧書物は、医学書、薬学書が多く、小石川に薬草園や療養所を設けた吉宗が、医学に深い興味を持っていたことがわかる。
 テレビでは白馬にのってさっそうと画面に登場していた吉宗。ただ馬に乗るだけではなく、獣医学の本も閲覧している。馬の飼育や病気にも興味があり、オランダ人に洋式馬術を教えさせた。

 吉宗は、貴重な蔵書を独占したり死蔵したりということがなかった。周囲にいる医者や役人にも閲覧を許し、学者に研究を続けさせている。
 青木昆陽らにサツマイモ栽培法などを研究させたことはよく知られているが、そのほかにも様々な研究を命じて、学者にしらべさせている。

 吉宗は「有職故実」に興味を持ち、平安時代の諸制度を記録した『延喜式』を熱心に閲覧した。ただ読むだけでなく、たとえば、延喜式の中に記されている染色法を研究し、復元作業を、試みている。城内吹上に染殿を設け、復元した染色の見本帳を作成した。
 平安以来、染色法がわからなくなっていたさまざまな古代染めが、このとき復活した。

 五代将軍綱吉は、儒学が大好き。家来を集めては、講義をしてやるのが道楽だった。将軍の講義を、居眠りもできず辞儀を正して拝聴しなければならなかった家来衆はタイヘンだったことだろう。
 綱吉が講義に用いた教科書も、展示されている。

 吉宗の孫にあたる十代将軍家治は、将棋道楽だった。「詰め将棋百局集」には、将軍自身が考え出した詰め将棋の棋譜が残されている。
 家治、幼少のみぎりは、鈍重な父(9代将軍家重)とは似つかぬ利発な子どもで、祖父吉宗の期待を一心に集めていた。
 長じて田沼意次を側用人から老中にとりたてて、政治をまかせてしまったあとは、ひがな詰め将棋を考えるほか、やることがなかったのかも知れない。
 
 将軍といえば、「暴れん坊将軍」とか「大奥」などでイメージすることが多かったが、紅葉山文庫を見て、「文化事業によって国を治める」ことが、江戸幕府の重要な仕事のひとつだったことが、よくわかった。
 
 皇居周辺や北の丸公園の花見時期がおわれば、公文書館は閑散とすると思うので、ゆっくり歴史に浸りたい人は、散歩がてら見てください。特別展は4月24日で終わるけれど、常設展示にも貴重な資料がいっぱい。

若葉風がめくるページの古写本の 墨 時の間(ま)を流れ来て濃し(春庭) 
<公文書館おわり>




武蔵国分寺七重塔跡

2005/05/01 10:30 日
新緑散歩>みどりの日・武蔵国分寺七重塔跡①

 ゴールデンウィーク第一日目。みどりの日は、娘息子と新緑散歩。武蔵国分寺七重塔跡、武蔵国分尼寺跡を歩いた。
 国分寺市遺跡調査会による史跡発掘現場見学会に参加し、発掘状況の説明や古代武蔵国分寺についての説明を受けた。

 国分寺駅からは歩いて20分、西国分寺駅からは15分くらいのところに、国分寺がある。その南側、国分寺市から府中市へ入るあたりに、古代の武蔵国分寺跡が広がっている。
 1922年(大正11)、国の史跡に指定され、現在は「国分僧寺」と「国分尼寺」と参道口を含む10.4haが整備事業の対象となっている。

 日本古代史の授業で、先生からこの見学会を紹介された娘、「授業で聞いた話がとてもおもしろかったから、ぜったいに見に行きたい」と言う。
 息子は歴史好きだが、興味の範囲はゲーム「信長の野望」の前後、室町後期から江戸前期に限られている。それでも、姉が「ひとりで見に行ってもつまらないから、いっしょに行こうよ」と誘うと行く気になった。
 ふたりが行くのならと、私もくっついて見にいった。

 子どもらに「母は、子どもの追っかけしてないで、どこでも勝手にひとりで旅行でも行けば?」なんて言われても、めげずに「子どもといっしょのおでかけ」を続けたい母である。 
 東京都下、4月の気温としては最高を記録したという日。暑かったが、子離れできない母にはうれしい新緑散歩の一日になった。

 僧寺金堂跡での発掘状況全体の説明、中門跡と七重塔跡の発掘現場で説明を受けた。
 国分寺市教育委員会の考古学、発掘の専門家が、学識をふるってお話してくれるのだが、残念ながら、こちらの頭が高度なお話についていけない部分もあり、分かった部分もあり、よく分からない部分もある。
 おぼろげな理解だが、地面の下から、古代の瓦の破片などが出土したこと、柱を立てた穴の跡などから、建物の規模や工法がわかり、奈良時代の建物と比較して、古代国分寺の復元ができる、などについてわかった。

 金堂の礎石が並んでいるところ、中門の柱の跡が規則正しく続いているところを見る。
 最初は掘立柱の塀だったのが、築地塀へと作り替えられた証拠が見つかった、とか、版築(はんちく)という二種類以上の土を交互に積み重ねて固め、大規模な建物の基礎を作る地盤固めの工法の説明など、興味深い話を聞くことができた。
 奈良時代に大陸や半島から渡ってきた技術者が伝えた技術。

 娘は授業で説明を受けたことが、実際に目の前に遺構して広がっているのを見ることができて大満足。関東ローム層の地層などを見て、「ああ、面白い」と、言う。

 基礎工事の工法や土の重なり具合について説明を聞いても、私には全部は理解できない。古代の人も、古代なりの優れた技術を発揮して寺を作り上げたんだなあと思うのみ。
 心は歴史の時間を遡る。古代の土木工法の技で作り上げられた基壇の上に、宮大工が柱を建て、屋根を葺いている姿を思い浮かべ、完成した壮大な七堂伽藍を仰ぎ見る人々の姿を想像した。

 国分寺は、奈良時代、聖武天皇が諸国に建てさせた国家鎮護のためのお寺。仏教の力で疫病や旱魃などの国の混乱を鎮め、平和な国にするために奈良に東大寺と大仏を建立、諸国に国分寺を置いた。また、光明皇后の願いにより、国分尼寺も建てられた。<つづく>
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2005/05/02 00:46 月
新緑散歩>みどりの日・武蔵国分寺七重塔跡②

 他の諸国の国分寺の規模に比べ、武蔵国国分寺は1.5倍から2倍の広大な規模を持っていたことがわかったという。
 七重塔は金堂から220メートル離れたところにある。
聖武天皇の時代に建てられて以後、平安時代835年に雷が落ちて炎上。845年に再建が許可された。
 元々塔跡として史跡指定されていた場所のそばに、別の塔跡も発見され、調査が継続している。
 柱の跡や礎石が残っている。

 版築によって壇をを築き、その上に壮麗な七重塔が建てられた。東大寺の七重塔が100m、国分寺の七重塔も60m以上はある。
 基壇の上に重なる屋根。屋根の上で日に輝く相輪。武蔵野が広がる中、どこからでも塔が見える。金光明最勝王経を中に納め、世を災いから守るという塔を、古代の人々はどんな思いをもって仰ぎ見ただろう。

 説明会終了後解散となってから、文化財資料展示室を見学したり、史跡公園となっている国分尼寺の遺構を見た。
 古代国分尼寺に属する尼さんは、定員10名というきまりがあった。二人ひと組になって一室を与えられ、共同生活をしながら修行を続けた。

 尼坊の礎石が並んでいる。尼僧が生活していた「合宿所」みたいな建物が尼坊。尼僧たちは国家鎮護のために日々おこないすまし、経を読む生活を続けていたのだろう。

 当時の「寺」は、地域の文化の中心であり、病院、養老院孤児院などの福祉センターでもあり、教育センターでもあった。
 聖武天皇が国家鎮護のために国分僧寺を建てる詔を発したとき、光明皇后が尼寺を全国に建てることを望んだのも、病人や孤児貧者に心を寄せる皇后が、人々を救う拠点を作りたいという気持ちがあったからだと伝えられている。

 「琅カン」が復元されて立っている。ロウカンは、寺の前に翻っていた旗をとりつける柱。かっては金糸銀糸で縫い取りをされた旗が寺の行事の日に翩翻とひるがえった。
 ドキュメンタリーで、チベットのラマ教の聖地に高々と翻る旗を見たことがある。旗はラマ教の人々にとって、大切な宗教上の象徴だった。古代仏教の地でも、旗が重要なものだったのだろう。
 古代の武蔵野の人々も、国分尼寺や国分寺の前にひるがえる旗を見て、ここが大切な場所であることを実感したのかも知れない。

 西国分寺駅まで、鎌倉街道の「上の道」と伝えられている古道を歩く。周辺はぎっしりと住宅が建つ地域。そのなかで、鎌倉街道の切り通し部分が保存され静かな雰囲気を保っている。

 鎌倉から上野(こうづけ)信濃方面へ向かう道。
 この道を「いい国作ろう鎌倉幕府」のため鎌倉武士が馬にのって通った。

 また、失政続く鎌倉幕府を滅ぼさんと、上野新田庄から出陣した新田義貞が駆け抜けたのかもしれない。
 1333年に分倍河原で新田勢と北条泰家の軍が闘ったとき、この道を鎧兜の武士達が行き交い、馬のいななきが響いた。新田勢は勝利し、鎌倉幕府を滅亡に追い込む。

 この「分倍河原の合戦」のとき古代国分寺は焼失し、新田義貞の寄進で新たに薬師堂などが建立された。

 現在の国分寺は、宝暦年間(1751~1763)に建て替えられたもの。
 残念ながら、今回は国分寺の中にある万葉植物園などを見る時間がなかったので、またの機会に訪れたいと思う。

 新緑が鮮やかな一日、古代の歴史にふれながら歩き、楽しい散歩だった。<おわり>


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