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日本語・日本語言語文化・日本語教育

ぽかぽか春庭「色とことばと文化」

2008-11-17 20:19:00 | 日記
at 2004 01/01 11:20 編集
ニッポニアニッポン色(色とことばと文化)

 虹の色、いくつ見えますか。
 「虹は七色だから7色見えるにきまっている」ですか?ところが、フランス語では「虹は6色」に決まっています。色の区切り方が日本語と異なるからです。

 世界の言語の中には、色をあらわす単語が三つしかない言葉もあります。それで、十分に世界を表現できる。

 「赤」「青」などの直接、色を示す単語のほかに、「葉っぱの色」「カッコウとなく鳥の羽の色」と、形容していけば、色を表現できるのだから、色の単語がすくなくても大丈夫。

 日本語では、JIS 規格の色名だけでも300以上あります。しかし、これは上記の色の表現と同じものがほとんど。

 「朱鷺の羽の色」だから「朱鷺色」、ネズミの毛皮の色だから「鼠色」など、ものへのたとえから出来た色名ネーミングがほとんどです。

 色の名の名詞としては、本来の日本語では「白」「黒」「赤」「青」の四色のみ。白は、日光を全反射する。黒は日光を吸収する。赤は、明るい色鮮やかな色すべて。青はあいまいな、どこにも属しようのない色すべてを表現していました。
 だから、「青毛の馬」というのは、英語で言うブルーではなく「グレイ」、すなわち灰色の毛をした馬のこと。

 現代でも交差点のシグナルを「青信号」と呼ぶと「あれは、青くない、緑色に光っているじゃないか」と、いう人もいます。
 しかし、青は、「白でも黒でも赤でもない色全部」が「青」だったのだ。「萌え出ずる新しい生命」を表現する「みどり」が「あたらしく萌え出た葉っぱ」の色につかわれるようなり、今では「緑色」という色名が確定しました。

 現代のことばで「新しく生まれ出る生命」という意味で「みどり」が残っているのは、「みどりご」という単語のみ。この語も「赤ちゃんなのに、みどりごというのは変だ」と考える人が多くなってきました。

 色に対してのイメージも時代によって変化するし、文化によっても異なります。陰鬱をイメージする「ブルー」もあれば、若々しく新鮮な気分をイメージする「青」もある。

 古代は四つの色の名しかなかったといっても、時代によって色の名はさまざまに名付けられ、現在JIS規格で扱われているだけでも300色以上の色の名前があります。
 あなたは、色の種類いくつくらい言えますか?縹色、紅蓮色、どんな色か、色彩が浮かぶでしょうか。

 「ポケモン」が世にはやって以後、小さな子どもも「紫苑」「縹(はなだ)」「朽葉(くちば)」「あさぎ」などの日本古来の色の名前を口にしています。
 「はなだシティ」「しおんシティ」など、ポケモンに登場する町の名前が、色名から取られているからです。

 しかし、「はなだ色」がどんな色か、「紅蓮(ぐれん)」が何色かを、正確に知っている子どもはあまりいません。生活の中では「桃色」が「ピンク」に駆逐され、「桃色」はセクシーなことばに形容されるほかは、あまり使われなくなりました。また橙色より「オレンジ色」の方が多く使われています。日本の伝統色名はしだいに用いられなくなっている傾向にあります。

 興味がある方、ポケモンの町の名前と英語版ポケットモンスターのタウン名について解説しているサイトがあります。
http://www.asahi-net.or.jp/~ua4s-njm/pokemon/poke_usat.html

 解説の例。
 「VIRIDIAN CITY (トキワシティ) トキワは漢字で書くと常磐。松や杉など常に木の葉が緑色で変わらない植物を指す。
 PEWTER CITY (ニビシティ) A stone Gray City (ニビは灰色、石の色).純色と書いてニビいろと読む。見た目の綺麗さとは裏腹に薄墨色を意味する。

 ポケモンのタウンネームから出発して、日本の伝統的な色の名前を知ること、これも日本語言語文化の奥を訪ねる旅になります。色の名がわかり、「かさねの色目」を知り、祖先がさまざまな色合いを楽しんでいたことを理解していくうちに、日本古来のことばの多様さ、広がりを感じることができます。

 「ニッポニアニッポン」と名付けられた色があります。フェリシモ社が売り出した500色の色鉛筆の一色の名です。色鉛筆番号017、PCの色番号 [FFB7C5]の色。ニッポニアニッポンとは朱鷺の学名だということを思い出せば、「ああ、鴇色のことか」と、その美しい色を思い浮かべることもできるでしょう。
 この500色を全部掲載しているサイトがあります。(micmacのHP)
http://www8.plala.or.jp/micmac/Fel500/Fel500.html

 ウェブログハウス春庭は、500色の色の名前をシソーラスにまとめました。
 「500色の色えんぴつシソーラス」500色を42のケースに分類。12色ごとにケースに入れてあります。
 シソーラスというのは、言葉を分類し、仲間ごとにまとめた辞書です。
 一般の辞書が「あ~ん」という五十音順とか、abcアルファベット順にならんでいるのに対し、「気象に関する語」とか、「鳥の名前」などのように、意味べつに分類されている辞書です。
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/12top.htm

 フェリシモ社の色ネーミング、ひとつひとつがとっても可愛らしく、絵や物語が思い浮かびます。さまざまな想像を繰り広げながら色鉛筆でお絵かきを楽しめるような、色の名前がついています。
 ニッポニアニッポンが鴇色だとして、では、「乙女座宮」色、「ためいきのベール」色、どんな色だと想像します?色を見てみるなら、春庭のショートショートストーリーと共に色のハーモニーをお楽しみください。
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/12kyuuscorpio.htm 

 古来、生活の中のさまざまな色が、暮らしを豊かに輝かせてきました。
 暮らしの中で、人を呼ぶ名、色を呼ぶ名。日本語の言語文化のなかで、呼び名と色の名をピックアップしながら、言葉と文化について考える「ことばの散歩」をはじめましょう。



at 2004 01/22 11:29 編集
正月色、晴れ着の色、成人女性の色

 新年快楽(シンニェン クヮイラー)!!
 クヮセ アンニョンハセヨ!
 中国・韓国など、旧暦で新年を祝う習慣の国にとって、新暦の1月1日よりも旧暦新年のほうを盛大な祝日になります。

 お祝い気分を盛り上げるための音と色彩は、国により文化によりさまざまです。
 中国では危険という理由で、爆竹を盛大にならすことが禁止されている市町が多いそうです。でも、バンバンという派手な爆竹の音こそ、お祝い気分を盛り上げると、思っている人々も多く、その人たちにとっては無念な爆竹禁止令です。
 中国では、祝い事に喜ばれるのは「赤」。結婚式の花嫁衣装も赤、正月を祝う飾りも「赤」が多用されてきました。

 おおみそか、除夜の鐘のゴーンという響き。行く年への思いをこめて鐘の音に聞き入った人も多いでしょう。
 日本では除夜の鐘は「仏法でいう108の煩悩をしずめるため108回ならす」というので、仏教のお寺はどこもいっしょかと思っていたら、韓国のお寺では除夜の鐘は33回ならすのだとききました。色のイメージも文化によってそれぞれ異なります。

 クリスマスカラーというと、何色を思い浮かべるでしょうか。常磐樹のみどり色。クリスマスツリーに飾る星の金色銀色。同じくツリーにつるされるリンゴ型の赤。サンタクロースの衣裳も赤。サンタ服の赤は、コカコーラ社の新聞広告がそのはじまりだそうです。
 クリスマスカラーというと、「赤、みどり、金銀」でおおかたの意見が一致するらしい。
 キリスト教では、「白=聖、赤=キリストの血、緑=永遠」がクリスマスのシンボル。

 ニュースでは「クリスマスがすぎれば、松飾りも門前に飾られ町はいっせいに正月色に変わりました」「二十日正月も終わり、これですっかり町からは正月色も一掃され人々は日常の生活に戻っています」などと報道されます。
 ここでいう「正月色」とは、「正月らしい雰囲気、ようす」を指し、正月の色・カラーそのものを言っているのではありません。

 では、正月の「色」は何色でしょうか。日本の正月を「カラー」で言い表すなら、何色がイメージされるのでしょう。
 「初日の出の赤」「初詣、神社の注連縄の白い御幣」「松飾りのみどり」「振り袖の娘達の華やかな色すべて」など、人々が正月をイメージする色もさまざまです。

 正月らしさを演出する人々の晴れ着。「晴れ着」の「晴れ」とは、「晴れのち雨」という天気の晴れではありません。
 日常をあらわす「け」に対する非日常、特別な日という「はれ」です。

 「はれ」と「け」は、生活を二分する大切な意味をもち、「け」の日の食べ物と「はれ」の日の食べ物は区別されます。そして、「け」の日に着る服と「はれ」の日の服は、はっきり区別され、けの日に晴れ着を着たり、はれの日に普段着を着ることはよくないことでした。
 はれの日は特別なごちそうを食べ、特別な「晴れ着」を着る、それでこそ晴れの日を祝うことができるのです。

 現在もお正月の「はれの食べ物」は、おせち料理として残っているけれど、お正月に「晴れ着」を着る、という人はだいぶ少なくなりました。
 初詣にいくとき、いつもとちがう特別な「晴れ着」を着て出かけましたか?

 なにか特別なお祝い事「今日は、はれの卒業式」とか、「はれの叙勲祝い」などという時には「晴れ着」を着るが、お正月には特別な晴れ着を着てすごさない、という人も増えてきました。全員がきちんと晴れ着を着て出席しようと心がけるのは、今では結婚式くらいでしょうね。

 正月の装束。紫式部日記に描き出された「実録・平安朝の正月の衣裳」を紹介しましょう。
 新年正月、前年に若宮が誕生してめでたさも倍増の中宮彰子に出仕する装束です。華やかな「日本の色」オンパレード。

 朔日「紅に葡萄染を重ねた重袿、唐衣(からぎぬ)は赤いろ、色摺りの裳(も)をつける」
 二日「紅梅の織物。掻練(かいねり)(袿=うちぎ)は濃き(紫または紅)、唐衣は青いろ」
 三日「唐綾の桜がさね、唐衣は蘇芳(すおう)の織物。」濃い紫または紅の色の掻練を着る日は、紅を中に、紅色の掻練りを着る日は、中側を濃い紫または紅にする」
 「萌黄(もえぎ)、蘇芳、山吹の濃い色薄い色、紅梅、薄色(うすい紫味の赤)」など、いつもの色目をとりどりに六種重ねて、そのうえに表着を重ねる。

 十二単(じゅうにひとえ)というけれど、実際には二十枚くらいの衣裳を重ね着し、どっしりした絹織物の重さは10キロ以上。立ち居振るまいもままならず、お姫様は終日じっとすわっている存在でした。

 上記、紫式部が描写した衣裳のなかに「朔日には色摺りの裳をつけた」とある「裳」は正装時に成人女性がつけた、袴の後ろ側だけに身につけるいわば、「逆エプロン」
 平安時代の女性は、成人したしるしとして「裳」をつけていました。
 少女が成人の祝いとして裳を身に付ける儀式が「裳着」。平安時代は12歳から15歳くらいの間に行われました。裳着と同時に髪を上げる「髪上げ」も行われ、裳を身に着け、髪を上げた女性は成人として扱われました。
 袴の色は、未婚の女性は紫袴、既婚の女性は緋袴をつけるのがきまり。

 平安時代、成人した女性は、お歯黒にします。白い歯では一人前の女性として扱われません。
 女性達は身だしなみとして、鉄分を酢でとかした液で歯を黒く染めました。(時代が下ると既婚の女性のしるしとなります)
 お歯黒液には虫歯を防ぐ役割もあったといわれますが、白い歯は、未熟な女性のしるし。子ども扱い。歯を黒くしてこそ成熟した大人の女性として生活できたのです。
 堤中納言物語の中の 「虫愛ずる姫君」は、お歯黒をすべき年齢になっても白い歯を光らせて毛虫芋虫と遊んでいたので、奇人変人扱いされてしまいました。

 さて、現代で「正月らしい色」「成人女性らしい色」と問われたとき、どんな色を思い浮かべますか?

☆☆☆☆☆☆☆☆
春庭今日の一冊No.90
(む)紫式部『紫式部日記』(岩波文庫)



at 2004 01/20 19:23 編集
「青い紅玉」は形容矛盾か①(言葉の意味の拡大縮小)

 創元推理文庫とパシフィカ社「シャーロック・ホームズ全集」の両方に阿部知二の翻訳で、「青い紅玉」という短編がある。紅玉は、日本語では一般にはガーネットをさす。
 ティファニーにも銀座和光にも足を踏み入れたことのない春庭が、ジュエリーツツミなどのショウウィンドウを覗いたかぎりでは、ガーネットは赤く輝くルビーのような宝石を指している。しかるに「青い紅玉」とは、どんな宝石なのか。青いのか、赤いのか、どっち?

 と、悩んでみたが、春庭は宝石には縁が薄い。ホームズ探偵が語彙探索を行った結果、コナン・ドイルの原作原題では、「Blue garnet」。青いガーネット、青いざくろ石というのが原題。

 日本ではざくろ石の名で親しまれ、ガーネットといえば赤と思われている。しかし、ガーネットは「ガーネット族」という広い範囲の宝石を指す。その色は赤に限らず、大別するならば、赤ガーネット、緑ガーネットがある。
 赤ガーネット:パイロープ、アルマンディン、スペサルティン。
 緑ガーネット:(グロッシュラー)、アンドラダイド、ウバローバイト。
 ドイルがホームズシリーズに登場させたのは、この緑ガーネット、グロッシュラーの類であったのだろう。
 
 日本語では赤い宝石はどれも「紅玉」。ルビーや、赤いガーネットを紅玉と訳すことは可能だったのだろう。
 阿部知二は、ガーネットを「ざくろ石」と訳さずに紅玉とした。そのために「青い紅玉」というタイトルになった。「青いざくろ石」だったら、ひっかからないのに、紅玉を形容する言葉が「青い」だから、私のアタマは「青いの、赤いの?はっきりして!」となってしまった。

 私が、ホームズも何も関係なく「青い紅玉」という言葉を見たら、紅玉りんごがまだ赤く色づいていなくて、青リンゴのうちにもぎとるのかなあ、などと、想像してしまう。
 芸者になるまえの「半玉」を、まだ熟さないうちに賞味するのは男の甲斐性だったそうだが、私は熟さない紅玉は、アップルパイにも使いたくない。
 はたして「青い紅玉」という表現は、日本語として正統なものであろうか。
 それとも形容している語と修飾されている名詞が矛盾しているのか。「よく晴れ渡った曇天」とか「チビの大男」などのように。

 「青みがかった赤」とか、「赤っぽい青」というのは、色の形容として可能。「青ざめた白い肌」もよろしい。また、「黄色い紅花」は可。紅花は「染料の紅をとるための花」であって、花びらの色は黄色だ。
 「黒い白衣」も、形容矛盾ではない。この場合の「黒い」は、黒色を意味するのではない。古くて洗濯もしていない、汚れて黒ずんだ作業用の白衣が想像できる。
 では、「青い紅玉」は?

☆☆☆☆☆☆☆☆
春庭今日の一冊No.91
(ド)コナン・ドイル『青い紅玉(ホームズ探偵シリーズ)』(阿部知二訳)

at 2004 01/21 07:43 編集
「青い紅玉」は形容矛盾か②(言葉の意味の拡大縮小)

 「青い紅玉」というのが形容矛盾であるか、可能な範囲の形容であるかを考えはじめた。

 「赤い白墨」「緑色の黒板」などは、被修飾語の白墨・黒板などの、指し示す物(指示対象)が、「もともとの意味から意味の拡大」をしたゆえに、このような「形容矛盾」が矛盾でなく、可能になった。

 もともとは黒く塗られていて黒板という名が付けられた名詞。黒以外に「濃緑」などの色を塗られるようになっても「濃緑板」とは呼ばれずに「黒板」という名称のまま呼ばれた。それゆえ「緑色の黒板」という表現ができる。この場合、黒板は、「黒い板」を指し示す名詞ではなく、「学校などで使用される、文字を書くための板」を意味するので、「黒」という語は、直接色を示す意味を持たなくなっている。

 墨はもともと黒い。しかし黒板に書くための白いチョーク。これを白墨と名付けた。「白い黒い」さらに、赤いチョークは「赤い白墨」。「赤い白い黒い」筆記具である。これも形容矛盾ではない。白墨が墨の一種ではなく、チョークを意味しているから。

 
 「みどりの黒髪」については、日本の伝統色名「白黒赤青」の解説ですでに述べた。このばあいの「みどり」は「緑色」ではなくて、「つやつやとして生まれ出たばかりのように輝いている」という意味。
 
 と、ここまで考えてきたが、やはり私の気分としては「青い紅玉」は、ひっかかるタイトルだ。ブルー・ガーネットの翻訳、今ならそのまま「青いガーネット」か「ブルー・ガーネット」としてタイトルにされるだろう。阿部知二が最初に翻訳したころは、ガーネットという宝石は一般には知られていないことばだったのかもしれない。なぜ「青いざくろ石」ではなく「青い紅玉」にしたのかをたずねてみたいところだ。

 言葉は送り出す側と受け取る側のコード(規約、基準、ルール)が同じ土俵にのっていないと、さらりと同じ意味を共有できない。誤解も生まれる。
 同じひとつの言葉を、異なる意味で二人の人が話していて、双方誤解に気づかないということも起こる。
 言葉には多義語もあれば、譬喩や含意という使い方もある。また、言葉の意味は常に変化する。

 動詞の内容も変化するし、形容詞も変化。変化の方向は、意味がずらされたり、拡大したり、縮小したり。
 現代語で「あの方、あわれよね」と表現したとき、普通は誉め言葉ではない。「あの人は哀れだ」といえば、「かわいそうな同情すべきみじめな存在」と受け取られ「あの人はものごとの情趣を深く感じる人だ」とか「かわいらしく恋しい人」と受け取る人はいない。

 名詞の「指し示す物」の内容も、時代につれて変化する。
 白墨、黒板は、元の意味から指示範囲が広がった例。黒ではなく、緑色に塗られていても、「黒板」と言う。「黒板」という語が指し示す範囲が拡大したのだ。
 拡大する語のほうが数が多いが、意味が縮小する語もあるし、元の意味からずらした意味の方が一般的になる場合もある。

 「房」は、家の中の一つの部屋。部屋を賜って仕事をする宮中の女官や貴族の屋敷で働く女性を意味した「女房」が「部屋を与えられている女」を意味するようになり、やがて家庭の部屋で生活する「妻」を意味するようになった。

 現代では「うちの女房がさぁ」と、話し出したら、それはその人の結婚相手の女性をさししめすのであって、その人のために働いていて個室を与えられた女性を意味するのではない。
 あなたが、妻以外の女性に個室を与えていて、彼女があなたのために働くとしても(主として夜間営業)、一般的にはその人をあなたの「女房」とは呼ばない。「うちの女房がさぁ」と話し出したら、個室の女性ではなく、妻の方を指していると、「世間コード」では受け取るのである。

 一方春庭は、団地2DKに住み個室もなく、台所一室でご飯を食べテレビを見てパソコンして、食事テーブルで試験の採点までやっている。それでも世間からみると「女房」の部類。「女」はもうどっちでもいいけど「房」は欲しいよ。できれば書斎と書庫と寝室と化粧室とお納戸の「房」が。
 ハァ、無理でしょうねぇ。

 意味範囲拡大の例。もともとは武家屋敷の奥の間に居住していた正夫人を「奥方」と呼んだ。公的部門を扱う「表=おもて」に対して、私的部分を取り仕切る「奥」の代表者として存在していた人が「奥方」「奥様」。
 「奥様」と呼ばれる方は、大きなお屋敷の奥の方に住んでいなければならなかったのだ。安普請の家に住んでいて家事雑事をやらせる使用人も使っていない人を「奥様」などとは呼べなかった。

 現在では、私のような、奥も表もない2DKに住まいしていようと、八百屋さんから「奥さん、大根安いよ」と声かけられるようになっている。
 「奥様」「奥さん」の意味する範囲が広がり、「夫を持つ女性」さらに「若くない女性で、既婚者と思われる年代の女性に対する呼びかけの語」へと拡大した。

 自分を指し示す語の意味変化の例。貴人のしもべ、下僕として存在し、自分が心身を捧げて働く人の前で、へりくだった意味で使っていた一人称「僕」。
 現在では「一般的に男子が自分を指し示して使う一人称」になっている。へりくだった意味から上昇したのだ。成年男子でも「ぼく」を使う人は多い。別段まちがいではない。自分はあなたの「下僕」である、という気持ちで使っているのかどうかは知らねども。

  私は、教師の前で一人称を「僕」という男子学生に対して、心の中で「お前は女王様のしもべよ、オーホッホッホ」と思うことにしている。

 春庭、教室で心ひそかに女王様気分を味わったのちは、近所の八百屋で「奥さん、奥さん」と、住まいの奥深いことを讃えられつつ、「ちょっとぉ、その大根一本200円は高いよぅ。二本買うから、二本350円にしなさいよ」なんぞと、「奥」の仕事を仕切るのである。

 意味が拡大したり縮小したり、上昇したり下降したり、ことばが指し示す範囲は、常に変化し、時代によって意味が変わってくる。
 しかし、「青い紅玉」は、現在の私の意識からすると、しっくりせず、形容矛盾のように思われてしかたがない。
 時代が変われば、これも「緑の黒板」「赤い白墨」のようにつかわれるようになるだろうか。いや、ガーネットをざくろ石や紅玉と翻訳してつかうことは、この先減っていく一方だろうから、これからはますます「青い紅玉」を「この玉、青いの?赤いの?どっちやねん」と悩む人が増えていく気がする。<青い紅玉 終わり>




at 2004 01/27 07:34 編集
青房赤房、力の色(伝統と変容)①

 2004年初場所、横綱朝青龍の優勝。ひとり横綱の重責を果たした。
 春庭、初場所十日目の取り組みを両国国技館で観戦した。
 留学生といっしょに江戸東京博物館見学した帰り、両国駅から電車に乗ろうとして、午後4時すぎに突然、ついでの相撲見物を思い立ったのだ。それで、横綱土俵入りは見ることができなかった。

 相撲協会は日本人横綱を作ることにやっきになっているようだ。外人横綱に対して日本の人はあまり温かくない気がする。

 十日目の本場所でも、朝青龍の取組の前に席を立って帰る人たちがいた。
 好き嫌いはあろうとも、横綱の結びの一番を見ないで帰ること、少し寂しい気がする。土俵に近い枡席に座った方々には、あと数分で終わるのを待てないほど時間が切迫している多忙な人たちが多かったのかもしれないのだが、忙しい中、ひいきの力士だけ見に来たというより、露骨に「ガイジン横綱を見なくてもいい」という雰囲気で、そそくさと帰り支度をしているような感じを受けてしまったのだ。

 ひいき力士は、だいたい「ご当地出身」という人も多いので、外国人力士の応援が少ないのは仕方がない。
 せめて、日本語教師春庭は、遠い海の向こうから、土俵めざしてやってきた力士を応援したい。
 どの力士も稽古を重ね、本場所では日々力の限りを尽くそうとしている。
 マワシを締め、土俵に上がれば出身がどこの地だから強いといういうことはない、素質を生かし、稽古に励んだ者が強いのだ。出自ではなく、その稽古で流した汗と涙を応援しよう。

 近頃の力士のマワシの色、昔の黒や濃紺の地味な色合いだったころに比べると、本当にカラフル。オレンジ色あり、エメラルドグリーンあり。スカイブルーあり。
 おすもうさんの肌の色もきれい。グルジア出身の黒海は、色が白くて「白い黒海」であった。(赤い白墨、緑の黒板、白い黒海!!)

 私がすわったひとり枡席は、枡席通路側の三角コーナー。1.5人分くらいの広さなので見やすいし足のばせるし。赤房側花道のうしろ。東側花道を出入りする力士がよく見えた。

 赤房青房は、元々は赤柱、青柱など屋根を支える柱だった。
 屋外に相撲の土俵を作る際に四隅に柱を建て屋根をのせて、周囲とは異なる神聖な場所を作る。注連縄を張り巡らせた神域と同じ。家を建てる際の地鎮祭で、注連縄で地所内に囲みをつくるのもいっしょ。

 「当年の豊作を占い、神意をうかがうための神聖な勝負が行われる場所」として、柱の内側は、周囲とことなる聖域であることをしめしていた。ゆえに「力」を神に示すことをしない女性は土俵にあがってはいけない、というので、大阪知事と相撲協会は折り合いがついていない。

 柱の色が白黒赤青の四色であるのは、「日本の基本的な色の名」がこの四つであったからだが、中国から陰陽五行説が入ってきてからは、中央=黄も付け加わって、色は季節や動物、方位、など様々なものと結びついて、人々の思想や生活に入り込んだ。

 近年は『陰陽師』のヒットで、一般の人も陰陽五行説を意識することが多くなったが、実は無意識の領域にこそ、この陰陽五行説は入り込んでいる。
 古い民俗文化と結びついており、気づかないうちに、陰陽五行説の影響を受けているのだ。

「五行説」=「気」を木・火・土・金・水の五つに分類し、その五つの気の働きによって万物が生じると考える説。それぞれ、次のものと結びついている。

木=青・春・朝・東・龍・鱗(魚)・目・話す声(呼ぶ声)・酢味・肝臓
火=赤(朱)・夏・昼・南・朱雀・羽(鳥昆虫)・舌・笑い声・苦味・心臓
土=黄色・土用・中間時・中央・(龍)・裸(人)・口・歌う声・甘味・脾臓
金=白・秋・夕方・西・白虎・毛(獣)・鼻・叫び声(哭き声)・辛味・肺
水=黒・冬・夜・北・玄武(亀)・貝・耳・うなり声(呻)・しょっぱい味・腎臓

 季節と色を組み合わせると、青春、朱夏、白秋、玄冬という「人生の四季」になる。私?そりゃ、春庭という名のとおり、今は青春でしょう。

 また、古墳に描かれた壁画に「龍、朱雀、虎、亀」が色鮮やかに出現したことがあった。高松塚、キトラ古墳などに描かれているのも、五行思想の動物。
 今は冬だから「亀」が冬の動物。色は黒。方位は北。時刻は夜。声は、うなり声である。不況にそして戦火に呻吟する民の声。

 「土」は中間的な性質を持ち、方位は中央。「土用」は次の季節へ移り変わっていくころ。春土用、夏土用などがあったが、現代では「夏土用にうなぎを食う」ことだけが生活の中に残されている。

 世界の中心に位置すると自分たちの国を「中国」と名付けた国の皇帝は、当然中央の中央に位置するので、衣裳は中央の色である「黄色の布地」で作る。
 黄色の衣裳は皇帝専用であった。そして文様は龍。「黄色い布地に龍の文様」を、皇帝以外の者が着ることは許されなかった。

 また、五行説では五気の循環によって物事は変化するとされる。
 循環の順序については「相克説」と「相性説」の二種類がある。

 「相克説」では木は土に、土は水に、水は火に、火は金に、金は木に勝つものとして“木土火水金”とする。
 「相生説」では、木は火を、火は土を、土は金を、金は水を、水は木を生むものとして“木火土金水”としている。

 ゲーム「ポケットモンスター」の勝ち負けも、この五行循環の思想が生かされている。
 たとえば、水ポケモンは火ポケモンには強い。火ポケモンは鋼(金)ポケモンに勝つ。草(木)ポケモンは土ポケモンに勝つ。
 こども達は五行循環なんてこと知らずに遊んでいるが、知らず知らずに五行説が心身にしみこんでいるのかも知れない。

 古代神事の相撲の勝ち負け。東方から登場の力士と西方から登場の力士が力を競い、勝ったほうが豊作になる。あるいは、力によって、悪霊や田にくる悪い虫を退散させる。
 その優れた力業を示すことで人々の生活を安寧にさせ、勝負によって神の意を占う大事な神事だった。また、力士が四股を踏むのも、大地を踏み固め、大地母神を鎮める所作。

☆☆☆☆☆☆☆☆
春庭今日の一冊No91
No.91 (よ)吉野裕子『隠された神々―古代信仰と陰陽五行』(講談社現代新書)


at 2004 01/28 07:08 編集
青房赤房、力の色(伝統と変容)②

 モンゴル相撲「ブフ」では、力士には神霊が宿っているという古い信仰が今も生きており、その所作にも、強い動物の霊魂が込められている。

 1月10日の横綱戦。立ち会い前の土俵上。朝青龍の所作に、私は「鷹の舞」を見た。NHKテレビが、このモンゴル的な所作を放映したかどうかはわからない。少なくとも私は、これまでテレビではこの所作にまったく気づかなかった。

 土俵上の東方西方の力士が四股をふみ、土俵両脇に蹲踞する。次に、両手を大きく広げる所作。「塵を切る」というそうだ。このとき、朝青龍は、両手をひろげたあと、何度か腕を羽のように動かした。鷹が翼を広げるときのような「塵を切る」所作。
赤房下で、横綱が塩をつかむときの目は、獲物を狙う鷹の目の鋭さ。

 私はテレビでしかモンゴル相撲も、見たことがない。「鷹の舞」も、無論テレビでのモンゴル相撲紹介でちょっと見ただけ。
 実際のモンゴル相撲の横綱土俵入りで、どのような所作なのか、生で見たわけではないが、朝青龍の両手がひろげられたとき、「鷹の舞」の力強く美しい所作が含まれているように感じたのだ。

 今回、生で見てよかったと思うことのひとつに、日本で横綱になった朝青龍が、モンゴルの魂をしっかり示していたこと。

 習慣文化の異なる日本の相撲社会になじむのはたいへんだったろうが、日本の社会に同化してしまうだけでなく、同時にモンゴル出身の誇りも失って欲しくないと思っていた私にとって、朝青龍の所作から感じ取れた「鷹の舞」などのモンゴル所作は、美しいものに思えた。

 「大相撲の伝統」を狭い意味に解釈し、朝青龍のモンゴル的な所作や行動をとがめる人もいるかもしれない。しかし、現在私たちが知っている「大相撲の伝統」とは、ほとんどがたかだか百年の歴史、明治以後の改革によって「伝統」とされたものにすぎない。

 標準日本語は、明治になって官制として作り上げられた言葉であった。神前結婚式は、大正天皇の結婚式を真似てはじめられたものである。
 これら、私たちが「昔からの伝統」と思いこんでいることの多くは、近代日本を作り上げる過程で、取捨選択がなされ、改変された「伝統」である。

 たった百年前に始められた「伝統」しか知らず、太古からの日本の「本当の伝統」をないがしろにするのはよろしくない。

 大陸の東はじ、太平洋の西はじに位置し、花綵(はなづな)列島と呼ばれる島国の国土。黒潮親潮にのってやってきたあらゆる文物文化を消化し取り入れてきた。

 漢字を取り入れて「ひらがな」を作り出し、自国語を表記するのに適した音節文字として適応させた。五行思想を取り入れれば、現代のコンピュータゲーム、ポケットモンスターにまで、その影響が残る。

 縄文文化以来、われわれの文化は、常に新陳代謝を繰り返しながら新しく生まれ変わっていくのが「真の伝統」なのだ。

 1年の行事でいえば、元旦に新しい「年神さま」を迎えてすべてをリセットする。若水を汲み、初日を拝めば、新しく生まれ変わることができるのだ。去年までの古い年を入れかえ、新しい年をひとつ加えるというのが正月行事であった。

 陰暦では、正月にみながいっせいに年を加えたのは、正月の「リセット新生」を自分の年齢に加える必要があったから。

 今の満年齢では、誕生日に年が増える。皆がいっせいにではなく、365日それぞれのリセット新生なので、リセット気分も小粒になる。世の中すべてがいっせいに新生するなかでの自己再生のほうが、壮大なリセットだった。

 子供のうちは、毎年誕生日がやってくるのを心待ちにしていた人も、中年すぎれば、忙しさに紛れて自分の誕生日も忘れてすごしてしまう。たまに鏡をしみじみ見たら、白髪がふえ皺が増え、年を重ねていたことを知る。毎日の代わり映えしない日常の中に、せっかくの誕生日もまぎれてしまうことになる。

 日常生活は、たいてい毎日同じことの繰り返しだ。同じ電車に乗って、同じ場所で仕事。家にかえれば、毎週同じテレビ番組をみて、、、。
 同じことを繰り返すと、日常がすり切れてくる。そして、同じことの連続のため、人生時間の中に、同じ澱が溜まってくる。

 日常を「ケ」といい、「ケ」の対極にあるのを「ハレ」という。「ケ」が連続してつづくと、日常の澱がたまり、「ケ」の生命力が枯れてくる。これが「ケ枯れ」の状態。

 ケガレが大きくなると、悪いことも重なるから、ケガレは清めなければならない。このために人は「身をそそぎ=禊ぎ」を行う。1年の連続で「ケ」が枯れた年を、新年行事でリセットする。「ハレの日」を設けて、祭りや神事をおこなって、ケガレを払う。

 水垢離やら滝行、海につかって心身を清める「禊ぎ」も、心身リセットのひとつのやり方である。
 「ミソギ」とは、政治的に失敗した代議士が、ほとぼりさめるのを待って再出馬するための方便用語ではない。人生のケガレを払い、生き生きとした日常を取り戻すための行事なのだ。

 成年行事(文化人類学でいうイニシエーション儀礼)も、年を加えたことで人生の別の階梯へ移る「生まれ変わり」の儀式だ。子供の時代をリセットし、成年として生まれ変わる。

 縄文時代は、この成年儀礼イニシエーションとして、身体に入れ墨をいれたり、歯の一部分を削ったりした。部族により、入れ墨の文様や歯のどの部分を削るかが決まっている。世界には、これらの儀礼を大切に守り続けている民族も多い。
 書いたり消したりあそび半分の「タットゥ」などとは意味が異なる。

 わが青春の地、ケニア。マサイ族は、かって「ライオンを一頭自分の力で倒したら一人前」という成年儀礼をもっていた。ライオンの数が減少し保護動物となったため、もはや行えなくなった。
 また、洞窟にこもり、真っ暗ななかで数日をすごし、穴からでてきたときが「再誕生」という儀礼など、さまざまな成人儀礼が世界各地に残されている。

 多くは、なんらかの苦痛や鍛錬を伴って、自らの肉体の力が十分成年として仕事ができることを示し、鍛錬された心を示すことによって、成年儀礼が完成した。

 何の鍛錬もしてこない嬢ちゃんや坊やに対して、いくら自治体が「20歳すぎたから今日からあんたは大人」と言ってやっても、大人になれないのは当然のことだ。

 その点、大相撲に入門した若者は、料理当番、挨拶言葉遣い、所作振る舞い、書道まで、相撲学校や各部屋できっちり指導を受ける。

 かって、若衆宿・娘宿などは、村ごとに若者を鍛え上げる「成人するための学校」であった。明治以後、この「村ごとの教育制度」は、「近代国家成立のための近代学校制度」によって、駆逐され廃止されていった。官制の学校だけが「子供を教育する機関」になってしまったのだ。

 この制度が、今「金属疲労」にきしみ始めてきた。音を立てて崩壊していく学校もある。全国一律カリキュラム、どの学校も硬直した「右へならえ」しかできない教育。

 かって、村ごとに特色ある「若者の鍛え上げ」が行われた。ある地方では、祭りの御輿をかついて走ることが心身の鍛練であったし、ある地方では鬼剣舞の練習が、訓練として課せられた。ある地方では「ばんえい競馬」に出場するための努力が若者を成長させた。何らかの「自分を鍛える努力」を必要としない民族はない。

 相撲部屋の「スパルタ式」が全面的にいいと言っているのではない。しかし、厳しい鍛錬をやりぬいて己の肉体を鍛え上げた力士たちには、最近の若者からは失われた目の輝きや肉体の美しさがある。   
 
 百年前からの伝統だけでなく、四百年前のことも、千年前のことも、私たちの生活に生かせるものは生かしたらいい。

 そして、モンゴル相撲の技も韓国相撲の技もとりいれて、強くなっていったらいい。
 多様さは、硬直した「ケ枯れ」を救う。同じことだけを続けていることのケガレをリセットして、新しい生命力を得るためには、「常に新しいものを取り入れ、自身をリセットしつつあたらしいものを生みだしていく」というのが、我々の「一万年」の伝統なのだ。
 
たかだか百年の伝統に、一万年の伝統が押しつぶされる必要はない。


at 2004 01/29 12:26 編集
青房赤房、力の色(伝統と変容)③

 新しいものをとりいれ、常に新陳代謝を繰り返すことによって、新たな生命力を得ている日本の伝統について紹介してきた。

 近頃の芸能界でいえば、トップスターをつぎつぎと交代させ、新スターを生み出す宝塚方式。今年は安倍なつみがソロになり、つぎのメンバーがまた入るかもしれないモーニング娘。方式、である。

 ときどき新陳代謝をはかり、本質を変えることなく、新しいものと入れ替える。本質は変わらないといえども、内容はしだいに変わる。

 ピカイアから人間までDNAの本質は同じ。地球の脊椎生物は共通のDNAを持っているというが、ピカイアと人間じゃ大きな変化をとげてきた。
 なぜ、ピカイアは進化したのか。DNAを後代に伝えるのが生物の生きる目的であるなら、単細胞生物が自分の体をふたつに割って、分裂でDNAを残すのが一番効率のよい方法であった。

しかし、生物は雌雄ふたつが合体し、互いのDNAを混ぜ合わせる方法を選んだ。同一のものの繰り返し分裂ではなく、多様なものがぶつかり合い、いっしょに混ぜ合わされた方が、いい子孫を残せたのだ。

 植物栽培でも、自家受粉を続けているといい種実がとれなくなる。動物はなおさらだ。多様な組み合わせ、多様なものの取り入れが、新陳代謝をよくする。

 変わらない芯を残しつつ、変化を遂げるのが進化であり、歴史である。伝統とは、このような「芯と変化」でできている。

 日本語に関しては、縄文語以来、本質に変わらないものがあるとして、発音、語彙とも大きく変化を遂げてきた。

 標準日本語は、明治政府の方針で作られた。「全国で使用できる教科書を普及させ、ほとんどの一般庶民やいっぱんの家庭の子供達が天皇の存在をまったく知らない、という現状を変えなければならない。全国の人々が等しく天皇を知り、尊敬するようにしなければ、ならない。さらに徴兵制度によって集められた兵士が共通のことばを話すことができるように」という緊急の必要によって、作らせたものだ。

 長い間「標準語が正しい言葉、方言は田舎臭いよくない言葉」という指導がなされ、戦前など教室で方言を使った児童に罰が与えられた、ということもあった。しかし、現在では方言の価値が認められ、方言による言語作品も評価を高めている。うれしいことだ。

 国語制定の過程については、さまざまな研究書も出版されているが、楽しく読むなら、次の本をおすすめ。標準語制定の裏事情、てんやわんやの舞台裏を描いた作品。

☆☆☆☆☆☆☆☆
春庭今日の一冊No.92
No.92(い)井上ひさし『国語元年』


青房赤房、力の色(伝統と変容)④

 相撲も、たかだか百年の歴史を「大相撲の伝統」などと思いこまないほうがいい。
 もっと多様に力の限りを示すことだ。力技を示すことが、人々の心の安寧を祈念することに通じていた神事以来の「力の伝統」を認めてもいいではないか。
 朝青龍は、モンゴル的な横綱でいてよい、と私は思う。

 多様な力があり、多様な色合いがある、これが真の「日本の伝統」である。
 全員を同じ色に染め、一致団結打倒○○、と突き進むばかりが国益ではない。これまでの歴史が教えるところでは、一致団結して同じことばを叫び、一斉に同じ方向を向いて走り出したとき、この国の行く末は必ず暗いものとなった。

 一斉に同じことをやるというのは、この国の真の伝統ではない。多様さを認め、さまざまな文物を取り入れ消化していくことが、この国のやり方だった。

 どこかの大国がやれと言うから、言われたとおりに尻尾を振ってついていくというのは、「力」の表し方として、もっともまずい方法であろうと思う。

 ブフ(モンゴル相撲)について。
 モンゴル民族は非常に広い地域に分布しているため、その地域によって方言や風俗習慣などが異なる。
 ブフも、威容を誇る鷹の舞で有名なモンゴル国のハルハ・ブフ、勇壮なライオンの跳躍で入場する内モンゴルのウジュムチン・ブフ、そしてオイラート・モンゴルに盛んな種牡牛の角突きを模した古典的なボホ・ノーロルドンなど、バラエティ豊かなブフが存在する。ウランバートル出身の朝青龍は「鷹の舞」が横綱の所作。

 いずれのブフでも、その身体表現には猛禽や猛獣、強いイメージのある種畜(種馬、種駱駝、種牛)の動きをかたどったものが多く、伝統的な遊牧、牧畜の生業形態との密接な関係がある。

 ブフは古来信仰されてきたシャマニズムとも深く関わっていて、祭祀における力士の身体表現は神霊ないしその憑依として認知される。一般的に力士の身体自体、効験があると信じられているほか、シャマニズムの最高神としてのテンゲルに「~ブフ」(力士)の名前を持つ天神がいることからも、力士はきわめて特別な存在としてモンゴルでは尊敬を集めている。

 ブフが近代スポーツへ脱皮していくなかで、そうした象徴的意味と儀礼性が次第に失われてきているが、土地神を祀る宗教的行事・オボ祭りでは依然としてその原型は残されている。
 
 日本の大相撲でも、近代スポーツとして再編成された明治以後、力士の力への信仰は失われてきたが、地方巡業場所などで、赤ん坊を力士に抱き上げてもらったりする親がいることに、力士の強い身体と心を分けてもらおうとする親の心が感じられる。

 今回、春庭が赤房側でみた、大相撲初場所十日目。人気の高見盛は負け、綱取場所といわれた栃東も負けたが、横綱朝青龍はモンゴル相撲の大横綱「バットエルデン」が得意としていた「つりおとし」で勝った。琴光喜を大きくつり上げてから投げ落とす豪快な技だった。

 この朝青龍の「つりおとし」を「大相撲伝統のつりおとしではなく、変則的な技」などと評する「相撲通」もいるらしい。しかし、朝青龍は、反則をして勝ったわけではない。彼らしい形のつりおとしを決めたのだ。それがこれまでの「つりおとし」とは少し型がちがうものであったとして、「青龍つり」とでも名前をつけて、登録すればよい。

 日本語がどんどん変化し、平安時代の日本語とも江戸時代の日本語とも違うことばを話しているからと言って、私たちが現代話していることばは、「伝統的な日本語じゃない」ととがめられることもない。現代は現代に通じる日本語を話していればよい。

 現代の日本語に方言があったり、中国語や朝鮮韓国語訛りの日本語があったり、それはそれで多様な日本語の表現が楽しめる。

 相撲の技も、四十八手を狭くとらえることはない。四十八それぞれにバリエーションがあって、百手でも千手でも、強い技を土俵の上で披露して欲しい。

 春庭、四十八手を全部使いこなせないうちに土俵から遠ざかってしまった。春庭の得意技。がっぷり四つに組んでから、組んずほぐれつ、寝技あり、手技あり。
 対戦相手の「有効」「効果」などの技が決まれば、「ああ、いい!」と、その優れた技を褒め称えることも忘れず、新たな技も開発してきたが、最近新しい技の開発に協力者がなくて、残念である。
 年取ったといえども、引退したつもりはなし。ただ、あらたなるフロンティア開発のためには、ちょっと心身がおとろえたのかも。

 やはり「心・技・体」の三つを常に鍛えて、力の限り頑張らねばならぬですなあ。
<青房赤房、力の色終わり>


春庭のスプリングガーデニング
「いろいろあらーな、がいい 花の色、色の名前」
(2004/03/22)

 ガーデニングが趣味の方々、とっくに春の庭の手入れは始まっているのでしょうね。
 春に花を咲かせるためには、冬のさなかから様々な準備が必要なことでしょう。

 春庭は、庭のない住まいに20年も住み続けており、ベランダに出した花の鉢もなぜか全部枯れてしまう、ガーデニング不向きな人間です。
 それでも、花と散歩が好きなので、散歩しながら花でいっぱいのお庭を見せてもらったり、公園の花壇を眺めたり、よその家の庭の木が花咲く日を楽しみに待っていたり。
 団地内の白木蓮がまっさきに咲き、ぼけの花が咲き、見渡せば、さまざまな色が一度に目にはいる季節になりました。

 「色」が大好き。草木染めや「かさねの色目」を眺めてすごすのも好き。いろいろな色が好き。実際の土を掘り起こしてのガーデニングは出来ないけれど、植物図鑑や色の名前を見ながら、いろんな植物を楽しむのが好き。

 『色の手帖』に記載されている日本の色の名前のなかから、春のガーデニングに合う色の名前や花をもとにした色の名前を紹介します。

1,赤系の和色名
紅梅色=紅梅の花のような色
桜色=桜の花びらのような色、ごくうすい紫みがかかった薄い紅色
桃色=桃の花の色。本来は「桃色」と「ピンク」は、極近いものの、別の色であったが、近年は、「ピンク」が色の表示としては優勢。
薔薇色=薔薇の花のあざやかな赤。
つつじ色=赤い躑躅の花の色

2,黄系の色の和色名
山吹色=山吹の花のようないあざやかな赤みの黄。
タンポポ色=蒲公英の花びらのような、あざやかな黄。
菜の花色=アブラナの花のような色。明るい緑みの黄。

3,緑系の和色名
若緑=みずみずしい緑色。特に松の若葉の色。うすい黄み緑。
若竹色=その年に生え出た若い竹のような色
萌木色=目が出たばかりの草木の色。萌黄(もえぎ)は同色だが、萌葱(もえぎ)は若いねぎの色で別)

4,青系の和色名
わすれな草色=foget me notの訳語。勿忘草の花のような明るい青。
かきつばた色=杜若の花のような鮮やかな紫みの青

5,紫系の和色名
藤色=藤の花のような明るい青紫。
すみれ色=菫の花のようなあざやかな青紫。
なでしこ色=撫子の花のようなやわらかい赤紫

 これ以外にも、外来語の色名。花の色がある。ローズピンク、バイオレット、ゼラニウム、ブーゲンビリア、ヒヤシンス、ポピー、マリーゴールドなど。

 さまざまな色彩があふれる春。咲き誇る花たち、いろんな色を目にしながら散歩を楽しんでいます。

春庭今日の一冊No.113
(な)永田泰弘『新版 色の手帖』