にっぽにあにっぽん日本語&日本語言語文化

日本語・日本語言語文化・日本語教育

ぽかぽか春庭「藤色乙女ーたけくらべ若紫その他」

2008-11-16 11:26:00 | 日記
ポカポカ春庭のいろいろあらーな「藤色(1)藤色乙女」 at 2004 05/24 00:41 編集

春よ老いな藤によりたる夜の舞殿ゐならぶ子らよ束の間老いな(与謝野晶子『みだれ髪』)

 春も往きすぎるころ、藤の花が夜目に浮かぶ舞殿に、奉納の舞いを披露する華やかな衣装に身をつつんだ乙女達が居並ぶ。春よ、老いてすぎてゆくな。今この若さをひとときとどめて、藤の花と乙女らのあでやかさを老いさせずにいてほしい。

 藤色=藤の花のような色。明るい青紫。
 「藤色」が色の名前として使われるのは、江戸期以後。平安時代の服飾に「藤」という言葉がでてきたら、それは「襲(かさね)の色目」の種類として。
 「藤重(ふじかさね」は、表に薄色(薄紅=紅花を用いて染めた薄い紅色)、裏に萌黄色を重ねたもの、また、表に淡紫、裏に青、など、数説がある。

 江戸期に、裕福な町民が色々な染め物を手にできるようになってからも、幕府はたびたび奢侈の禁令を出した。高価な紅花を使った紅梅色や紫根染めの本紫は、江戸初期から庶民が着ることを禁止されていた。
 それでも町民たちは、表には地味な黒や茶を用いて禁令を守り、裏地に色鮮やかな紅色や紫色を配色したりして、おしゃれを楽しんでいた。

 「藤色」も、江戸前期から愛好されるようになった。藤色には「藍藤」「紅藤」があり、澄んだ色合いを出すには、藍と紅花を用いて染める。
 しかし、庶民は高価な紅花染を使う本染めよりも、蘇芳(すおう)と鉄分をつかって藤色を染め出す代用染めで「藤色」の華やかさを楽しんだ。

 5月4日、藤まつり最中の亀戸天神へ出かけた。あいにくの強風。お天気も今ひとつだったし、5月9日まで藤まつりをやっているとはいっても、盛りはとっくにすぎているだろう、という予想の通りだった。
 藤の花は盛りを過ぎてはいたが、心字池にかかる橋のわきに、わずかに細々した藤が房をたれている。いかにも、「私たち、盛りにのりおくれてしまって、しょぼくれています」みたいな風情。
 でも、いいんです。盛りをすぎた藤を見にきたんだから。

 境内の出店で、カルメ焼きが焼き上がるのをしばらく見ている。なつかしいので、ひとつ買う。なつかしがる大人には受けるけれど、今時の子供達には、ケーキやクッキーのほうが喜ばれるだろう。人気お菓子の盛りをすぎたカルメ焼きをかじりながら、盛りをすぎた藤の花をながめている。

 池の面に映る盛りすぎの藤と盛りすぎた女の姿を、亀が泳いでかきまぜる。藤の姿も女の姿も波紋にゆれてくずれる。
 草臥れた女と盛りをすぎた藤の花。時代遅れのカルメ焼き。齧ったカルメの粉が強風にとび散る。なんだかいっそうわびしくなる。

 ゴシックロリータ(略してゴスロリというそう)のコスチュームプレイを楽しむ少女たちが、池の周りで写真を撮りあっている。「ゐならぶ子らよ束の間老いな」と、心に思うが、やがてこのゴスロリ少女たちも老いを迎えるときが来る。藤の花は毎年咲き誇るが、少女は少女のままでいることはできない。

 月日は流れ、舞殿に華やかな衣装を競った乙女達も、ゴスロリコスチュームの少女たちもやがては老い、枯れ藤となる。<藤色続く>

ポカポカ春庭のいろいろあらーな「藤色(2)芭蕉の藤の花」 at 2004 05/25 06:24 編集

 今は草臥れた盛りすぎの女も、40年まえは初々しい女子高校生だった。
 「草臥れて宿かるころや頃や藤の花」
 この芭蕉の句をめぐって、高校の古文の教師と論争したことがある。40年近くも昔のこと。

 句の作者、芭蕉の名は知っていたが、古文の教科書に他の俳人の句と並べてあった「くたびれて、、、」の句が、芭蕉の『笈の小文』の中にある句だということも知らないし、『笈の小文』の句として確定する前は「ほととぎす宿かるころや藤の花」というものだった、ということも知らなかった。

 「教科書に掲載されている句からひとつ選んで自分の解釈と感想を書きなさい」という課題が出されて、私は「草臥れて、、、」の芭蕉を選んだ。

 田舎の女子高校生だった、私の感想文。以下のようなことを書き記した。
================
 芭蕉は旅に出ている。歩きつかれて、やっとの思いで今日の宿場町にたどりついた。春も盛りをすぎようとしている。日中は思いのほか暑さも増してきた。
 朝、出発してからの道中、風景も凡庸だし、矢立で一句をしたためようという気も起こらない一日だった。

 やっと今日の宿場町が見えてきた。この宿場町には、花木一本すらない。風情に欠ける土地だ。あまり綺麗な建物とはいえない宿。
 宿のまえに藤棚がある。ひょろひょろした藤の木が数本。
 棚から下がる花房は、ほとんどが花期をおえていて、干からびたような褪めた花房が垂れている。

 中に一本だけ、なぜか花期がおくれた木がある。日当たりがそこだけ悪かったのか、その一本の木に申しわけなさそうに、小さな花房がいくつか下がっている。そこだけ、ほんのり藤色に染まった空気。

 芭蕉は疲れ切った気分で目を上げる。花期を終え白っぽく縮んでいる花房の陰に、小さな藤色をみつける。ああ、まだ咲いている花がある。芭蕉は弟子に笑いかける。
 疲れがとれたような気がする。藤棚に残った小さな花房が、歩き続けてここへたどり着いた自分を歓迎し、賞揚してくれているような気がする。
 宿へ入ろうとする弟子に声をかけ、矢立を取り出す。芭蕉の一句。
 「草臥れて宿かるころや藤の花」
==============
 こんなふうな自分の解釈と感想を古文の時間に書いて提出した。<藤色つづく>

☆☆☆☆☆☆
春庭今日の一冊No.120
(ま)松尾芭蕉『笈の小文』

ポカポカ春庭のいろいろあらーな「藤色(3)」 at 2004 05/26 10:20 編集

 次の授業で、古文の教師は「こういう勝手な解釈じゃ駄目だ」という見本として私の感想文を読み上げた。

 「芭蕉は、宿場町のきたない小さな宿に宿泊したのではない。地方地方の俳諧仲間の裕福な友人や支援者の家に泊ることが多かった。
 また、俳諧で「藤の花」といえば、今を盛りの花をさすのだ。もし枯れかけた花を出すのなら、そういうことばがあるはずで、盛りをすぎた花という文言がないのだから、勝手に盛りを過ぎているなどと解釈してはいけない、というような教師の解説だった。

 「なぜ、盛りをすぎた藤と思ったのか」と質問されたので「くたびれて」という言葉の響きと「草が臥している」という漢字の当て字が、いかにも花がくたっと干からびて盛りをすぎたようすに思えて、「くたびれて」の初句が、二句三句まで続いていくような気がしたから」など、自分の考えを述べた。
 しかし、教師に逆らう意見を述べる生徒は、単純に「生意気な生徒」でしかなく、駄目なものはダメとしか受け取ってもらえない。

 古文教師に否定はされたが、私は自分の解釈がまずいとは思わなかった。確かに「俳諧解釈の決まり」には合致しないのかもしれなかったが、私は私が思ったとおりに受け取ればいいや、と感じていた。今でも俳句を観賞するとき、自分の現在の気持ちや環境によって、そのときどきに俳句を受け止める。

 「正しい解釈」ひとつだけが正解で、あとは「×」など、一昔前の入試問題正答でもあるまいし。
 文芸作品、生み出されたあとは観賞する読者の心しだい。作品を味わうのは、作者と読者の共同作業なのだ。
 
 厳密な学問的な解釈をよしとする教師には、私の「草臥れて、、、」解釈は、「もの知らぬゆえ」の誤読とされる読み方だったかもしれない。
 しかし、どの作品も、私は私の感受性で読んでいくしかない、という考え方は、高校生のときも今も変わらない。

 以下、『たけくらべ』と藤色について、私なりの読み方。<藤色つづく>

ポカポカ春庭のいろいろあらーな「藤色(4)藤色半襟と翠」 at 2004 05/27 08:15 編集

 明治の吉原。樋口一葉『たけくらべ』の中に描写される、ヒロイン美登利の登場シーン。くっきりとあでやかで、少女ながら粋な姿である。

「柿色に蝶鳥を染めたる大形の浴衣きて黒繻子と染分絞りの昼夜帯胸高に、足にはぬり木履」(柿色に大きな蝶や鳥の模様を染めた浴衣を着て、黒じゅすと染め分け絞りの「昼夜帯」という流行の帯を胸に高く締めて、足には塗りのぽっくりを履いている。)

 しかし、生国の紀州から、大黒屋遊女として全盛だった姉をたよりに上京してきたばかりのころの美登里は、やぼったい姿の少女だった。
 「はじめ、藤色絞りの半襟を袷にかけて歩きしに、田舎者いなか者と町内の娘どもに笑はれしを口惜しがりて、三日三夜泣き続けし事も有りしが、、、」
と、一葉の筆は描き出す。

 紀州育ちの美登利にはおしゃれに思えた「藤色絞りの半襟」を袷にかけて歩くことが、吉原近辺の女たちには「田舎もん」の装いに見えた。勝ち気な美登利は、それを悔しがって三日間泣き続けた。
 田舎の少女にとって、藤色はせいいっぱいのおしゃれな色として、東京の華やかな町にふさわしいと思えたのに、東京色町の「粋な色」とは認めてもらえなかった。
 
 服飾史に詳しくないので、明治期の東京吉原近辺で何が「粋な色」とされ、何が「野暮ったい色」「田舎もんの服装」とされていたのか、私にはわからないのだが、「藤色の半襟」を田舎ものと笑われて悔し泣きする美登利の描写、ほほえましく、東京に慣れた美登利が下町の女王様のように振る舞うのも、この時の涙の代償のように思える。

 美登利が密かに心寄せる信如。ある雨の日。信女は下駄の鼻緒を切らして困っている。
 鼻緒をすえるためにために美登利が持ち出したのは「紅入り友禅」
 結局受け取ってもらえなかった紅葉模様の紅入り友仙の端切れ布。紅色の模様は雨に打たれたままになる。

 田舎育ちを象徴する「藤色の半襟」と、成就せぬ初恋の友禅の紅。ふたつの色が、「たけくらべの色」として印象に残る。

 しかも、初恋の相手の信如、名字が「藤本」である。美登利という名は、生まれ出たばかりの輝きの中に生い立つ「みどり子」の響きを内包しつつ「美しさによって登っていき利益を得る」という漢字からのイメージも感じさせる命名である。

 それを考えると、美登利が密かに幼い純な思いを寄せる相手の名に「藤」の色を連想させる効果も、一葉は計算したのではないかと思いたくなる。
 これも、厳密な文学研究の立場からいうと、証拠もない勝手な解釈になるのだろうが、何かまわない。私は私の読み方を楽しむ。

 藤色。若紫の少女。純朴で、言葉にも紀州訛りが残っていたあどけない美しさを表す色として、一葉は美登里の半襟に藤色を装わせたのではないか。
 萩の舎で源氏物語の講義をしたこともあるという一葉だから、「藤」の色合いに特別な思いをこめたのではないかと、想像している。

 明治の衣装風俗を写した文章は、尾崎紅葉ら男性作家の文章にも、着物や帯の色柄、髪型、持ち物に至るまで精妙な描写がある。が、一葉が描写する着物や髪型に、女性作家の繊細な感覚を感じる。

 両親は甲州の田舎生まれだった一葉。
 和歌の塾「萩の舎」に集う華やかな色とりどりの晴れ着の中で、両親が用意してくれた黄八丈の古着を着て、感謝しつつも身を縮めたようにすごした一葉。

 何不自由ない令嬢たちの間で、和歌を詠むことにかけては、負けたくないという自負をかかえて、緊張してすわっている一葉。
 少女から成長していく一葉の周囲には、華やかな色彩があふれていた。その中で、一葉は自分の色彩感覚をみがいていく。<藤色つづく>

☆☆☆☆☆☆
春庭今日の一冊No.121
(ひ)樋口一葉『たけくらべ』

ポカポカ春庭の人生いろいろ「藤色(5)」 at 2004 05/28 07:24 編集

 藤色半襟の少女は、田舎臭さを洗い落とし、色町の色になじんでいく。
 売れっ子華魁の実の妹であり、やがては美登利自身も華魁となるのだと、まわりの者は皆知っている。美登利自身も、いずれは「吉原の女」として生きていくしかない自分の身の上を知るときがくる。

 お祭りの夜の子ども同士の争いの中で「何を女郎め、姉の跡継ぎの乞食め」と悪口を言われて、悔しがる美登利。悔しさに唇を噛みながらも、胸のうちでは「お前のお世話にはならぬほどに、よけいな女郎呼ばわりは置いてもらいましょ」とタンカを切ることもできるのが祭りのころの美登利だった。

 しかし、「よけいな女郎呼ばわりは無用」と悪童どもに対抗できるのは、美登利が人に心寄せることの哀しみを知らず、少女の姿を変えなければならない悲哀を知るまでの、束の間の特権にすぎなかった。

 三の酉でにぎわう大鳥神社。この日の美登利は、もはや少女の装いではなかった。
 「憂く恥かしく、つつましき事身にあれば、」という出来事が美登利の身の上に起こる。
 これを境に、少女は少女の姿でいるのを許されず、大嶋田を結った「京人形」となることを求められる。

 「初々しき大嶋田を結い、綿のように絞りばなしふさふさとかけて、鼈甲のさし込、総つきの花かんざしひらめかし、何時もよりは極彩色のただ京人形をみるように思われて」
と、美登利は変身する。「藤色半襟」の少女は、「極彩色の京人形」になっていくのだ。

 従来「憂く恥かしく、つつましき事」は、美登利が初潮を迎えたことをさすのだ、という解釈が多勢を占めていた。高校の教科書などで読解するときは、今でも教師はこの解釈を生徒に教えているのではないか。

 しかし、佐多稲子の読解が発表され、一葉研究に大論争が起きた。
 「嶋田は結婚した女の髪型。色町で大嶋田を結ったということは、美登利の身に水揚げがなされたということ。初店をすませ、正真正銘の吉原の女になったことを意味する」と佐多稲子はいう。(1985/5「群像」に発表1985/10講談社刊「月の宴」所収)

 前田愛ら、研究者は「初潮説」をとり、瀬戸内寂聴ら、作家は「水揚げ=初店説」を支持する人が多い。

 私は佐多説にひかれる。
 一葉の色彩感覚を考えるとき、美登利の身の上の変化が「初潮をむかえたこと」であるなら、変化後の美登利を「極彩色の京人形」と形容しないのではないか、と思えるからだ。
 華魁すなわち「きらびやかな人形」としてこの先を生きていくしかない女へと身を変えた姿を、一葉は「極彩色の京人形」と表現したのではないか。

 共にすごした遊び仲間から「好いじゃあ無いか、華魁になれば、己れは来年から際物屋に成ってお金をこしらえるがね、それを持って買いにいくのだ」と、みなされている美登利。
 美登利が大嶋田に髪型を変えたことの意味を、皆知っていたからこそ、これまでは遊び仲間だった娘に対して「金を作って、買いにいく」と言うのであろう。

 華やかに装って「買われる者」として生きていくしかない哀しみを背負うた女への変身であるからこそ、一葉は「極彩色」と描写し、「人形」と形容しているのだと感じるのだ。<藤色つづく>

ポカポカ春庭のいろいろあらーな「藤色(6)若紫」 at 2004 05/29 10:50 編集

 少女の身から「女戸主」として立っていかねばならなかった一葉。夢見る少女でいるだけではすごせなかった生い立ち。没落した一家を背負い、母の愚痴や妹の繰り言を聞きながら、日々のたつきを算段しなければならなかった一葉。
 少女が自立していくことの何たるかを知っていた一葉ならば、単に初潮を迎えたことをもって「京人形のよう」になるとは形容しないのではないかと思う。

 源氏物語の若紫の少女が、どのように少女であることをやめさせられたのか。
 光源氏にとって、若紫の少女は、父帝の后の姪。密かに愛する人藤壺にそっくりな少女を、源氏は自分の思い通りに育て上げる。そのうえで、まだ幼さの残る少女に対して「世には知らせぬ秘密の結婚」を強行する。
 源氏にとっては「内輪ではあっても、『三日の餅』など正式な形を整えた結婚」と思う。しかし、少女の側から見れば、父とも頼み信じ切っていた人からの、思いも寄らぬ仕打ちである。

 恋文のやりとりを続け、相手を迎え入れる意志を伝えてからようやく通い婚へと進むのが一般的であった平安時代。光源氏の紫の上への仕打ちは、少女の意志をかえりみず、「金を出し養っている側」からの一方的な結婚である。少女を人形のように扱っているにすぎないとも言える結婚であった。

 源氏を愛読した一葉である。藤色半襟の少女から、極彩色の京人形へという形容変化の意味を考えると、佐多稲子の解釈に説得力があると思う。

 少女の純朴を象徴するような「藤色半襟」も、それを東京の水でしだいに洗っていく美登里の姿に重ね合わせるとき、少女が成長していく哀しみを描き出している色であるように思えてくる。

 一葉が美登利に託した心を感じさせる色の選び方と思うのだ。<藤色つづく>

ポカポカ春庭のいろいろあらーな「藤色(7)若紫」

ポカポカ春庭の「人生いろいろ」
2004/05/31 今日の色いろ=藤色(7)

 亀戸天神の盛りすぎの藤の花をながめながら、藤色に染まるさまざまな少女たちの姿を思い起こす。

 紫の花をさかせる桐。儚く亡くなった桐壺更衣に生き写しだという理由でミカドの后に選ばれ、15歳で入内した藤壺女御。その藤壷にそっくりだったゆえ光源氏に引き取られて養育される若紫の少女。
 藤式部として中宮につかえ、紫式部のあだ名で呼ばれた源氏物語の作者。少女時代は兄よりも漢文の学びに長けていた、と日記にしるす。

 藤色の半襟を袷にかけて「田舎ものの着こなし」と笑われて泣いた美登利。
 「俳聖の藤の句を勝手に解釈するな」と、教師に叱られて悔しがった少女時代の私自身。

 しおれかけた藤の花房の下では、ゴシックロリータ姿の少女たちが、お互いを撮影しあっている。白をベースにした「白ロリ」ひらひらしたフリルや金の縫い取りをたくさんつけた自慢の衣装。束の間の移ろいやすい若さを、デジタルカメラの中にとどめようと、少女達はわらいさざめきながらシャッターを押す。

 少女は、少女のままでいることを許されず、いつしか成長し老いていく。
 「草臥れて宿借るころや、、、」の藤の花を「盛りすぎの藤」と言い張った生意気な少女は、生意気な女となり、意固地な中年となった。

 亀戸天神の心字池に映された、「カルメ焼きを齧る女」は、ほとほと「草臥れて宿かるころ」のくたびれた老いをみせ、盛りをすぎた藤に似合う枯れ具合である。

 盛りを過ぎて枯れかかってはいるが、少女のころ読んだ小説物語を再び手にとり耽溺すれば、たちまち心は数十年前のみずみずしさを取り戻す。
 姿は枯れても、作品を作者との共同作業として味わっていこうとする心は、萌え出る若紫、今を盛りの藤色の生き生きとした感受性を忘れないでいると、せめて、思いこみたい。

 藤色の涙を襟ににじませて少女は秘密を持つ子となりぬ
 池の面に映る枯れ藤枯れ女(春庭)
 飢えふかき一日藤は垂れにけり(加藤楸邨)
 暮れ際に茜さしたり藤の房(橋本多佳子)
<藤色おわり>


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。