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ぽかぽか春庭「『墨東綺譚』散歩」

2008-11-12 19:33:00 | 日記
荷風『墨東綺潭』をめぐる散歩

2005/05/07 12:21 土
新緑散歩>浄閑寺の荷風忌

 4月30日土曜日、下町散歩へ出かけた。
 都電三ノ輪橋駅と地下鉄三ノ輪駅の間に浄閑寺がある。
 浄閑寺の遊女無縁塚(総霊塔)をお参りしたのも、もう15年も前のことになったので、ぜひもう一度お参りしておきたいと思って、門をくぐった。

 浄閑寺は、吉原の遊女たちの投げ込み寺として知られる。引き取り手のない遊女は浄閑寺に投げ入れられ、無縁仏として葬られた。
 境内の小さな藤の木に、「振袖新造」の髪飾りのように、藤の花がさいている。

 寺内では荷風忌の法要と講演会が開かれていた。4月30日、永井荷風の命日。
 私が到着したのは、講演会が終わって、『墨東綺譚』の朗読会となる休憩の時間。(正しくは、墨東の墨はさんずいがつくが漢字変換ができない)

 講演会も聞きたかったが、なにせ家を出るときは4月30日が荷風の命日であることなどすっかり忘れていたし、毎年、浄閑寺で荷風の法要が営まれていることも知らなかった。
 三ノ輪界隈をぶらぶら自転車で走っていたら、偶然、行きあわせた荷風法要。荷風の魂が私を呼び寄せたのだと思いたい。

 荷風の正式な墓は、雑司ヶ谷にある。永井家の墓所、永井家累代の墓と父の墓の間で、永井荷風墓は立派な石塔となっている。
 しかし、荷風自身は、明治政府高官だった父と共にではなく、浄閑寺に遊女の魂と共に眠ることを希望していた。

 永井荷風『断腸亭日乗 1937年(昭和12)』より
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六月廿二日。快晴。風涼し。朝七時桜を出て京町西河岸裏の路地をあちこちと歩む。(中略)
六月以来毎夜吉原にとまり、後朝のわかれも惜しまず、帰り道にこのあたりの町のさまを見歩くことを怠らざりしが、今日の朝三十年ぶりにて浄閑寺を訪ひし時ほど心嬉しき事なかりき。
 近隣のさまは変わりたれど寺の門と堂字との震災に焼けざりしはかさねがさね嬉しきかぎりなり。
 余死するの時、後人もし余が墓など建てむと思はば、この浄閑寺の塋域娼妓の墓乱れ倒れたる間を選びて一片の石を建てよ。石の高さ五尺を越ゆるべからず、名は荷風散人墓の五字を以て足れりとすべし。
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 現在、浄閑寺裏には、「われは明治の児ならずや 去りし明治の児ならずや」と結ぶ荷風の詩碑と、筆塚がある。
 向かい合って、吉原遊女無縁仏供養の総霊塔が立ち、吉原角海老の遊女若柴の墓がある。

 命日。荷風の魂は、雑司ヶ谷の先祖や父にちょこっと挨拶に顔出したあとは、遊女と共にいる浄閑寺にもどってくるのではないかしら。

 「玉の井・昭和・荷風」と題された講演会が終わったあと、会場の椅子にすわると、内木明子さんによる『墨東綺譚』の朗読が始まった。

 小説『墨東綺譚』は入れ子構造になっている。一番外側にいるのは、作者の荷風。中側の主人公は、「私=小説家大江匡(おおえただす)」。さらに内側に、大江が執筆している小説『失踪』。大江は小説の舞台を実感せんと、玉ノ井寺島町あたりを徘徊する。

 「活動写真」なんぞほとんど見たことがない、という大江のことばから物語が始まる。
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 わたくしは殆ど活動寫眞を見に行ったことがない。
 おぼろ氣な記憶をたどれば明治三十年頃でもあろう。神田錦町に在った貸席錦輝館で、サンフランシスコ市街の光景を寫したものを見たことがあった。活動寫眞といふ言葉のできたのもおそらくはその時分からであらう。それから四十餘年過ぎた今日では、活動といふ語は既にすたれて他のものに代わられてゐるらしいが、初めて耳にしたものの方が口馴れて言ひやすいから、わたくしは依然としてむかしの廃語をここに用いる。、、、、、、
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 映画を見たのは30年前に一度いったきりだということを述べ、「映画」なんぞという「今風」の言葉は使いたくない、ということばの好みを主張する。
 「近代文化」の底の浅さを嫌い、江戸情趣をもとめて下町を徘徊した荷風の「自己の好み」を大江匡に託して語らせて、いよいよお雪との出会いへ。(つづく)
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もんじゃ(文蛇)の足跡:
関連記事:荷風と吉原について、春庭エッセイ「源氏名」をお読みいただければ幸いです。
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/kotoba0402a.htm


2005/05/10 10:43  日
新緑散歩>『墨東綺譚』朗読

 内木さんの朗読、冒頭は立ったままで、主人公が浅草公園へ出かけて物語りが動き出したところからは座って読む。本が声となって情緒豊かに伝わる。

 主人公の小説家大江匡が、吉原で警察官の不審尋問にあう、という出だしから、玉ノ井の娼婦お雪との驟雨のなかの出会い。
 そして秋、十五夜の夜にお雪が病み入院していることを知る。何の病かも知らぬまま、「私」はもう二度とお雪に会うこともなく、一遍の結末となる。

 内木さんの朗読は『墨東綺譚』の全文を朗読したのではなく、お雪が出てくる場面をまとめる脚色がなされていた。『失踪』の草稿部分や俳句や漢詩が出てくる部分は割愛。

 内木さんは、朗読家幸田弘子さんのお弟子さんだという。幸田弘子の朗読する樋口一葉作品もすばらしいが、内木さんの声もとてもすてきで、『墨東綺譚』の雰囲気をよくとらえている朗読だったと思う。滑舌の乱れは二、三ヶ所あったけれど、全体の流れはとてもよかった。

主人公大江が執筆中の『失踪』という小説。作中人物の英語教師種田が、家族を捨て世を忍ぶ住まいとして、玉ノ井近辺の裏町あたりを設定し、大江はあたりを徘徊する。

 玉ノ井の路地に踏み込むと突然の夕立。稲妻が光り疾風が吹き落ちる。
 大江のこうもり傘に「だんな、そこまでいれてってよ」と後ろから女が首を突っ込んできた。お雪の登場。
 雨にぬれた大江の洋服を拭いてあげるから、というお雪。大江はこのあと夏から秋まで、玉ノ井の私娼お雪となじむことになる。

 内木さんの朗読は情緒たっぷりにすすみ、「昭和十一年丙子十一月脱稿」という作者贅言の跋語で終わる。

 唯一ひっかかったのは、お雪が「わたし、こんなところにいるけれど、せたいもちは上手なのよ」と大江にいうセリフ。あれ?荷風は特別に「せたいもち」というルビでもふったのだろうか、と疑問に思ったが、手元に原作がないから、そのまま聞き流した。

 私が持っているのは、昭和26年発行36年12刷の奥付、旧仮名旧漢字の新潮文庫(木村荘八解説)の版。扉頁に「田中蔵書」という蔵書印がついていて、裏に「100」と古本屋のえんぴつ書きがある。一冊百円の駄本棚にあった。
 家に帰ってページをくってみると、「世帯持」という文字にはルビはふってないので、それならやはり「しょたいもち」と発音したほうがいいんじゃないかしら。

 荷風の時代、「あんたといっしょになって、しょたいを持ちたい」という女はいても「せたいをもちたい」なんぞと言わなかったと思う。
 「せたいを持つ」では、国勢調査でもしている気分。もっとも、最近の若い人は結婚していっしょに生活することを「しょたいを持つ」なんて言うこともないだろうからなあ。
これからは「しょたいじみた女」なんてのも「せたいじみた女」と言うのかもしれない。

 でも、映画という言葉を使いたがらず、「活動寫眞」という廃語を使いたいと主張している荷風の作品だから、ここは古風に読みたいところ。

 さらに欲をいえば、どうしても「お雪がちょっと上品になっているかな」ってとこがあって、私の「お雪像」と少し異なっていた。
 内木さん自身の雰囲気が「才色兼備。声もよく朗読精進して、新進の朗読家やってます」って感じ。見た目の「上品な才媛」の印象が、お雪の雰囲気をちょっと変えている。

 荷風の描く「客あしらいになれた口をきくけれど、純な心をもつお雪」が、内木さんの美しい声の朗読で、「純粋できよらかなお雪」に昇華してしまっている。(つづく)


2005/05/09 08:02 月
新緑散歩>朗読『墨東綺譚』と映画『墨東綺譚』

 『墨東綺譚』のお雪はけっして「はすっぱな女」ではないけれど、宇都宮芸者を食い詰めて玉ノ井女郎に住み替えしたのだから、純情可憐とはいかない部分の感じも欲しかった。

 お雪は、玉ノ井娼館の窓の外に向かっては「その身を卑しいものとなして」窓辺に座り、ひやかし客にも陽気に声を掛ける。大江の目には「快活の女」と見える。
 しかし、大江に結婚して欲しいと言い出したり、おでん屋かスタンド(バー)の店をもとうと金策する現実的行動的な女でもある。

 主人公の小説家大江は、以前玄人女を家にいれたとき、女は忽ち懶婦悍婦(らんぷ、かんぷ)と変じてしまったと、苦い後悔を語り、もし大江がお雪を妻としたなら、お雪は現在の明るさを失って懶婦悍婦に変ずるだろうと述べる。
 お雪の結婚の望みを受け入れない理由について「わたくしを庇うのではない」といいながら、弁解する。

 現実の永井荷風は、父の希望のままに見合いをして最初の妻と結婚、父の死後すぐに離婚。恋仲になった芸者八重次(のちの日本舞踊家藤陰静樹)と自ら望んで正式に結婚したあとすぐ離婚。そのあと荷風は結婚していない。

 「結婚という枠の中では、惚れた女ともだめになる」という躊躇と、「自由気ままな漁色こそ、自分の文学の源」という自負とを抱いて色里へ出入りする荷風。
 主人公「私」を自分自身ではなく、「小説家大江匡」と設定したとしても、お雪への執心が結婚へ向かうものになるはずもない。

 荷風が描き出したかったお雪は、私娼窟に住む現実派の淫売女にしてまた「幻の聖娼婦」である。夏のどぶのすえた匂いと沸き立つ蚊柱の中に白い裸身を横たえる娼婦にして、秋口にははかなく消えてしまう幻の女。

 お雪への視線の、この微妙さを出すには、お雪の純粋さとしたたかさ、明朗と陰を現出しなければならない。
 朗読の声だけでそれを表現するのは、とても難しいことだろうと思う。

 新藤兼人作品の『墨東綺譚』でお雪を演じた墨田ユキは、「玉ノ井のお雪」の雰囲気に合っていた。朗読と映画では比べるのは無理だけれど。

 新藤兼人の映画は、『墨東綺譚』と永井荷風の日記『断腸亭日乗』を混ぜた脚本になっている。主人公は「大江匡」ではなく、永井荷風本人で、小説の『墨東奇譚』とは別の作品になっている。

 映画『墨東綺譚』は、1992年の作品。そして、この映画は1992年に私が映画館で見た唯一本の映画だった。

 1992年の私は、映画どころではなかった。平日は日本語学校で教え、日本語学校の出講日じゃない日は、大学院4年目になってもまだとりこぼしがある必修単位のために授業を受ける。春、夏、冬休みには夫の事務所の仕事を手伝う。保育園へ息子を迎えに行って帰宅。学童クラブから帰った娘が3歳の息子と遊んでくれている間に、家事全般こなす。その中で、いったいどうやって映画を見にいく時間を作ったのか。

 夫の事務所のメッセンジャーをして、出版社での原稿受け渡しが終わり、直帰してよいと言われた帰り道、まだ保育園のお迎え時間までに映画を一本見る時間があったとみえる。
 毎日時間におわれ、日記を書く余裕もなくて、何月何日に見たのか日時がもうわからない。

 1992年の後半は、修士論文の仕上げにかかりきりになったが、論文を書きあぐねている間に日記をつけた。1992年9月から書き始めて、1994年2月に単身赴任の決意をして中国へ出発する日まで500日の日記は、400字原稿用紙に換算すると1500枚分になった。

 映画の感想が書いてあるのは、1993年2月のこと。
 以下、1993年2月の日記から。(つづく)


2005/05/11 08:46 水
1993年録画再生日記より>『吉原のものがたり』と映画『墨東綺譚』

「1993年録画再生日記」より
1993年 二月十日 水曜日(晴れ)
「添い寝読書2」
 息子、朝は三十七度まで熱が下がったのだが、さっそく布団から出て、遊びだしたので、昼にはまた三十八度五分になった。セキはほとんど出ない。
 熱は三日めなので少し心配になる。

 ひとりで家にいると、時間はあっても、自分だけ本を読んでいるのは申し訳ないような「働かざるもの食うべからず」の庶民訓においたてられるような気分で、本だけ読んでいる気分にはならないのだが、病気の息子につきあっているのなら、バタバタ掃除することもできないのだし、炊事洗濯すんでしまえばあとはひたすら本を読む。

 息子が「読んで」とせがむ絵本を片目で見て朗読し、もう片目で近藤富枝の『今は幻、吉原のものがたり』を読む。
 きちんと調べが行き届き、インタビューも適切に入っていて、面白く読めた。

 『今は幻、吉原のものがたり』に、あえて不満をいえば、文学者たちの吉原登楼に対し、視点が文学者寄りで、志賀直哉や里見とん(とん=弓ヘンに享)たちに点が甘いように思う。

 明治の元勲たち、桂小五郎、伊藤博文、大隈重信等の妻たちが多く芸妓遊女の出身であったことは歴史上有名で知っていたが、文学者では坪内逍遥の妻もそうであるとははじめて知った。
 この時代において、自分自身の意志をはっきり持ち、必要な技能を身につけていた女性といえば、深窓の令嬢よりむしろ遊里出身者のほうが魅力的な女性だったのかもしれない。

 また、近藤富枝は『社会が、遊女をかほど蔑むようになったのは、明治になって、キリスト教思想が浸透してからであって、江戸期にはこれほどの蔑視は受けていなかったのではないか』というのだが、どうだろうか。

 中世までの、役者芸人、流れの僧侶や修験者、社寺と表裏の関係なっている遊女は「聖にして賎」、貴賎表裏一体の存在であったという印象を持っているが、遊里に囲い込まれたあとの、江戸期の遊女の社会的地位や庶民からみた感情はどうだったのだろうか。

 遊女との間に擬似恋愛を体験しようとした文学者たちについて、近藤は『遊女を対等な人間として偶していた』というのだが、どうも私は白樺派に点が辛くなる。

1993年 二月一一日 木曜日(晴れ)
「荷風と機関車」
 息子の熱は下がり、ひと安心。娘は外へ遊びに行く。

 近藤富枝の『今は幻、吉原ものがたり』は、明治末年を描いているが、ついでに紀田順一郎『東京の下層社会』の中の吉原と玉の井の章を再読した。

 大正から敗戦までの色街といえば永井荷風の世界。そういえば、去年テレビやビデオでなく、劇場で見た唯一の映画は『墨東綺潭』一本だった。
 映画は、新藤兼人、八十歳の作品と思うと、なかなかよい出来と思った。

 ただし、荷風と女のシーンが機関車の連結とモンタージュされていたのには笑いたくなって、こまってしまった。いかにも昔風のイメージモンタージュで、時代を出そうとしたのかしらと思うけど、、、、いくら線路際の安普請の家での交情とはいえ、荷風が女に重なったシーンの次が機関車の連結では、あんまりではないか。

 津川雅彦好きじゃないが、ここは男・津川にきちっと本番撮らせるべきだったと思う。たとえ映倫ボカシが入ろうと、機関車連結よりましだもんね。

 墨田ユキの全裸シーンにはボカシが入ったが、『美しきいさかい女』で映倫の方向が変わって、そのうちボカシなしでも上映出来るようになるかもしれないんだから、本番シーンも撮るだけは撮っておけばいいのだ。

 老人になってカツドンを食べるシーンの演技はアザトイという感じがしたが、津川もなかなかうまかったし、墨田ユキの裸は鑑賞に耐えたし、いい映画と思いました。(以上1993/02/11の日記より)
(つづく)

2005/05/12 08:24 木
新緑散歩>荷風と機関車①

 墨田ユキ、『墨東綺潭』で日本アカデミー賞とブルーリボン新人賞、二冠とったのに、そのあとはどうなったんだろう。『免許がない』のほか、一般映画とったのかな。AV女優雨宮時空子時代のビデオのほうが、今は売れているのかも。
 荷風散人、世にあれば、贔屓にした女優だったかもしれない。

 荷風の『墨東綺潭』は、「昭和十一年丙子(ひのえね)十一月脱稿」と記されて終わるが、新藤の映画は、戦災と偏奇館(麻布にあった荷風の屋敷)炎上、敗戦後、荷風の死までを描く。
 戦後の赤線であっけらかんとたくましく生きるお雪と、晩年の荷風がひとり寂しく死んでゆく姿。

 荷風は東京を焼け出されたのち、戦後は千葉の市川に住んだ。
 市川から浅草に通い、レビュー小屋の踊り子を贔屓にして、楽屋に顔を出すのを楽しみにしていた。
 1959年、4月30日。荷風、千葉市川の陋屋に、だれからも看取られることなく死去。享年79歳。

 晩年の荷風は創作意欲も衰えていた。彼の文学的生命は、大切に集めてきた万巻の蔵書が偏奇館と共に炎上するとき、燃え尽きてしまったのだ。
 新藤兼人が映画『墨東綺潭』を監督したのは、荷風が亡くなったと同じ年頃、79歳から80歳になったころのことだった。

 新藤兼人、4月22日の誕生日をすぎて現在93歳。現役の映画監督、脚本家。愛妻乙羽信子亡きあとも矍鑠として仕事を続けている。
 今年はじめに、瀬戸内寂聴との対談を朝日新聞紙上で読んだ。寂聴と、旺盛な創作意欲を語り合っていた。
 報知新聞の2005/04/16インタビューでは「今でも映画の仕事についた22歳のときの感覚。乙羽信子の死と出身地であるヒロシマについて描きたい」と、これから作りたい作品について語っている。偉大な映画人。

 1993年の私は、生意気なことに、新藤のモンタージュにケチをつけている。
 「佐藤慶は、愛染恭子相手にちゃっと本番演技をやりとおしたぞ」なんて、シロート考えで書いたのだろうが、新藤は「本番なんぞにリアリティも芸術もありゃしねぇ」と思っていて、「合体!といえば、機関車連結とピストン車輪だあ」と確信していたのかもしれない。

 私は、中野重治の詩「機関車」が、国語教科書に掲載されている時代に育った。今でも機関車の走る姿が大好きで、ローカル線などで運転されているときは見に行く。
 新藤兼人が荷風の交情シーンにモンタージュした機関車は、どうも、「中野重治の機関車=力強く働くけなげな労働者」と、いう感じがしてしまう。子どもの頃に読んだ詩の印象は強烈で、機関車といえば中野の詩とだぶってしまうからだろう。

 荷風は79年の生涯のうち、正金銀行員として数年、慶応大学教授として数年など、「定職」を持ったのは、ほんの短い間のことであった。荷風のアイデンティティはあくまでも、「高等遊民」「文芸人(文芸・人/文・芸人)」であったと思う。
 東京大空襲で自邸偏奇館が蔵書とともに焼けるまで、親が残してくれた資産で食いつなぎ、原稿料を受け取る必要もない生活だった。

 気ままに下町遊里を徘徊し、娼婦や踊り子を贔屓にする。たぶん、荷風は自分が働くとしても、女と寝るにしても、自分の姿を機関車に重ね合わせたくはない人だったんじゃないかしら。(荷風と機関車つづく)
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2005/05/14 10:05 土
新緑散歩>荷風と機関車②

 荷風は、外国滞在を経験したあと、薄っぺらな日本の近代化を嫌い、落語や三味線などに入れ込んだ。そうかと思うと一転して、オペラなど「モダン」を愛好したりもする。「自分の好みに合うもの」が好きであり「本物」が好きなのであって、「近代文化のものまねにすぎない」「西洋の偽物」と感じたものを嗅ぎ分けていた。

 映画の中で、杉村春子演じる母の恒が、荷風に「アイスクリーム」をすすめるシーンがある。このシーンのアイスクリームは、荷風とぴったり合っていた気がする。あるいは、偏奇館(へんきかん=荷風の屋敷)のたたずまいと昭和はじめの頃のアイスクリームがマッチしていたというべきか。

 荷風と母との微妙な愛憎がアイスクリームに溶け合ってあっているようだった。
 「近代文化」の味アイスクリームと、儒学者鷲津毅堂の次女恒の凛とした雰囲気。
 荷風は母の臨終の席にいかなかった。アイスクリームの冷たさ甘さと母への感情。

 新藤の機関車について、1992年に映画を見た時に感じた違和感は、2005年になっても続いている。しかし、映画を一度見ただけで、見直してもいないことがにわかに気になってきた。
  自分の印象を記していて、とんでもない思いこみ、思い違いのまま書き残していることもあるからだ。

 ふたつの映画や小説の内容を混同して、ごちゃまぜになったストーリーを覚えていたり、確かに見た映画なのに、まったく内容を思い出せなかったりする。
 映画の中にでてきた機関車は、私が本当に見たのか、それとも別の映画とこんがらかって記憶されているんじゃないか、心配になった。

 1992年に見て以来、『墨東綺潭』を見直すことなくきた間、本番シーンもヘアヌードも、もはや過激表現でもなんでもなくなった。
 私の曖昧な記憶で「機関車は荷風に合わない」などと書いて、思い違いだったりしたら、困るので、岩波から出ているシリーズ『新藤兼人の足跡6 老い』を読んだ。

 シナリオ『墨東綺潭』を読むつもりだったが、シナリオのほか、「『墨東綺潭』撮影日記」の章、「『断腸亭日乗』を読む」の章も読んだ。面白かった。

 『墨東綺潭』シナリオに、機関車シーンは書いてなかった。待合「真砂」のシーン28に、「近くを汽車が通る音」と、ト書きが書いてあるのみ。
 「あれ、機関車シーンなぞ、シナリオには書いてないぞ。機関車は別の映画からのこんがらかった思いこみだったのか?」と思った。

 シナリオには、偏奇館で母親と語り合うシーンに、「アイスクリームを食べる」とも書いてない。アイスクリームは確かに食べていたよなあ。
 シナリオは単行本に載せるための加筆決定稿だが、演出を加えた撮影用のシナリオとは別なのかもしれない。

 しかし、撮影日記を読むと、私の思い違いではないことがわかった。撮影日記には、シナリオにはない機関車シーンについて書いてある。
 機関車は1991年10月14日、大井川鉄道で撮影された。

 新藤兼人『墨東綺潭』撮影日記より。
 「十月十四日 大井川鉄道へ行く。東名高速全面改修にて大渋滞、金谷駅まで五時間を要す。終点の千頭駅に行き、モンタージュ(荷風と黒沢ふみのファックシーン)用の黒煙を吐く煙突、噴出する蒸気などを撮る。」

 大渋滞に難儀しながらも、新藤はどうしても機関車を撮り、ファックシーンに使いたかったのだ。
 私にとっての機関車は、中野重治の詩『機関車』であるから、どうも荷風とは合わない気がするのだが、新藤にとっては、新藤のイメージによるモンタージュだったのであろう。
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中野重治『機関車』
彼は巨大な図体を持ち/ 黒い千貫の重量を持つ (略)
シャワッ シャワッ という音を立てて彼のピストンの腕が動きはじめるとき/ それが車輪をかき立てかきまわして行くとき/ 町と村々とをまっしぐらに馳けぬけて行くのを見るとき/ おれの心臓はとどろき/ おれの両眼は泪ぐむ(略)
輝く軌道の上を全き統制のうちに驀進するもの/その律儀者の大男の後姿に/ おれら今あつい手をあげる
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 私にとっては、機関車は「くろがねの働く者」という印象であって、親の資産によって文学道を邁進した荷風とはイメージが重ならない。
 シナリオを読んで、どうしても新藤が機関車モンタージュを使いたかった、ということはわかったが、私がこのモンタージュを感覚的に受け入れられないという結論はかわらない。好みだからしかたないね。

 撮影日記を読んで、荷風の偏奇館外観は、豊島区の雑司が谷旧宣教師館が使われていることなど、ロケ地がいろいろわかった。
 1991年10月15日は偏奇館シーンのロケ。
 杉村春子について「だいぶお年を召したがなおお元気」と書いている。
 次の自転車散歩のついでに、雑司ヶ谷宣教師館を見てこなきゃ。

 2005年4月30日土曜日の三ノ輪散歩。荷風の「日和下駄」にならえば、「日和ママチャリ」の半日。
 ぶらぶら自転車散歩、三ノ輪からの帰り道は、都電荒川線に沿って走った。

 都内に残るチンチン電車は、この荒川線だけになっているが、かって縦横にレールが敷かれていた頃、荷風は下町散策行き帰りによく都電を利用していた。荷風には機関車より都電が似合う。
 あ、似合うけど、ファックシーン・モンタージュに、都電は使えないな。
 荷風が女に重なり、そこへ都電モンタージュ。都電の警笛がチンチン、、、、萎える。

 荷風散人、寺島町から三ノ輪あたりの散歩姿、、、、。下駄をつっかけ、本を数冊風呂敷に包んでかかえて歩きまわったようすを思い浮かべながら、日和ママチャリのペダルをこぐ。
 夕暮れ、下町の揚げ物屋からコロッケを揚げる匂いが流れてくる。おなかがすいた。
(荷風『墨東綺潭』をめぐる散歩 おわり)