にっぽにあにっぽん日本語&日本語言語文化

日本語・日本語言語文化・日本語教育

ぽかぽか春庭「林芙美子『放浪記』散歩」

2008-11-08 15:07:00 | 日記
花の命は短くて 林芙美子「放浪記」

2005/06/01 水
新緑散歩>花の命は短くて①林芙美子記念館 

 桜、桐、藤、つつじと花を追いかけた散歩。
 咲く花は美しく、ひとときの栄華を咲きつくしたあとは静かに散っていく。
 
 「花の命はみじかくて、苦しきことのみ多かりき」は、人口に膾炙した林芙美子のことば。芙美子は、好んで色紙に書き残した。
 6月29日は林芙美子の命日。1951年、芙美子は東京落合の家で亡くなった。
 人気女流小説家として締め切りに追われるままに書き続け、流行作家の花の盛りがつづくさなか、48歳で生涯を閉じた。

 林芙美子が晩年に住んだ「落合の家」は、新宿区の文化財として保存され、林芙美子記念館として公開されている。
 5月はじめ、西武新宿線中井駅から記念館へ向かった。

 静かな住宅街の一角にある瀟洒な木造平屋。1941年から1951年に亡くなるまで、芙美子は母親、夫・緑敏、養子・泰といっしょにこの家で暮した。
戦争末期は一家で信州に疎開していたから、実際に芙美子が住んだのは8年ほどになる。

 数寄屋造りの家は、玄関客間などの棟と、芙美子の書斎や夫のアトリエ部分の棟、ふたつの棟に分かれている。戦時中の建築なので、建築制限があったため、夫婦が一つずつの棟の所有者となるという苦肉の設計になった。一軒30坪以内の建築制限に対応して、2棟で60坪の家に土蔵がついている。

 芙美子は建築関係の本を読みあさり、設計に心傾け材木を吟味して建てたという。芙美子が執筆を続けた書斎などが往時のまま残され、夫の緑敏のアトリエは、夫妻の写真や芙美子自画像などを展示する資料室となっている。

 林芙美子は、1903年(明治36)生まれ。1930年、27歳の時出版した『放浪記』がベストセラーとなり、一躍人気女流作家となった。戦争へとひた走る時代、戦中戦後、激動の昭和史を、林芙美子は駆け抜け、書き続けた。

 私たちがイメージする林芙美子は、芙美子実像ではない。主として三人の作家の「それぞれの芙美子像」によっている。
 菊田一夫、田中澄江、井上ひさしが、芙美子を主人公としたドラマを創作した。
 菊田『放浪記』の主演は森光子、田中『うず潮』の主演は林美智子、井上『太鼓たたいて笛ふいて』の主演は大竹しのぶ。それぞれ独自の林芙美子像を描き出した。
 
 菊田一夫作、森光子主演の舞台『放浪記』は、芙美子が作家として成功するまでの、若い時代を中心に描いている。
 1961年の初演以来、森光子の代表作品となり、これまで1759回の舞台公演を記録した。私は、初期の舞台中継を白黒テレビの時代に見た覚えがある。

 5月22日にNHKから放映された森さんを追ったドキュメンタリーと、明治座改修前最終公演の『放浪記』舞台公演をビデオにとっておいて見た。85歳の森さんが、20代~40代の芙美子を演じ、生き生きとした姿をみせていた。(花の命は短くて(林芙美子)つづく①~⑰)
06:59 | コメント (7) | 編集 | ページのトップへ


2005/06/02 木
新緑散歩>花の命は短くて②放浪記 

 田中澄江脚本、林美智子主演のテレビドラマ『うず潮』(1964年4月~1965年3月)。NHK朝のテレビ小説を「女の一生、波瀾万丈路線」として決定したヒット作となった。
 私の母は、家族を会社や学校へ送りだしたあと、毎朝必ずこのドラマを見ていた。家事をはじめるのは、ドラマが終わった8時半から。

 母が新潮文庫の『放浪記』を持っていて、「テレビのうず潮の主人公が書いたお話だ」というので、どんなのかと思って読んでみたことがある。
 が、その当時は、「そんなに夢中になってテレビ見たくなるほど、魅力的な女性とは思わないけどなあ」という感想しか持てなかった。

 芙美子を主人公にした作品、最近の作では、井上ひさしの戯曲『太鼓たたいて笛ふいて』がある。井上は、戦中戦後の芙美子を描く。
 他の多くの作家たちと共に「戦意高揚」のための「ペン部隊」一員として軍に協力した戦中から、戦争末期の反戦的な言動で、当局ににらまれる存在になった時期の芙美子を中心に描いている。
 菊田の『放浪記』とも田中の『うず潮』とも異なる芙美子像を現出した。

 林芙美子の出世作『放浪記』は、1930年(昭和2)改造社から発売された。大正11年から15年ころの芙美子の日記をもとにまとめたもの。「苦闘の生活と精神」が生き生きとした文章になっている。

 今読むと、すごい文体だなあと思う。若い女性の情感と生理と生きる情熱が、ほとばしり出るような躍動感がある。
 今から見れば極貧ぎりぎりの生活の描写なのに、生きる希望にあふれているように感じる。

 小説家の家の子守女中、露天商、セルロイドキューピー人形の工場女工、カフェの女給などをして転々とする芙美子。どん底の暮らしの中で本を読み続け、詩を書き続ける20歳前後の芙美子の姿が描かれており、当時としては破格の50万部のベストセラーとなった。

 私が現在持っている新潮文庫版『放浪記』は、『放浪記』が人気を得たあと続けて出版された「続放浪記」「放浪記第三部」などをまとめた拡大版の『放浪記』。
 文庫初刷は1947年なので、たぶん、母が読んだのと同じ編集だと思う。

 続編を付け加えただけでなく、初版の『放浪記』部分も、改稿されている。 私は改造社版と読み比べていないので、改稿の前と後がどう違うのかわからない。

 すでに女流作家としての地位を確立したあとの芙美子は、「成功した女流作家の自伝的作品」としてふさわしくない表現を改稿し、『原・放浪記』より、文学的にずっと「ソフィストケィテド」された作品になっているのだという。
 「プロレタリア詩人」として出発した芙美子が、「上昇志向の女性作家」へと変貌したあとの視点で書かれているので、その分、初版の噴出するエネルギーが減ったと見なす評者もいる。

 文学研究者でない一般の読者が、芙美子によって封印された初版の『放浪記』を読むチャンスはほとんどない。私たちは「名をあげた作家、芙美子」の自意識にかなった文章を読むしかない。(つづく)

09:37 | コメント (4) | 編集 | ページのトップへ


2005/06/04 土
新緑散歩>花の命は短くて③ライバル花しょうぶ

 新潮文庫版の『放浪記』は、版を重ねてきたが、舞台の放浪記を見てから原作を読む人のほうが多くなってきたかもしれない。
 成瀬巳喜男(生誕百年!)の映画、『晩菊』『浮雲』『放浪記』などから、原作へ向かったという人も。<machychan

 芙美子亡きあとの「林芙美子像」、多くの人のイメージにあるのは、菊田一夫の舞台『放浪記』の芙美子であったり、テレビドラマ『うず潮』の中の芙美子である。
 私も、長い間、森光子演じる舞台姿によって林芙美子をイメージしてきた。

 菊田の『放浪記』。芙美子の姿は、森光子と重なる。そして、もう一人の女性によって、そのイメージが決定される。主人公芙美子と関わる友人、芙美子と競い合って作家をめざす日夏京子である。

 菊田一夫は、舞台の上に、重要な脇役として「日夏京子」を登場させた。先日のNHK舞台中継では池内淳子が日夏京子を演じていた。私が昔見た舞台中継では、奈良岡朋子が演じていたと思う。
 林芙美子のライバルであり、ラストシーンで芙美子に語りかける友達。ラストの余韻を観客に与えるたいへん重要な役どころである

 芙美子には平林たい子や壺井栄など、文学仲間がいたが、菊田の戯曲には登場しない。舞台で最もふみ子と親しい友人として登場する日夏京子は、菊田が創作した架空の人物である。
 創作した人物を主人公の次ぎに重要な役として登場させたと言うことは、意味が大きい。菊田が語りたいことを、この人物を通して語らせていると思うのだ。

 菊田戯曲のなかで、芙美子と京子は、ともに作家として成功しようと競いあっている。
 ライバルの作品と自分の作品のうち、どちらか一人が文芸雑誌に作品を載せることができるという大事な瀬戸際で、芙美子は、ライバルを蹴落とす。

 京子から「雑誌編集者に届けてね」と頼まれた原稿を、締め切りがすぎてから届ける、という作戦をとったのだ。
 芙美子がいいわけするように、「本当にうっかり忘れて」しまったとは、誰もが信じてていない。芙美子は自分の文学を成就するためには、どんな手段でもとる女として描かれる。
 実像の芙美子はどうか。

 芙美子が48歳で死去したとき、文壇の人々、出版関係の人々が葬儀に集まった。その中にはあからさまに芙美子の悪口を言いふらしている人も混じっていた。
 芙美子は、自分のライバルとみなしうる作家が出現しそうになると、さまざまな手段で追い落としを図った、と陰で言われいた。人気作家の地位を守るために、手段を選ばなかったと。

 故人と家族ぐるみの親交があった作家として、川端康成が葬儀委員長の役を引き受けた。川端は、芙美子へ遺恨を持つ人も参列者に混じっていることを承知の上で、故人を許すようにと言う意味の弔辞を述べた。

「故人は自分の文学的生命を保つため、他に対して時にはひどいことをしたのでありますが、しかし後2、3時間もすれば、故人は灰となってしまいます。死は一切の罪悪を消滅させますから、どうかこの際、故人を許してもらいたいと思います」

 川端が葬儀でわざわざ「故人をゆるしてやってくれ」と述べなければならなかったほど、芙美子は毀誉褒貶の渦のなかで作家業を続けていたのだ。(つづく)
10:37 | コメント (1) | 編集 | ページのトップへ


2005/06/05 日
新緑散歩>花の命は短くて④幕切れの許し 

 菊田一夫は、芙美子に追い落とされ、大成しなかった作家志望の人々を代表させる形で、日夏京子を創作した。

 菊田は、晩年の芙美子を落合の家に訪ねていった京子にこう言わせる。
 「あたし、あのときのこと、もう少しも恨みになんか思っちゃいないのよ。あんたが気にしているかと思って、今日はそのことだけ言いにきたの」

 「日夏京子が作家になれなかったのは、最初のチャンスを芙美子がつぶしたからだ」と、周囲の人は思っている。京子は、芙美子がそのことを負い目に感じたまま過ごしてきたのではないか、と気にしてきた。

 日夏京子にはすでにわかっている。チャンスを得るために、がむしゃらに他を蹴落とそうとし書き続ける情熱を、芙美子は持っており、自分にはそのがむしゃらさが持てなかった。
 もし、京子がほんとうに書くことでしか生きていけない人間だったのなら、芙美子がどうしようと、次のチャンスを見つけ、芙美子と同じようにがむしゃらに書き続けただろう。

 しかし、京子はそれをしなかった。安定した家庭生活を保障してくれる夫との結婚を選び、平凡ながら幸福な妻としての人生をおくってきた。
 そのことに悔いはないから、芙美子が作家として成功した今、「もう恨みになんか思っちゃいない」と、京子はわざわざ告げにきたのである。

 ファンも多かったが、文壇に敵も多く作った芙美子への「許しのことば」を、菊田は、日夏京子に語らせた。

 菊田の『放浪記』最終場面。
 舞台『放浪記』のラストシーンは、実際の「落合の家」の客間をそっくり再現している。

 芙美子は「一度断ったら、日本の作家なんてたちまち忘れられてしまうから」と言い、ひきもきらぬ執筆依頼を次々に受けていく。
 締め切りに追われ、徹夜徹夜で書き続けて、疲れ切る芙美子。机にもたれたまま眠ってしまう。

 京子は芙美子に毛布をかけてやり、「おふみ、あんた、ちっとも幸せじゃないのね」と、つぶやいて客間を出ていく。そのまま寝続ける芙美子。静かに幕が下りてくる。

 私は、林芙美子記念館を訪れて、晩年の芙美子が、母、夫、養子とともに暮した家をこの目で見るまでは、この菊田の創作した日夏京子の「許し」と「不幸せな芙美子への同情」を、文字通りに受け取っていた。

 流行作家となり、大きな家も建てた。母親に着慣れない被布を着せて飾り立て、見栄をはる。後進作家の追い上げに負けるものかと書き続け、人気作家の地位を守ろうとする。
 徹夜徹夜で書き続けた芙美子は、疲れ、少しも幸せそうには見えない。
 舞台のラストシーンから、そういうメッセージを受け取っていたのだ。

 だが、芙美子の家に行き、芙美子の暮した生活の手触りを、台所や風呂場や客間、書斎と辿っていくうち、ああ、芙美子は書いて書いて書きまくって、やはり作家として幸福だったのだ、と感じた。(つづく)
07:54 | コメント (2) | 編集 | ページのトップへ


2005/06/06 月
新緑散歩>花の命は短くて⑤夫・緑敏

 林芙美子記念館展示室は、芙美子の夫緑敏のアトリエだった部屋。
 緑敏は、画家としては大成しなかったが、温厚な性質で、芙美子に寄り添い仕事を続けさせた。芙美子をおだやかに支え続ける「内助の夫」だった。

 緑敏が芙美子と出会ったのは、1926年(大正15)秋。その年の12月にはいっしょに暮し始めた。年の暮れ、時代が昭和へと変わる中、貧しい画家と貧しい女詩人の同棲生活。二人で励まし合い、夢を語り合う暮しだった。
 芙美子は親友の平林たい子らと共に、「社会文芸連盟」に参加し、書く事への意欲はすます強くなっていった。

 1928年(昭和3)長谷川時雨主宰の『女人藝術』に『放浪記』連載をはじめる。連載は評判となり、芙美子は「女流作家」の足場を固めた。

 1930年に出版された『放浪記』が大成功を納め、経済的な面での心配がなくなると、翌1931年(昭和6)芙美子はひとりパリへ旅立った。
 パリでの芙美子は新たな恋心を燃やす出会いを経験した。芙美子28歳のとき。しかし芙美子は、結局夫のもとに戻ってきた。

 清岡卓行は、芙美子の「パリの恋」の相手、S(のちに建築家となる)との仲について、
 「二人のあいだは、最後まで清純なままつづいたようだ。彼女は遠い東京で待っていてくれる画家の夫の緑敏、辛酸の生活をともに生き抜いてきた心の優しい男を裏切ることが、たぶんできなかったのである」
と評している。

 芙美子と緑敏は事実婚のまま同居生活を続けた。世田谷から落合へ。
 借家を出なくてはならなくなり、1939年に借家の近くに土地を買い求めた。芙美子は二年の歳月をかけて家造りをした。1941年、緑敏名義と芙美子名義の二棟の数寄屋造りの家が完成した。

 林芙美子と手塚緑敏が、正式に婚姻届を出したのは、敗戦前年1944年になってから。
 戦火が激しさを増し、明日のことはどうなるか分からない、という状況の中、疎開や配給の手続のために「正式な婚姻」であることが必要になったと思われる。

 緑敏が林家に入る形をとり、以後、夫は林緑敏と名乗った。(画名は、本名のよみ方でなく音読みを使用し、「ろくびん」と呼ばれている)。
 1943年、芙美子40歳のとき、林夫妻は生後間もない赤ん坊を養子にした。泰(たい)と名付け、ふたりで溺愛した。泰も1944年に入籍している。

 1944年4月に一家は長野へ疎開した。母キク、養子泰と共に、夫の故郷に近い長野県山之内町で敗戦まで暮した。
 幸運なことに「落合の家」は戦災をうけることなく残り、一家は敗戦後まもなく帰京した。(つづく)
07:45 | コメント (2) | 編集 | ページのトップへ


2005/06/08 水
新緑散歩>花の命は短くて⑥母子草・芙美子と養子 

 戦後、学齢に達した泰を学習院に入学させ「何様のつもり」と悪口を言われたりした。
 しかし、だれが何と言おうと、母親には被布を着せて床の間の前の座布団に座らせ、息子にはピアノを習わせ学習院に通わせた。
 芙美子にとって、自分の貧しく惨めだった少女時代を補償するには、それでもまだあきたりない思いだったろう。

 泰といっしょに食事している写真が展示室にある。愛してやまない息子が、美味しそうに食べる姿を見つめる、ごく普通の母親としての芙美子がそこにいる。

 1941年から、1951年に亡くなるまでの10年間のうち、芙美子が、お気に入りの家に住むことができたのは、戦前戦後あわせて8年ほど。長野に疎開していた2年間は、厳しい生活だったが、焼け残った落合の家で、芙美子は家族と幸福にすごすことができた。
 「落合の家」を見学すると、芙美子と緑敏の「世間からは風変わりと見られても、ふたりは幸せな夫婦だった」という夫婦像を感じる。

 娘・芙美子の出世に満足している母、妻を愛し支えてくれる夫、何不自由なく育ててやることのできる息子。
 緑敏の道楽といえば、裏庭にバラ園を作り、薔薇の大輪を丹精することくらい。
 短い間であったとしても、この「落合の家」での芙美子は、けっして不幸せではなかった。

 確かに、執筆に追われ、命を縮めてまで書き続けた芙美子であった。
 しかし、日夏京子が、書き疲れて眠る芙美子に「おふみ、あんたちっとも幸せじゃないのね」とつぶやくのは、「違う」と、感じた。
 この落合の家で書き続けたことは、芙美子にとって、「ちっとも幸せじゃない」わけがない。

 書き続けることは、芙美子にとって必要であり、幸福なことだったのだ。書くことで生きていくのが作家だから。
 書きたい人間にとって、書いて表現できる場があることが一番の幸福なのだ。書かずにいられないから書くのだ。

 菊田の『放浪記』の最終場、「落合の家」のシーンには、作者の菊田一夫自身も登場する。本当に菊田が落合の家を訪れたことがあるなら、文芸者として生きていこうとする菊田は、芙美子の「書き続けることのできる幸福」を感じていたはずだ。
 では、なぜ菊田は「ちっとも幸せじゃないのね」と、日夏京子に言わせたのだろうか。

 『放浪記』の舞台を見ているのは、中年高齢の女性が多い。商業演劇の観客層が中高年の女性であるのはどの劇場も同じことだろうが、森光子主演『放浪記』は、圧倒的にその比率が高い。
 菊田一夫は商業演劇の舞台と観客を知り尽くしていた。舞台を見て感動して帰宅するその家で、女たちは明日も代わり映えのない日常をすごす。今日も明日も、家族を支えてメシを炊き洗濯をして生きていくのだ。
 日夏京子は、彼女たちの代弁者なのではないかと思う。(つづく)
08:12 | コメント (1) | 編集 | ページのトップへ



2005/06/09 木
新緑散歩>花の命は短くて⑦二人静 

 日夏京子は、芙美子とともに作家をめざしていた。しかし、芙美子のために作品を雑誌に載せるチャンスを奪われ、その後は金持ちの白坂の妻として、白坂亡きあとも再婚して平凡な妻として暮している。

 「作家になる」という野心は成就しなかったけれど、平凡な妻としての人生を歩んだ京子が、作家として成功した芙美子に向かって「あんた、ちっとも幸せじゃないのね」と、つぶやくのは、大多数の「野心を捨ててきた女」たちへの救済のセリフじゃないのか、と今回の池内淳子が情感をこめて残すセリフを聞いて感じた。

 日夏京子は、疲れ果てている芙美子を「幸せには見えない」と感じることによって、芙美子を許し、自分自身の平凡に過ぎ去った人生を救っている。

 もし、作家として成功した芙美子が、家庭人としても幸福のまっただ中にあり、好みの家を建て、女中や書生をつかいながら、平和な家庭の幸福をも享受している、というラストだったら、、、、、

 養子にした息子を学習院に入学させ、人々の揶揄や嫉妬を蹴飛ばしながら書き続ける流行作家芙美子が、「花の命は短かったかも知れないけれど、大輪の花を見事に咲かせ切った」として、幕となったのなら、、、、

 おそらく舞台の最終幕が下りてくるとき、観客のカタルシスは半減することだろうと思う。
 かって葬儀の場にまで「芙美子をよからずと思う人たち」がいた。成功した女性作家には、男性からも女性からも嫉妬と羨望と揶揄が押し寄せてくる。
 それを知っている菊田は「舞台の上では、芙美子を決して幸福にはできない」と考えて戯曲を作り上げたのだ。

 あるサイトに「林芙美子の人生」への感想が出ていた。
 (芙美子の一生が)順風満帆で、興ざめであった」と。
 ご夫婦で歩いた場所を、写真で紹介している「散歩記録」のサイトに出ていた、林芙美子記念館訪問の感想である。
 「芙美子を『不遇な作家』と思いこんできた人の感想」として、一般的なものかもしれない。

「中年夫婦のぶらぶらある記http://www.parkcity.ne.jp/~pierrot/」より
  「放浪記」に代表されるように、芙美子は不幸で不遇な一生を送ったものと思っていたが、展示資料を見ると恵まれた一生のように見える。つまり、
 19歳:尾道高等女学校を卒業し、上京。23歳:その後一生連れ添った夫「手塚緑敏」と結婚。25歳:放浪記が雑誌で好評を得る。28歳:ヨーロッパ旅行に行く。38歳:当地に豪邸を建てる。40歳:養子「泰」を貰い、その後一生この子に愛情を注ぐ。
 など、順風満帆で・・・少々興ざめであった。 」
(つづく)
07:59 | コメント (4) | 編集 | ページのトップへ


2005/06/11 土
新緑散歩>花の命は短くて⑧一人静 

 菊田は、「不幸で不遇」なままの芙美子像こそ、多くの観客に受け入れられる、と確信して、あの『放浪記』ラストシーンを書き上げたのだろう。
 林芙美子へ、周囲の人たちが感じた「羨望と憎しみ」を残してはならない。
 観客が、快く芙美子の生涯へ拍手を送って帰宅するには、芙美子が幸福に見えては「興ざめ」となることを菊田は知っていた。

 平凡な日常の疲れを癒しに劇場へやってきて、ささやかな慰安のとき非日常のひとときを過ごす観客に、「自分の人生への、疑問や否定」を残すことは商業演劇の仕事ではない。

 芙美子への「負の感想」を払拭するために、菊田は日夏京子にセリフを与える。「おふみ、あんた、ちっとも幸せじゃないのね」」
 徹夜続きの執筆に疲れ切り、暗い顔をして眠り込んでしまう芙美子の姿。余韻の中に観客は涙を浮かべ、懸命に生きたひとりの女性に拍手を送って家路につく。

 あらゆる手段で書くことを追求し、作家として成功した芙美子が主人公である一方、「作家としては成功せず、平凡な一生を生きた日夏京子」を脇役に据えることで、菊田の舞台『放浪記』は成立しているように思う。

 もし、本当に芙美子が、作家として家庭人として不幸な生活を送っていたのだったら、落合の家は「作家の棘」でささくれだっていただろう。
 芙美子は書くことで生きていた。書き続けることが芙美子にとっての幸せだった。
 特に敗戦後の6年間、芙美子はある覚悟を持って書き続けていた。家族もそれを理解していたから、芙美子が書くことによって生きていこうとするのを静かに見守っていたのだ。

 1951年に48歳で芙美子が亡くなったあと、緑敏は、落合の家をそっくりそのまま保存した。妻が設計に心をくだいて作り上げた姿のままに残したのだ。
 妻がいなくなった家。緑敏にとっては、なおいっそうのこと、間取りのひとつひとつ、家具調度のひとつひとつが亡き人の思い出となり、芙美子が使っていた机もペンも、芙美子の面影をだどるよすがとなっていたことだろう。

 8歳で養母芙美子と死に別れた養子の泰は、その後、交通事故により早世し、養母の元へいってしまった。
 「行商人の娘だった貧乏作家が、成り上がったあとは、息子を学習院に入学させるのか」という揶揄を受けたことを、泰自身は成長したあと、どう受け止めていたのだろうか。
 養母芙美子に死に別れ、自分自身も若くして亡くなる運命だったとは。

 緑敏は息子にも先立たれ、ひとり落合の家を守って暮した。
 1989年(平成1)に緑敏が亡くなるまで、落合の家は芙美子がいた当時のまま保たれた。エアコンをつけることさえせずに、緑敏は、芙美子の机、芙美子の書棚をそのまま保存した。

 1941年に建てられ戦火を免れた「落合の家」は、築50年を経て「昭和の民家」として貴重な文化財となった。
 緑敏亡きあと、遺族から新宿区へ寄贈され、林芙美子記念館として公開されている。(つづく)
====================
以上で第一部「林芙美子記念館と菊田一夫『放浪記』最終幕、落合の家シーンについて」おわり。
以下、第二部「林芙美子---歩き続け書き続けた」
 戦前、戦中、戦後、芙美子は旅を続け歩き続け、そして書き続けた。作家林芙美子の足取りをたどります。⑨~⑱
00:22 | コメント (2) | 編集 | ページのトップへ



2005/06/12 日
新緑散歩>花の命は短くて⑨「放浪記」再読 

 かって芙美子が使用していた落合の家の書庫には、『放浪記』の初版本や、芙美子の愛読書などが収蔵されている。
 『放浪記』、何度か読み返してきた林芙美子の代表作。

 『放浪記』は日記をもとにした体裁をとった文体で書かれており、作中の「私」は作者自身と一致していると読者は受け取って読む。
 確かに「自伝的小説」ではあるが、自伝そのままではない。あくまでも「私」を主人公とした小説である。
 日記体の日付は出てくるが、年代などは前後をいれかえたりして、芙美子の伝記年表とは異なっている。

 新潮文庫『放浪記』は、「放浪記以前」というタイトルの章から始まる。まずしい両親との暮し、九州一円を行商して歩いた子どものころ。

 『放浪記』冒頭

 『私は北九州の或る小学校で、こんなうたを習ったことがあった。
 更けゆく秋の夜 旅の空の/佗しき思いに 一人なやむ/恋しや古里 なつかし父母

 私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない。』

 古里を持たない「放浪者」としてデビューし、大衆の熱狂的な支持を得た林芙美子は、その死以後まで「放浪者」としてのイメージがついてまわった。
 安定した定住者としての芙美子は芙美子ではない。放浪を続ける漂泊者のイメージを保ち続けるよう、菊田一夫は戯曲の『放浪記』を書き上げた。

 芙美子自身が好んで色紙に書き残した「花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき」という箴言も、「書き続けることの業」をこのように思っていた実感なのかも知れないし、芙美子が自分へのイメージを「苦しいことばかり多い中を生き続けている」という装いにしたいがためのエピグラフだったかも知れない。(つづく)
09:38 | コメント (4) | 編集 | ページのトップへ


2005/06/13 月
新緑散歩>花の命は短くて⑩東京放浪 

 『放浪記』子ども時代の次の章は、東京の小説家近松秋江宅でのエピソードから。
 「私」は子守女中をしている。赤ん坊を背負って寝ついたと思うと、すぐに廊下の本箱からチェホフを引っ張りだして読み出す。12月の寒気も気にならない。赤ん坊は寝てるんだから、本読むくらいいいじゃないの、と、思ったら、たった2週間でヒマを出された。

 近松秋江は『黒髪』などで知られる、男女の情痴話を得意とする文士だった。有名文士なのに、子守女中の2週間の働きにたった2円しか払ってくれなかった。
 汽車道の陸橋の上でたった2円が入った紙包みを確かめると、「足のそこから、冷たい血があがるような思いだった」と、芙美子は書く。

 地方によって差があり、東京の物価人件費と異なるが、この時代、ある地方の資料によると、1918年(大正7)の一日の手間賃は、大工が1円70銭。日雇い労働者は1円。1925年(大正14)の手間賃は、大工左官は2円70銭。
 芙美子が上京したのは1922年(大正11)頃。東京での賃金、2円は日雇いの1~2日分ほどの手間賃だったろう。
 (貨幣価値の変動がある時代だし、人件費の安い時代なので一概に比較できないが、現在の貨幣価値に換算すると、2円は4000円~5000円ほど)

 「放浪記」の中では、繰り返し、一ヶ月の生活に30円あったらうれしいと書かれている。
 たった2円の全財産で、さて、どこで寝泊まりすればいいのか。

「新宿旭町」
 住み込みの近松秋江宅を出され、行くところもない芙美子は、新宿スラム街の木賃宿に泊まる。汚れた薄い蒲団、蚤しらみは当然という場末である。
 「私」の蒲団の中に刑事に追われている商売女が潜り込んでくる。このエピソードは、菊田の舞台でも場面を変えて使われている。

「麹町」
 自分を難破船のようだと思いながら、翌日「私」は神田の職業紹介所へいった。麹町三年町のイタリア大使館へ女中の仕事を求めて行ってみるが、異人のもとで女中をするのがためらわれる。

「渋谷道玄坂」
 春、道玄坂に店を張る露天商になり、メリヤスの猿股を売る。露店本屋の売り物が気に掛かるが、本が買えるようになるほど、自分の商売はうまくいかない。
 露店を斡旋してくれた安さんが電車にひかれたというので、芝の安さんの家へ見舞いに行く。安さんが死ぬと、露店も出せなくなった。

「大久保百人町」
 大久保の派出婦会へ行ってみる。薬の整理係の仕事を斡旋された。

「東京駅」
 東京へ呼び寄せてしばらく一緒に暮した母が、祖母の危篤の報で岡山へ帰るという。東京駅へ母を送っていき、下りの汽車に乗せた。
 ひとりになると、駅前広場で涙があふれて止まらなくなる。

「田端」
 その後、「私」は下宿で男と同棲している。
 男は俳優志望。女を働かせ、自分は滝野川にある芝居の稽古場へ通う。「私」は神田の牛屋の女中になり、帰りの市電もなくなるまで働いて、歩いて帰ることもあった。上野公園下まで歩くと疲れ切ってしまい、知らない人に声をかけて、根津まで自転車にのっけてもらう。
 「私」が尽している男は、金をひそかに隠し持ち、他の女と浮かれている。

「麻布」
 慈善事業をしているという子爵夫人のお屋敷へ出かけて、「夫が肺病なので、援助してもらいたい」と申し込み、案の定、体よく追い払われた。

「新宿」
 「私」は、新宿のカフェーで、女給たちの手紙の代筆をしてやり、売れない原稿を書き続ける。
 降り続ける雨。カフェの女給部屋で、ルナチャルスキイの『実証美学の基礎』を読み、「何の条件もなく一ヶ月三十円もくれる人があったら、私は満々としたいい生活ができるだろうと思う」と、書きつける。

 汗ですぐ破れるメリンスの着物。勉強したいと思いながらも自堕落に落ちていきそうになる「私」。暑さに負けそうになる自分が、アヘンのようにずるずるとカフェー稼業に溺れていくようで悲しい。

「浅草」
 たまの休みを浅草ですごす。焼き鳥を食べ、甘酒を飲み、しるこを食べる。芝居小屋の旗を見る。役者の名前が書いてある旗。別れた男の名が風にさらされている。

 『放浪記』前半に出てくる地名を書き抜くだけで、大正から昭和へかけての、東京地図が描ける。

 「私」は実によく東京の街を歩いている。電車賃が出せないこともあり、神田から田端まで、駒込から新宿まで、など、東京の街を徒歩で1時間、2時間、3時間と歩き続けた。だれも頼らず、自分の二本の足だけで立ち、前へ進んでいく。

 歩くことは精神の自立を確かめることでもある。歩くことで「私」は自分を奮い立たせ、歩きながら考える。

 新宿、神田、麹町、渋谷、大久保、田端、神楽坂、麻布、浅草、杉並高円寺、本郷、駒込、、、、 地名のひとつひとつに、ひとりで歩き続ける「私」の物語がある。
 貧しさに押しつぶされそうになりながらも、きっと前を見つめ、歩き続ける「私」。(つづく)
16:22 | コメント (2) | 編集 | ページのトップへ


2005/06/15 水
新緑散歩>花の命は短くて⑪旅中の芙美子、戦下の芙美子

 林芙美子は「旅好き」な女性であった。明治生まれの女性としては、同じ時代を生きた人の中で最もたくさんの土地へ出かけたひとりだろう。実によく旅をしている。
 幼い頃の「行商の旅」暮らしを経験して、むしろ「安定した定住志向」になるかと思うのに、『放浪記』を出版する前から、芙美子は好んで旅に出ていた。

 1930年(昭和5)1月には台湾へ。台湾総督府の招待旅行、講演旅行であった。1930年7月に『放浪記』を出版。8月には中国大陸を旅行。ハルビンなどを訪れた。

 1931年(昭和6)には念願の欧州へ。巴里、ロンドンに滞在した。このときの巴里滞在記を含む芙美子の紀行文集は『下駄で歩いた巴里』(岩波文庫)として、現在入手可能。

 1933年(昭和8)伊豆大島、因島へ旅行。義父の死により母を引き取り、母と伊豆湯ヶ島で湯治。1934年、京都、尾道、北海道、樺太へ。飛行機体験試乗で青森北海道の上空を飛行。1936年、自費で満州中国旅行。北海道山形を講演旅行。

 1937年(昭和12)11月に夫の緑敏が徴兵された。緑敏応召のあと、芙美子は毎日新聞特派員として上海南京へ赴きルポを書いた。「銃後の妻」となるより、自らも戦地へ出ていこうとするところが、作家芙美子なのだ。

 1938年(昭和13)には内閣情報部ペン部隊の一員として中国戦線へ赴いた。この時点での従軍女流作家は、吉屋信子と林芙美子のふたりのみ。
 芙美子は、南京から長江の北岸にそって従軍する。「漢口一番乗り」のルポを1939年(昭和14)に「北岸部隊」として発表するが、当時は、「戦意喪失」するような記述は伏せ字とされ、「戦意高揚」に役立つ部分のみ公表が許された。

 現在入手できる中公文庫版『北岸部隊』では、伏せ字が芙美子の従軍日記をもとに再現され、活字に起こされている。
 大岡昇平は芙美子の従軍記述を
「かよわい女性の身でありながら、この世紀の大進撃に参加したいという熱意に燃えた、感情紀行ともいうべきものである。」
と評している。(昭和戦争文学全集第二巻解説(集英社))

 中国戦線に従軍した林芙美子は帰国後、従軍で共に生きた兵士を思い「私は兵隊さんが好きだ」と書いた。夫、緑敏も衛生兵となっている。「兵隊さん」への思いは夫への思いでもあったろう。1939年、緑敏は無事、除隊となるが、中国戦線は泥沼となっていった。

 1938年、中国から帰った芙美子が朝日新聞に連載した『波濤』で、芙美子は登場人物に「私、このごろ、新聞を読んで、日本が勝ってゐると云っても、妙に不安でしかたがないの」「これからの私たちの社会は、どんなに変化していくかわからないと思ひますの。私は、これより良い方へ変化してゆくとは、当分考えられないと思ふンですけれど」と語らせている。
(つづく)
16:09 | コメント (0) | 編集 | ページのトップへ


2005/06/16 木
新緑散歩>花の命は短くて⑫銃後の芙美子

 1940年(昭和15)1月、北満州を旅行。4月、満州についての芙美子のルポ『凍れる大地』は、陸軍報道部から「王道楽土の満州」を「凍れる」とは何事か、と厳重注意を受けた。
 もはや「自分の目で見たことを伝え、真実を書き残す」ということもままならないことを芙美子も悟ってきた。

 1940年(昭和15)12月小林秀雄らと朝鮮へ講演旅行。12月8日真珠湾攻撃。
 1941年、文壇統制激しく『放浪記』などが、「時局下、不謹慎な小説」として発行禁止となる。
 1942年、4月壺井栄と共に江田島海軍兵学校見学。7月川端康成夫妻と共に京都旅行。8月北海道講演旅行。
 10月報道班員として南方派遣。8ヶ月間、インドシナ、シンガポール、ジャワ、ボルネオを回る。

 芙美子は、他の文士と同じように、戦時中はペン部隊、報道班員として戦地をまわり、報道活動に従事した。しかし、外地の現実を見れば見るほど、当初の国民の熱狂と戦争の真実とは、はっきり異なるものであったことがわかってくる。
 1943年、新聞やラジオの報道ではいまだ「勝利!」と伝えているが、南方の状況を自分の目で見てきた芙美子は、しだいに沈黙するようになる。

 1943年(昭和18)12月に、生後間もない赤ん坊を養子をもらったあとの2年間、芙美子はほとんど文筆活動をしていない。周囲には、育児に専念するためとも、長野への疎開でたいへんな生活だからと言うこともできた。だが、この2年間の沈黙は、ただ育児のためだけではなかった。
  戦争末期の芙美子は「きれいに負けるしかない」と発言し、「反戦的言動」を当局から咎められる身となっていたのだった。

 芙美子には、「思想統制」にひっかかる「前科未満」があった。
 1933年(昭和8)、非合法政党である共産党からの資金要請を受けた。貧しい時代を共にすごした古くからの友人の頼みを即座に断ることはできず、「考えておきます」という口約束をした。友人は「寄付を約束した」とみなし、芙美子の名を寄付者名簿に記載した。これが発覚し、中野署に9日間も拘留されたことがあったのだ。
 治安維持法や言論統制は厳しさを増す一方で、ささいな「反戦、反国家的言動」も「予防拘留」される時代だった。

 もう一度、治安維持法にひっかかるような出来事があったなら、年老いた母と赤ん坊の泰はどうなるのか、芙美子の鬱屈は激しくなり、友人のだれとも交際できない、したくないという状態での疎開生活だった。(つづく)
16:14 | コメント (0) | 編集 | ページのトップへ


2005/06/17 金
新緑散歩>花の命は短くて⑬戦後の芙美子

 芙美子の自伝的小説『夢一夜』(1947)は、「戦時下で、ものを書くことができなくなった作家」を描いている。検閲、統制によって書くことができない女流作家の内心が吐露されており、芙美子の実体験が反映していると思われる。

 作家、菊子は小さな村に疎開している。村人との交際のなかで、「いまは、日本も、負けぶりのうまさを考へなければならない時ですね」と世間話のつもりで語る。
 すると、たちまち30キロ先の町の警察から刑事がたびたびやって来るようになった。私服の憲兵も来るようになると、最初は「町の有名な作家さん」と鄭重な扱いをしていた家主は立ち退きを要求するようになる。
 東京の家で留守を守る夫のところにまで、刑事がやってきた。夫からは「お前の思想方面をいろいろ調べていった」という手紙が届いた。

 『夢一夜』は小説であるが、現実の芙美子に近いことは、芙美子が疎開先から川端康成へあてて出した手紙からもうかがえる。
 川端康成は、1951年の芙美子の死後、「林芙美子さんの手紙」という追悼文を文學界に書いた。

 芙美子の手紙。
 「もうお金もないので、(東京の)家をうろうかと考へております。何もなくしてさつぱりとならうかとそんな事も考へます。金にかへる小説なぞ、何年も書けますまいから、うりぐひをして、何とかくらしをたてなければなりません(1944年5月7日付」

 1944年(昭和19)4月に疎開した時点で、芙美子は「これから先、何年も(言論統制のため)書けない時代が続く」と覚悟していたことがわかる。
 川端は1944年秋、疎開先長野にいる芙美子を訪ねた。敗戦前の2年間に、芙美子が直接顔を合わせた文壇人は、この川端との一回のみ。

 芙美子の原稿料が収入源である林家で、芙美子が書いて金を得られなければ、一家はたちまち不安定な生活となる。
 東京の家を売らなければ収入もないと、川端に訴えているが、戦火激しくなった東京で、家を売りたい人はいても、買おうとする者はいなかった。買った家が、明日爆撃を受け灰になるかもしれないのだ。

 芙美子は長野の疎開先で敗戦の報を聞いた。
 中国戦線の最前線を兵士といっしょに従軍した経験のある芙美子。敗戦の報は「重い重い荷物を肩からおろしたような晴れやかな気持ち」と「晴れやかさを表にはだしてはいけないような心のかげり」を芙美子に感じさせた。

 1940年の満州旅行の記録に『凍れる大地』というタイトルをつけて当局ににらまれた芙美子は、1946年7月に発表した『作家の手帳』に、満州開拓民への思いを書いた。

 「耕地もなければ、道すらもない、しかも家もない荒涼とした寒い土地々々へ無造作に人間を送り、その開拓民達が、まづ、住む家を造り、それから耕作して、何年目かにトラックの道をつけるのです。何の思ひやりもなく裸身のままの人間を送り込んで、長い間かかってやっとどうにかなった時にこの敗戦なのです。政府が満州の開拓民の人々にどれだけの責任を負ふのでせうか。」
(つづく)
16:17 | コメント (4) | 編集 | ページのトップへ


2005/06/18 土
新緑散歩>花の命は短くて⑮太鼓たたいて笛ふいて

 自国民を「牛馬」よりも安い労働力兵力としかみなさず戦争に放り込んだ政府は、敗戦となれば、国民に何の責任もとらず放り出す。
 芙美子は、自分なりの責任をとろうと決意する。

 井上ひさしは、戦中戦後の芙美子を主人公に、「国家」と「戦争」と「個人」をからめて、笑いあり涙ありの音楽劇にした。初演2002年、再演2004年。大竹しのぶ主演。
 戯曲『太鼓たたいて笛ふいて』(新潮社)
 井上の芝居の中で、芙美子は戦争中に自分が書いたものを振り返り、次のように言う。

 芙美子のセリフ
 「お日様を信じ、お月さまを、地球を、カビを発酵させる大地の営みを信じて、一人で立っているしかないのよ。わたし一人で、かなわぬまでも責任をとろうとしているだけよ。
 責任なんか取れやしないと分かっているけど、他人の家へ上がり込んで自分の我ままを押し通そうとするのを、太鼓でたたえたわたし。自分たちだけで世界の地図を勝手に塗り替えようとするのを、笛で囃した林芙美子、
 その笛と太鼓で戦争未亡人が出た、復員兵が出た、戦災孤児が出た。だから書かなきゃならないの、この腕が折れるまで、この心臓が裂け切れるまで。その人たちの悔しさを、その人たちにせめてものお詫びをするために。」

 このセリフは、芙美子の次のことばから創作されたのではないだろうか。
 1946年に発行された『林芙美子選集』所収の「自作に就いて」の、芙美子ことば。

 「この戦争で澤山のひとが亡くなってゆきましたけれども、私はそのやうなひとたちに曖昧ではすごされないやうな激しい思ひを持ってゐます。せめて、そのやうな人達に対してこそ仕事をするといふことに、現在の虚無的な観念から抜けきりたいとねがふのです。」

 1938年の北岸部隊従軍のおり、いっしょに行軍し死んでいった若い兵士たち。敗残の姿で復員してくる兵たち。開拓地から命からがら逃げ出した人々、凍れる大地に倒れ臥した人。未亡人となって戦後の荒野に投げ出された女達。
 その命に対して、「その人々の息を私の筆で吐き出してみたい願ひ」を芙美子は抱いた。
 そこから芙美子の戦後が始まった。

 戦後の芙美子の執筆速度はすさまじかった。戦争で命を失った人々、愛する家族を失った人々への鎮魂、贖罪でもあるかのように、また、戦中の2年間を沈黙して過ごさざるを得なかった代償でもあるかのように、1946年から1951年の死まで6年間をひたすら書き続けた。

 「流行作家」「人気作家」として書き続けなければ忘れられてしまうから、という理由だけではこの猛スピードの書きぶりは理解できないだろう。(つづく)

12:18 | コメント (1) | 編集 | ページのトップへ


2005/06/19 日
新緑散歩>花の命は短くて⑮芙美子の死

 自分が書いた文章が「戦意高揚」のために利用されてしまったこと。
 「もうこの戦争はダメだ」とわかり、ひとこと「負けるかも知れない」と言っただけで、自分と家族の生活がおびやかされる結果となって、沈黙してしまったこと。
 作家としての悔いが、芙美子にのしかかる。

 1949年に発刊された『晩菊』のあとがきに芙美子は次のように書き残した。
 「雨の降る駅頭に、始めてみすぼらしい復員兵の姿を見て、私はさうした人々の代弁者となって何かを書かねばという思ひにかられた」

 戦争をすれば暮らしはもっとよくなる、と国民を駆り立てた人、聖戦であると主張した人、天皇のために死ぬことこそ正しい生き方だと子どもたちに教えた人。戦争に協力した多くの人が、敗戦の報とともに口をぬぐって「さあ、これからは民主主義の時代です」「平和な日本をつくりましょう」と、変わり身の早さを競ったなかで、芙美子は「復員兵や未亡人の代弁者として書いていくことで、自分なりの責任をとらなければならない」と考えた。

 がらりと変わった世相を背景に、戦後の日本は平和を謳歌し、戦中のみじめな生活を忘れ去れば新生日本になるとでもいうような喧噪の中に、復興をめざした。
 新憲法、講和条約、新しい社会、経済復興、、、、。芙美子は戦後社会の中で書き続ける。

 芙美子にとっては、書かなければならないことが山のようにあった。書いて書いて書きまくらなければ、中国戦線行軍の泥の中に死んでいった兵士や、復員兵、愛する人を失った人々に対して、自分が生き残ったことの意味が失われてしまう。
 書き続けなければ、死んでいった人たちに顔向けできない、と思い詰めているように書き続けた。

 命をすり減らすかのような書きっぷりであった。
 しかし、それでもなお落合の家で書き続ける芙美子は、作家として命を燃やすことで幸福だったのだ、と、私は思っている。
 書いて書いて書き続けて、作家として立っていくこと、書き続けることが芙美子の望みであったろうし、原稿料を得て家族を支えることが芙美子の誇りだったろうと思う。

 落合の家で夜中に急に苦しみだし倒れたとき、芙美子の頭にあったのは、「もっと書きたい、書かなければ」という思いだったのではないだろうか。

 林芙美子の落合の家。芙美子記念館の庭を歩き、最後の最後まで芙美子が書き続けた机を眺める。芙美子が最後の息をひきとった部屋が、そのままに残されている。
 
 1946年から1951年の6年間に、芙美子は『うず潮』『晩菊』『浮雲』などを書き残した。
 『めし』を新聞連載中に、1951年6月28日急逝。(戸籍に届けられた誕生日12月を真とすれば享年47歳、「生まれたのは5月」と芙美子が書き残しているのを真とすれば享年48歳)

 48年の生涯は、今の平均年齢から見れば短いと思えるが、芙美子は書ける限り書いた。芙美子の生涯も「生きた書いた愛した」一生として、私たちの心に残る。(つづく)
12:21 | コメント (1) | 編集 | ページのトップへ

ぽかぽか春庭「弁慶がな、ギナタをー弁慶のセクシャリティ論」

2008-11-08 15:06:00 | 日記

2005/09/25 日
弁慶がな、ギナタを(3)伝説の人、弁慶

 森蘭丸は、本能寺で最後まで信長のもとを離れず、死を共にした。信長蘭丸の関係については、蘭丸の信長に対する「Love!」感情を認める歴史小説家も多い。
 それなのに、なぜに弁慶の義経に対する感情にはフタをしてしまい、弁慶を何がなんでもヘテロ愛(異性愛)に設定したがるのだろうか。

 近年の弁慶登場小説や、今年の大河ドラマでは、弁慶に「玉虫」だの「ちどり」だの、いろんな恋人がくっついているのである。
 今回NHKテレビ『義経』では、「弁慶にも、めおと約束をした恋人がいた」ことになっていて、オセロ黒の中島知子が「ちどり」という漁師の娘に扮し、弁慶と相思相愛の仲になった。

 義経には、正妻や側室、静御前をはじめとする愛妾などわんさかいたという。伝説では、平時忠の娘、久我大臣の娘など、大勢の妻をめとっている。
 ただし、鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』に名がみえるのは、頼朝の命令で妻にした正室河越氏と、鎌倉におくられ頼朝と直接対面した静のみ。

 義経従者の中で、奥州から付き従った佐藤兄弟は、実在が史実として裏付けられている数すくない人物である。

 この佐藤兄弟には妻がいた、という話が広く伝わっている。
 昭和初期までの教科書に採用されて、嫁の模範とされていたエピソード。
 佐藤兄弟なきあと、ふたりの妻が嫁として兄弟の両親に仕える話が、「女子の手本とすべし」と教えられていた。

 屋島の合戦で討たれた継信と、京都堀川で最期を遂げた忠信。佐藤兄弟は、破滅へと向かう東北への逃避行には付き従っていない。

 『平家物語』に描写された継信の最期。
『「もはやお別れです」という継信に、義経は「思い残すことはないか」と聞いた。
 継信が「この後の義経様の栄光を拝見できない事が、唯一つの心残りでございます」と答えると、義経の頬には、はらはらととめどなく涙が流れ落ちた。これを見て皆も涙をこぼし、こう言いあった。
 「この君のために命を失うことなど、露塵ほども惜しくはない」』

 この、継信の最期のことばは『平家物語』に書かれているのであって、フィクションである。
 フィクションではあるが、「安宅の関」に至るまでに、家来の間に「この人のためなら、命を捨てても惜しくはない」という、「感情共同体」とも言えるものが形成されていたであろうことは、推測できる。

 『吾妻鏡』には、2度「弁慶」の名が記載されている。

 『吾妻鏡』に登場する弁慶は、1185年(文治元年=寿永4年)11月3日の記事に、西国へと落ち延びようとする義経主従の一人としてその名がみえる。

 また、1185年11月6日の記事には、西国へむかって大物浦から出航した船が難破したことがしるされている。
 乗船した一行はちりじりになり、義経に従う者僅かに4名
 「伊豆右衛門尉、堀弥太郎、武蔵坊弁慶、妾女(静)」と、ある。
 弁慶が登場するのは、この2ヶ所のみ。

 琵琶法師が語り伝えたフィクションである『平家物語』にも、弁慶は2ヶ所登場するだけである。

 一ノ谷合戦に参加した義経家来のひとりとして初めて弁慶の名前が登場する。
 木曾義仲との合戦のときには、従者のなかに名前が出てこない。
 平家物語(原本)成立のころ(鎌倉初期)には、義仲との戦のあと、義経の家来になったと、みなされていたことがわかる。

 『平家物語』の弁慶登場はもう一ヶ所。頼朝との不和が決定的になり、西国へ落ち延びようとして、大物浦で難破する話。こちらは『吾妻鏡』と共通する。

 どちらも、「義経の片腕」「義経側近中の側近」という扱いではなく、「従者の中のひとり」にすぎない。

 弁慶という人物が義経の側近として実在したことは間違いないと思われるが、後世の人が弁慶の名からイメージする人物像は、各地に広まった伝説や、琵琶法師の語りなどによって大きく変形した伝説的人物としての弁慶である。

 弁慶伝説のもとのひとつは『義経記』である。
 『義経記』は別名『判官(ほうがん)物語』また『牛若物語』として、室町時代初期に成立し、各地で語り物として広く民衆の中に浸透した。
 義経主従、衣川に滅亡してより200年のち、弁慶はスーパーヒーローに成長していた。

 この『義経記』のなかから育った弁慶の姿が民衆に浸透していくのは、熊野の山伏らが、東北地方を中心に各地で弁慶伝説を広めたからである。

 弁慶がスーパーヒーローとして民衆の中に根付くのは、室町後期から江戸時代になってからのこと。
 歌舞伎の「松葉目物」として、能で演じられた弁慶が芝居の中でヒーローとして登場し、熊野山伏の語る弁慶伝説が敷延して以後のことなのだ。<つづく>
11:41 | コメント (4) | 編集 | ページのトップへ


2005/09/26 月
弁慶がな、ギナタを(4)『義経記』の弁慶

 『義経記』に見える弁慶の姿。
 『むさし坊はわざと弓矢をばもたざりけり。四尺二寸(約130cm)ありけるつかしょうぞくの太刀はいて、岩とおしという刀をさし、いの目ほりたるまさかり、ないかま(薙鎌)、くま手、船にがらりひしりと取り入れて、身をはなさず持ちける物は、いちいの木の棒の一丈二尺(約360cm)有りけるに、くろがねふせて上にひる卷きしたるに、石づきしたるを脇にはさみて~』

と、弁慶のいでたちが描写されている。
 『義経記』の中にいる弁慶は、、実在の僧兵というより、すでにして怪力無双の伝説的人物なのだ。『義経記』から、さらに膨大な弁慶伝説が敷延していく。

 観音信仰や熊野権現信仰を広めて歩く法師山伏比丘尼の語りによって、弁慶伝説はどんどんふくらんでいき、さまざまなエピソードが作られた。
 母親の胎内に18ヶ月とか24ヶ月とかいたという説。生まれてすぐに話もでき、食事も自分でとったという説。

 しかし、『吾妻鏡』以外に、史実を伝える同時代の文書などには、名前も出てこず、どんな人物だったかは、史実上ではまったくわからない。比叡山の僧だったというが、これも伝説の域をでない。

 『看聞御記』は、伏見宮貞成親王(1372~1456年)の日記である。
 貞成親王は室町時代の崇光天皇(北朝三代目)の孫、後花園天皇の父。不遇な時代の32年間の日記に、庶民の祭礼や庶民との交流を記した。

 その中に『武蔵坊弁慶物語』という書物の名を1434年11月6日づけで記録している。
 おそらく、室町中期にはさまざまな弁慶伝説をまとめた書物となっていたのであろう。

 私たちが知る弁慶の姿は、ほぼ100%伝説上の人物である。
 源義経が歴史上の人物であることは確かであるが、弁慶の物語も歴史上の出来事と思ってしまうのは、まちがい。

 水戸光圀(みとみつくに)が実在したのは本当だが、テレビに登場する「水戸のご老公黄門様」が全国漫遊したのは、100%フィクションである。
 弁慶が義経とともに『吾妻鏡』に名を記しているのは事実だが、弁慶にまつわるエピソードは、「水戸黄門漫遊記」と同様に、ほぼ100%後世に作られたフィクションである。しかし、「歴史大河ドラマ」というと、歴史そのままと思う人もいるので、話が混乱する。

 実在の弁慶については、わかっていないのだから、どのような人物にこしらえても、驚くことはない。とは、言うものの、弁慶妻帯説は、ヘテロ愛を優先する現代の風潮にあわせているだけのものに思える。

 他の家来たちも、常陸坊海尊はじめ伝説的な人物が多く、実在を確認することは難しい。それゆえ、彼らに妻がいたかどうかなんてことも、もちろん伝説以上のことはわからない。
 ただ、武蔵坊、常陸坊という名乗りから、二人は僧形をしており、周囲の人も、彼らを僧として扱っていただろう、ということはわかるが。

 戒壇で正規の具足戒を授けられた正式な僧侶は、寺の記録に残されている。正規の僧侶でなく、国の許可なしに勝手に僧になった人(私度僧)も、平安以後多くなった。
 弁慶の名が寺の記録にないことからみると、弁慶は僧形をしていたものの、記録に残さされるような正式な僧侶ではなく、私度僧であったと思われる。
 弁慶伝説では、みずから髪を剃って、僧になったとされている。<つづく>
11:13 | コメント (1) | 編集 | ページのトップへ


2005/09/27 火
弁慶がな、ギナタを(5)不淫戒

 平安時代の僧侶の生活について。
 在家仏徒と僧侶の戒律は異なるが、不飲酒戒(お酒を飲んではいけない)は、仏教五戒のうちのひとつ。
 だが酒は、寺内で「般若湯(はんにゃとう=悟りに近づくための薬湯)」として飲まれていた。

 不淫戒(みだらな交わりをしてはならない)という戒律も、般若湯のような抜け道があった。
 女犯は禁じられていたものの、僧侶と稚児(ちご=寺社や貴族邸に出仕している少年、童)との親密な関係は、寺では常住坐臥の一部、日常のことであった。

 僧形の弁慶に恋人がいたとして、相手は稚児ならありうる。しかし、仏罰必定の女犯をおこなう破戒僧となったかどうか。
 末世となった平安末期以後、仏教界は混乱を増していくが、僧形の者が女性と添うのは、そうそう簡単なことではなかった。

 一方、名家の出身でない少年にとって、貴族や僧侶の「恋人」になることは、出世の第一段階でもあった。
 室町時代になってからのことだが、能を大成した世阿弥は、少年時代に足利義満の寵愛を得たことが出世の足がかりとなった。

 稚児(童)は、寺で雑仕として働きながら教育を受け、読み書きはもちろん、舞、今様(歌)などの芸能から、流鏑馬などの武術まで仕込まれた。
 みめよい「童」をめぐって、僧同士で「闘諍の沙汰」を起こすこともあった。

 『玉葉』(九条兼実の日記)の、1180年(治承4)8月12日づけ記録。
 八条宮円恵法親王(はちじょうのみやえんえほっしんのう=後白河上皇の皇子)は、房覚僧正と、寵童をめぐって取り合いの争いをした、と書かれている。

 義経の同母兄、源義朝と常磐の間に生まれた乙若は、この円恵法親王のもとで「童」として召し使われ、気に入られた。そのまま出家して「卿公円成(きょうのきみえんせい)」となり、円恵の坊官(事務官僧)として仕えた。のち改名して義円と名乗った。

 牛若も鞍馬寺に預けられたが、出家しなかったのは、父の義朝よりも容貌が悪かったから、という説がある。「父に似わろし」という同時代の評価が残っているのだ。悪ガキであったようだ。

 乙若は美人の母に似て、みめよい童であったのだろう。もしも、タッキーくらいに美しい童だったら、牛若も寺内にとどまり、出家したかもしれない。
 義経が美形であったら、武士にはならず、平家が壇ノ浦で滅ぼされることもなかったかも。義経=タッキーだっら、歴史は動かなかった。

 さて、仏教界は末世の世に、変動が起きていた。
 平安末期に、真言密教の一本山であった醍醐寺の門流から、真言立川流(しんごんたちかわりゅう)が派生し、現世往生を唱えた。
 立川流の僧たちは、真言密教の「人間の愛欲を積極的に肯定する教え」を広めていった。<つづく>
09:15 | コメント (4) | 編集 | ページのトップへ


2005/09/28 水
弁慶がな、ギナタを(6)真言立川流と念仏宗

 真言密教では、次のように言う。
 『性の欲望というものは、もともときわめて御し難い、それゆえ、欲望からくる諸々の悪を防ぐには、初めからその欲望を一切否定し、認めないとするほうが、策としては手っ取り早いし、教えにも一応の筋は立つ。それ故に一般の仏教では禁欲の旗を掲げているのだ。

 しかし、現に生身の人間が住むこの世で、そういう教えが本当に成り立つだろうか。もしも性の欲が一切いらぬ、というなら子孫は絶え、この世から人間というものが消えうせるだろう』

 末世の時代、この真言密教の教えを前面にだす立川流成立に至り、性に関するタブーが弱まるきっかけとなった。寺院と俗界の間に差がなくなっていった。

 しかし、弁慶が比叡山(真言宗)出身という伝説も、信憑性あるものではないし、真言立川流であったかどうかもわからない。日本各地にあるどのような伝説をみても、立川流とは縁がなかったようだ。
 弁慶伝説を広めていったのは、熊野神社に繋がりを持つ山伏たちであったから、弁慶は熊野権現信仰に結びつけられた。

 弁慶義経が滅んだ後、何年もたったころ、鎌倉仏教の確立期のことである。日蓮は、念仏宗のことを邪教として口を極めて罵倒した。念仏宗が破戒を是(ぜ)として憚らなかったからだ。

 親鸞が妻帯を敢行し、在家念仏を認めたことが大きな契機となった。
 女犯(にょぼん)を肯定した念仏僧たちが、女房や尼僧たちと関係する行為が増え、世上を賑わせるようになった。
 しかし、念仏宗以外の僧にとっては、依然として女犯は仏罰にふれる破戒行為であった。

 鎌倉時代初期の1206年(建永元年)12月、後鳥羽院(高倉天皇の第四皇子、安徳天皇の異母弟)が、熊野御幸(くまのごこう)に出かけている留守に、院の寵姫伊賀の局(亀菊御前)や坊門の局らが別時念仏結縁(べつじねんぶつけちえん)の名目で外泊し、遵西(じゅんせい)や住蓮(じゅうれん)らの専修念仏僧と通じた。

 これらのことが大問題になり、事件として記録されているということは、鎌倉期に入ってもまだ、念仏宗以外の僧にとって、女犯は「破戒」の大罪をおかす禁忌であり、専修念仏の僧が女性と通じた、ということは、他の人々にとっては見過ごせないことだったのだ。

 弁慶が愛欲肯定の「立川流」の僧であったり、念仏宗の妻帯肯定の立場にいた、という解釈をすれば、玉虫でもちどりでもくっつきそうな情勢ではある。

だが、西海へ落ちてゆく主人、東北へ流浪する主人にどこまでも付き従う弁慶は、真言立川流とも念仏宗とも関わりがなさそうである。<つづく>
08:28 | コメント (2) | 編集 | ページのトップへ


2005/09/29 木
弁慶がな、ギナタを(7)ヘテロ愛?弁慶

 弁慶がたった一度女と交わったという伝説もある。
 しかるに、日本各地に膨大な弁慶伝説が敷延しているにもかかわらず、弁慶妻帯説、弁慶の女恋人説はでてこない。
 どの伝説でも、強調されているのは、義経への無私の忠義、愛、であって、弁慶ヘテロ愛説は、近代になるまで出てこない。

 ある書にいわく。
 『西塔のむさし坊弁慶、一度女と交わって後、一度は千回に同じとて、その後一生不犯なりしとぞ、まことに大男のしるし、ものにたゆまぬ質なり、多くの軍書を見るに、弁慶が女色にたわぶれしことついに見えず』

 一角仙人や鳴神上人が、女性の魅力に負けたゆえに神通力を失ってしまった、という伝説があるように、「弁慶が強かったのは、不犯だったからこそ」と、伝説のなかでも信じられていた。
 日蓮が、念仏宗の妻帯を口をきわめて非難したことでもわかるように、女犯破戒は、弁慶の時代、まだまだ禁忌であった。

 弁慶が、武蔵坊という名によって僧形であったと信じるなら、「妻帯を認めた親鸞以後の真宗僧侶」や「妻帯肉食何でもアリ現代の葬式仏教僧侶」とは異なる世界にいた僧兵であることを考えてみるべきだ。

 伝説にあるように、弁慶がたった一度女性と交わった経験を持った、というのを考慮しても、それは「夫婦約束をする」「女の婿として扱われる」という「決められた女性と、世間からカップルとして認められる関係になる」とは異なるのだ。

 それなのに、近代以後の小説や脚本の中では、弁慶が女の恋人を持つようになったのは、何故か。NHK大河弁慶が、「ちどりの婿」としてふるまうのは何故か。
 弁慶を「ヘテロ愛」にしておきたいからだ。

 「人間の正しい愛情は、ヘテロ愛(異性愛)のみ」とされてしまった近代恋愛観(キリスト教的恋愛観)の狭い解釈が、いまだ現代社会恋愛観の主流をしめているからではないだろうか。
 「生殖を目的としない同性愛は、唯一神が認めていない」などという狭い考え方は、明治になるまで日本には存在していなかった。

 NHKが弁慶の義経一途な忠義に対し、堂々と「男が男に惚れてどこが悪い!」と、言えるようなら、視聴料払うけどね。
 「男が男に惚れる」は、セクシャルな意味だってあるし、そうじゃない場合もある。異性愛にもいろんなタイプがあるのと同じ。<つづく>
08:26 | コメント (4) | 編集 | ページのトップへ


2005/09/30 金
弁慶がな、ギナタを(8)Boy' love日記

 『古今著聞集』(鎌倉中期成立)や平安時代の貴族の日記などに、「boy's love」の記述がある。
 藤原頼長『台記』(平安末期成立)には、男色関係の記述が残されており、平安貴族たち(法皇上皇を含む)は、女とか男とか限定せずに恋愛関係を結んでいたことがわかっている。現代用語でいうなら、バイセクシャルが通常だった。

 平安貴族の日記というのは、自分の家の子孫のために、有職故実(ゆうそくこじつ)を記録することを主要な目的として書かれている。
 儀式のやり方手順、正式な衣服、などを書き残して、子孫が恥をかかずにちゃんと宮廷でふるまえるように、心得るべきことをしるしてあるのだ。

 左大臣藤原頼長が『台記』に、男性とのおつきあいを記録したのも、「秘密の恋愛告白」ではなく、「子孫のための記録」としてである。

 古代ギリシャと並んで、古代から江戸幕末まで、日本では「男同士の愛」は、広く認められていた。
 織田信長も、信長を大叔父とする徳川三代将軍家光も、バイセクシャルであった。

 男同士女同士の愛に、プラトニックラブも存在するし、ホモセクシャルな間柄もあり、愛情のタイプはさまざま。しかし、近代以後、同性同士の愛は、「異性愛に比べて普通じゃない、異端」「キワモノ、ゲテモノ」などの扱いを受けることが多くなった。

 九月歌舞伎座、昼の部の目玉は「東海道五十三次弥次喜多道中」だった。弥次さん喜多さんの間柄も、原作では同性の恋人同士。
 明治以降、ふたりが恋人同士だということを表に出さなくなったが、クドカンの映画でやっと「はれて恋人同士」として登場した。めでたい。

 近代以後の弁慶が登場する小説やシナリオの作者は、「男同士の深い絆」について書くと、すぐに「あ、もしかしてあの種の愛情?」と、思いたがる読者視聴者がでてくるかもしれない、という懸念を、持つようになった。

 弁慶にも妻にあたる女性が存在したことにしないと、弁慶の義経への忠義が、同性愛ぽく見えてしまう、と、「世間一般からのウケ」を気にする作者側の事情。
 弁慶をヘテロ愛にしておかないと、現代の読者視聴者には受け入れられないのではないか、という作者側ドラマ制作者側の勝手な意向によって、弁慶に恋人が連れ添うようになった。

 「現代の目からみると、お坊さんに妻や女の恋人がいることは許される」しかし「男性が男性を心から慕い、どこまでも付き従うのは、どうも落ち着きが悪い」という時代風潮に合わせているご都合ストーリーだと感じる。

 選挙にうって出た東郷健が涙ながらに、「同性愛者が受けている差別」について訴えた時代よりはよくなってきていると言えるかもしれないが、いまだにテレビ界では、「おかまキャラ」は笑いの対象であったり、「キワモノ」扱いとして画面に登場する。
 ごく普通の生活人、職業人としてのゲイが、まっとうに登場することは少ない。

 平安末期から鎌倉時代への移行期のどさくさとはいえ、立川流ともわからず、念仏宗でもない僧形の弁慶が「わしはちどりの婿だ」と発言するのはおおごとである。それなのに現代のテレビドラマは、弁慶に恋人や妻を与えるのだ。<つづく>
00:00 | コメント (3) | 編集 | ページのトップへ

2005/10/01 土
東京ふり-ふり-生活>弁慶がな、ギナタを(9)御恩と奉公

 鎌倉武士は「御恩と奉公」によって結びついていた。
 自分に十分な恩賞(御恩=土地の領有権を認証する)を与えてくれる人に奉仕する(奉公=将軍に命じられたら出征する)が基本。
 義経主従のように、もはや恩賞を与えることが不可能になった人にいつまでも仕えるのは、鎌倉武士の倫理観からはずれた「武門にあるまじき」行動である。

 元寇(げんこう=モンゴル軍の襲来)以降、鎌倉政権が衰えたのも、北九州まではるばる戦に出ていった武士達に、奉公にみあう恩賞を与えることができなかったせいだ。(戦に勝っても、モンゴルや中国の土地が手に入ったわけではないので)
 武士は、奉公したら、恩賞を受け取る権利がある。「ただ働き」は武士道に悖(もと)る。元寇以後、鎌倉幕府への信頼感、奉公忠義心は低下していった。

 鎌倉側は、「御恩と奉公」を「武士同士の契約」として信頼を築いていった。武士団の組織が広がると、頼朝は政治上の判断ができるブレーンを着々と強化していった。

 一方、義経の家来はいくさには強くても、政治的な面では弱体であった。
 義経自身は、頼朝ほど鋭敏な政治的判断ができない人だったようだ。鎌倉殿と老辣な後白河上皇の確執に対しても、とるべき自分のスタンスを推し量ることができず、まんまと後白河の手の内に入ってしまった。

 この時代、素直に人の言うことに従っていたのでは、身の破滅ともなる。
 藤原泰衡は、頼朝から「義経追討」の命令を受けた。衣川館に隠れ住む義経を攻め、その首を鎌倉に送った。しかし、すぐさま、その頼朝によって今度は自分が征伐されてしまった。

 頼朝にとって必要だったのは、もはや脅威でもなんでもなくひたすら蟄居している義経の首ではなく、広大な東北地方の支配権だった。泰衡は、素直に頼朝の「義経追討」のことばを受け、頼朝が真に欲しがっているものは何か、ということを読みきれなかった。

 義経が頼朝と不和になったあと、それまで義経に従っていた人々が、潮を引くように去っていったのは、鎌倉武士として当然のことであった。武士たちは、所領安堵をしてくれる人にこそ従うのだ。

 しかし、最後まで義経の元にいた数少ない家来たちは、恩賞を与えられることを目的とせずに義経に従っていた。(あくまでも義経伝説による話ではあるが)
 この点で、義経の家来たちは、鎌倉武士団の中で異色の存在だった。鎌倉武士の主従の間柄を超えて、深い絆で結ばれていたのだ。

 この「運命共同体」的な主従関係は、「感情共同体」とも呼ぶべき、強い精神的な絆で結ばれている。
 この、本来の鎌倉武士「御恩と奉公」からはずれた義経主従の特異な結びつきは、琵琶法師の平家語り、義経語りが浸透していき、時代が変わるにつれ、「忠義の代表」のようになっていった。<つづく>
00:02 | コメント (4) | 編集 | ページのトップへ

ぽかぽか春庭「弁慶がな、ギナタを(10)チューギ・クエスト」
2005/10/02 日
東京ふりふり生活>弁慶がな、ギナタを(10)チューギ・クエスト

 鎌倉武士団にとっても戦国武士にとっても「恩賞ぬきで上司に仕える」などというのは、本来の姿ではない。
 10回も上司をかえて自家の繁栄をはかった戦国武将藤堂高虎や、どっちに見方したら得になるか、関ヶ原で去就を決めかねていた大名達のように、損得十分判断して敵味方を決めるのが武士の本道であった。

 勝てないとわかっている戦に出ていくのは、本来の武士道ではない。
 AとBどっちについたら得か、どうしても判断つけがたい場合は、兄弟親戚をふた手にわけ、Aが勝ってもBが勝っても、どっちかが残るようにした。

 江戸時代、三代将軍即位以後、武士は「戦闘によって土地を取り合う農地経営者」ではなく、ただの「土地管理経営者」となった。朱子学を「公式学問」とした江戸期の主従関係は、「御恩と奉公」の主従関係ではなくなっていく。

 「義経主従」や「楠木正成」や「忠臣蔵」などがもてはやされたのは、与えられる恩賞が「家格により決められた給与」になって「サラーリーマン官僚化武士」になって以後のことなのだ。

 「恩賞」ではなく、「主従の絆」重視が始まった。
 勝てない戦とわかっていても、「忠義のため」と言われれば出でいかねばならず、「ただ一人の方にお仕えするのが道義」と教え込まれるようになる時代になったのだ。
 やがて、国をあげて「ただ一人の人のために働き、忠義を果たして滅亡へと向かう」カタストロフへとつながる。

 江戸時代の「仇討ちストーリー」は、戦乱がおさまり、武士階層が「戦士」ではなくなり「官僚化」して以後の流行。
 主君仇討ちのために四十七人が志を合わせる赤穂の浪人たちの物語、『忠臣蔵』。
 ひとつの目的のもとにグループが結束する話、われら農耕民族にとっては心地よいストーリーである。

 現代の農耕民族形態は、「カイシャニンゲン」である。企業グループ内のプロジェクトなどで、上司部下一丸となって研究開発やらマーケティングやら営業販売に邁進没頭するのは、「力合わせてたんぼ仕事」のDNAによる。

 『義経記』も、このような仇討ちストーリーのひとつとして民衆に人気を得た。
 孤児同然の牛若丸が寺の中で育ち、やがて味方を増やしながら、父義朝の仇平家を討つ。
 ドラゴンクエストのような、「仲間を増やす」「最終的な目的のために小ボスを倒しながらステージクリアしていき、ついに大ボスを倒す」という前半。(壇ノ浦合戦まで)

 後半は、高貴な人が、罪なく地方へ落とされ苦労を重ねて遍歴する「貴種流離譚」
 古事記のヤマトタケル、伊勢物語の業平東下り、光源氏の須磨配流、など、上層部に嫌われた貴人が地方へ流れていく話は、日本文学の典型的ストーリーとして繰り返し使われるモチーフだ。

 貴種流離潭のひとつとして、義経物語後半は、義経主従が、西国、吉野、東北を流浪する。
 何があろうと、主君への忠誠心を変えることなく、ひとつの目的「主を守る」のために一致団結して行動を共にする、後半のクエスト。
 このふたつの「クエスト」が組合わさった物語に、民衆は熱狂した。<つづく>
00:07 | コメント (5) | 編集 | ページのトップへ


2005/10/03 月
東京ふりふり生活>弁慶がな、ギナタを(11)芝居の「世界」

 主家に忠義を尽す話、歌舞伎でもたくさん作られた。

 『菅原伝授手習鑑』「寺子屋」の段。
 菅家(菅原道真)の子ども「菅秀才」を守るために、松王夫妻は、自分の子どもを身代わりに差し出して殺させる。
 いくら忠義だからって、まったくもって「すまじきものは宮仕え」(菅秀才を預っている武部源蔵のセリフ)。

 松王丸にとっては、「主家道真にそむく」ことは我が子の死以上につらいことだった。
 我が子を殺させることにより主家に尽して、「持つべきは子ども」と思う。松王丸の妻千代は、我が子を殺させて「お役にたった」と満足する。

 どんな荒唐無稽な話でも歌舞伎なら楽しめるけれど、我が子を犠牲にしても主家のために尽す、となると、もう私にはついていけない。
 「陛下のお役にたてたのだから、戦死した我が子が誇り」と、我が子の死を受け入れる軍国の母に、私はなれそうもない。

 九月歌舞伎座、目玉の『勧進帳』が終わり、夜の部さいごの演目「植木屋」になると、観客はだいぶ減ってしまった。上演が途絶えた狂言の復活上演だというので、私は終幕まで見ていた。忠臣蔵外伝。

 夫婦約束をした恋しい男が、主人の仇を討とうとしている。植木屋で働く男(弥七、実は四十七士のひとり仙崎弥五郎)のために、女(お高)は仇(かたき)の側室お蘭の方となって、屋敷の絵図面を手に入れた。

 絵図面を弥七に渡したお蘭の方は、「仇討ちを成功させるためとはいえ、敵の側室となった」ゆえに、「貞女二夫にまみえず」に反したと感じ、自害してしまうのだ。
 この、自分を犠牲にして自害するってところが、どうにも受け入れがたい。

 「子どもを殺させて主人に仕える」や「恋人のために敵の側室になったゆえ自害」など、今の時代の感情からみると「受け入れがたい」と思う。これがそのままお芝居として上演されているのは、舞台だからだろう。

 「寺子屋」を、ホームドラマ仕立てにして、このままのストーリーで放送したら、非難囂々になりそう。
 しかし、現代の感覚では受け入れがたいからといって、『寺子屋』をテレビで放映するにあたって、「子どもは殺さないことにしましょう」という変更をするべきではない。

 「男が男に惚れて、最後まで生死をともにする」のは、なんだか受け入れにくいと感じるのが、今の「一般的愛情観」であるゆえ、テレビドラマとなると、「弁慶が義経と最後までいっしょにいたのは、決して「男同士」的思慕なんかじゃないんだよ。弁慶にはちゃんと女の恋人がいたんだからね」と、弁慶を「ヘテロ化」してしまう。
 これって、「寺子屋」の放映にあたって、子どもを殺さないようにストーリーを改変するようなものだと思うのだけど。

 歌舞伎には「世界」と呼ぶ約束事がある。
現代用語で使っている、地球の上に存在する国や自然などを総称する「world世界」ではない。芝居のストーリーごとに、戯曲の時代や人物群とそれに基づく構想の類型を「世界」と呼ぶのだ。
 「義経記の世界」「曾我の世界」などがストーリーごとに成立している。
 弁慶は、民衆の中では、「義経記の世界」に生きている人物として存在する。

 伝説の中に生きてきた弁慶が、「男が男に惚れて、生死を共にする」という生き方。
 民衆は、弁慶の不器用な人生をひとつの生き方として認め、弁慶の心象によりそった。<つづく>
00:00 | コメント (4) | 編集 | ページのトップへ


2005/10/04 火
東京ふりふり生活>弁慶がな、ギナタを(12)弁慶立ち往生

 弁慶物語のラスト。『義経記』に描かれた「弁慶立ち往生」の姿を引用する。
 「立ち往生する」は、現代語では「行くも戻るもできず、どうすることもできない」という意味でつかわれるが、弁慶立ち往生は、文字通り、立ったまま死んだ弁慶の姿を表わしている。

 最後の最後まで義経に従い、義経を守りきろうとした弁慶。襲いかかる藤原泰時の軍勢をくい止めようと、立ちはだかる。
 
『 弁慶今は一人なり。~
 きつと踏張り立つて、敵入れば寄せ合せて、はたとは斬り、ふつとは斬り、馬の太腹前膝はらりはらりと切りつけ、馬より落つるところは長刀の先にて首を刎ね落し、鎧に矢の立つこと、数を知らず。~
 折り掛けきりかけしたりければ、簑を逆様に著たる様にぞありける。黒羽、白羽、染羽、色々の矢ども風に吹かれて見えければ、武蔵野の尾花の秋風に吹きなびかるゝに異ならず~ 』

 黒い羽、白い羽、色とりどりに染めた矢羽根が、弁慶の鎧に数限りなく刺さっている。風が吹くと矢羽根が風にうちふるえてなびく。まるで武蔵野のススキのように見えた。
 このとき弁慶はすでにこと切れている。義経を守ろうとして、立ったまま死んだのだ。

 弁慶の姿に圧倒されて敵兵はたじろぐ。
 しかし、弁慶のそばを一頭の馬が通り過ぎ、馬にふれて、矢をつきたてた弁慶の身体はどうと倒れた。

 もとより、この衣川館の合戦の描写もフィクションであり、弁慶の最後の闘いがどのようであったのかなど、その場で真実を見聞きした者が記録を残したわけではない。

 しかし、琵琶法師や瞽女(ごぜ)の語りで、義経伝説や弁慶伝説を聞いていた民衆は、矢を受けて立ちつくす弁慶の姿に涙し、自分が何より大切と思った人を守りきろうとした僧兵の一生に心うたれた。

 義経が弁慶と共にすごした物語は、「義経がモンゴルに逃げてジンギスカンになった」という伝説と同じくらい、史実からは遠い話ではあるのかもしれない。
 しかし、義経を中心にぴったりと寄り添った仲間が苦楽をともにする、というストーリーが現在まで伝わり、繰り返し登場するのは、そういう共同体を存在させたいと願う民衆の必要があってのこと。

 弁慶たちの共同体とは、地縁血縁、親戚縁者ご近所一同との軋轢を含むがんじがらめの共同体ではない。義経は「兄弟」という血縁からはじき出されて流浪するのだ。
 人間同士の絆によって運命を共にする義経主従の、志をひとしくする「志縁共同体」とも呼べる関係。

 義経一行は、血縁でも地縁でもない共同体を作り、京、東北、吉野、西国、北陸と全国を闘いつつ駆けめぐり、零落して流浪した。
 土地にしばられて生きることを余儀なくされた人々は、「自分には果たせない別の人生」を義経主従に託し、繰り返しくりかえし琵琶法師や熊野山伏たちの語りに聞き入った。 <つづく>
00:08 | コメント (3) | 編集 | ページのトップへ

2005/10/05 水
東京ふりふり生活>弁慶がな、ギナタを(13)語りの中の弁慶

 義経物語弁慶物語に聞き入った人々は、弁慶の姿を「人間の一つの生き方」として受け止めた。
 平安末期の僧兵が「賀茂川の洪水より恐ろしい乱暴者」と懼れられ、狼藉破戒のイメージを与えられていたことから考えれば、弁慶はフィクションの中とはいえ、「自ら信じた人のために私心なく働く健気な豪傑」として変容し、義経滅亡以後八百年の間、民衆の心の中に育ってきた。

 中世近世の長い年月、琵琶法師、勧進山伏、比丘尼、瞽女(ごぜ)らの語りによって、民衆は、仏教説話の形をとったさまざまな物語を聞き、心に受け止めた。
 平家物語、義経物語、常磐物語、弁慶物語、また曾我兄弟物語、忠臣蔵、などが、民衆にとって、「だれもが知っている、みんなが納得する」物語として、広く知られ親しまれていた。

 「弁慶がな、ギナタを(4)義経記の弁慶」で紹介した、伏見宮貞成親王の日記『看聞御記(かんもんぎょき)』1417年(応永24)の記録。
 『(琵琶法師の)安一(やすいち)座頭が参って平家・雑芸を演じた』と、書かれている。

 琵琶法師の語る「平曲(平家物語)」と説教節をもとに、「浄瑠璃(じょうるり)」が誕生したのは、室町中期とみられている。(説教節の中でもっとも有名な、安寿と厨子王の物語「さんしょう太夫」をもとにして、森鴎外は名作「山椒大夫」を書いている)

 浄瑠璃節は、牛若(源義経)と浄瑠璃姫の恋物語。
 琵琶のほか、沢住検校(さわずみけんぎょう)らが、新しく渡来した楽器「三味線」での伴奏も入れ、庶民の娯楽として広まった。

「義経は 八艘(はっそう)飛んで べかこをし」(『誹風柳多留拾遺』) (べかこ=あっかんべぇ)
 これは、壇ノ浦で義経が船から船へ飛び移った、という話を、誰もが知っていたから、ワハハと、笑える川柳となっていたのだし、

「武蔵坊 とかく支度に 手間がとれ」
 これは、弁慶が七つ道具をかついでいたので、身支度に手間がかかったであろう、と、揶揄した川柳。

 『平家物語』『義経記』や『浄瑠璃節』などは、民衆の「一般教養」であった。
 仏教説話は、民衆思想の伏流水のようなもの。
 中世、近世を通じて、この「語り物」は、盲目の琵琶法師や瞽女(ごぜ)さんたちによって各地に広まった。 <つづく>
00:02 | コメント (2) | 編集 | ページのトップへ


2005/10/06 木
東京ふりふり生活>弁慶がな、ギナタを(13)近代史の中の弁慶

 オラが村内では名主さん庄屋様がエラい、が、一番えらいのは江戸の「くぼうさま」と聞かされていた。ところが、公方様は江戸から去り、江戸は東京と変わって、こんどは「てんしさま」が一番エラいらしい。天子様とは、何者?
 江戸庶民や地方の村の人々は、「てんしさま」がどんなもんだか、だれもそんなことは知っちゃいなかった。

 それなのに、血税一揆(徴兵令と金納徴税に反対)はあったものの、大混乱も全国的な反乱もなく、天子様は公方様にとってかわり、人々は「いちばんエラいてんしさま」を受け入れた。
 明治最大の内乱である西南戦争は廃業武士の乱であって、庶民を巻き込んだ大規模な乱は、維新期(明治初期)には起らなかった。

 「徳川が権力の座から下り、薩摩長州連合が天皇をかついで政権をとったこと」、この「たけき者もついには滅びぬ」を受け止める心情の基礎となったのが、「平家語り」などの浸透であったのではないか、と、思える。

 琵琶法師の伝える「平曲」は、「沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす おごれる人も久しからず ただ春の世の夢のごとし たけき者も遂には滅びぬ 偏に風の前の塵に同じ」と、歌い上げ、山伏やごぜはさまざまな説話の中に、滅びと権力交替を語ってきかせた。

 平家の世は木曾殿へ、木曾が討たれて義経が天下第一の勇者となったとみれば、たちまち鎌倉殿に攻められる。鎌倉は三代にして源氏の一統も絶え、北条一族が執権として権勢をふるう。
 人々は権力交替の物語を「語りもの」として知っており、徳川の世が天皇の世となっても、それを「そういうもの」として、村の衆も町方も受け止めた。

 「志縁共同体」のひとつのあり方として、義経弁慶一行の話を愛好してきた民衆。
 悲劇のヒーローであったり、笑い話の中に滑稽な姿をみせる豪傑であったり、弁慶はさまざまな変容を経て形成されてきた。

 「鎌倉殿という権力に屈せず、御曹司ただ一人を最後まで奉じて付き従った」という弁慶は数百年にわたって、庶民のヒーローだった。
 この一途なヒーローへの心情をちょっとシフトすれば、「先進欧米諸国の権力圧力に屈せず、富国強兵をすすめ、『上御一人』へのご奉公を貫く」という、新たな物語を形成することができる。

 「てんしさま」ただ一人に従い、国家による「死の共同体」を作り上げる。民衆を「国民」として再編成し国家体制に組み入れるために、新政権にとって国民教化が急務だった。
 義経伝説は、国民教育に利用され、明治期の小学校教科書に伝説から採用された挿話が載った。

 子どもたちは修身や読本の教材として、佐藤兄弟の妻たちが舅姑に仕える話を読み、那須与一の話を読んだ。
 尋常小学校唱歌に「♪今日の五条の橋の上~♪」が採用され、牛若と弁慶は子どもたちのアイドルとなった。弁慶は楠木正成と並んで、忠義第一の人物とされたのだ。

 「ご先祖さまを大事にしたい」「亡くなった人は大切にご供養する」という民衆の中に長く根付いている思想をちょっとシフトすれば、「戦犯合祀の神社に、首相が参拝してどこが悪い。亡くなった方を鄭重に供養しているのである」という方向へ持ち込めるのと同じこと。

 新出来の思想でない、民衆の心の中の土台となっている思想は、私たちの心の支えであると同時に、その根強さを利用すれば、どの方向にもシフトしていける危うさを含んでいる。

 歴史上の人物としては、『吾妻鏡』の中にわずか数行登場するだけの弁慶。伝説上の人物であるのだから、時代の要請に従って変容し、新たな伝説が付け加えられていくのも、仕方がないのだろうか。<つづく>
00:00 | コメント (2) | 編集 | ページのトップへ


2005/10/07 金
東京ふりふり生活>弁慶がな、ギナタを(15)牛ワカメが、けてふり

 弁慶の物語は、語り物になり、能になり歌舞伎になり映画になり、テレビドラマになり、時代時代にさまざまな形で表現された。

 『虎の尾を踏む男達』は、1945年に制作され、8月15日も黒澤明のメガホンで撮影が続行された。敗戦後の9月に完成。
 弁慶=大河内伝次郎、富樫=藤田進、義経=仁科周芳(のち岩井半四郎を襲名)、
強力=榎本健一)

 しかし、GHQの検閲により「ただ一人の人に従うというところが封建思想」としてひっかかり、1952年の占領終了まで公開できなかった。クランクアップから7年後、ようやく公開となった。(まっきーさん推奨の傑作)。

 戦後の社会でも弁慶は何度も小説に描かれ、映像となった。
 1955年に完結した全10巻の小説、富田常雄『武蔵坊弁慶』は1986年にNHK水曜時代劇としてドラマ化された。この弁慶には玉虫という恋人がいる。
 1978年今東光『武蔵坊弁慶』、1982年村上睦郎『弁慶』、1986年佐竹申伍『弁慶罷り通る』などなど。
 2005年の森詠『七人の弁慶』まで、弁慶を主人公にした小説ドラマのほか、義経や頼朝を主人公にした話に登場した弁慶も含め、その時代その時代のなかで弁慶は解釈され、新たな姿を社会のなかに見せている。

 歌舞伎の『勧進帳』弁慶と、テレビ大河ドラマ『義経』のマツケン弁慶の描かれ方の違いが気になっていたとき、テレビを見ていた娘が、「弁慶って昔のお坊さんなのに、お婿さんになってもよかったの?」と、素朴な質問をした。それを受けて、息子と私は論争してきた。
 「弁慶、婿入りはアリか、ナシか」

 息子は「僧兵は平安時代から破戒乱脈、なんでもアリと思われてきたんだから、弁慶が婿入りしようと、各地各所に女房ありだろうと、何でもアリでいいんだよ」と、主張する。

 歴史オタクの息子に対して、わたくし秘蔵の日本文学史演劇史芸能史民衆思想史を繰り出して、あーでもないこーでもない、と論争したのだが、「何でもアリ」論を論破するところまではたどりつけなかった。

 近代以後の弁慶像変容が、「ヘテロ愛優先」の社会情勢によって行われてきたということに対し、なんとなく違和感があった。
 「数百年にわたって弁慶は、義経につき従った人として民衆に愛され、妻だの恋人だのという存在は伝説の中にも出てこなかったのに、近代になっていきなり恋人女房くっつけて、弁慶を妻帯者にしなくても、いいじゃないの」と、思ったので、これまで長々と、「テレビ大河ドラマのマツケン弁慶は、ちどりの婿殿になった」についての感想を申し述べた次第。

 「京の五条の橋のうえ、弁慶が、なぎなたを牛若めがけて振り上げる」という文が、「弁慶がな、ギナタを 牛ワカメが、けてふり あげる」になったみたいだと感じたゆえの、弁慶妻帯説への異論でした。

 私ひとりが「弁慶ヘテロ化反対」と、憤ったところで、どーもならん。
 ま、「何でもあり」でいいのだったら、弁慶さん、ちどりとでも玉虫とでも仲良くしてちょうだい。

 「メシ、カネ」のほか、母親となぞ口をきくのもめんどくさいという年頃の息子との、しばしの語らい、母は、楽しゅうございました。
 ハハと息子のおばか論議に長々とおつきあいくださり、読んでくださった方々、ありがとうございました。

 以上、九月歌舞伎座「勧進帳」「植木屋」を見て、忠義と愛について思いめぐらしました。
 歌舞伎座招待券ありがとうございました。
 私に、美術展演劇招待券、ディナー券など贈って下さる方へ、私の感謝と愛をささげます。<おわり>
00:05 | コメント (3) | 編集 | ページのトップへ
<おわり>