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ぽかぽか春庭「グレアムグリーン『力と栄光』下書き」

2008-11-05 06:26:00 | 日記
グレアム・グリーンの『力と栄光』(Graham Greene: The Power and the Glory )における神の代理人について――一仏教徒の読み
1 はじめに1-1 『力と栄光』梗概
1-2  ウイスキー坊主の命名と、『力と栄光』の作品構造

2-1 プリンシパル・エージェント問題(principal-agent problem)
2-2 言語におけるプリンシパルとエージェント  

3-1 グリーンのバックグラウンドとグリーン文学のキーワード
3-2 グリーンのメキシコ旅行
4 『力と栄光』と『沈黙』
5 結語
1 はじめに 1940年『力と栄光』の出版から70年近くが経っており、評論や研究書も数多くが出版されてきた。神への裏切り、神を棄てることについて、神を信じ続けることについて、神による復活を信じることについて、カトリシズムからの検証、さまざまな文学理論による批評など、多くの論が寄せられ、論じられてきた。その一遍一遍を仔細に検討する余地はない。従って、このリポートも、筆者自身の読みの「印象批評」にすぎない。 筆者は、以下の点に論を絞って述べる。

1,キリスト教文学におけるプリンシパル・エージェント問題(principal-agent problem)2,「神の代理人・エージェント」としてのウイスキー坊主 筆者の試みは、経済学や政治学で普遍的な理論となっているプリンシパル・エージェント問題を、文学評論に取り入れる、ということにある。少なくとも私のこれまで読んできた文学理論の中に、このprincipal-agentという言葉を見たことはなかった。私が日頃活用している『コロンビア大学 現代文学・文化批評用語辞典』(松柏社2002年第3判)は、7年前の出版であり、その後の文学理論動向について筆者の探索範囲は狭いので、だれかがprincipal-agent理論を文学に適用したかどうかは、定かではない。インターネット検索の範囲では見あたらなかったというにすぎない。1-1 『力と栄光』梗概 1930年代、メキシコでは共産主義革命下で、宗教弾圧が吹き荒れた。共産主義者たちは政権を握るとカトリック教会を迫害し、教会はすべて破壊され、司祭たちは言わば〝踏み絵〟を強制された。踏み絵を踏んで棄教する者もいたし多くの司祭たちは国外に逃亡した。逃亡に失敗して潜伏した者たちは探し出されて、銃殺された。 『力と栄光』には、二人の司祭と一人の共産主義政権下の警官が登場する。ホセは棄教し、年増女を女房にしている元司祭。もう一人は潜伏して逃げ回っている司祭であるが、「ウイスキー坊主」と呼ばれている飲んだくれ。俗人となったホセには名が与えられているが、「ウイスキー坊主」は実名が最後まで出てこない。一人の人間を描写したというより、ある象徴的な人物像となっているからであろう。〝ウイスキー坊主〟と呼ばれている司祭は常に飲んだくれ、一人の女性と交わり娘を生ませている。踏み絵を踏んだホセと何ら変わりない破戒僧であるが、ホセは棄教を明らかにしたのに対して、ウイスキー坊主の自己意識はあくまでも「司祭」である。      舞台は、メキシコで一番辺鄙な州であるタバスコ州。山岳地帯と海に挟まれた細長い土地で、その大半が湿地と深い森林に覆われた熱帯のジャングルであり、人々は人間の暮らし以下の悲惨な日々を送っている。 小説は、潜伏している司祭ウイスキー坊主が国外へ逃亡するため船に乗ろうとやってくるところから始まる。暑さに耐えて、司祭は船が出るのを待っていた。歯医者のテンチ氏が、船は定時に出たことなどないとウイスキー坊主に話しかけた。暑いからうちに来いと誘われるままにテンチ氏の家に行った司祭は、医者を探しに来た子供の求めを拒みきれずに、子供の村へと向かった。村への途中、船は定時に出航してしまった。司祭が安全な国外へ逃亡することができないこと、彼には過酷な運命が待っていてやがて死にいたることを、空を飛び交っているハゲワシが暗示する。 潜伏する司祭の逃避行は、惨めで辛い。警察に追われる酔いどれ坊主がやって来たことを迷惑がる人々、彼が出て行くときは、皆ほっとした顔になる。ウイスキー坊主は、自分を否定する人々の中にあって自問自答を続ける。「私は神によって裁かれている、そうでなければ、私の生きている理由はない」。司祭は逃げ回りながら、自分がそこに存在する意義を考え続け、自分自身を疑い否定しつつも棄教することはない。 俗人となったホセが、保身の余りにウイスキー坊主を匿うことを拒み、彼が銃殺される前に懺悔をしたいと頼んでも拒むという、どこまでも自分自身のことしか考えられない人物である。一方同じ破戒僧であっても、ウイキー坊主は、自分が破戒僧であるという苦しみと、いつ捕まるかわからないという二重の精神的な重圧にさらされ、身体的には慢性的なマラリヤ、食糧不足などの極限的な状況にありながらも、人々の懺悔を聞き、聖体拝領を授け、子供に洗礼を施すことをやめない。最後には罠であることを承知で死にかけたお尋ね者の臨終の懺悔を聞くために、無事に逃げられる道を捨てて、自ら罠の中に入っていく。常に神を意識し、己の中に神を持ち続けたということで、破戒僧でありながら、ウィスキー坊主は、誰よりも神に近い存在として描かれている。しかし、彼自身は、「自分が死んだら地獄へ行く」ことを誰よりも強く確信している。 このウイスキー坊主を追いつめる警部は、貧しいどん底の生活を強いられてきた者であり、共産主義革命は、人々を「もっとマシな生活」にし、「宗教は人々の心を麻痺させ堕落させる」と信じている。彼は「自分が送ってきたような貧困を二度と子どもたちに味わわせはしない」という理想を高く掲げ、その信念のもとに「金権と教会」「教会と盲信」という社会悪を根絶やしにすることに命をかけている。「信念のため、正義のため」の司祭追跡、教会弾圧であるとはいえ、罪のない者たちを人質にして銃殺したり、罠を張ったりする行為は、民衆の共感を得たり尊敬を集めたりすることはない。ついに司祭を追いつめ銃殺するという目的を果たしたのちに、警部は激しい孤独に陥ることになる。 小説中において、対極に位置しながら、警部とウイスキー坊主は、ひとつの人間像の表と裏である。ウイスキー坊主と警部は、よりよい生活を求めるという理想に向かっておのれの信念を貫いて生きるという根本的なところで一致している。一人は共産主義革命の正しさを信じつつも実際に行っていることが民衆迫害になっていることを自覚し、一人は神の存在を信じながらも破壊僧となった自分を許せないでいる。二人は表裏一体の存在である。警部は、司祭を追いつめながら心の奥底でウイスキー坊主に共感をいだいている。 小説のラストシーン、ルイス少年は、夜中、〈神父[Father]〉が戻ってきたと、感じる。少年の夢かもしれないし、幻想かもしれない。銃殺されたウイスキー坊主が復活したのかどうか、別の新しい神父が外国からやってきたのか、ルイス少年の夢にすぎないのか、作者は最終の場面を読者の受け止めるままにして小説を閉じている。1-2 ウイスキー坊主の匿名性、人物設定、作品構造 『力と栄光』の主人公、世俗名を与えられていないアルコホーリクス・アノニマス(Alcoholics Anonymous 無名のアルコール依存症者)としてのウイスキー坊主は、小説に登場したときから、すでに自分自身を「堕落した、エイジェンシー・スラックの持ち主」と自己規定している。アルコールにおぼれ、女犯の罪を犯して娘を生ませている。死ねば地獄に堕ちる自分自身であることを自覚しつつも、なお、神に見放されたメキシコ民衆に対して「父」であることの勤めを果たそうとする。ときには、酔っぱらったあげく、男の子に女性名である洗礼名をつけてしまうようなていたらくでありながらも、自身の死の直前まで、「神父」として生き続けたのである。 主人公が名を示されず、「ウイスキー坊主」というあだ名で呼ばれていることについて。 「AAアルコホーリクス・アノニマスAlcoholics Anonymous」は、1935年にアメリカ合衆国でビル・Wとボブ・Sの出会いから始まった。世界に広がった飲酒問題を解決したいと願う相互援助の集まりで、略してAAという。断酒を願うアルコール依存症者が、自分一人の意志では持続不可能な禁酒を、互いに体験を話し合うことによって持続する。不特定多数無名者による団体である。会長もおらず、会則も会費もなく、ボランティアによって運営され、すでに80年近い歴史を持つ。参加者は「無名であるがゆえに、私はあなたであり、あなたは私である」という意識でグループミーティングに参加してきた。 1937年にメキシコを旅し、1940年に『力と栄光』を発表したグレアム・グリーンは、はたして「AA」の存在を知っていたかどうか。アルコール依存症患者たちが、無名のままお互いの「断酒を続ける生活」を語り合うことによって、依存症を克服するという相互扶助団体にグリーンが興味を持っていたかどうか、文献上で確認することは現在のところできていないのだが、筆者は、グリーンの関心の中に入っていたのではないかと想像する。なぜなら、後述するように、グリーンは1937年のメキシコ旅行中、自分を被告とする裁判の闘争中であり、アメリカの世論動向に強い関心を持っていたと考えられるからだ。アルコール依存というアメリカ社会では「負・マイナス」の烙印を押されてしまった「AA」の無名者たちに、「幼女への性的関心を持つ側の人」として裁判の渦中にあるグリーンが共感を寄せていたと想像することはそれほど荒唐無稽ではない。 実名を持たず、「無名のアルコール飲用者」として設定されているウイスキー坊主は、一個の小説中の個人ではなく、私でもありあなたでもある「普遍の存在」として、小説世界に生きている。グリーンがウイスキー坊主と彼を追う警部に名を与えなかったのは、二人がグリーン自身であり、読者自身であるというメッセージをこめているからだと、筆者は考える。 『力と栄光』は、グリーンの内面の部分が投影されたような人物が交差する。理想社会を求めて社会主義体制の護持者たらんとする警部、警部に追われる逃亡者ウイスキー坊主、ウイスキー坊主をすげなく見捨てる世俗的棄教者ホセ元神父、そして、賞金目当てにウイスキー坊主を警察に売り渡す混血児(キリストを売ったユダになぞらえられる)などの主要人物のほか、歯医者のテンチ氏をはじめ、脇役バイスタンダーが登場する。 小説の第2部と3部は、ウイスキー坊主の逃避行がメインストーリーであり、主としてウイスキー坊主の視点によって場面が推移する。しかし、その額縁ストーリーとなっている第1部と4部は、脇役たちの視点によってウイスキー坊主の姿が描写される。読者は、第一部で、幕が上がった舞台を見ているうちに、いつの間にか自分自身が観客としてではなく、登場人物のひとりとして舞台の中に生きていく感覚を持つ。 この作品構造は、ウイスキー坊主のリアリティを保証するために成功していると思う。この1部と4部には、ギリシャ悲劇における「コロスによる合唱」の響きが連想される。このコロスの合唱を含めて、『力と栄光』は、ウイスキー神父のみじめな最後にもかかわらず、「キリストの復活劇」に匹敵する「祝祭性」を持つ。祝祭の場においてキリストをたたえる劇に見える。 筆者にとっては、『力と栄光』は、グリーンによる「祝祭的キリスト賛歌」である。 物語の全体を統括している行為者A・プリンシパルは神であり、行為者B・エージェントはウイスキー坊主である。 ハヤカワ文庫版の翻訳者斉藤数衛は、警部とウイスキー坊主が無名であることについて「作家としてのグリーンの”さめた目”を感じる」(斉藤数衛訳『権力と栄光』2004ハヤカワ文庫p444)と書いている。筆者の考え方と正反対である。筆者は、グリーンの「熱い共感」が警部とウイスキー坊主に名前を与えず「アノニマス」の一員として描いたのだと考える。作家としての「さめた目」による小説技法としての「無名」の主人公であるとするなら、グリーンは、己をさめた高見の位置においたことになりはしないか。ウイスキー坊主はグリーン自身であるからこその「AA」だったと筆者は主張する。22-1 プリンシパル・エージェント問題 人間世界は、大きく分けるとふたつの事柄によって推移変化する。ひとつは「自然推移」である。宇宙の運行、たとえば地球は、自らが自転しつつ太陽のまわりを公転するということは、人間の意志によって左右されず、個人の意志は何ら反映されることはなく推移する。もう一方は、人間が自らの意志によって世界の変化をもたらす「意志行動」である。意志行動の「変化への意志を持つ者・行為主体A」を「プリンシパルprincipal」と呼ぶ。プリンシパルの意を受けて、「実際に行動する者・行為主体B」を「エージェントagent」と呼ぶ。(注1) これらのプリンシパル・エージェント関係において、しばしば問題が発生する。これをエージェンシー・スラック(agency slack)と呼ぶ。エージェントが、プリンシパルの利益のために委任されているにもかかわらず、プリンシパルの利益に反してエージェント自身の利益を優先した行動をとってしまうこと。エージェンシー問題(エージェンシーもんだい、agency problem)とは、プリンシパル=エージェント関係においてエージェンシー・スラックが生じてしまう問題のことを言う。 キリスト教において、東ローマ帝国では皇帝による聖俗両方の支配が完成し、教会は「キリストに忠実なる支配者」「神の代理人」として、統治する皇帝の下で国家宗教として発展した。 筆者は仏教徒である。両親が曹洞宗の寺に葬られているというだけで、筆者自身が檀家でもなく、敬虔な仏教徒とはいえない。「社会通念上の仏教徒」というにすぎないが、一応仏教徒であり、キリスト教の教義にもカトリックについても、ほとんど何も知らない人間である。(注2) したがって、カトリックの教義においては「教皇=神の代理人と見なされている」と考えている筆者の理解が間違っているならば、このリポートは意味がない。「ローマ教皇は地上で人間の罪を裁く権利をイエスから与えられている」いうことが、カトリックにおいて「ローマ教皇の存在意義」でないなら、「プリンシパル・エージェント問題としての『力と栄光』」というこのリポートは成立しない。 天上で処理することになっていた人間の「罪と罰」の問題が、教皇革命の結果カトリック教会圏では地上で処理できることになり、神が裁くことになっていた人間の罪を人間が裁けるようになった。この大変化を「教皇革命」と呼ぶ。(注3) 「教皇は「神の代理人」として地上の国で「反キリスト」から信者を守ることを使命とする」ということが、筆者が理解した範囲でまとめた「神の代理人としてのカトリック教皇」である。 カトリックの教会法第375条において、司教は、「神の制定に基づき付与された聖霊によって使徒の座を継ぐ者であり、教理の教師、聖なる礼拝の司祭及び統治の奉仕者になるように教会の牧者として立てられる。」司教は司祭(神父)の任命権を持つ。教会法第1012条により、司教は助祭、司祭および司教の叙階を行う。教区に所属する司祭は、教区教会でミサをはじめとする秘跡を執り行う。司祭は「父」として、信者への「直接の神の代理人」として彼らの前に存在する。一般的な信者にとって、神父は「父」であり、神の代理人である。司祭は、神のエージェントとして、信者に向かって神のことばを代弁する。 ここに、経済学政治学でいう「エージェンシー問題」が発生する。エージェンシー・スラック(agency slack)すなわち、エージェントが、プリンシパルの利益のために委任されているにもかかわらず、プリンシパルの利益に反してエージェント自身の利益を優先した行動をとってしまうということが、神(プリンシパル)とエージェントの関係におけるエイジェンシー・スラックである。代理人は、プリンシパルの意に反して、自分自身の利益を優先し、蓄財、飲酒や女犯の快楽におぼれる。 プリンシパル神とエージェント司祭の関係において、「女犯」などのエージェンシー・スラックは、すでにカトリック社会のなかでも「よくある間違い」以上の広がりをみせている。カトリック神父による性犯罪の告発は、「アフリカにおける現地女性への性的虐待、西欧各地での少年への性的虐待」など、世界中でニュースにもならないほど発生している。(注4) 『力と栄光』において、プリンシパルは「神」である。エージェントであるウイスキー坊主は、カトリック教会法によれば、女犯や飲酒によって、すでにエージェンシー・スラックを起こしてプリンシパルの利益を損ねている。エージェントは、行為者Aの依頼の通りに行動する行為者Bなるべきであるのに、行為者Aを裏切ったエージェントとして、自分自身の利益・欲望のために行動している。 作者グリーンはプリンシパルの依頼を裏切っているエージェント、ウイスキー坊主を最後まで悲惨の中にとどめ置いた。しかし、処刑のあと、「あの人は教会の殉教者ですよ」と、少年ルイスの母に言わせている。そして、ルイス少年は、夜更け、ドアをノックする音を聞き、Fatherが再びルイス少年の家を訪問したことを記して物語を締めくくった。 酔いどれのウイスキー神父が心の内に「私は地獄へ落ちる身だ」と内省を繰り返すのと同じ、グリーンはメキシコ旅行の間中「少女シャーリー・テンプルは、男たちの欲望の対象」という自己の発言の意味を反芻していただろう。グリーンの欲望もまた、人に知られることはなくてもプリンシパルが求める行動には合致しないものであることを、グリーン自身は承知していた。人に知られるか知られないかにかかわらず、罪を負う人間存在のひとりとして、グリーンもエージェンシー・スラックを起こしているエージェントであった。「シャーリー・テンプルは欲望の対象である」というグリーンの評論は、グリーン自身の欲望の吐露であった、ということは、1990年代、グリーンの晩年になってから多くの証言がなされるようになったことである。 プリンシパルの依頼を逸脱したエージェントも、救済されるし、称揚される。なぜなら、プリンシパルの大きな依頼の目的からみたら、飲酒も女犯も少女への性的嗜好も、プリンシパルのふところの中にあるからだ。 この『力と栄光』のプリンシパルは、私には大乗仏教の救済者に通じるように思える。どのような極悪人であっても、いまわのきわに「南無阿弥陀仏。アミータ仏、あなたに帰依します」と唱えれば、すくい取ってくれる大いなるプリンシパルと同じように、『力と栄光』のプリンシパルは、グリーンを許し、ウイスキー坊主を救いあげる。 以上のような印象読後感は、綿密な分析的読解によれば、破綻の多い論であることは承知しているが、私は、「カトリック文学」の代表作のひとつという『力と栄光』を、遠藤周作の『沈黙』と同じように、「仏教と相通ずるカトリック」のひとつの表現として読んだ。2-2 言語におけるプリンシパルとエージェント 西欧の言語、インドヨーロッパ語の系統では、主語-述語の文型において、能動文は主語subjectと行為主体agentは一致したものとして扱われる。“The lieutenant opened the cell door.”(p.205).という文において、文の主語は行為主体である。警部は独房のドアに対して「開ける」という行為を加え、ドアを変化させている。He(the boy)put his feet on the ground.(p221)という文において、主語は行為主体であるが、行為対象は「his feet」であり、「彼は足を床におろした」は、少年自身の行為が自分自身のうちに完結しており、他者を変化させる行為ではない。「The boy sat beside the bed. 彼はベッドのわきに座った」(p221)と同じく、自動詞表現に準ずる。 神の存在を信じる者にとって、己の行為に迷いはない。神が決定したことに従って行動することですべての行為が満たされる。行為者Aプリンシパル(依頼人)は、行為者B(実行者)に行動を託し、行為者B(エージェント)は、プリンシパルの意向に添い、プリンシパルの利益を損ねないように行動すればよいのだ。  The boy spat through the window bars.(p220)ではthe boy少年は「つばを吐く」という行為を行っている行為者である。このとき、少年の行動と意志を決定するのは、プリンシパルである。プリンシパルは少年の行動の描写に現れないが、少年が自分をプリンシパルにゆだね、プリンシパルの存在を信じている限り、すべての行動はプリンシパルのエージェントとして行われる。 しかし、自分自身にプリンシパルを認めない「神を棄てた」人間にとって、すべての行動すべての考えや意志は「行為主体B」のみの世界となる。He smiled again and touched it too.(p220)というとき、He[The lieutenant]の行動は、彼自身が決定し彼自身が行為する。「主語=行為主体」であり、他のものは介在しない。 一方、日本語においては、行為主体は背景化される。少年が皿を割ったとして、それが故意動作でない場合の結果を述べるなら、ふつうは「皿が割れた」と表現される。特に少年の行為であることを強調する必要があるのでなければ、皿の上に起こった変化は「事象の推移」として表現され、行為実行者(行為者B)は背景化し、プリンシパル(行為者A)による全体の推移変化として述べられる。このとき、プリンシパルとエージェントは明確な境界線を持たない、融合した存在である。「少年は床屋で髪を切った」という文で、「少年」は行為実行者ではなく、「切る」という動作行為の実行者は床屋である。しかし、日本語は他動詞を用いて少年の行為として事象の変化を表現する。主語(subject)が述語(predict)内容の「行為実行者エージェント」と一致する必要はない。主語は、事象全体の統括者であればよい。日本語にとって、プリンシパル(依頼者・統括者)とエージェント(代理人・行為実行者)を明確に区別する必要がないからだ。全体の事象推移を、結果の側から報告する日本語の表現にとって、「警部は飲んだくれの神父を処刑した」という文も、大いなる事象の中のひとつの表現であり、銃殺の引き金を引いたのが、警部自身の行為であってもよし、警部は「構え、撃て」という命令を下しただけの人であってもよい。プリンシパルは警部と重なりつつ全体の推移を統括している。 『力と栄光』の物語は、すべてプリンシパルの統括の中に収束している。本来ならば、神を信じず、すべての行為を己の責任において実行しているはずの「ウイスキー坊主を追う警部」の行動が、ウイスキー坊主の行動と同じくすべてプリンシパルの意志の元で行われているように感じられるよう作話しているところが、グリーンの手腕であろう。ほんとうならば神とは決別しているはずの警部の行動も、すべて神の意志のなかに取り込まれているように思える。この点で、『〈力と栄光〉』を有するプリンシパルとは、大乗仏教の阿弥陀仏のように感じられるのだ。33-1 グリーンのバックグラウンドとグリーン文学のキーワード  『力と栄光』は、1940年に発表されたグレアム・グリーン(1904年10月2日~1991年4月3日 )の代表作のひとつであり、彼はこの一作によって、作家としての地位を固めたといえる。この後の、『事件の核心』(1948)、『情事の終り』(1951)とともに、グリーン文学の中心的な作品である。 グリーンは多くの場合「カトリック作家」として分類され、宗教的には終生カトリックの信仰を持ち続けた作家として、カトリック倫理をテーマに据えた作品を書き続けた。また、一方では思想的に終生「共産主義」への共感を持ち続けた作家でもある。カトリック信仰と共産主義への共感はグリーンの中では調和した一体のものであり、1984年にイギリスの作家、マーティン・エイミスが80歳の彼にインタビューした際、グリーンは「確信を持った共産主義者と確信を持ったカトリックの信者の間には、ある種の共感が通っている」と語っている。(エイミス2000 p16) 『力と栄光』は、「共産主義社会の中のカトリック」というテーマを背景に持つ作品である。早川書房版の文庫翻訳『権力と栄光』(斉藤数衛訳)には、この作品の成立についてグリーン自身による「序文」に詳しく記されているが、ペンギンペーパーバック版にはジョン・アプダイクの序文がついていて、グリーンの序文は載っていない。(以下、翻訳は『権力と栄光』、原作については『力と栄光』と記す) 『権力と栄光』序文の概要は以下の通りである。1,グリーンは1937~1938年に、メキシコ旅行をした。メキシコの共産主義革命下における宗教迫害をリポートするためであった。2,メキシコのタバスコ、チアパスで、最後の司祭のうわさを聞いた。ひとりは棄教者となり、ひとりは酔っぱらいだった。3,グリーンは、「『The Power and the Glory』は、ある主題にそって書いた唯一の小説」と述べている。 グリーンの思想的背景として、カトリック信仰と共産主義へのシンパシーをあげたが、あと3点、グリーンのバックグラウンドとしてあげておくべきものがある。 ひとつは、少年時代の父との確執である。グリーンは1904年にイギリスのハートフォードシャー州バーカムステッドで生まれた。父はハートフォードシャーにあるパブリックスクール、バーカムステッド・スクールの校長であった。父が校長である学校に通う間、グラハム少年は反抗心をもてあました。厳格な教育者である父との相克と心理的な決別は、「父なるもの」「father」との関係について、グリーンの小説において大きな意味を持っていると思われる。 第2点。パリックスクール在学中、スパイ小説家ジョン・バカンの小説を愛読した。のちにグリーンはイギリス諜報部のスパイとして勤務することになるが、「裏切り」は、スパイが出てこない彼の小説においても潜在的なテーマとなっている。 第3点目は、グリーンは性的傾向において、ロリータ・コンプレックスの持ち主であったということである。マイクル・シェリダン(山形和美訳)『グレアム・グリーン伝:内なる人間』上(早川書房・1998年)pp.348-349 には、歓楽地のブライトンで若い少女を求めていたという小説家フランシス・キングの証言が記されている。また、雑誌『スペクテーター』には、歴史家レイモンド・カーによる「グレアム・グリーンがハイチに出かけていってはロリコン買春をしていた」という記事が掲載されているという。(この雑誌につき、筆者未読・未確認)ロリータ・コンプレックスに対しては、性心理学などからの分析は多々あるが、成人女性に対する性的要求(成熟した人間対人間として、一対一の関係を切り結ぶ)に比べて、「男性として、幼い対象を完全に支配したい」「父あるいは偉大な存在として少女に影響を与え、意のままに扱いたい」という心理的要素が強いとされる。 グリーンによる1937年のメキシコ旅行は、彼の「少女スター、シャーリー・テンプルは、男たちの性的欲望の対象である」という評論が激しい非難にさらされ、裁判騒動になっているさなかの旅であったことを、作家は『権力と栄光』の序文で最初に述べている。裁判は結局敗訴となった。1937年に雑誌『ナイト・アンド・デイ』に子供を主な視聴者とする家族向けの映画『テンプルの軍使』について、9歳のシャーリー・テンプルに男性の観客は欲情を感じているという趣旨の批評を書いた。20世紀フォックスとの裁判で敗訴し、高額の罰金を払い『ナイト・アンド・デイ』は廃刊になった、という事件である。1990年代にグリーンの性的傾向「少女への性愛嗜好」が話題になると、グリーンは民事訴訟を忌避してメキシコへ渡っている。メキシコが「犯罪者の引き渡し条例」に属していない国であったがゆえの渡航先であったのだが、かって、1937年当時の旅の思い出の中では「あまり愉快な旅ではなかった」と書いているメキシコを「ロリコン追求から逃れるための地」として選んだことは、何かの巡り合わせであるのかもしれない。 『力と栄光』の中に描かれる、「神の存在と棄教」と司祭を追いつめる「理想主義的共産主義者」の相克。これらの登場人物の中に、グリーンは、「官能的な7歳の少女」を登場させている。無垢で無知であるがゆえにいっそう魅力を発揮する少女を官能の対象とせずにはいられないグリーンにとって、少女愛はウイスキー坊主の破戒にも匹敵する「己の中に隠し持つ破戒」であった。 晩年のグリーンに対して、その名声や名誉をはぎ取らんばかりに追いつめようとする「少女性愛傾向者」という烙印。不名誉から逃れようとするグリーンは、かってウイスキー牧師がさまよった荒涼としたメキシコを、みずからの彷徨の地として選んだ。 以上のグリーンのバックグラウンドから、グリーン文学を解釈するキーワードを並べてみると、「父と子」「支配と被支配」「裏切り」「烙印を背負う彷徨」 以上のグリーン文学キーワードは、『力と栄光』のテーマとも重なるものである。3-2 グリーンのメキシコ旅行 ジョン・アプダイクは『力と栄光』に序文を寄せている。英語力ない筆者なので、アプダイクがグリーンに対して次のように述べている言説がまったく理解できない。 アプダイクはこのイントロダクションのなかで、次のようにグリーンのメキシコ旅行を評している。An ascetic, reckless, life-despising streak in Greene's temperament characterized, among other precipitate ventures, his 1938 trip to Mexico.グリーンの気質の禁欲的で向こうみずな、生命を軽蔑している傾向は、他の無鉄砲な冒険の間で、メキシコへの彼の1938年の旅行を特徴づけている。(稲村の試訳)  アプダイクがグリーンのキャラクターを「禁欲的で生命を軽蔑している」と評していることは、グリーンを大きく見誤っていると筆者には感じられる。グリーンがメキシコ旅行で得たことは、「禁欲的で生命を軽蔑している」とは、正反対に思う。「欲望をさえぎることなく荒野に解き放ち、生命謳歌を荒涼とした大地に感じ取った」ゆえの『力と栄光』の力強い文体となったのだと思うのだ。 『力と栄光』の3人の主な登場人物。棄教し世俗人として家庭生活を選んだホセ神父。司祭として生きる生き方を棄てきれず、荒れたメキシコをさまよったあげくに、混血児の裏切りにあい警部に逮捕され処刑されるウイスキー坊主。「子供たちによりよい社会を」という理想主義のもと共産主義革命の成就を願う警部。この3人は3人ともグリーンの分身であろう。 「自分自身がシャーリー・テンプルのような幼女に性的欲望を感じる男のひとりである」ということはカミングアウトしないまま、メキシコを旅していたグリーンにとって、『力と栄光』発表後、50年の歳月を経て目にしたメキシコは、どのような大地として目に映ったであろうか。4 『力と栄光』と『沈黙』 筆者は、100カ国の留学生に出会ってきたが、真実自分自身を「無神論者」と規定していたのは、イスラエルからの女性写真家ただひとりであった。彼女はイスラエル国籍の父とイギリス国籍を持つ母親との間に生まれイギリスで成長し、イスラエルに移住した。彼女以外、「無宗教」と答えた人に出会ったことがない。彼女のような厳しい自己規定でいえば、筆者も「無宗教」と言わなければならないのであろうが、留学生に対しては「I am a Buddhist.」と言うことにしている。1年に1度ほど両親の墓参りをしに寺詣でをするというだけの仏教徒なので少々気がひける思いもするが。特に入信の儀式もなく、教義も知らず、ただ、親が寺に葬られているので墓参りをするという程度の「仏教徒」がほとんどである日本で、「信仰告白と棄教」という問題が、いまひとつ身近で深刻な問題とは考えにくいのだ。 遠藤周作は『力と栄光』に触発されながらも、きわめて日本的なプリンシパルとエージェントを描いた。すなわち、『沈黙』の小説主体は、棄教者ホセに対比される転びバテレン・フェレイラと、裏切り者ユダ役の混血児に比するキチジローへと視点が投影されている。内面にイエスへの憧憬を持ち続けるなら、形の上で踏み絵を踏んだところでイエスはそれを許し、信仰者として受け入れてくれる、という遠藤の解釈は、グリーンの『力と栄光』をしのいで大乗仏教的であると思う。 カトリックは、そもそも1,人間の魂は全てイエス・キリストからの恩恵を受けており、本性上キリスト教的な存在である。すなわち全人類は『可能的』にキリスト教徒である。 2,「可能的キリスト教徒」は、教会に所属していない者であってても、それは未だ無知なためであり、良心の声に忠実に生きる人は知らずして神に従い、またイエス・キリストの恩恵を受けることになる(含蓄的な恩恵(fides implicita)。3,そのため、カトリック以外の教派あるいは異教徒にも『含蓄的』な信仰を抱き「見えざる教会」の一員になり得る場合がある。 4,含蓄的な信仰を抱いた人はイエス・キリストの啓示真理に接することによって、その信仰は『顕現的』なものとなって、目の前に存在する唯一の教会の一員となる。 グリーンは『力と栄光』「人間の本性は、その堕落を経てもなおも神による普遍的な救済意志の恩恵を受ける資格を有している」というカトリシズムの根幹の思想を描き出した。「救済を受けるためにはイエス・キリストの体に替わる存在であるローマ教皇を頂点とする教会組織に加入することによって「新しい神の民」となり、その信仰が福音の真理から逸脱しない保証を獲得する必要がある」この考え方が教理として有効なのかどうか、筆者にはわからない。 ウイスキー神父はどれほど実生活で堕落しようと、洗礼や終油などの秘蹟を施す司祭としての役目を遂行することでキリスト教徒として存在しようとしていた。  一方、教会という制度の中に存在しなくても、心の中にイエスを思いさえすれば、洗礼しようとしてまいと、懺悔告解をしようとしまいと、最後の秘蹟を受けようと受けまいと、神は受け入れる、という考え方は、「南無阿弥陀仏」と唱えるのと同じく「南無耶蘇神」と唱える「大乗耶蘇教」信者である、と、筆者には思える。サクラメント秘蹟を無視してカトリシズムは成立しないのであるのかどうか、カトリック教義に詳しくない筆者にはわからない。5 結語 グリーンは文学史上、カトリック作家として扱われる。 筆者は、『力と栄光』のテーマを、破戒してもなおキリスト者であろうとする者への魂の救済の物語と受け止めた。これは、欧米社会では今なお「異常性愛者」という烙印を押される「少女への性的嗜好」というグリーン自身の内なる暗闇を抱えた生への救済でもある。 人は個人の意志によって行動し、生きていくように思っていても、プリンシパル(依頼者)に命じられた通りに行動するエージェントにすぎない。時にプリンシパルの利益に反する行為をエージェントがとっているように見えても、エージェントがプリンシパルのもとに所属している限りでは、プリンシパルはエージェントを切り離すことはない。 日本語母語話者、とくに日本的仏教徒(古代神道や道教と習合した仏教)にとって、プリンシパルとは自分をとりまく世界そのものであり、個人と世界を切り離すことはない。自己の内に感じ取る事象の変化は、自己を含むプリンシパルが世界を推移させるその内に存在し、明確なエージェントとして行動することは、特別な場合に限られる。「The lieutenant opened the cell door.」と「The cell door opened.」「The cell door opende by the lieutenant.」とは、厳密に区別されなくてもよい同一の「事象の推移」にすぎない。プリンシパルとエージェントとオブジェクトは切り離して考える必要のない、一体のものだからである。 『力と栄光』は、西欧文学のなかで、仏教信者にも受け入れやすい神と人の物語であるが、それは、グリーンがプリンシパルとエージェントを切り離されるべきものとして描いておらず、大乗的な「すべてを包み込むもの」が小説のすみずみまでその「power」「glory」となって満ちているからと思う。(注1) 経済学・社会学・政治学などにおいて、プリンシパル=エージェント関係(principal-agent relationship)(あるいはプリンシパル=エージェンシー関係(principal-agency relationship)とは、行為主体Aが、自らの利益のための労務の実施を、他の行為主体Bに委任するとき、行為主体Aをプリンシパル(principal、依頼人、本人)とし、行為主体Bをエージェント(agent、代理人。またはエージェンシーagency)として、その関係や利害関係を扱うことである。 経済学で考察の対象となるプリンシパル=エージェント関係としては、株主(プリンシパル)と経営者(エージェント)の関係、経営者(プリンシパル)と労働者(エージェント)などがある。政治学で考察対象となるのは、特に合理的選択理論において分析の対象となる。政治家(プリンシパル)と官僚(エージェント)、議院内閣制における与党議員(プリンシパル)と内閣(エージェント)、首相または大統領(プリンシパル)と閣僚(エージェント)などの関係が挙げられる。(注2) 筆者のカトリック理解は、大学学部で1970年代に仁戸田六三郎の授業で学んだ「宗教学」、1980年代に島薗進の授業で学んだ「新興宗教学」において得た知識の範囲を出るものではない。(注3)宮島直機(中央大学教授)の『「東方キリスト教学会」における2006年8月31日発表」』のまとめ o, 11世紀までは、皇帝がヨーロッパ全域を統べるimperatorであった。皇帝が「キリストの代理人」であり、教皇は数多くいる司教の一人に過ぎず、教皇は「ペテロの代理人」に過ぎなかった。1, 1046年のスートリの教会会議で、皇帝ハインリヒ三世が並立する二人の教皇シルヴェステル三世とグレゴリウス六世を廃位した。2, 廃位に反発した教皇側が、1059年に教皇を枢機卿会議で選ぶことにしたため、皇帝は教皇を選べなくなった。3, 1062年にシチリア国王が教皇に保護を求めてきた。教皇はシチリア国王の武力を借りて皇帝の影響力を排除できるようになった。4, 1073年にグレゴリウス七世が教皇に選ばれ、1075年に「教皇令 Dictatus Papae」を発表。5, 教皇により聖職者叙任権は、皇帝や国王ではなく、教皇本人が持つようになった。6, 聖職者叙任権を失った皇帝は「世俗の支配者の一人」に過ぎなくなり、皇帝に代わって教皇がヨーロッパ全域を統べるimperatorになった。すなわち、「キリストの代理人=神の代理人」になった。7, 人間ペテロの代理人にすぎず、皇帝より強い権力を持つことはなかった教皇が、「特定の教会に縛られず、キリストを体現したと見なされるパウロの権威」を教皇の権威として認められたことにより、教皇は「神の代理人」となることができた。教皇は「神の代理人」として地上の国で「反キリスト」から信者を守ることを使命とする。(注4) 大阪地検2009年2月25日21時29分(朝日新聞大阪版2009年2月25日付け報道によると)以下の記事に報道された「セクハラ神父」問題は、証拠不十分で不起訴となった。【朝日新聞】2009.02.04  司祭、母娘にセクハラか 大阪府茨木市のカトリック大阪大司教区茨木教会の男性司祭(74)が、同教会に出入りしていた信徒の母子にセクハラ行為をした疑いがあることが同教区への取材でわかった。司祭は同教区の聞き取り調査に対し、キスをするなどの行為を認めたという。本人「申し訳ない」 大阪府警は、司祭が立場を利用してセクハラ行為に及んだ強制わいせつの疑いがあるとみて、母子から事情を聴いている。また、ほかにも複数の人がセクハラを受けていたとの証言もあることから、事実関係の確認を急いでいる。 大阪、和歌山、兵庫3府県のカトリック教会を管轄する同教区によると、司祭は茨木教会に通っていた40代の母親と小学生の女児と親しくなり、教会施設内で母親にキスしたり抱きしめたりするなどのセクハラ行為を繰り返し、昨年12月には母親の目の前で女児にもキスをしたという。母親は同教会の清掃や食事の準備などを手伝い、教会からの賃金を生活費にしていたという。 母親は今年1月、これらのセクハラ行為を同教区へ申告した。教区の聞き取りに対し、司祭は行為自体は認めた上で、「母子がふびんだった。子どもも小さいころから知っていた。海外では普通のこと」と主張する一方、母子に対し「申し訳ないことをした。謝りたい」と述べているという。母親は「(セクハラは)仕事も紹介してもらっていたので、嫌々だった」と話しているという。 同教区は「子どもが関係しているので、客観性を保った調査が必要」とし、弁護士3人で第三者委員会を立ち上げ、関係者から話を聞いている。 同教区の担当者は「教会に対する信頼を損なう行為。双方の受け止め方は違うが、うやむやにせずはっきりさせたい」としており、8日に信徒に説明するという。(注5)アプダイク序文の冒頭部分を筆者の和訳で掲載しておく。筆者の英語力は非常にpoorであり、アプダイクの言いたいことがよくわかっていない、という証左として掲載するのである。<イントロダクション ジョン・アプダイク>  『力と栄光』は、(50年前、英語版の通常の出版どおり3500部で出版されたのだったが)グレアム・グリーンの傑作として認識され、評価に値するのみならず、高い人気を保つ本であることにみな同意している。   グリーンはメキシコのタバスコとチアパスの南地方に2ヵ月弱滞在した。3月、5週の厳しい単独の旅行、そして1938年4月の滞在に基づいて、グリーンの小説としては、イギリス人の登場人物が最少の物語である。英国人は少数が脇役となっているだけである。  おそらく、ローマ・カソリックについての幾分かの非英国人的なものが明白に存在する故に、この小説は成功している。マニ教のような暗闇、苦痛に満ちた文体で、彼の最も野心的なフィクションとなっている。   エンターティメントとは対照的な三つの小説、すなわち『力と栄光』に前後する『ブライトンロック』(1939)『事件の核心』(1948)『情事の終わり』(1951)は、偉大な作品であることに疑問はない。これらの作品は、調査者の視線と同じほどに激しく不穏に見通している。   ジョーゼフ・コンラッドとジョン・バカンの影響を受け、彼が小説家として順調なスタートをした後、グリーンのスリリングなプロットを構成する名人芸的才能と、幾分軽い病気ともいえる感受性の強さを伴う高水準の知性と情熱が、疲れを知らぬ宗教的内面の厳密な言葉によって論じられた。   これらの3つの小説において、なお、わずかながらもローマ・カトリシズムに固着し、これらの小説には、夢のような感覚の範囲においてゆがみが存在する。竹野先生Q:(テンプル誹謗の言葉は、グリーンの欲望の吐露という判断ですね?稲村A:はい、筆者の解釈では、グリーンは少女性愛者、いわゆるロリコンです)使用テキストGraham Greene:The Power and the Glory, PENGUIN CLASSICS, 2003.グレアム・グリーン著/斉藤数衛訳『権力と栄光』、ハヤカワ文庫、2004。引用文献マーティン・エイミス(Martin Amis)大熊栄・西垣学訳・『ナボコフ夫人を訪ねて-現代英米文化の旅』、河出書房新社、2000。マイクル・シェリダン(山形和美訳)『グレアム・グリーン伝:内なる人間』上(早川書房・1998年)pp.348-349http://c-faculty.chuo-u.ac.jp/~miyajima/_tK8XLl1.html参考文献山形和美『グレアム・グリーンの文学世界-異国からの旅人-』、研究社出版、1993年コロンビア大学『現代文学・文化批評用語辞典』、松柏社、2002。ジョセフ・チルダース、ゲーリー・ヘンツィー編。杉野健太郎・中村裕英・丸山修、訳