2005/09/25 日
弁慶がな、ギナタを(3)伝説の人、弁慶
森蘭丸は、本能寺で最後まで信長のもとを離れず、死を共にした。信長蘭丸の関係については、蘭丸の信長に対する「Love!」感情を認める歴史小説家も多い。
それなのに、なぜに弁慶の義経に対する感情にはフタをしてしまい、弁慶を何がなんでもヘテロ愛(異性愛)に設定したがるのだろうか。
近年の弁慶登場小説や、今年の大河ドラマでは、弁慶に「玉虫」だの「ちどり」だの、いろんな恋人がくっついているのである。
今回NHKテレビ『義経』では、「弁慶にも、めおと約束をした恋人がいた」ことになっていて、オセロ黒の中島知子が「ちどり」という漁師の娘に扮し、弁慶と相思相愛の仲になった。
義経には、正妻や側室、静御前をはじめとする愛妾などわんさかいたという。伝説では、平時忠の娘、久我大臣の娘など、大勢の妻をめとっている。
ただし、鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』に名がみえるのは、頼朝の命令で妻にした正室河越氏と、鎌倉におくられ頼朝と直接対面した静のみ。
義経従者の中で、奥州から付き従った佐藤兄弟は、実在が史実として裏付けられている数すくない人物である。
この佐藤兄弟には妻がいた、という話が広く伝わっている。
昭和初期までの教科書に採用されて、嫁の模範とされていたエピソード。
佐藤兄弟なきあと、ふたりの妻が嫁として兄弟の両親に仕える話が、「女子の手本とすべし」と教えられていた。
屋島の合戦で討たれた継信と、京都堀川で最期を遂げた忠信。佐藤兄弟は、破滅へと向かう東北への逃避行には付き従っていない。
『平家物語』に描写された継信の最期。
『「もはやお別れです」という継信に、義経は「思い残すことはないか」と聞いた。
継信が「この後の義経様の栄光を拝見できない事が、唯一つの心残りでございます」と答えると、義経の頬には、はらはらととめどなく涙が流れ落ちた。これを見て皆も涙をこぼし、こう言いあった。
「この君のために命を失うことなど、露塵ほども惜しくはない」』
この、継信の最期のことばは『平家物語』に書かれているのであって、フィクションである。
フィクションではあるが、「安宅の関」に至るまでに、家来の間に「この人のためなら、命を捨てても惜しくはない」という、「感情共同体」とも言えるものが形成されていたであろうことは、推測できる。
『吾妻鏡』には、2度「弁慶」の名が記載されている。
『吾妻鏡』に登場する弁慶は、1185年(文治元年=寿永4年)11月3日の記事に、西国へと落ち延びようとする義経主従の一人としてその名がみえる。
また、1185年11月6日の記事には、西国へむかって大物浦から出航した船が難破したことがしるされている。
乗船した一行はちりじりになり、義経に従う者僅かに4名
「伊豆右衛門尉、堀弥太郎、武蔵坊弁慶、妾女(静)」と、ある。
弁慶が登場するのは、この2ヶ所のみ。
琵琶法師が語り伝えたフィクションである『平家物語』にも、弁慶は2ヶ所登場するだけである。
一ノ谷合戦に参加した義経家来のひとりとして初めて弁慶の名前が登場する。
木曾義仲との合戦のときには、従者のなかに名前が出てこない。
平家物語(原本)成立のころ(鎌倉初期)には、義仲との戦のあと、義経の家来になったと、みなされていたことがわかる。
『平家物語』の弁慶登場はもう一ヶ所。頼朝との不和が決定的になり、西国へ落ち延びようとして、大物浦で難破する話。こちらは『吾妻鏡』と共通する。
どちらも、「義経の片腕」「義経側近中の側近」という扱いではなく、「従者の中のひとり」にすぎない。
弁慶という人物が義経の側近として実在したことは間違いないと思われるが、後世の人が弁慶の名からイメージする人物像は、各地に広まった伝説や、琵琶法師の語りなどによって大きく変形した伝説的人物としての弁慶である。
弁慶伝説のもとのひとつは『義経記』である。
『義経記』は別名『判官(ほうがん)物語』また『牛若物語』として、室町時代初期に成立し、各地で語り物として広く民衆の中に浸透した。
義経主従、衣川に滅亡してより200年のち、弁慶はスーパーヒーローに成長していた。
この『義経記』のなかから育った弁慶の姿が民衆に浸透していくのは、熊野の山伏らが、東北地方を中心に各地で弁慶伝説を広めたからである。
弁慶がスーパーヒーローとして民衆の中に根付くのは、室町後期から江戸時代になってからのこと。
歌舞伎の「松葉目物」として、能で演じられた弁慶が芝居の中でヒーローとして登場し、熊野山伏の語る弁慶伝説が敷延して以後のことなのだ。<つづく>
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2005/09/26 月
弁慶がな、ギナタを(4)『義経記』の弁慶
『義経記』に見える弁慶の姿。
『むさし坊はわざと弓矢をばもたざりけり。四尺二寸(約130cm)ありけるつかしょうぞくの太刀はいて、岩とおしという刀をさし、いの目ほりたるまさかり、ないかま(薙鎌)、くま手、船にがらりひしりと取り入れて、身をはなさず持ちける物は、いちいの木の棒の一丈二尺(約360cm)有りけるに、くろがねふせて上にひる卷きしたるに、石づきしたるを脇にはさみて~』
と、弁慶のいでたちが描写されている。
『義経記』の中にいる弁慶は、、実在の僧兵というより、すでにして怪力無双の伝説的人物なのだ。『義経記』から、さらに膨大な弁慶伝説が敷延していく。
観音信仰や熊野権現信仰を広めて歩く法師山伏比丘尼の語りによって、弁慶伝説はどんどんふくらんでいき、さまざまなエピソードが作られた。
母親の胎内に18ヶ月とか24ヶ月とかいたという説。生まれてすぐに話もでき、食事も自分でとったという説。
しかし、『吾妻鏡』以外に、史実を伝える同時代の文書などには、名前も出てこず、どんな人物だったかは、史実上ではまったくわからない。比叡山の僧だったというが、これも伝説の域をでない。
『看聞御記』は、伏見宮貞成親王(1372~1456年)の日記である。
貞成親王は室町時代の崇光天皇(北朝三代目)の孫、後花園天皇の父。不遇な時代の32年間の日記に、庶民の祭礼や庶民との交流を記した。
その中に『武蔵坊弁慶物語』という書物の名を1434年11月6日づけで記録している。
おそらく、室町中期にはさまざまな弁慶伝説をまとめた書物となっていたのであろう。
私たちが知る弁慶の姿は、ほぼ100%伝説上の人物である。
源義経が歴史上の人物であることは確かであるが、弁慶の物語も歴史上の出来事と思ってしまうのは、まちがい。
水戸光圀(みとみつくに)が実在したのは本当だが、テレビに登場する「水戸のご老公黄門様」が全国漫遊したのは、100%フィクションである。
弁慶が義経とともに『吾妻鏡』に名を記しているのは事実だが、弁慶にまつわるエピソードは、「水戸黄門漫遊記」と同様に、ほぼ100%後世に作られたフィクションである。しかし、「歴史大河ドラマ」というと、歴史そのままと思う人もいるので、話が混乱する。
実在の弁慶については、わかっていないのだから、どのような人物にこしらえても、驚くことはない。とは、言うものの、弁慶妻帯説は、ヘテロ愛を優先する現代の風潮にあわせているだけのものに思える。
他の家来たちも、常陸坊海尊はじめ伝説的な人物が多く、実在を確認することは難しい。それゆえ、彼らに妻がいたかどうかなんてことも、もちろん伝説以上のことはわからない。
ただ、武蔵坊、常陸坊という名乗りから、二人は僧形をしており、周囲の人も、彼らを僧として扱っていただろう、ということはわかるが。
戒壇で正規の具足戒を授けられた正式な僧侶は、寺の記録に残されている。正規の僧侶でなく、国の許可なしに勝手に僧になった人(私度僧)も、平安以後多くなった。
弁慶の名が寺の記録にないことからみると、弁慶は僧形をしていたものの、記録に残さされるような正式な僧侶ではなく、私度僧であったと思われる。
弁慶伝説では、みずから髪を剃って、僧になったとされている。<つづく>
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2005/09/27 火
弁慶がな、ギナタを(5)不淫戒
平安時代の僧侶の生活について。
在家仏徒と僧侶の戒律は異なるが、不飲酒戒(お酒を飲んではいけない)は、仏教五戒のうちのひとつ。
だが酒は、寺内で「般若湯(はんにゃとう=悟りに近づくための薬湯)」として飲まれていた。
不淫戒(みだらな交わりをしてはならない)という戒律も、般若湯のような抜け道があった。
女犯は禁じられていたものの、僧侶と稚児(ちご=寺社や貴族邸に出仕している少年、童)との親密な関係は、寺では常住坐臥の一部、日常のことであった。
僧形の弁慶に恋人がいたとして、相手は稚児ならありうる。しかし、仏罰必定の女犯をおこなう破戒僧となったかどうか。
末世となった平安末期以後、仏教界は混乱を増していくが、僧形の者が女性と添うのは、そうそう簡単なことではなかった。
一方、名家の出身でない少年にとって、貴族や僧侶の「恋人」になることは、出世の第一段階でもあった。
室町時代になってからのことだが、能を大成した世阿弥は、少年時代に足利義満の寵愛を得たことが出世の足がかりとなった。
稚児(童)は、寺で雑仕として働きながら教育を受け、読み書きはもちろん、舞、今様(歌)などの芸能から、流鏑馬などの武術まで仕込まれた。
みめよい「童」をめぐって、僧同士で「闘諍の沙汰」を起こすこともあった。
『玉葉』(九条兼実の日記)の、1180年(治承4)8月12日づけ記録。
八条宮円恵法親王(はちじょうのみやえんえほっしんのう=後白河上皇の皇子)は、房覚僧正と、寵童をめぐって取り合いの争いをした、と書かれている。
義経の同母兄、源義朝と常磐の間に生まれた乙若は、この円恵法親王のもとで「童」として召し使われ、気に入られた。そのまま出家して「卿公円成(きょうのきみえんせい)」となり、円恵の坊官(事務官僧)として仕えた。のち改名して義円と名乗った。
牛若も鞍馬寺に預けられたが、出家しなかったのは、父の義朝よりも容貌が悪かったから、という説がある。「父に似わろし」という同時代の評価が残っているのだ。悪ガキであったようだ。
乙若は美人の母に似て、みめよい童であったのだろう。もしも、タッキーくらいに美しい童だったら、牛若も寺内にとどまり、出家したかもしれない。
義経が美形であったら、武士にはならず、平家が壇ノ浦で滅ぼされることもなかったかも。義経=タッキーだっら、歴史は動かなかった。
さて、仏教界は末世の世に、変動が起きていた。
平安末期に、真言密教の一本山であった醍醐寺の門流から、真言立川流(しんごんたちかわりゅう)が派生し、現世往生を唱えた。
立川流の僧たちは、真言密教の「人間の愛欲を積極的に肯定する教え」を広めていった。<つづく>
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2005/09/28 水
弁慶がな、ギナタを(6)真言立川流と念仏宗
真言密教では、次のように言う。
『性の欲望というものは、もともときわめて御し難い、それゆえ、欲望からくる諸々の悪を防ぐには、初めからその欲望を一切否定し、認めないとするほうが、策としては手っ取り早いし、教えにも一応の筋は立つ。それ故に一般の仏教では禁欲の旗を掲げているのだ。
しかし、現に生身の人間が住むこの世で、そういう教えが本当に成り立つだろうか。もしも性の欲が一切いらぬ、というなら子孫は絶え、この世から人間というものが消えうせるだろう』
末世の時代、この真言密教の教えを前面にだす立川流成立に至り、性に関するタブーが弱まるきっかけとなった。寺院と俗界の間に差がなくなっていった。
しかし、弁慶が比叡山(真言宗)出身という伝説も、信憑性あるものではないし、真言立川流であったかどうかもわからない。日本各地にあるどのような伝説をみても、立川流とは縁がなかったようだ。
弁慶伝説を広めていったのは、熊野神社に繋がりを持つ山伏たちであったから、弁慶は熊野権現信仰に結びつけられた。
弁慶義経が滅んだ後、何年もたったころ、鎌倉仏教の確立期のことである。日蓮は、念仏宗のことを邪教として口を極めて罵倒した。念仏宗が破戒を是(ぜ)として憚らなかったからだ。
親鸞が妻帯を敢行し、在家念仏を認めたことが大きな契機となった。
女犯(にょぼん)を肯定した念仏僧たちが、女房や尼僧たちと関係する行為が増え、世上を賑わせるようになった。
しかし、念仏宗以外の僧にとっては、依然として女犯は仏罰にふれる破戒行為であった。
鎌倉時代初期の1206年(建永元年)12月、後鳥羽院(高倉天皇の第四皇子、安徳天皇の異母弟)が、熊野御幸(くまのごこう)に出かけている留守に、院の寵姫伊賀の局(亀菊御前)や坊門の局らが別時念仏結縁(べつじねんぶつけちえん)の名目で外泊し、遵西(じゅんせい)や住蓮(じゅうれん)らの専修念仏僧と通じた。
これらのことが大問題になり、事件として記録されているということは、鎌倉期に入ってもまだ、念仏宗以外の僧にとって、女犯は「破戒」の大罪をおかす禁忌であり、専修念仏の僧が女性と通じた、ということは、他の人々にとっては見過ごせないことだったのだ。
弁慶が愛欲肯定の「立川流」の僧であったり、念仏宗の妻帯肯定の立場にいた、という解釈をすれば、玉虫でもちどりでもくっつきそうな情勢ではある。
だが、西海へ落ちてゆく主人、東北へ流浪する主人にどこまでも付き従う弁慶は、真言立川流とも念仏宗とも関わりがなさそうである。<つづく>
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2005/09/29 木
弁慶がな、ギナタを(7)ヘテロ愛?弁慶
弁慶がたった一度女と交わったという伝説もある。
しかるに、日本各地に膨大な弁慶伝説が敷延しているにもかかわらず、弁慶妻帯説、弁慶の女恋人説はでてこない。
どの伝説でも、強調されているのは、義経への無私の忠義、愛、であって、弁慶ヘテロ愛説は、近代になるまで出てこない。
ある書にいわく。
『西塔のむさし坊弁慶、一度女と交わって後、一度は千回に同じとて、その後一生不犯なりしとぞ、まことに大男のしるし、ものにたゆまぬ質なり、多くの軍書を見るに、弁慶が女色にたわぶれしことついに見えず』
一角仙人や鳴神上人が、女性の魅力に負けたゆえに神通力を失ってしまった、という伝説があるように、「弁慶が強かったのは、不犯だったからこそ」と、伝説のなかでも信じられていた。
日蓮が、念仏宗の妻帯を口をきわめて非難したことでもわかるように、女犯破戒は、弁慶の時代、まだまだ禁忌であった。
弁慶が、武蔵坊という名によって僧形であったと信じるなら、「妻帯を認めた親鸞以後の真宗僧侶」や「妻帯肉食何でもアリ現代の葬式仏教僧侶」とは異なる世界にいた僧兵であることを考えてみるべきだ。
伝説にあるように、弁慶がたった一度女性と交わった経験を持った、というのを考慮しても、それは「夫婦約束をする」「女の婿として扱われる」という「決められた女性と、世間からカップルとして認められる関係になる」とは異なるのだ。
それなのに、近代以後の小説や脚本の中では、弁慶が女の恋人を持つようになったのは、何故か。NHK大河弁慶が、「ちどりの婿」としてふるまうのは何故か。
弁慶を「ヘテロ愛」にしておきたいからだ。
「人間の正しい愛情は、ヘテロ愛(異性愛)のみ」とされてしまった近代恋愛観(キリスト教的恋愛観)の狭い解釈が、いまだ現代社会恋愛観の主流をしめているからではないだろうか。
「生殖を目的としない同性愛は、唯一神が認めていない」などという狭い考え方は、明治になるまで日本には存在していなかった。
NHKが弁慶の義経一途な忠義に対し、堂々と「男が男に惚れてどこが悪い!」と、言えるようなら、視聴料払うけどね。
「男が男に惚れる」は、セクシャルな意味だってあるし、そうじゃない場合もある。異性愛にもいろんなタイプがあるのと同じ。<つづく>
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2005/09/30 金
弁慶がな、ギナタを(8)Boy' love日記
『古今著聞集』(鎌倉中期成立)や平安時代の貴族の日記などに、「boy's love」の記述がある。
藤原頼長『台記』(平安末期成立)には、男色関係の記述が残されており、平安貴族たち(法皇上皇を含む)は、女とか男とか限定せずに恋愛関係を結んでいたことがわかっている。現代用語でいうなら、バイセクシャルが通常だった。
平安貴族の日記というのは、自分の家の子孫のために、有職故実(ゆうそくこじつ)を記録することを主要な目的として書かれている。
儀式のやり方手順、正式な衣服、などを書き残して、子孫が恥をかかずにちゃんと宮廷でふるまえるように、心得るべきことをしるしてあるのだ。
左大臣藤原頼長が『台記』に、男性とのおつきあいを記録したのも、「秘密の恋愛告白」ではなく、「子孫のための記録」としてである。
古代ギリシャと並んで、古代から江戸幕末まで、日本では「男同士の愛」は、広く認められていた。
織田信長も、信長を大叔父とする徳川三代将軍家光も、バイセクシャルであった。
男同士女同士の愛に、プラトニックラブも存在するし、ホモセクシャルな間柄もあり、愛情のタイプはさまざま。しかし、近代以後、同性同士の愛は、「異性愛に比べて普通じゃない、異端」「キワモノ、ゲテモノ」などの扱いを受けることが多くなった。
九月歌舞伎座、昼の部の目玉は「東海道五十三次弥次喜多道中」だった。弥次さん喜多さんの間柄も、原作では同性の恋人同士。
明治以降、ふたりが恋人同士だということを表に出さなくなったが、クドカンの映画でやっと「はれて恋人同士」として登場した。めでたい。
近代以後の弁慶が登場する小説やシナリオの作者は、「男同士の深い絆」について書くと、すぐに「あ、もしかしてあの種の愛情?」と、思いたがる読者視聴者がでてくるかもしれない、という懸念を、持つようになった。
弁慶にも妻にあたる女性が存在したことにしないと、弁慶の義経への忠義が、同性愛ぽく見えてしまう、と、「世間一般からのウケ」を気にする作者側の事情。
弁慶をヘテロ愛にしておかないと、現代の読者視聴者には受け入れられないのではないか、という作者側ドラマ制作者側の勝手な意向によって、弁慶に恋人が連れ添うようになった。
「現代の目からみると、お坊さんに妻や女の恋人がいることは許される」しかし「男性が男性を心から慕い、どこまでも付き従うのは、どうも落ち着きが悪い」という時代風潮に合わせているご都合ストーリーだと感じる。
選挙にうって出た東郷健が涙ながらに、「同性愛者が受けている差別」について訴えた時代よりはよくなってきていると言えるかもしれないが、いまだにテレビ界では、「おかまキャラ」は笑いの対象であったり、「キワモノ」扱いとして画面に登場する。
ごく普通の生活人、職業人としてのゲイが、まっとうに登場することは少ない。
平安末期から鎌倉時代への移行期のどさくさとはいえ、立川流ともわからず、念仏宗でもない僧形の弁慶が「わしはちどりの婿だ」と発言するのはおおごとである。それなのに現代のテレビドラマは、弁慶に恋人や妻を与えるのだ。<つづく>
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2005/10/01 土
東京ふり-ふり-生活>弁慶がな、ギナタを(9)御恩と奉公
鎌倉武士は「御恩と奉公」によって結びついていた。
自分に十分な恩賞(御恩=土地の領有権を認証する)を与えてくれる人に奉仕する(奉公=将軍に命じられたら出征する)が基本。
義経主従のように、もはや恩賞を与えることが不可能になった人にいつまでも仕えるのは、鎌倉武士の倫理観からはずれた「武門にあるまじき」行動である。
元寇(げんこう=モンゴル軍の襲来)以降、鎌倉政権が衰えたのも、北九州まではるばる戦に出ていった武士達に、奉公にみあう恩賞を与えることができなかったせいだ。(戦に勝っても、モンゴルや中国の土地が手に入ったわけではないので)
武士は、奉公したら、恩賞を受け取る権利がある。「ただ働き」は武士道に悖(もと)る。元寇以後、鎌倉幕府への信頼感、奉公忠義心は低下していった。
鎌倉側は、「御恩と奉公」を「武士同士の契約」として信頼を築いていった。武士団の組織が広がると、頼朝は政治上の判断ができるブレーンを着々と強化していった。
一方、義経の家来はいくさには強くても、政治的な面では弱体であった。
義経自身は、頼朝ほど鋭敏な政治的判断ができない人だったようだ。鎌倉殿と老辣な後白河上皇の確執に対しても、とるべき自分のスタンスを推し量ることができず、まんまと後白河の手の内に入ってしまった。
この時代、素直に人の言うことに従っていたのでは、身の破滅ともなる。
藤原泰衡は、頼朝から「義経追討」の命令を受けた。衣川館に隠れ住む義経を攻め、その首を鎌倉に送った。しかし、すぐさま、その頼朝によって今度は自分が征伐されてしまった。
頼朝にとって必要だったのは、もはや脅威でもなんでもなくひたすら蟄居している義経の首ではなく、広大な東北地方の支配権だった。泰衡は、素直に頼朝の「義経追討」のことばを受け、頼朝が真に欲しがっているものは何か、ということを読みきれなかった。
義経が頼朝と不和になったあと、それまで義経に従っていた人々が、潮を引くように去っていったのは、鎌倉武士として当然のことであった。武士たちは、所領安堵をしてくれる人にこそ従うのだ。
しかし、最後まで義経の元にいた数少ない家来たちは、恩賞を与えられることを目的とせずに義経に従っていた。(あくまでも義経伝説による話ではあるが)
この点で、義経の家来たちは、鎌倉武士団の中で異色の存在だった。鎌倉武士の主従の間柄を超えて、深い絆で結ばれていたのだ。
この「運命共同体」的な主従関係は、「感情共同体」とも呼ぶべき、強い精神的な絆で結ばれている。
この、本来の鎌倉武士「御恩と奉公」からはずれた義経主従の特異な結びつきは、琵琶法師の平家語り、義経語りが浸透していき、時代が変わるにつれ、「忠義の代表」のようになっていった。<つづく>
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ぽかぽか春庭「弁慶がな、ギナタを(10)チューギ・クエスト」
2005/10/02 日
東京ふりふり生活>弁慶がな、ギナタを(10)チューギ・クエスト
鎌倉武士団にとっても戦国武士にとっても「恩賞ぬきで上司に仕える」などというのは、本来の姿ではない。
10回も上司をかえて自家の繁栄をはかった戦国武将藤堂高虎や、どっちに見方したら得になるか、関ヶ原で去就を決めかねていた大名達のように、損得十分判断して敵味方を決めるのが武士の本道であった。
勝てないとわかっている戦に出ていくのは、本来の武士道ではない。
AとBどっちについたら得か、どうしても判断つけがたい場合は、兄弟親戚をふた手にわけ、Aが勝ってもBが勝っても、どっちかが残るようにした。
江戸時代、三代将軍即位以後、武士は「戦闘によって土地を取り合う農地経営者」ではなく、ただの「土地管理経営者」となった。朱子学を「公式学問」とした江戸期の主従関係は、「御恩と奉公」の主従関係ではなくなっていく。
「義経主従」や「楠木正成」や「忠臣蔵」などがもてはやされたのは、与えられる恩賞が「家格により決められた給与」になって「サラーリーマン官僚化武士」になって以後のことなのだ。
「恩賞」ではなく、「主従の絆」重視が始まった。
勝てない戦とわかっていても、「忠義のため」と言われれば出でいかねばならず、「ただ一人の方にお仕えするのが道義」と教え込まれるようになる時代になったのだ。
やがて、国をあげて「ただ一人の人のために働き、忠義を果たして滅亡へと向かう」カタストロフへとつながる。
江戸時代の「仇討ちストーリー」は、戦乱がおさまり、武士階層が「戦士」ではなくなり「官僚化」して以後の流行。
主君仇討ちのために四十七人が志を合わせる赤穂の浪人たちの物語、『忠臣蔵』。
ひとつの目的のもとにグループが結束する話、われら農耕民族にとっては心地よいストーリーである。
現代の農耕民族形態は、「カイシャニンゲン」である。企業グループ内のプロジェクトなどで、上司部下一丸となって研究開発やらマーケティングやら営業販売に邁進没頭するのは、「力合わせてたんぼ仕事」のDNAによる。
『義経記』も、このような仇討ちストーリーのひとつとして民衆に人気を得た。
孤児同然の牛若丸が寺の中で育ち、やがて味方を増やしながら、父義朝の仇平家を討つ。
ドラゴンクエストのような、「仲間を増やす」「最終的な目的のために小ボスを倒しながらステージクリアしていき、ついに大ボスを倒す」という前半。(壇ノ浦合戦まで)
後半は、高貴な人が、罪なく地方へ落とされ苦労を重ねて遍歴する「貴種流離譚」
古事記のヤマトタケル、伊勢物語の業平東下り、光源氏の須磨配流、など、上層部に嫌われた貴人が地方へ流れていく話は、日本文学の典型的ストーリーとして繰り返し使われるモチーフだ。
貴種流離潭のひとつとして、義経物語後半は、義経主従が、西国、吉野、東北を流浪する。
何があろうと、主君への忠誠心を変えることなく、ひとつの目的「主を守る」のために一致団結して行動を共にする、後半のクエスト。
このふたつの「クエスト」が組合わさった物語に、民衆は熱狂した。<つづく>
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2005/10/03 月
東京ふりふり生活>弁慶がな、ギナタを(11)芝居の「世界」
主家に忠義を尽す話、歌舞伎でもたくさん作られた。
『菅原伝授手習鑑』「寺子屋」の段。
菅家(菅原道真)の子ども「菅秀才」を守るために、松王夫妻は、自分の子どもを身代わりに差し出して殺させる。
いくら忠義だからって、まったくもって「すまじきものは宮仕え」(菅秀才を預っている武部源蔵のセリフ)。
松王丸にとっては、「主家道真にそむく」ことは我が子の死以上につらいことだった。
我が子を殺させることにより主家に尽して、「持つべきは子ども」と思う。松王丸の妻千代は、我が子を殺させて「お役にたった」と満足する。
どんな荒唐無稽な話でも歌舞伎なら楽しめるけれど、我が子を犠牲にしても主家のために尽す、となると、もう私にはついていけない。
「陛下のお役にたてたのだから、戦死した我が子が誇り」と、我が子の死を受け入れる軍国の母に、私はなれそうもない。
九月歌舞伎座、目玉の『勧進帳』が終わり、夜の部さいごの演目「植木屋」になると、観客はだいぶ減ってしまった。上演が途絶えた狂言の復活上演だというので、私は終幕まで見ていた。忠臣蔵外伝。
夫婦約束をした恋しい男が、主人の仇を討とうとしている。植木屋で働く男(弥七、実は四十七士のひとり仙崎弥五郎)のために、女(お高)は仇(かたき)の側室お蘭の方となって、屋敷の絵図面を手に入れた。
絵図面を弥七に渡したお蘭の方は、「仇討ちを成功させるためとはいえ、敵の側室となった」ゆえに、「貞女二夫にまみえず」に反したと感じ、自害してしまうのだ。
この、自分を犠牲にして自害するってところが、どうにも受け入れがたい。
「子どもを殺させて主人に仕える」や「恋人のために敵の側室になったゆえ自害」など、今の時代の感情からみると「受け入れがたい」と思う。これがそのままお芝居として上演されているのは、舞台だからだろう。
「寺子屋」を、ホームドラマ仕立てにして、このままのストーリーで放送したら、非難囂々になりそう。
しかし、現代の感覚では受け入れがたいからといって、『寺子屋』をテレビで放映するにあたって、「子どもは殺さないことにしましょう」という変更をするべきではない。
「男が男に惚れて、最後まで生死をともにする」のは、なんだか受け入れにくいと感じるのが、今の「一般的愛情観」であるゆえ、テレビドラマとなると、「弁慶が義経と最後までいっしょにいたのは、決して「男同士」的思慕なんかじゃないんだよ。弁慶にはちゃんと女の恋人がいたんだからね」と、弁慶を「ヘテロ化」してしまう。
これって、「寺子屋」の放映にあたって、子どもを殺さないようにストーリーを改変するようなものだと思うのだけど。
歌舞伎には「世界」と呼ぶ約束事がある。
現代用語で使っている、地球の上に存在する国や自然などを総称する「world世界」ではない。芝居のストーリーごとに、戯曲の時代や人物群とそれに基づく構想の類型を「世界」と呼ぶのだ。
「義経記の世界」「曾我の世界」などがストーリーごとに成立している。
弁慶は、民衆の中では、「義経記の世界」に生きている人物として存在する。
伝説の中に生きてきた弁慶が、「男が男に惚れて、生死を共にする」という生き方。
民衆は、弁慶の不器用な人生をひとつの生き方として認め、弁慶の心象によりそった。<つづく>
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2005/10/04 火
東京ふりふり生活>弁慶がな、ギナタを(12)弁慶立ち往生
弁慶物語のラスト。『義経記』に描かれた「弁慶立ち往生」の姿を引用する。
「立ち往生する」は、現代語では「行くも戻るもできず、どうすることもできない」という意味でつかわれるが、弁慶立ち往生は、文字通り、立ったまま死んだ弁慶の姿を表わしている。
最後の最後まで義経に従い、義経を守りきろうとした弁慶。襲いかかる藤原泰時の軍勢をくい止めようと、立ちはだかる。
『 弁慶今は一人なり。~
きつと踏張り立つて、敵入れば寄せ合せて、はたとは斬り、ふつとは斬り、馬の太腹前膝はらりはらりと切りつけ、馬より落つるところは長刀の先にて首を刎ね落し、鎧に矢の立つこと、数を知らず。~
折り掛けきりかけしたりければ、簑を逆様に著たる様にぞありける。黒羽、白羽、染羽、色々の矢ども風に吹かれて見えければ、武蔵野の尾花の秋風に吹きなびかるゝに異ならず~ 』
黒い羽、白い羽、色とりどりに染めた矢羽根が、弁慶の鎧に数限りなく刺さっている。風が吹くと矢羽根が風にうちふるえてなびく。まるで武蔵野のススキのように見えた。
このとき弁慶はすでにこと切れている。義経を守ろうとして、立ったまま死んだのだ。
弁慶の姿に圧倒されて敵兵はたじろぐ。
しかし、弁慶のそばを一頭の馬が通り過ぎ、馬にふれて、矢をつきたてた弁慶の身体はどうと倒れた。
もとより、この衣川館の合戦の描写もフィクションであり、弁慶の最後の闘いがどのようであったのかなど、その場で真実を見聞きした者が記録を残したわけではない。
しかし、琵琶法師や瞽女(ごぜ)の語りで、義経伝説や弁慶伝説を聞いていた民衆は、矢を受けて立ちつくす弁慶の姿に涙し、自分が何より大切と思った人を守りきろうとした僧兵の一生に心うたれた。
義経が弁慶と共にすごした物語は、「義経がモンゴルに逃げてジンギスカンになった」という伝説と同じくらい、史実からは遠い話ではあるのかもしれない。
しかし、義経を中心にぴったりと寄り添った仲間が苦楽をともにする、というストーリーが現在まで伝わり、繰り返し登場するのは、そういう共同体を存在させたいと願う民衆の必要があってのこと。
弁慶たちの共同体とは、地縁血縁、親戚縁者ご近所一同との軋轢を含むがんじがらめの共同体ではない。義経は「兄弟」という血縁からはじき出されて流浪するのだ。
人間同士の絆によって運命を共にする義経主従の、志をひとしくする「志縁共同体」とも呼べる関係。
義経一行は、血縁でも地縁でもない共同体を作り、京、東北、吉野、西国、北陸と全国を闘いつつ駆けめぐり、零落して流浪した。
土地にしばられて生きることを余儀なくされた人々は、「自分には果たせない別の人生」を義経主従に託し、繰り返しくりかえし琵琶法師や熊野山伏たちの語りに聞き入った。 <つづく>
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2005/10/05 水
東京ふりふり生活>弁慶がな、ギナタを(13)語りの中の弁慶
義経物語弁慶物語に聞き入った人々は、弁慶の姿を「人間の一つの生き方」として受け止めた。
平安末期の僧兵が「賀茂川の洪水より恐ろしい乱暴者」と懼れられ、狼藉破戒のイメージを与えられていたことから考えれば、弁慶はフィクションの中とはいえ、「自ら信じた人のために私心なく働く健気な豪傑」として変容し、義経滅亡以後八百年の間、民衆の心の中に育ってきた。
中世近世の長い年月、琵琶法師、勧進山伏、比丘尼、瞽女(ごぜ)らの語りによって、民衆は、仏教説話の形をとったさまざまな物語を聞き、心に受け止めた。
平家物語、義経物語、常磐物語、弁慶物語、また曾我兄弟物語、忠臣蔵、などが、民衆にとって、「だれもが知っている、みんなが納得する」物語として、広く知られ親しまれていた。
「弁慶がな、ギナタを(4)義経記の弁慶」で紹介した、伏見宮貞成親王の日記『看聞御記(かんもんぎょき)』1417年(応永24)の記録。
『(琵琶法師の)安一(やすいち)座頭が参って平家・雑芸を演じた』と、書かれている。
琵琶法師の語る「平曲(平家物語)」と説教節をもとに、「浄瑠璃(じょうるり)」が誕生したのは、室町中期とみられている。(説教節の中でもっとも有名な、安寿と厨子王の物語「さんしょう太夫」をもとにして、森鴎外は名作「山椒大夫」を書いている)
浄瑠璃節は、牛若(源義経)と浄瑠璃姫の恋物語。
琵琶のほか、沢住検校(さわずみけんぎょう)らが、新しく渡来した楽器「三味線」での伴奏も入れ、庶民の娯楽として広まった。
「義経は 八艘(はっそう)飛んで べかこをし」(『誹風柳多留拾遺』) (べかこ=あっかんべぇ)
これは、壇ノ浦で義経が船から船へ飛び移った、という話を、誰もが知っていたから、ワハハと、笑える川柳となっていたのだし、
「武蔵坊 とかく支度に 手間がとれ」
これは、弁慶が七つ道具をかついでいたので、身支度に手間がかかったであろう、と、揶揄した川柳。
『平家物語』『義経記』や『浄瑠璃節』などは、民衆の「一般教養」であった。
仏教説話は、民衆思想の伏流水のようなもの。
中世、近世を通じて、この「語り物」は、盲目の琵琶法師や瞽女(ごぜ)さんたちによって各地に広まった。 <つづく>
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2005/10/06 木
東京ふりふり生活>弁慶がな、ギナタを(13)近代史の中の弁慶
オラが村内では名主さん庄屋様がエラい、が、一番えらいのは江戸の「くぼうさま」と聞かされていた。ところが、公方様は江戸から去り、江戸は東京と変わって、こんどは「てんしさま」が一番エラいらしい。天子様とは、何者?
江戸庶民や地方の村の人々は、「てんしさま」がどんなもんだか、だれもそんなことは知っちゃいなかった。
それなのに、血税一揆(徴兵令と金納徴税に反対)はあったものの、大混乱も全国的な反乱もなく、天子様は公方様にとってかわり、人々は「いちばんエラいてんしさま」を受け入れた。
明治最大の内乱である西南戦争は廃業武士の乱であって、庶民を巻き込んだ大規模な乱は、維新期(明治初期)には起らなかった。
「徳川が権力の座から下り、薩摩長州連合が天皇をかついで政権をとったこと」、この「たけき者もついには滅びぬ」を受け止める心情の基礎となったのが、「平家語り」などの浸透であったのではないか、と、思える。
琵琶法師の伝える「平曲」は、「沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす おごれる人も久しからず ただ春の世の夢のごとし たけき者も遂には滅びぬ 偏に風の前の塵に同じ」と、歌い上げ、山伏やごぜはさまざまな説話の中に、滅びと権力交替を語ってきかせた。
平家の世は木曾殿へ、木曾が討たれて義経が天下第一の勇者となったとみれば、たちまち鎌倉殿に攻められる。鎌倉は三代にして源氏の一統も絶え、北条一族が執権として権勢をふるう。
人々は権力交替の物語を「語りもの」として知っており、徳川の世が天皇の世となっても、それを「そういうもの」として、村の衆も町方も受け止めた。
「志縁共同体」のひとつのあり方として、義経弁慶一行の話を愛好してきた民衆。
悲劇のヒーローであったり、笑い話の中に滑稽な姿をみせる豪傑であったり、弁慶はさまざまな変容を経て形成されてきた。
「鎌倉殿という権力に屈せず、御曹司ただ一人を最後まで奉じて付き従った」という弁慶は数百年にわたって、庶民のヒーローだった。
この一途なヒーローへの心情をちょっとシフトすれば、「先進欧米諸国の権力圧力に屈せず、富国強兵をすすめ、『上御一人』へのご奉公を貫く」という、新たな物語を形成することができる。
「てんしさま」ただ一人に従い、国家による「死の共同体」を作り上げる。民衆を「国民」として再編成し国家体制に組み入れるために、新政権にとって国民教化が急務だった。
義経伝説は、国民教育に利用され、明治期の小学校教科書に伝説から採用された挿話が載った。
子どもたちは修身や読本の教材として、佐藤兄弟の妻たちが舅姑に仕える話を読み、那須与一の話を読んだ。
尋常小学校唱歌に「♪今日の五条の橋の上~♪」が採用され、牛若と弁慶は子どもたちのアイドルとなった。弁慶は楠木正成と並んで、忠義第一の人物とされたのだ。
「ご先祖さまを大事にしたい」「亡くなった人は大切にご供養する」という民衆の中に長く根付いている思想をちょっとシフトすれば、「戦犯合祀の神社に、首相が参拝してどこが悪い。亡くなった方を鄭重に供養しているのである」という方向へ持ち込めるのと同じこと。
新出来の思想でない、民衆の心の中の土台となっている思想は、私たちの心の支えであると同時に、その根強さを利用すれば、どの方向にもシフトしていける危うさを含んでいる。
歴史上の人物としては、『吾妻鏡』の中にわずか数行登場するだけの弁慶。伝説上の人物であるのだから、時代の要請に従って変容し、新たな伝説が付け加えられていくのも、仕方がないのだろうか。<つづく>
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2005/10/07 金
東京ふりふり生活>弁慶がな、ギナタを(15)牛ワカメが、けてふり
弁慶の物語は、語り物になり、能になり歌舞伎になり映画になり、テレビドラマになり、時代時代にさまざまな形で表現された。
『虎の尾を踏む男達』は、1945年に制作され、8月15日も黒澤明のメガホンで撮影が続行された。敗戦後の9月に完成。
弁慶=大河内伝次郎、富樫=藤田進、義経=仁科周芳(のち岩井半四郎を襲名)、
強力=榎本健一)
しかし、GHQの検閲により「ただ一人の人に従うというところが封建思想」としてひっかかり、1952年の占領終了まで公開できなかった。クランクアップから7年後、ようやく公開となった。(まっきーさん推奨の傑作)。
戦後の社会でも弁慶は何度も小説に描かれ、映像となった。
1955年に完結した全10巻の小説、富田常雄『武蔵坊弁慶』は1986年にNHK水曜時代劇としてドラマ化された。この弁慶には玉虫という恋人がいる。
1978年今東光『武蔵坊弁慶』、1982年村上睦郎『弁慶』、1986年佐竹申伍『弁慶罷り通る』などなど。
2005年の森詠『七人の弁慶』まで、弁慶を主人公にした小説ドラマのほか、義経や頼朝を主人公にした話に登場した弁慶も含め、その時代その時代のなかで弁慶は解釈され、新たな姿を社会のなかに見せている。
歌舞伎の『勧進帳』弁慶と、テレビ大河ドラマ『義経』のマツケン弁慶の描かれ方の違いが気になっていたとき、テレビを見ていた娘が、「弁慶って昔のお坊さんなのに、お婿さんになってもよかったの?」と、素朴な質問をした。それを受けて、息子と私は論争してきた。
「弁慶、婿入りはアリか、ナシか」
息子は「僧兵は平安時代から破戒乱脈、なんでもアリと思われてきたんだから、弁慶が婿入りしようと、各地各所に女房ありだろうと、何でもアリでいいんだよ」と、主張する。
歴史オタクの息子に対して、わたくし秘蔵の日本文学史演劇史芸能史民衆思想史を繰り出して、あーでもないこーでもない、と論争したのだが、「何でもアリ」論を論破するところまではたどりつけなかった。
近代以後の弁慶像変容が、「ヘテロ愛優先」の社会情勢によって行われてきたということに対し、なんとなく違和感があった。
「数百年にわたって弁慶は、義経につき従った人として民衆に愛され、妻だの恋人だのという存在は伝説の中にも出てこなかったのに、近代になっていきなり恋人女房くっつけて、弁慶を妻帯者にしなくても、いいじゃないの」と、思ったので、これまで長々と、「テレビ大河ドラマのマツケン弁慶は、ちどりの婿殿になった」についての感想を申し述べた次第。
「京の五条の橋のうえ、弁慶が、なぎなたを牛若めがけて振り上げる」という文が、「弁慶がな、ギナタを 牛ワカメが、けてふり あげる」になったみたいだと感じたゆえの、弁慶妻帯説への異論でした。
私ひとりが「弁慶ヘテロ化反対」と、憤ったところで、どーもならん。
ま、「何でもあり」でいいのだったら、弁慶さん、ちどりとでも玉虫とでも仲良くしてちょうだい。
「メシ、カネ」のほか、母親となぞ口をきくのもめんどくさいという年頃の息子との、しばしの語らい、母は、楽しゅうございました。
ハハと息子のおばか論議に長々とおつきあいくださり、読んでくださった方々、ありがとうございました。
以上、九月歌舞伎座「勧進帳」「植木屋」を見て、忠義と愛について思いめぐらしました。
歌舞伎座招待券ありがとうございました。
私に、美術展演劇招待券、ディナー券など贈って下さる方へ、私の感謝と愛をささげます。<おわり>
00:05 | コメント (3) | 編集 | ページのトップへ
<おわり>