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ぽかぽか春庭「弁慶がな、ギナタをー弁慶のセクシャリティ論」

2008-11-08 15:06:00 | 日記

2005/09/25 日
弁慶がな、ギナタを(3)伝説の人、弁慶

 森蘭丸は、本能寺で最後まで信長のもとを離れず、死を共にした。信長蘭丸の関係については、蘭丸の信長に対する「Love!」感情を認める歴史小説家も多い。
 それなのに、なぜに弁慶の義経に対する感情にはフタをしてしまい、弁慶を何がなんでもヘテロ愛(異性愛)に設定したがるのだろうか。

 近年の弁慶登場小説や、今年の大河ドラマでは、弁慶に「玉虫」だの「ちどり」だの、いろんな恋人がくっついているのである。
 今回NHKテレビ『義経』では、「弁慶にも、めおと約束をした恋人がいた」ことになっていて、オセロ黒の中島知子が「ちどり」という漁師の娘に扮し、弁慶と相思相愛の仲になった。

 義経には、正妻や側室、静御前をはじめとする愛妾などわんさかいたという。伝説では、平時忠の娘、久我大臣の娘など、大勢の妻をめとっている。
 ただし、鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』に名がみえるのは、頼朝の命令で妻にした正室河越氏と、鎌倉におくられ頼朝と直接対面した静のみ。

 義経従者の中で、奥州から付き従った佐藤兄弟は、実在が史実として裏付けられている数すくない人物である。

 この佐藤兄弟には妻がいた、という話が広く伝わっている。
 昭和初期までの教科書に採用されて、嫁の模範とされていたエピソード。
 佐藤兄弟なきあと、ふたりの妻が嫁として兄弟の両親に仕える話が、「女子の手本とすべし」と教えられていた。

 屋島の合戦で討たれた継信と、京都堀川で最期を遂げた忠信。佐藤兄弟は、破滅へと向かう東北への逃避行には付き従っていない。

 『平家物語』に描写された継信の最期。
『「もはやお別れです」という継信に、義経は「思い残すことはないか」と聞いた。
 継信が「この後の義経様の栄光を拝見できない事が、唯一つの心残りでございます」と答えると、義経の頬には、はらはらととめどなく涙が流れ落ちた。これを見て皆も涙をこぼし、こう言いあった。
 「この君のために命を失うことなど、露塵ほども惜しくはない」』

 この、継信の最期のことばは『平家物語』に書かれているのであって、フィクションである。
 フィクションではあるが、「安宅の関」に至るまでに、家来の間に「この人のためなら、命を捨てても惜しくはない」という、「感情共同体」とも言えるものが形成されていたであろうことは、推測できる。

 『吾妻鏡』には、2度「弁慶」の名が記載されている。

 『吾妻鏡』に登場する弁慶は、1185年(文治元年=寿永4年)11月3日の記事に、西国へと落ち延びようとする義経主従の一人としてその名がみえる。

 また、1185年11月6日の記事には、西国へむかって大物浦から出航した船が難破したことがしるされている。
 乗船した一行はちりじりになり、義経に従う者僅かに4名
 「伊豆右衛門尉、堀弥太郎、武蔵坊弁慶、妾女(静)」と、ある。
 弁慶が登場するのは、この2ヶ所のみ。

 琵琶法師が語り伝えたフィクションである『平家物語』にも、弁慶は2ヶ所登場するだけである。

 一ノ谷合戦に参加した義経家来のひとりとして初めて弁慶の名前が登場する。
 木曾義仲との合戦のときには、従者のなかに名前が出てこない。
 平家物語(原本)成立のころ(鎌倉初期)には、義仲との戦のあと、義経の家来になったと、みなされていたことがわかる。

 『平家物語』の弁慶登場はもう一ヶ所。頼朝との不和が決定的になり、西国へ落ち延びようとして、大物浦で難破する話。こちらは『吾妻鏡』と共通する。

 どちらも、「義経の片腕」「義経側近中の側近」という扱いではなく、「従者の中のひとり」にすぎない。

 弁慶という人物が義経の側近として実在したことは間違いないと思われるが、後世の人が弁慶の名からイメージする人物像は、各地に広まった伝説や、琵琶法師の語りなどによって大きく変形した伝説的人物としての弁慶である。

 弁慶伝説のもとのひとつは『義経記』である。
 『義経記』は別名『判官(ほうがん)物語』また『牛若物語』として、室町時代初期に成立し、各地で語り物として広く民衆の中に浸透した。
 義経主従、衣川に滅亡してより200年のち、弁慶はスーパーヒーローに成長していた。

 この『義経記』のなかから育った弁慶の姿が民衆に浸透していくのは、熊野の山伏らが、東北地方を中心に各地で弁慶伝説を広めたからである。

 弁慶がスーパーヒーローとして民衆の中に根付くのは、室町後期から江戸時代になってからのこと。
 歌舞伎の「松葉目物」として、能で演じられた弁慶が芝居の中でヒーローとして登場し、熊野山伏の語る弁慶伝説が敷延して以後のことなのだ。<つづく>
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2005/09/26 月
弁慶がな、ギナタを(4)『義経記』の弁慶

 『義経記』に見える弁慶の姿。
 『むさし坊はわざと弓矢をばもたざりけり。四尺二寸(約130cm)ありけるつかしょうぞくの太刀はいて、岩とおしという刀をさし、いの目ほりたるまさかり、ないかま(薙鎌)、くま手、船にがらりひしりと取り入れて、身をはなさず持ちける物は、いちいの木の棒の一丈二尺(約360cm)有りけるに、くろがねふせて上にひる卷きしたるに、石づきしたるを脇にはさみて~』

と、弁慶のいでたちが描写されている。
 『義経記』の中にいる弁慶は、、実在の僧兵というより、すでにして怪力無双の伝説的人物なのだ。『義経記』から、さらに膨大な弁慶伝説が敷延していく。

 観音信仰や熊野権現信仰を広めて歩く法師山伏比丘尼の語りによって、弁慶伝説はどんどんふくらんでいき、さまざまなエピソードが作られた。
 母親の胎内に18ヶ月とか24ヶ月とかいたという説。生まれてすぐに話もでき、食事も自分でとったという説。

 しかし、『吾妻鏡』以外に、史実を伝える同時代の文書などには、名前も出てこず、どんな人物だったかは、史実上ではまったくわからない。比叡山の僧だったというが、これも伝説の域をでない。

 『看聞御記』は、伏見宮貞成親王(1372~1456年)の日記である。
 貞成親王は室町時代の崇光天皇(北朝三代目)の孫、後花園天皇の父。不遇な時代の32年間の日記に、庶民の祭礼や庶民との交流を記した。

 その中に『武蔵坊弁慶物語』という書物の名を1434年11月6日づけで記録している。
 おそらく、室町中期にはさまざまな弁慶伝説をまとめた書物となっていたのであろう。

 私たちが知る弁慶の姿は、ほぼ100%伝説上の人物である。
 源義経が歴史上の人物であることは確かであるが、弁慶の物語も歴史上の出来事と思ってしまうのは、まちがい。

 水戸光圀(みとみつくに)が実在したのは本当だが、テレビに登場する「水戸のご老公黄門様」が全国漫遊したのは、100%フィクションである。
 弁慶が義経とともに『吾妻鏡』に名を記しているのは事実だが、弁慶にまつわるエピソードは、「水戸黄門漫遊記」と同様に、ほぼ100%後世に作られたフィクションである。しかし、「歴史大河ドラマ」というと、歴史そのままと思う人もいるので、話が混乱する。

 実在の弁慶については、わかっていないのだから、どのような人物にこしらえても、驚くことはない。とは、言うものの、弁慶妻帯説は、ヘテロ愛を優先する現代の風潮にあわせているだけのものに思える。

 他の家来たちも、常陸坊海尊はじめ伝説的な人物が多く、実在を確認することは難しい。それゆえ、彼らに妻がいたかどうかなんてことも、もちろん伝説以上のことはわからない。
 ただ、武蔵坊、常陸坊という名乗りから、二人は僧形をしており、周囲の人も、彼らを僧として扱っていただろう、ということはわかるが。

 戒壇で正規の具足戒を授けられた正式な僧侶は、寺の記録に残されている。正規の僧侶でなく、国の許可なしに勝手に僧になった人(私度僧)も、平安以後多くなった。
 弁慶の名が寺の記録にないことからみると、弁慶は僧形をしていたものの、記録に残さされるような正式な僧侶ではなく、私度僧であったと思われる。
 弁慶伝説では、みずから髪を剃って、僧になったとされている。<つづく>
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2005/09/27 火
弁慶がな、ギナタを(5)不淫戒

 平安時代の僧侶の生活について。
 在家仏徒と僧侶の戒律は異なるが、不飲酒戒(お酒を飲んではいけない)は、仏教五戒のうちのひとつ。
 だが酒は、寺内で「般若湯(はんにゃとう=悟りに近づくための薬湯)」として飲まれていた。

 不淫戒(みだらな交わりをしてはならない)という戒律も、般若湯のような抜け道があった。
 女犯は禁じられていたものの、僧侶と稚児(ちご=寺社や貴族邸に出仕している少年、童)との親密な関係は、寺では常住坐臥の一部、日常のことであった。

 僧形の弁慶に恋人がいたとして、相手は稚児ならありうる。しかし、仏罰必定の女犯をおこなう破戒僧となったかどうか。
 末世となった平安末期以後、仏教界は混乱を増していくが、僧形の者が女性と添うのは、そうそう簡単なことではなかった。

 一方、名家の出身でない少年にとって、貴族や僧侶の「恋人」になることは、出世の第一段階でもあった。
 室町時代になってからのことだが、能を大成した世阿弥は、少年時代に足利義満の寵愛を得たことが出世の足がかりとなった。

 稚児(童)は、寺で雑仕として働きながら教育を受け、読み書きはもちろん、舞、今様(歌)などの芸能から、流鏑馬などの武術まで仕込まれた。
 みめよい「童」をめぐって、僧同士で「闘諍の沙汰」を起こすこともあった。

 『玉葉』(九条兼実の日記)の、1180年(治承4)8月12日づけ記録。
 八条宮円恵法親王(はちじょうのみやえんえほっしんのう=後白河上皇の皇子)は、房覚僧正と、寵童をめぐって取り合いの争いをした、と書かれている。

 義経の同母兄、源義朝と常磐の間に生まれた乙若は、この円恵法親王のもとで「童」として召し使われ、気に入られた。そのまま出家して「卿公円成(きょうのきみえんせい)」となり、円恵の坊官(事務官僧)として仕えた。のち改名して義円と名乗った。

 牛若も鞍馬寺に預けられたが、出家しなかったのは、父の義朝よりも容貌が悪かったから、という説がある。「父に似わろし」という同時代の評価が残っているのだ。悪ガキであったようだ。

 乙若は美人の母に似て、みめよい童であったのだろう。もしも、タッキーくらいに美しい童だったら、牛若も寺内にとどまり、出家したかもしれない。
 義経が美形であったら、武士にはならず、平家が壇ノ浦で滅ぼされることもなかったかも。義経=タッキーだっら、歴史は動かなかった。

 さて、仏教界は末世の世に、変動が起きていた。
 平安末期に、真言密教の一本山であった醍醐寺の門流から、真言立川流(しんごんたちかわりゅう)が派生し、現世往生を唱えた。
 立川流の僧たちは、真言密教の「人間の愛欲を積極的に肯定する教え」を広めていった。<つづく>
09:15 | コメント (4) | 編集 | ページのトップへ


2005/09/28 水
弁慶がな、ギナタを(6)真言立川流と念仏宗

 真言密教では、次のように言う。
 『性の欲望というものは、もともときわめて御し難い、それゆえ、欲望からくる諸々の悪を防ぐには、初めからその欲望を一切否定し、認めないとするほうが、策としては手っ取り早いし、教えにも一応の筋は立つ。それ故に一般の仏教では禁欲の旗を掲げているのだ。

 しかし、現に生身の人間が住むこの世で、そういう教えが本当に成り立つだろうか。もしも性の欲が一切いらぬ、というなら子孫は絶え、この世から人間というものが消えうせるだろう』

 末世の時代、この真言密教の教えを前面にだす立川流成立に至り、性に関するタブーが弱まるきっかけとなった。寺院と俗界の間に差がなくなっていった。

 しかし、弁慶が比叡山(真言宗)出身という伝説も、信憑性あるものではないし、真言立川流であったかどうかもわからない。日本各地にあるどのような伝説をみても、立川流とは縁がなかったようだ。
 弁慶伝説を広めていったのは、熊野神社に繋がりを持つ山伏たちであったから、弁慶は熊野権現信仰に結びつけられた。

 弁慶義経が滅んだ後、何年もたったころ、鎌倉仏教の確立期のことである。日蓮は、念仏宗のことを邪教として口を極めて罵倒した。念仏宗が破戒を是(ぜ)として憚らなかったからだ。

 親鸞が妻帯を敢行し、在家念仏を認めたことが大きな契機となった。
 女犯(にょぼん)を肯定した念仏僧たちが、女房や尼僧たちと関係する行為が増え、世上を賑わせるようになった。
 しかし、念仏宗以外の僧にとっては、依然として女犯は仏罰にふれる破戒行為であった。

 鎌倉時代初期の1206年(建永元年)12月、後鳥羽院(高倉天皇の第四皇子、安徳天皇の異母弟)が、熊野御幸(くまのごこう)に出かけている留守に、院の寵姫伊賀の局(亀菊御前)や坊門の局らが別時念仏結縁(べつじねんぶつけちえん)の名目で外泊し、遵西(じゅんせい)や住蓮(じゅうれん)らの専修念仏僧と通じた。

 これらのことが大問題になり、事件として記録されているということは、鎌倉期に入ってもまだ、念仏宗以外の僧にとって、女犯は「破戒」の大罪をおかす禁忌であり、専修念仏の僧が女性と通じた、ということは、他の人々にとっては見過ごせないことだったのだ。

 弁慶が愛欲肯定の「立川流」の僧であったり、念仏宗の妻帯肯定の立場にいた、という解釈をすれば、玉虫でもちどりでもくっつきそうな情勢ではある。

だが、西海へ落ちてゆく主人、東北へ流浪する主人にどこまでも付き従う弁慶は、真言立川流とも念仏宗とも関わりがなさそうである。<つづく>
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2005/09/29 木
弁慶がな、ギナタを(7)ヘテロ愛?弁慶

 弁慶がたった一度女と交わったという伝説もある。
 しかるに、日本各地に膨大な弁慶伝説が敷延しているにもかかわらず、弁慶妻帯説、弁慶の女恋人説はでてこない。
 どの伝説でも、強調されているのは、義経への無私の忠義、愛、であって、弁慶ヘテロ愛説は、近代になるまで出てこない。

 ある書にいわく。
 『西塔のむさし坊弁慶、一度女と交わって後、一度は千回に同じとて、その後一生不犯なりしとぞ、まことに大男のしるし、ものにたゆまぬ質なり、多くの軍書を見るに、弁慶が女色にたわぶれしことついに見えず』

 一角仙人や鳴神上人が、女性の魅力に負けたゆえに神通力を失ってしまった、という伝説があるように、「弁慶が強かったのは、不犯だったからこそ」と、伝説のなかでも信じられていた。
 日蓮が、念仏宗の妻帯を口をきわめて非難したことでもわかるように、女犯破戒は、弁慶の時代、まだまだ禁忌であった。

 弁慶が、武蔵坊という名によって僧形であったと信じるなら、「妻帯を認めた親鸞以後の真宗僧侶」や「妻帯肉食何でもアリ現代の葬式仏教僧侶」とは異なる世界にいた僧兵であることを考えてみるべきだ。

 伝説にあるように、弁慶がたった一度女性と交わった経験を持った、というのを考慮しても、それは「夫婦約束をする」「女の婿として扱われる」という「決められた女性と、世間からカップルとして認められる関係になる」とは異なるのだ。

 それなのに、近代以後の小説や脚本の中では、弁慶が女の恋人を持つようになったのは、何故か。NHK大河弁慶が、「ちどりの婿」としてふるまうのは何故か。
 弁慶を「ヘテロ愛」にしておきたいからだ。

 「人間の正しい愛情は、ヘテロ愛(異性愛)のみ」とされてしまった近代恋愛観(キリスト教的恋愛観)の狭い解釈が、いまだ現代社会恋愛観の主流をしめているからではないだろうか。
 「生殖を目的としない同性愛は、唯一神が認めていない」などという狭い考え方は、明治になるまで日本には存在していなかった。

 NHKが弁慶の義経一途な忠義に対し、堂々と「男が男に惚れてどこが悪い!」と、言えるようなら、視聴料払うけどね。
 「男が男に惚れる」は、セクシャルな意味だってあるし、そうじゃない場合もある。異性愛にもいろんなタイプがあるのと同じ。<つづく>
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2005/09/30 金
弁慶がな、ギナタを(8)Boy' love日記

 『古今著聞集』(鎌倉中期成立)や平安時代の貴族の日記などに、「boy's love」の記述がある。
 藤原頼長『台記』(平安末期成立)には、男色関係の記述が残されており、平安貴族たち(法皇上皇を含む)は、女とか男とか限定せずに恋愛関係を結んでいたことがわかっている。現代用語でいうなら、バイセクシャルが通常だった。

 平安貴族の日記というのは、自分の家の子孫のために、有職故実(ゆうそくこじつ)を記録することを主要な目的として書かれている。
 儀式のやり方手順、正式な衣服、などを書き残して、子孫が恥をかかずにちゃんと宮廷でふるまえるように、心得るべきことをしるしてあるのだ。

 左大臣藤原頼長が『台記』に、男性とのおつきあいを記録したのも、「秘密の恋愛告白」ではなく、「子孫のための記録」としてである。

 古代ギリシャと並んで、古代から江戸幕末まで、日本では「男同士の愛」は、広く認められていた。
 織田信長も、信長を大叔父とする徳川三代将軍家光も、バイセクシャルであった。

 男同士女同士の愛に、プラトニックラブも存在するし、ホモセクシャルな間柄もあり、愛情のタイプはさまざま。しかし、近代以後、同性同士の愛は、「異性愛に比べて普通じゃない、異端」「キワモノ、ゲテモノ」などの扱いを受けることが多くなった。

 九月歌舞伎座、昼の部の目玉は「東海道五十三次弥次喜多道中」だった。弥次さん喜多さんの間柄も、原作では同性の恋人同士。
 明治以降、ふたりが恋人同士だということを表に出さなくなったが、クドカンの映画でやっと「はれて恋人同士」として登場した。めでたい。

 近代以後の弁慶が登場する小説やシナリオの作者は、「男同士の深い絆」について書くと、すぐに「あ、もしかしてあの種の愛情?」と、思いたがる読者視聴者がでてくるかもしれない、という懸念を、持つようになった。

 弁慶にも妻にあたる女性が存在したことにしないと、弁慶の義経への忠義が、同性愛ぽく見えてしまう、と、「世間一般からのウケ」を気にする作者側の事情。
 弁慶をヘテロ愛にしておかないと、現代の読者視聴者には受け入れられないのではないか、という作者側ドラマ制作者側の勝手な意向によって、弁慶に恋人が連れ添うようになった。

 「現代の目からみると、お坊さんに妻や女の恋人がいることは許される」しかし「男性が男性を心から慕い、どこまでも付き従うのは、どうも落ち着きが悪い」という時代風潮に合わせているご都合ストーリーだと感じる。

 選挙にうって出た東郷健が涙ながらに、「同性愛者が受けている差別」について訴えた時代よりはよくなってきていると言えるかもしれないが、いまだにテレビ界では、「おかまキャラ」は笑いの対象であったり、「キワモノ」扱いとして画面に登場する。
 ごく普通の生活人、職業人としてのゲイが、まっとうに登場することは少ない。

 平安末期から鎌倉時代への移行期のどさくさとはいえ、立川流ともわからず、念仏宗でもない僧形の弁慶が「わしはちどりの婿だ」と発言するのはおおごとである。それなのに現代のテレビドラマは、弁慶に恋人や妻を与えるのだ。<つづく>
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2005/10/01 土
東京ふり-ふり-生活>弁慶がな、ギナタを(9)御恩と奉公

 鎌倉武士は「御恩と奉公」によって結びついていた。
 自分に十分な恩賞(御恩=土地の領有権を認証する)を与えてくれる人に奉仕する(奉公=将軍に命じられたら出征する)が基本。
 義経主従のように、もはや恩賞を与えることが不可能になった人にいつまでも仕えるのは、鎌倉武士の倫理観からはずれた「武門にあるまじき」行動である。

 元寇(げんこう=モンゴル軍の襲来)以降、鎌倉政権が衰えたのも、北九州まではるばる戦に出ていった武士達に、奉公にみあう恩賞を与えることができなかったせいだ。(戦に勝っても、モンゴルや中国の土地が手に入ったわけではないので)
 武士は、奉公したら、恩賞を受け取る権利がある。「ただ働き」は武士道に悖(もと)る。元寇以後、鎌倉幕府への信頼感、奉公忠義心は低下していった。

 鎌倉側は、「御恩と奉公」を「武士同士の契約」として信頼を築いていった。武士団の組織が広がると、頼朝は政治上の判断ができるブレーンを着々と強化していった。

 一方、義経の家来はいくさには強くても、政治的な面では弱体であった。
 義経自身は、頼朝ほど鋭敏な政治的判断ができない人だったようだ。鎌倉殿と老辣な後白河上皇の確執に対しても、とるべき自分のスタンスを推し量ることができず、まんまと後白河の手の内に入ってしまった。

 この時代、素直に人の言うことに従っていたのでは、身の破滅ともなる。
 藤原泰衡は、頼朝から「義経追討」の命令を受けた。衣川館に隠れ住む義経を攻め、その首を鎌倉に送った。しかし、すぐさま、その頼朝によって今度は自分が征伐されてしまった。

 頼朝にとって必要だったのは、もはや脅威でもなんでもなくひたすら蟄居している義経の首ではなく、広大な東北地方の支配権だった。泰衡は、素直に頼朝の「義経追討」のことばを受け、頼朝が真に欲しがっているものは何か、ということを読みきれなかった。

 義経が頼朝と不和になったあと、それまで義経に従っていた人々が、潮を引くように去っていったのは、鎌倉武士として当然のことであった。武士たちは、所領安堵をしてくれる人にこそ従うのだ。

 しかし、最後まで義経の元にいた数少ない家来たちは、恩賞を与えられることを目的とせずに義経に従っていた。(あくまでも義経伝説による話ではあるが)
 この点で、義経の家来たちは、鎌倉武士団の中で異色の存在だった。鎌倉武士の主従の間柄を超えて、深い絆で結ばれていたのだ。

 この「運命共同体」的な主従関係は、「感情共同体」とも呼ぶべき、強い精神的な絆で結ばれている。
 この、本来の鎌倉武士「御恩と奉公」からはずれた義経主従の特異な結びつきは、琵琶法師の平家語り、義経語りが浸透していき、時代が変わるにつれ、「忠義の代表」のようになっていった。<つづく>
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ぽかぽか春庭「弁慶がな、ギナタを(10)チューギ・クエスト」
2005/10/02 日
東京ふりふり生活>弁慶がな、ギナタを(10)チューギ・クエスト

 鎌倉武士団にとっても戦国武士にとっても「恩賞ぬきで上司に仕える」などというのは、本来の姿ではない。
 10回も上司をかえて自家の繁栄をはかった戦国武将藤堂高虎や、どっちに見方したら得になるか、関ヶ原で去就を決めかねていた大名達のように、損得十分判断して敵味方を決めるのが武士の本道であった。

 勝てないとわかっている戦に出ていくのは、本来の武士道ではない。
 AとBどっちについたら得か、どうしても判断つけがたい場合は、兄弟親戚をふた手にわけ、Aが勝ってもBが勝っても、どっちかが残るようにした。

 江戸時代、三代将軍即位以後、武士は「戦闘によって土地を取り合う農地経営者」ではなく、ただの「土地管理経営者」となった。朱子学を「公式学問」とした江戸期の主従関係は、「御恩と奉公」の主従関係ではなくなっていく。

 「義経主従」や「楠木正成」や「忠臣蔵」などがもてはやされたのは、与えられる恩賞が「家格により決められた給与」になって「サラーリーマン官僚化武士」になって以後のことなのだ。

 「恩賞」ではなく、「主従の絆」重視が始まった。
 勝てない戦とわかっていても、「忠義のため」と言われれば出でいかねばならず、「ただ一人の方にお仕えするのが道義」と教え込まれるようになる時代になったのだ。
 やがて、国をあげて「ただ一人の人のために働き、忠義を果たして滅亡へと向かう」カタストロフへとつながる。

 江戸時代の「仇討ちストーリー」は、戦乱がおさまり、武士階層が「戦士」ではなくなり「官僚化」して以後の流行。
 主君仇討ちのために四十七人が志を合わせる赤穂の浪人たちの物語、『忠臣蔵』。
 ひとつの目的のもとにグループが結束する話、われら農耕民族にとっては心地よいストーリーである。

 現代の農耕民族形態は、「カイシャニンゲン」である。企業グループ内のプロジェクトなどで、上司部下一丸となって研究開発やらマーケティングやら営業販売に邁進没頭するのは、「力合わせてたんぼ仕事」のDNAによる。

 『義経記』も、このような仇討ちストーリーのひとつとして民衆に人気を得た。
 孤児同然の牛若丸が寺の中で育ち、やがて味方を増やしながら、父義朝の仇平家を討つ。
 ドラゴンクエストのような、「仲間を増やす」「最終的な目的のために小ボスを倒しながらステージクリアしていき、ついに大ボスを倒す」という前半。(壇ノ浦合戦まで)

 後半は、高貴な人が、罪なく地方へ落とされ苦労を重ねて遍歴する「貴種流離譚」
 古事記のヤマトタケル、伊勢物語の業平東下り、光源氏の須磨配流、など、上層部に嫌われた貴人が地方へ流れていく話は、日本文学の典型的ストーリーとして繰り返し使われるモチーフだ。

 貴種流離潭のひとつとして、義経物語後半は、義経主従が、西国、吉野、東北を流浪する。
 何があろうと、主君への忠誠心を変えることなく、ひとつの目的「主を守る」のために一致団結して行動を共にする、後半のクエスト。
 このふたつの「クエスト」が組合わさった物語に、民衆は熱狂した。<つづく>
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2005/10/03 月
東京ふりふり生活>弁慶がな、ギナタを(11)芝居の「世界」

 主家に忠義を尽す話、歌舞伎でもたくさん作られた。

 『菅原伝授手習鑑』「寺子屋」の段。
 菅家(菅原道真)の子ども「菅秀才」を守るために、松王夫妻は、自分の子どもを身代わりに差し出して殺させる。
 いくら忠義だからって、まったくもって「すまじきものは宮仕え」(菅秀才を預っている武部源蔵のセリフ)。

 松王丸にとっては、「主家道真にそむく」ことは我が子の死以上につらいことだった。
 我が子を殺させることにより主家に尽して、「持つべきは子ども」と思う。松王丸の妻千代は、我が子を殺させて「お役にたった」と満足する。

 どんな荒唐無稽な話でも歌舞伎なら楽しめるけれど、我が子を犠牲にしても主家のために尽す、となると、もう私にはついていけない。
 「陛下のお役にたてたのだから、戦死した我が子が誇り」と、我が子の死を受け入れる軍国の母に、私はなれそうもない。

 九月歌舞伎座、目玉の『勧進帳』が終わり、夜の部さいごの演目「植木屋」になると、観客はだいぶ減ってしまった。上演が途絶えた狂言の復活上演だというので、私は終幕まで見ていた。忠臣蔵外伝。

 夫婦約束をした恋しい男が、主人の仇を討とうとしている。植木屋で働く男(弥七、実は四十七士のひとり仙崎弥五郎)のために、女(お高)は仇(かたき)の側室お蘭の方となって、屋敷の絵図面を手に入れた。

 絵図面を弥七に渡したお蘭の方は、「仇討ちを成功させるためとはいえ、敵の側室となった」ゆえに、「貞女二夫にまみえず」に反したと感じ、自害してしまうのだ。
 この、自分を犠牲にして自害するってところが、どうにも受け入れがたい。

 「子どもを殺させて主人に仕える」や「恋人のために敵の側室になったゆえ自害」など、今の時代の感情からみると「受け入れがたい」と思う。これがそのままお芝居として上演されているのは、舞台だからだろう。

 「寺子屋」を、ホームドラマ仕立てにして、このままのストーリーで放送したら、非難囂々になりそう。
 しかし、現代の感覚では受け入れがたいからといって、『寺子屋』をテレビで放映するにあたって、「子どもは殺さないことにしましょう」という変更をするべきではない。

 「男が男に惚れて、最後まで生死をともにする」のは、なんだか受け入れにくいと感じるのが、今の「一般的愛情観」であるゆえ、テレビドラマとなると、「弁慶が義経と最後までいっしょにいたのは、決して「男同士」的思慕なんかじゃないんだよ。弁慶にはちゃんと女の恋人がいたんだからね」と、弁慶を「ヘテロ化」してしまう。
 これって、「寺子屋」の放映にあたって、子どもを殺さないようにストーリーを改変するようなものだと思うのだけど。

 歌舞伎には「世界」と呼ぶ約束事がある。
現代用語で使っている、地球の上に存在する国や自然などを総称する「world世界」ではない。芝居のストーリーごとに、戯曲の時代や人物群とそれに基づく構想の類型を「世界」と呼ぶのだ。
 「義経記の世界」「曾我の世界」などがストーリーごとに成立している。
 弁慶は、民衆の中では、「義経記の世界」に生きている人物として存在する。

 伝説の中に生きてきた弁慶が、「男が男に惚れて、生死を共にする」という生き方。
 民衆は、弁慶の不器用な人生をひとつの生き方として認め、弁慶の心象によりそった。<つづく>
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2005/10/04 火
東京ふりふり生活>弁慶がな、ギナタを(12)弁慶立ち往生

 弁慶物語のラスト。『義経記』に描かれた「弁慶立ち往生」の姿を引用する。
 「立ち往生する」は、現代語では「行くも戻るもできず、どうすることもできない」という意味でつかわれるが、弁慶立ち往生は、文字通り、立ったまま死んだ弁慶の姿を表わしている。

 最後の最後まで義経に従い、義経を守りきろうとした弁慶。襲いかかる藤原泰時の軍勢をくい止めようと、立ちはだかる。
 
『 弁慶今は一人なり。~
 きつと踏張り立つて、敵入れば寄せ合せて、はたとは斬り、ふつとは斬り、馬の太腹前膝はらりはらりと切りつけ、馬より落つるところは長刀の先にて首を刎ね落し、鎧に矢の立つこと、数を知らず。~
 折り掛けきりかけしたりければ、簑を逆様に著たる様にぞありける。黒羽、白羽、染羽、色々の矢ども風に吹かれて見えければ、武蔵野の尾花の秋風に吹きなびかるゝに異ならず~ 』

 黒い羽、白い羽、色とりどりに染めた矢羽根が、弁慶の鎧に数限りなく刺さっている。風が吹くと矢羽根が風にうちふるえてなびく。まるで武蔵野のススキのように見えた。
 このとき弁慶はすでにこと切れている。義経を守ろうとして、立ったまま死んだのだ。

 弁慶の姿に圧倒されて敵兵はたじろぐ。
 しかし、弁慶のそばを一頭の馬が通り過ぎ、馬にふれて、矢をつきたてた弁慶の身体はどうと倒れた。

 もとより、この衣川館の合戦の描写もフィクションであり、弁慶の最後の闘いがどのようであったのかなど、その場で真実を見聞きした者が記録を残したわけではない。

 しかし、琵琶法師や瞽女(ごぜ)の語りで、義経伝説や弁慶伝説を聞いていた民衆は、矢を受けて立ちつくす弁慶の姿に涙し、自分が何より大切と思った人を守りきろうとした僧兵の一生に心うたれた。

 義経が弁慶と共にすごした物語は、「義経がモンゴルに逃げてジンギスカンになった」という伝説と同じくらい、史実からは遠い話ではあるのかもしれない。
 しかし、義経を中心にぴったりと寄り添った仲間が苦楽をともにする、というストーリーが現在まで伝わり、繰り返し登場するのは、そういう共同体を存在させたいと願う民衆の必要があってのこと。

 弁慶たちの共同体とは、地縁血縁、親戚縁者ご近所一同との軋轢を含むがんじがらめの共同体ではない。義経は「兄弟」という血縁からはじき出されて流浪するのだ。
 人間同士の絆によって運命を共にする義経主従の、志をひとしくする「志縁共同体」とも呼べる関係。

 義経一行は、血縁でも地縁でもない共同体を作り、京、東北、吉野、西国、北陸と全国を闘いつつ駆けめぐり、零落して流浪した。
 土地にしばられて生きることを余儀なくされた人々は、「自分には果たせない別の人生」を義経主従に託し、繰り返しくりかえし琵琶法師や熊野山伏たちの語りに聞き入った。 <つづく>
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2005/10/05 水
東京ふりふり生活>弁慶がな、ギナタを(13)語りの中の弁慶

 義経物語弁慶物語に聞き入った人々は、弁慶の姿を「人間の一つの生き方」として受け止めた。
 平安末期の僧兵が「賀茂川の洪水より恐ろしい乱暴者」と懼れられ、狼藉破戒のイメージを与えられていたことから考えれば、弁慶はフィクションの中とはいえ、「自ら信じた人のために私心なく働く健気な豪傑」として変容し、義経滅亡以後八百年の間、民衆の心の中に育ってきた。

 中世近世の長い年月、琵琶法師、勧進山伏、比丘尼、瞽女(ごぜ)らの語りによって、民衆は、仏教説話の形をとったさまざまな物語を聞き、心に受け止めた。
 平家物語、義経物語、常磐物語、弁慶物語、また曾我兄弟物語、忠臣蔵、などが、民衆にとって、「だれもが知っている、みんなが納得する」物語として、広く知られ親しまれていた。

 「弁慶がな、ギナタを(4)義経記の弁慶」で紹介した、伏見宮貞成親王の日記『看聞御記(かんもんぎょき)』1417年(応永24)の記録。
 『(琵琶法師の)安一(やすいち)座頭が参って平家・雑芸を演じた』と、書かれている。

 琵琶法師の語る「平曲(平家物語)」と説教節をもとに、「浄瑠璃(じょうるり)」が誕生したのは、室町中期とみられている。(説教節の中でもっとも有名な、安寿と厨子王の物語「さんしょう太夫」をもとにして、森鴎外は名作「山椒大夫」を書いている)

 浄瑠璃節は、牛若(源義経)と浄瑠璃姫の恋物語。
 琵琶のほか、沢住検校(さわずみけんぎょう)らが、新しく渡来した楽器「三味線」での伴奏も入れ、庶民の娯楽として広まった。

「義経は 八艘(はっそう)飛んで べかこをし」(『誹風柳多留拾遺』) (べかこ=あっかんべぇ)
 これは、壇ノ浦で義経が船から船へ飛び移った、という話を、誰もが知っていたから、ワハハと、笑える川柳となっていたのだし、

「武蔵坊 とかく支度に 手間がとれ」
 これは、弁慶が七つ道具をかついでいたので、身支度に手間がかかったであろう、と、揶揄した川柳。

 『平家物語』『義経記』や『浄瑠璃節』などは、民衆の「一般教養」であった。
 仏教説話は、民衆思想の伏流水のようなもの。
 中世、近世を通じて、この「語り物」は、盲目の琵琶法師や瞽女(ごぜ)さんたちによって各地に広まった。 <つづく>
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2005/10/06 木
東京ふりふり生活>弁慶がな、ギナタを(13)近代史の中の弁慶

 オラが村内では名主さん庄屋様がエラい、が、一番えらいのは江戸の「くぼうさま」と聞かされていた。ところが、公方様は江戸から去り、江戸は東京と変わって、こんどは「てんしさま」が一番エラいらしい。天子様とは、何者?
 江戸庶民や地方の村の人々は、「てんしさま」がどんなもんだか、だれもそんなことは知っちゃいなかった。

 それなのに、血税一揆(徴兵令と金納徴税に反対)はあったものの、大混乱も全国的な反乱もなく、天子様は公方様にとってかわり、人々は「いちばんエラいてんしさま」を受け入れた。
 明治最大の内乱である西南戦争は廃業武士の乱であって、庶民を巻き込んだ大規模な乱は、維新期(明治初期)には起らなかった。

 「徳川が権力の座から下り、薩摩長州連合が天皇をかついで政権をとったこと」、この「たけき者もついには滅びぬ」を受け止める心情の基礎となったのが、「平家語り」などの浸透であったのではないか、と、思える。

 琵琶法師の伝える「平曲」は、「沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす おごれる人も久しからず ただ春の世の夢のごとし たけき者も遂には滅びぬ 偏に風の前の塵に同じ」と、歌い上げ、山伏やごぜはさまざまな説話の中に、滅びと権力交替を語ってきかせた。

 平家の世は木曾殿へ、木曾が討たれて義経が天下第一の勇者となったとみれば、たちまち鎌倉殿に攻められる。鎌倉は三代にして源氏の一統も絶え、北条一族が執権として権勢をふるう。
 人々は権力交替の物語を「語りもの」として知っており、徳川の世が天皇の世となっても、それを「そういうもの」として、村の衆も町方も受け止めた。

 「志縁共同体」のひとつのあり方として、義経弁慶一行の話を愛好してきた民衆。
 悲劇のヒーローであったり、笑い話の中に滑稽な姿をみせる豪傑であったり、弁慶はさまざまな変容を経て形成されてきた。

 「鎌倉殿という権力に屈せず、御曹司ただ一人を最後まで奉じて付き従った」という弁慶は数百年にわたって、庶民のヒーローだった。
 この一途なヒーローへの心情をちょっとシフトすれば、「先進欧米諸国の権力圧力に屈せず、富国強兵をすすめ、『上御一人』へのご奉公を貫く」という、新たな物語を形成することができる。

 「てんしさま」ただ一人に従い、国家による「死の共同体」を作り上げる。民衆を「国民」として再編成し国家体制に組み入れるために、新政権にとって国民教化が急務だった。
 義経伝説は、国民教育に利用され、明治期の小学校教科書に伝説から採用された挿話が載った。

 子どもたちは修身や読本の教材として、佐藤兄弟の妻たちが舅姑に仕える話を読み、那須与一の話を読んだ。
 尋常小学校唱歌に「♪今日の五条の橋の上~♪」が採用され、牛若と弁慶は子どもたちのアイドルとなった。弁慶は楠木正成と並んで、忠義第一の人物とされたのだ。

 「ご先祖さまを大事にしたい」「亡くなった人は大切にご供養する」という民衆の中に長く根付いている思想をちょっとシフトすれば、「戦犯合祀の神社に、首相が参拝してどこが悪い。亡くなった方を鄭重に供養しているのである」という方向へ持ち込めるのと同じこと。

 新出来の思想でない、民衆の心の中の土台となっている思想は、私たちの心の支えであると同時に、その根強さを利用すれば、どの方向にもシフトしていける危うさを含んでいる。

 歴史上の人物としては、『吾妻鏡』の中にわずか数行登場するだけの弁慶。伝説上の人物であるのだから、時代の要請に従って変容し、新たな伝説が付け加えられていくのも、仕方がないのだろうか。<つづく>
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2005/10/07 金
東京ふりふり生活>弁慶がな、ギナタを(15)牛ワカメが、けてふり

 弁慶の物語は、語り物になり、能になり歌舞伎になり映画になり、テレビドラマになり、時代時代にさまざまな形で表現された。

 『虎の尾を踏む男達』は、1945年に制作され、8月15日も黒澤明のメガホンで撮影が続行された。敗戦後の9月に完成。
 弁慶=大河内伝次郎、富樫=藤田進、義経=仁科周芳(のち岩井半四郎を襲名)、
強力=榎本健一)

 しかし、GHQの検閲により「ただ一人の人に従うというところが封建思想」としてひっかかり、1952年の占領終了まで公開できなかった。クランクアップから7年後、ようやく公開となった。(まっきーさん推奨の傑作)。

 戦後の社会でも弁慶は何度も小説に描かれ、映像となった。
 1955年に完結した全10巻の小説、富田常雄『武蔵坊弁慶』は1986年にNHK水曜時代劇としてドラマ化された。この弁慶には玉虫という恋人がいる。
 1978年今東光『武蔵坊弁慶』、1982年村上睦郎『弁慶』、1986年佐竹申伍『弁慶罷り通る』などなど。
 2005年の森詠『七人の弁慶』まで、弁慶を主人公にした小説ドラマのほか、義経や頼朝を主人公にした話に登場した弁慶も含め、その時代その時代のなかで弁慶は解釈され、新たな姿を社会のなかに見せている。

 歌舞伎の『勧進帳』弁慶と、テレビ大河ドラマ『義経』のマツケン弁慶の描かれ方の違いが気になっていたとき、テレビを見ていた娘が、「弁慶って昔のお坊さんなのに、お婿さんになってもよかったの?」と、素朴な質問をした。それを受けて、息子と私は論争してきた。
 「弁慶、婿入りはアリか、ナシか」

 息子は「僧兵は平安時代から破戒乱脈、なんでもアリと思われてきたんだから、弁慶が婿入りしようと、各地各所に女房ありだろうと、何でもアリでいいんだよ」と、主張する。

 歴史オタクの息子に対して、わたくし秘蔵の日本文学史演劇史芸能史民衆思想史を繰り出して、あーでもないこーでもない、と論争したのだが、「何でもアリ」論を論破するところまではたどりつけなかった。

 近代以後の弁慶像変容が、「ヘテロ愛優先」の社会情勢によって行われてきたということに対し、なんとなく違和感があった。
 「数百年にわたって弁慶は、義経につき従った人として民衆に愛され、妻だの恋人だのという存在は伝説の中にも出てこなかったのに、近代になっていきなり恋人女房くっつけて、弁慶を妻帯者にしなくても、いいじゃないの」と、思ったので、これまで長々と、「テレビ大河ドラマのマツケン弁慶は、ちどりの婿殿になった」についての感想を申し述べた次第。

 「京の五条の橋のうえ、弁慶が、なぎなたを牛若めがけて振り上げる」という文が、「弁慶がな、ギナタを 牛ワカメが、けてふり あげる」になったみたいだと感じたゆえの、弁慶妻帯説への異論でした。

 私ひとりが「弁慶ヘテロ化反対」と、憤ったところで、どーもならん。
 ま、「何でもあり」でいいのだったら、弁慶さん、ちどりとでも玉虫とでも仲良くしてちょうだい。

 「メシ、カネ」のほか、母親となぞ口をきくのもめんどくさいという年頃の息子との、しばしの語らい、母は、楽しゅうございました。
 ハハと息子のおばか論議に長々とおつきあいくださり、読んでくださった方々、ありがとうございました。

 以上、九月歌舞伎座「勧進帳」「植木屋」を見て、忠義と愛について思いめぐらしました。
 歌舞伎座招待券ありがとうございました。
 私に、美術展演劇招待券、ディナー券など贈って下さる方へ、私の感謝と愛をささげます。<おわり>
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<おわり>


ぽかぽか春庭「弁慶がな、ギナタをー弁慶のセクシャリティ論前説」

2008-11-07 17:58:00 | 日記
弁慶がな、ギナタを

2005/09/23 金 10:46
弁慶がな、ギナタを(1)九月歌舞伎座の勧進帳

 全国から高齢女性が押し掛けてきたのかと思うくらい、たくさんのオバハンオバーサンが集まっていた。歌舞伎座ロビー。
 無料で楽しむ東京生活、八月の新橋演舞場招待券につづき、九月は歌舞伎座招待券ゲット。

 歌舞伎座は、中村勘三郎襲名披露、蜷川演出の「十二夜」と、チケット完売で、ここ数年来で一番の大入り満員が続いていた。
 九月大歌舞伎は、中村吉右衛門の弁慶、中村富十郎の富樫による「勧進帳」ほか。
 切符の売れ行きはここ数ヶ月の完売に比べ、空席もある。招待券も当たりやすかったのかもしれない。

 夜の部の演目は、平家物語関連が二題。「平家蟹」と「勧進帳」あとひとつは、「忠臣蔵外伝 忠臣連理の鉢植え(植木屋)」

 夜の部最初の演目「平家蟹」は、岡本綺堂作の新作歌舞伎。平家の官女だった玉虫とその妹玉琴の、平家滅亡後の後日譚。

 テレビのタッキー主演、松ケンサンバ弁慶は、山場のひとつである壇ノ浦の合戦が終わり、平家滅亡が放送されたところ。
 幕開けに白石加代子による平家滅亡のナレーションが入った。幕に壇ノ浦合戦絵巻がスライドで映し出され、白石加代子が平家の悲劇を語る。

 テレビの義経人気にあやかろうという演出だろうが、白石加代子の語りは、好きだから、許す。30余年前の早稲田小劇場のころからのファンだもの。

 幕が開き、舞台は壇ノ浦の浜辺。
 主家滅亡ののち、平家官女であった玉虫と、その妹玉琴は対照的な生活をおくっていた。
 妹、玉琴は、敵方源氏の一党、那須の与五郎(与一の親戚)と結婚を約束する。姉の玉虫はそれを許さない。

 平家公達の亡霊が蟹の姿となって浜辺にやってくる。源氏を決して許せない玉虫は、妹もろとも那須与五郎を、と修羅場となり、ついに玉虫は壇ノ浦の荒れる波間に、、、、というお話。

 夜の部目玉は、歌舞伎十八番のうち「勧進帳」。
 『勧進帳』は、能の『安宅』をもとにして脚色された「松葉目物(能を原作とする歌舞伎狂言)」のひとつ。
 『安宅』は、義経流浪伝説を能にしたもの。弁慶と富樫の丁々発止のやりとりが続く。

 兄源頼朝に疎まれた義経は、奥州藤原氏を頼って落ち延びようとする。
 義経につき従う武蔵坊弁慶、伊勢三郎、常陸坊海尊ら家来たち。
 加賀国安宅の関(あたかのせき)にさしかかるとき、関守の富樫左衛門(とがしのさえもん)に見とがめられた。
 今でいうなら、パスポートを持たずに国境を通ろうとするようなもの。

 弁慶はとっさの機転で巻物を取り出し、偽りの勧進帳(東大寺への寄付を集めるための認可状)を読みあげた。「自分たちは東大寺から派遣された正式な山伏である」と主張したのだ。それならば、パスポートを持っていなくても、全国行脚ができる。

 荷物運びの従者として控えていた義経が疑いを受けると、弁慶は疑いを晴らすために、主君義経を打ちすえる。
 義経であることを見破られまいとして、必死に錫杖(しゃくじょう)で主人を打ち続ける弁慶。その心を察した富樫は、鎌倉からとがめを受けるかも知れないことを覚悟で一行を通す。<つづく>


2005/09/24 土
弁慶がな、ギナタを(2)吉右衛門の弁慶

 幕間、ロビーで話している中高年女性達の声が耳に入る。テレビの「鬼平」ファンなので、吉右衛門を見るために足を運んだ、という人もいた。

 私は「鬼平」を見ていなかったし、歌舞伎役者の演技力を斟酌するほどの見巧者でもない。しかし、見巧者でない私も、気迫十分のセリフまわし、豪快な中にも人間味ある弁慶の存在感を感じた。見応えがある弁慶だった。

 ラスト、「飛び六方」で花道を引っ込む姿、隣の観客は涙ぐんでいた。
 これほどまでに「自分が一生を共にする人」と、ひたむきに義経に心を寄せる弁慶の姿。
 この先には滅びが待っていると知っているからなのか、何度見ても胸を打つ。

 主人への無私の忠義をつらぬく弁慶の、一途な奉公に胸をうたれた歌舞伎座の観客たち。
 滅びようとする義経弁慶主従の姿に涙を浮かべている客の大半は、自分自身が半分以上滅びかかっているようなご老体ばかりである。

 夏の「蜷川十二夜」では、日頃歌舞伎座には来ないような若い層も観客席を埋めたというが、『勧進帳』の観客に若いファンの姿はほとんど見えなかった。
 目玉の勧進帳が終わると、観客は大分減り、最後の「植木屋」では、空席が目立った。
 
 芝居がはねて、出口を埋める高齢の観客たち。歌舞伎はこれから、若い層の観客を掘り起こしていけるのかなあ、なんて心配になったけれど、なんとかなるんでしょ、きっと。

 若い層が、弁慶の「忠義」をどう見るか。
 自分の上司に命をささげて、一生お仕えする「忠義」という生き方が、たぶんわからなくなっているだろうし、そこまで義経に肩入れして生死を共にするってことは、もしかして、弁慶は義経にLove ? と、思う。

 弁慶義経の間柄。
 ふたりの間には主従の結びつきを超えた深い絆がある。
 弁慶にとっては、義経は「生涯ただひとりの人」と、心に決めた人である。
 ご主人様への強い愛情がなければ、こうまでして主に仕え、主に仕えることを喜びとして生死を共にすることはできない、と思えてくる。

 タイトルの「弁慶がな、ギナタを」について。
 「点を打つ位置をまちがえると、意味がわからなくなる」という例文です。

 「♪京の五条の橋の上♪大の男の弁慶が、長い長刀(なぎなた)振り上げて♪牛若めがけて斬りかかる♪」という歌、昔の子どもは歌えました。

 「弁慶が、なぎなたを、牛若めがけて振り上げる」というのが「弁慶がな、ぎなたを、牛わかめが、けてふり あげる」になる、という例文を出して、「点を打ち間違えると、だめですよ」と、昔は教わったものでした。
 しかし最近の学生は、弁慶もなぎなたも知らないから、この例文は使いません。

 私が使っている例文は「げんかんではきものをぬぐ」
 「玄関でどうしますか」と、学生に質問する。
 「玄関では、きものを脱ぐ」「玄関で、はきものを脱ぐ」
 
 「よその家へ行って、入り口で着物を脱いじゃいけませんよ、玄関で、履き物を脱ぐ、ですからね」と教えるのだが、最近の学生、日本人学生でも「ハキモノって何ですか」と、質問してくるのがいて、どうにもやりにくい。

 京の五条の橋の上、「弁慶が なぎなたを 牛若めがけて ふり上げる」という文が「弁慶がな、ギナタを 牛ワカメが、けてふり あげる」というぐあいに改変されたような違和感を感じてしまうのが、テレビの「弁慶には女の恋人がいた」というストーリーであります。

 以下、弁慶と義経の絆について述べます。
 弁慶、「ヘテロ化」反対!<つづく>
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ぽかぽか春庭「グレアムグリーン『力と栄光』下書き」

2008-11-05 06:26:00 | 日記
グレアム・グリーンの『力と栄光』(Graham Greene: The Power and the Glory )における神の代理人について――一仏教徒の読み
1 はじめに1-1 『力と栄光』梗概
1-2  ウイスキー坊主の命名と、『力と栄光』の作品構造

2-1 プリンシパル・エージェント問題(principal-agent problem)
2-2 言語におけるプリンシパルとエージェント  

3-1 グリーンのバックグラウンドとグリーン文学のキーワード
3-2 グリーンのメキシコ旅行
4 『力と栄光』と『沈黙』
5 結語
1 はじめに 1940年『力と栄光』の出版から70年近くが経っており、評論や研究書も数多くが出版されてきた。神への裏切り、神を棄てることについて、神を信じ続けることについて、神による復活を信じることについて、カトリシズムからの検証、さまざまな文学理論による批評など、多くの論が寄せられ、論じられてきた。その一遍一遍を仔細に検討する余地はない。従って、このリポートも、筆者自身の読みの「印象批評」にすぎない。 筆者は、以下の点に論を絞って述べる。

1,キリスト教文学におけるプリンシパル・エージェント問題(principal-agent problem)2,「神の代理人・エージェント」としてのウイスキー坊主 筆者の試みは、経済学や政治学で普遍的な理論となっているプリンシパル・エージェント問題を、文学評論に取り入れる、ということにある。少なくとも私のこれまで読んできた文学理論の中に、このprincipal-agentという言葉を見たことはなかった。私が日頃活用している『コロンビア大学 現代文学・文化批評用語辞典』(松柏社2002年第3判)は、7年前の出版であり、その後の文学理論動向について筆者の探索範囲は狭いので、だれかがprincipal-agent理論を文学に適用したかどうかは、定かではない。インターネット検索の範囲では見あたらなかったというにすぎない。1-1 『力と栄光』梗概 1930年代、メキシコでは共産主義革命下で、宗教弾圧が吹き荒れた。共産主義者たちは政権を握るとカトリック教会を迫害し、教会はすべて破壊され、司祭たちは言わば〝踏み絵〟を強制された。踏み絵を踏んで棄教する者もいたし多くの司祭たちは国外に逃亡した。逃亡に失敗して潜伏した者たちは探し出されて、銃殺された。 『力と栄光』には、二人の司祭と一人の共産主義政権下の警官が登場する。ホセは棄教し、年増女を女房にしている元司祭。もう一人は潜伏して逃げ回っている司祭であるが、「ウイスキー坊主」と呼ばれている飲んだくれ。俗人となったホセには名が与えられているが、「ウイスキー坊主」は実名が最後まで出てこない。一人の人間を描写したというより、ある象徴的な人物像となっているからであろう。〝ウイスキー坊主〟と呼ばれている司祭は常に飲んだくれ、一人の女性と交わり娘を生ませている。踏み絵を踏んだホセと何ら変わりない破戒僧であるが、ホセは棄教を明らかにしたのに対して、ウイスキー坊主の自己意識はあくまでも「司祭」である。      舞台は、メキシコで一番辺鄙な州であるタバスコ州。山岳地帯と海に挟まれた細長い土地で、その大半が湿地と深い森林に覆われた熱帯のジャングルであり、人々は人間の暮らし以下の悲惨な日々を送っている。 小説は、潜伏している司祭ウイスキー坊主が国外へ逃亡するため船に乗ろうとやってくるところから始まる。暑さに耐えて、司祭は船が出るのを待っていた。歯医者のテンチ氏が、船は定時に出たことなどないとウイスキー坊主に話しかけた。暑いからうちに来いと誘われるままにテンチ氏の家に行った司祭は、医者を探しに来た子供の求めを拒みきれずに、子供の村へと向かった。村への途中、船は定時に出航してしまった。司祭が安全な国外へ逃亡することができないこと、彼には過酷な運命が待っていてやがて死にいたることを、空を飛び交っているハゲワシが暗示する。 潜伏する司祭の逃避行は、惨めで辛い。警察に追われる酔いどれ坊主がやって来たことを迷惑がる人々、彼が出て行くときは、皆ほっとした顔になる。ウイスキー坊主は、自分を否定する人々の中にあって自問自答を続ける。「私は神によって裁かれている、そうでなければ、私の生きている理由はない」。司祭は逃げ回りながら、自分がそこに存在する意義を考え続け、自分自身を疑い否定しつつも棄教することはない。 俗人となったホセが、保身の余りにウイスキー坊主を匿うことを拒み、彼が銃殺される前に懺悔をしたいと頼んでも拒むという、どこまでも自分自身のことしか考えられない人物である。一方同じ破戒僧であっても、ウイキー坊主は、自分が破戒僧であるという苦しみと、いつ捕まるかわからないという二重の精神的な重圧にさらされ、身体的には慢性的なマラリヤ、食糧不足などの極限的な状況にありながらも、人々の懺悔を聞き、聖体拝領を授け、子供に洗礼を施すことをやめない。最後には罠であることを承知で死にかけたお尋ね者の臨終の懺悔を聞くために、無事に逃げられる道を捨てて、自ら罠の中に入っていく。常に神を意識し、己の中に神を持ち続けたということで、破戒僧でありながら、ウィスキー坊主は、誰よりも神に近い存在として描かれている。しかし、彼自身は、「自分が死んだら地獄へ行く」ことを誰よりも強く確信している。 このウイスキー坊主を追いつめる警部は、貧しいどん底の生活を強いられてきた者であり、共産主義革命は、人々を「もっとマシな生活」にし、「宗教は人々の心を麻痺させ堕落させる」と信じている。彼は「自分が送ってきたような貧困を二度と子どもたちに味わわせはしない」という理想を高く掲げ、その信念のもとに「金権と教会」「教会と盲信」という社会悪を根絶やしにすることに命をかけている。「信念のため、正義のため」の司祭追跡、教会弾圧であるとはいえ、罪のない者たちを人質にして銃殺したり、罠を張ったりする行為は、民衆の共感を得たり尊敬を集めたりすることはない。ついに司祭を追いつめ銃殺するという目的を果たしたのちに、警部は激しい孤独に陥ることになる。 小説中において、対極に位置しながら、警部とウイスキー坊主は、ひとつの人間像の表と裏である。ウイスキー坊主と警部は、よりよい生活を求めるという理想に向かっておのれの信念を貫いて生きるという根本的なところで一致している。一人は共産主義革命の正しさを信じつつも実際に行っていることが民衆迫害になっていることを自覚し、一人は神の存在を信じながらも破壊僧となった自分を許せないでいる。二人は表裏一体の存在である。警部は、司祭を追いつめながら心の奥底でウイスキー坊主に共感をいだいている。 小説のラストシーン、ルイス少年は、夜中、〈神父[Father]〉が戻ってきたと、感じる。少年の夢かもしれないし、幻想かもしれない。銃殺されたウイスキー坊主が復活したのかどうか、別の新しい神父が外国からやってきたのか、ルイス少年の夢にすぎないのか、作者は最終の場面を読者の受け止めるままにして小説を閉じている。1-2 ウイスキー坊主の匿名性、人物設定、作品構造 『力と栄光』の主人公、世俗名を与えられていないアルコホーリクス・アノニマス(Alcoholics Anonymous 無名のアルコール依存症者)としてのウイスキー坊主は、小説に登場したときから、すでに自分自身を「堕落した、エイジェンシー・スラックの持ち主」と自己規定している。アルコールにおぼれ、女犯の罪を犯して娘を生ませている。死ねば地獄に堕ちる自分自身であることを自覚しつつも、なお、神に見放されたメキシコ民衆に対して「父」であることの勤めを果たそうとする。ときには、酔っぱらったあげく、男の子に女性名である洗礼名をつけてしまうようなていたらくでありながらも、自身の死の直前まで、「神父」として生き続けたのである。 主人公が名を示されず、「ウイスキー坊主」というあだ名で呼ばれていることについて。 「AAアルコホーリクス・アノニマスAlcoholics Anonymous」は、1935年にアメリカ合衆国でビル・Wとボブ・Sの出会いから始まった。世界に広がった飲酒問題を解決したいと願う相互援助の集まりで、略してAAという。断酒を願うアルコール依存症者が、自分一人の意志では持続不可能な禁酒を、互いに体験を話し合うことによって持続する。不特定多数無名者による団体である。会長もおらず、会則も会費もなく、ボランティアによって運営され、すでに80年近い歴史を持つ。参加者は「無名であるがゆえに、私はあなたであり、あなたは私である」という意識でグループミーティングに参加してきた。 1937年にメキシコを旅し、1940年に『力と栄光』を発表したグレアム・グリーンは、はたして「AA」の存在を知っていたかどうか。アルコール依存症患者たちが、無名のままお互いの「断酒を続ける生活」を語り合うことによって、依存症を克服するという相互扶助団体にグリーンが興味を持っていたかどうか、文献上で確認することは現在のところできていないのだが、筆者は、グリーンの関心の中に入っていたのではないかと想像する。なぜなら、後述するように、グリーンは1937年のメキシコ旅行中、自分を被告とする裁判の闘争中であり、アメリカの世論動向に強い関心を持っていたと考えられるからだ。アルコール依存というアメリカ社会では「負・マイナス」の烙印を押されてしまった「AA」の無名者たちに、「幼女への性的関心を持つ側の人」として裁判の渦中にあるグリーンが共感を寄せていたと想像することはそれほど荒唐無稽ではない。 実名を持たず、「無名のアルコール飲用者」として設定されているウイスキー坊主は、一個の小説中の個人ではなく、私でもありあなたでもある「普遍の存在」として、小説世界に生きている。グリーンがウイスキー坊主と彼を追う警部に名を与えなかったのは、二人がグリーン自身であり、読者自身であるというメッセージをこめているからだと、筆者は考える。 『力と栄光』は、グリーンの内面の部分が投影されたような人物が交差する。理想社会を求めて社会主義体制の護持者たらんとする警部、警部に追われる逃亡者ウイスキー坊主、ウイスキー坊主をすげなく見捨てる世俗的棄教者ホセ元神父、そして、賞金目当てにウイスキー坊主を警察に売り渡す混血児(キリストを売ったユダになぞらえられる)などの主要人物のほか、歯医者のテンチ氏をはじめ、脇役バイスタンダーが登場する。 小説の第2部と3部は、ウイスキー坊主の逃避行がメインストーリーであり、主としてウイスキー坊主の視点によって場面が推移する。しかし、その額縁ストーリーとなっている第1部と4部は、脇役たちの視点によってウイスキー坊主の姿が描写される。読者は、第一部で、幕が上がった舞台を見ているうちに、いつの間にか自分自身が観客としてではなく、登場人物のひとりとして舞台の中に生きていく感覚を持つ。 この作品構造は、ウイスキー坊主のリアリティを保証するために成功していると思う。この1部と4部には、ギリシャ悲劇における「コロスによる合唱」の響きが連想される。このコロスの合唱を含めて、『力と栄光』は、ウイスキー神父のみじめな最後にもかかわらず、「キリストの復活劇」に匹敵する「祝祭性」を持つ。祝祭の場においてキリストをたたえる劇に見える。 筆者にとっては、『力と栄光』は、グリーンによる「祝祭的キリスト賛歌」である。 物語の全体を統括している行為者A・プリンシパルは神であり、行為者B・エージェントはウイスキー坊主である。 ハヤカワ文庫版の翻訳者斉藤数衛は、警部とウイスキー坊主が無名であることについて「作家としてのグリーンの”さめた目”を感じる」(斉藤数衛訳『権力と栄光』2004ハヤカワ文庫p444)と書いている。筆者の考え方と正反対である。筆者は、グリーンの「熱い共感」が警部とウイスキー坊主に名前を与えず「アノニマス」の一員として描いたのだと考える。作家としての「さめた目」による小説技法としての「無名」の主人公であるとするなら、グリーンは、己をさめた高見の位置においたことになりはしないか。ウイスキー坊主はグリーン自身であるからこその「AA」だったと筆者は主張する。22-1 プリンシパル・エージェント問題 人間世界は、大きく分けるとふたつの事柄によって推移変化する。ひとつは「自然推移」である。宇宙の運行、たとえば地球は、自らが自転しつつ太陽のまわりを公転するということは、人間の意志によって左右されず、個人の意志は何ら反映されることはなく推移する。もう一方は、人間が自らの意志によって世界の変化をもたらす「意志行動」である。意志行動の「変化への意志を持つ者・行為主体A」を「プリンシパルprincipal」と呼ぶ。プリンシパルの意を受けて、「実際に行動する者・行為主体B」を「エージェントagent」と呼ぶ。(注1) これらのプリンシパル・エージェント関係において、しばしば問題が発生する。これをエージェンシー・スラック(agency slack)と呼ぶ。エージェントが、プリンシパルの利益のために委任されているにもかかわらず、プリンシパルの利益に反してエージェント自身の利益を優先した行動をとってしまうこと。エージェンシー問題(エージェンシーもんだい、agency problem)とは、プリンシパル=エージェント関係においてエージェンシー・スラックが生じてしまう問題のことを言う。 キリスト教において、東ローマ帝国では皇帝による聖俗両方の支配が完成し、教会は「キリストに忠実なる支配者」「神の代理人」として、統治する皇帝の下で国家宗教として発展した。 筆者は仏教徒である。両親が曹洞宗の寺に葬られているというだけで、筆者自身が檀家でもなく、敬虔な仏教徒とはいえない。「社会通念上の仏教徒」というにすぎないが、一応仏教徒であり、キリスト教の教義にもカトリックについても、ほとんど何も知らない人間である。(注2) したがって、カトリックの教義においては「教皇=神の代理人と見なされている」と考えている筆者の理解が間違っているならば、このリポートは意味がない。「ローマ教皇は地上で人間の罪を裁く権利をイエスから与えられている」いうことが、カトリックにおいて「ローマ教皇の存在意義」でないなら、「プリンシパル・エージェント問題としての『力と栄光』」というこのリポートは成立しない。 天上で処理することになっていた人間の「罪と罰」の問題が、教皇革命の結果カトリック教会圏では地上で処理できることになり、神が裁くことになっていた人間の罪を人間が裁けるようになった。この大変化を「教皇革命」と呼ぶ。(注3) 「教皇は「神の代理人」として地上の国で「反キリスト」から信者を守ることを使命とする」ということが、筆者が理解した範囲でまとめた「神の代理人としてのカトリック教皇」である。 カトリックの教会法第375条において、司教は、「神の制定に基づき付与された聖霊によって使徒の座を継ぐ者であり、教理の教師、聖なる礼拝の司祭及び統治の奉仕者になるように教会の牧者として立てられる。」司教は司祭(神父)の任命権を持つ。教会法第1012条により、司教は助祭、司祭および司教の叙階を行う。教区に所属する司祭は、教区教会でミサをはじめとする秘跡を執り行う。司祭は「父」として、信者への「直接の神の代理人」として彼らの前に存在する。一般的な信者にとって、神父は「父」であり、神の代理人である。司祭は、神のエージェントとして、信者に向かって神のことばを代弁する。 ここに、経済学政治学でいう「エージェンシー問題」が発生する。エージェンシー・スラック(agency slack)すなわち、エージェントが、プリンシパルの利益のために委任されているにもかかわらず、プリンシパルの利益に反してエージェント自身の利益を優先した行動をとってしまうということが、神(プリンシパル)とエージェントの関係におけるエイジェンシー・スラックである。代理人は、プリンシパルの意に反して、自分自身の利益を優先し、蓄財、飲酒や女犯の快楽におぼれる。 プリンシパル神とエージェント司祭の関係において、「女犯」などのエージェンシー・スラックは、すでにカトリック社会のなかでも「よくある間違い」以上の広がりをみせている。カトリック神父による性犯罪の告発は、「アフリカにおける現地女性への性的虐待、西欧各地での少年への性的虐待」など、世界中でニュースにもならないほど発生している。(注4) 『力と栄光』において、プリンシパルは「神」である。エージェントであるウイスキー坊主は、カトリック教会法によれば、女犯や飲酒によって、すでにエージェンシー・スラックを起こしてプリンシパルの利益を損ねている。エージェントは、行為者Aの依頼の通りに行動する行為者Bなるべきであるのに、行為者Aを裏切ったエージェントとして、自分自身の利益・欲望のために行動している。 作者グリーンはプリンシパルの依頼を裏切っているエージェント、ウイスキー坊主を最後まで悲惨の中にとどめ置いた。しかし、処刑のあと、「あの人は教会の殉教者ですよ」と、少年ルイスの母に言わせている。そして、ルイス少年は、夜更け、ドアをノックする音を聞き、Fatherが再びルイス少年の家を訪問したことを記して物語を締めくくった。 酔いどれのウイスキー神父が心の内に「私は地獄へ落ちる身だ」と内省を繰り返すのと同じ、グリーンはメキシコ旅行の間中「少女シャーリー・テンプルは、男たちの欲望の対象」という自己の発言の意味を反芻していただろう。グリーンの欲望もまた、人に知られることはなくてもプリンシパルが求める行動には合致しないものであることを、グリーン自身は承知していた。人に知られるか知られないかにかかわらず、罪を負う人間存在のひとりとして、グリーンもエージェンシー・スラックを起こしているエージェントであった。「シャーリー・テンプルは欲望の対象である」というグリーンの評論は、グリーン自身の欲望の吐露であった、ということは、1990年代、グリーンの晩年になってから多くの証言がなされるようになったことである。 プリンシパルの依頼を逸脱したエージェントも、救済されるし、称揚される。なぜなら、プリンシパルの大きな依頼の目的からみたら、飲酒も女犯も少女への性的嗜好も、プリンシパルのふところの中にあるからだ。 この『力と栄光』のプリンシパルは、私には大乗仏教の救済者に通じるように思える。どのような極悪人であっても、いまわのきわに「南無阿弥陀仏。アミータ仏、あなたに帰依します」と唱えれば、すくい取ってくれる大いなるプリンシパルと同じように、『力と栄光』のプリンシパルは、グリーンを許し、ウイスキー坊主を救いあげる。 以上のような印象読後感は、綿密な分析的読解によれば、破綻の多い論であることは承知しているが、私は、「カトリック文学」の代表作のひとつという『力と栄光』を、遠藤周作の『沈黙』と同じように、「仏教と相通ずるカトリック」のひとつの表現として読んだ。2-2 言語におけるプリンシパルとエージェント 西欧の言語、インドヨーロッパ語の系統では、主語-述語の文型において、能動文は主語subjectと行為主体agentは一致したものとして扱われる。“The lieutenant opened the cell door.”(p.205).という文において、文の主語は行為主体である。警部は独房のドアに対して「開ける」という行為を加え、ドアを変化させている。He(the boy)put his feet on the ground.(p221)という文において、主語は行為主体であるが、行為対象は「his feet」であり、「彼は足を床におろした」は、少年自身の行為が自分自身のうちに完結しており、他者を変化させる行為ではない。「The boy sat beside the bed. 彼はベッドのわきに座った」(p221)と同じく、自動詞表現に準ずる。 神の存在を信じる者にとって、己の行為に迷いはない。神が決定したことに従って行動することですべての行為が満たされる。行為者Aプリンシパル(依頼人)は、行為者B(実行者)に行動を託し、行為者B(エージェント)は、プリンシパルの意向に添い、プリンシパルの利益を損ねないように行動すればよいのだ。  The boy spat through the window bars.(p220)ではthe boy少年は「つばを吐く」という行為を行っている行為者である。このとき、少年の行動と意志を決定するのは、プリンシパルである。プリンシパルは少年の行動の描写に現れないが、少年が自分をプリンシパルにゆだね、プリンシパルの存在を信じている限り、すべての行動はプリンシパルのエージェントとして行われる。 しかし、自分自身にプリンシパルを認めない「神を棄てた」人間にとって、すべての行動すべての考えや意志は「行為主体B」のみの世界となる。He smiled again and touched it too.(p220)というとき、He[The lieutenant]の行動は、彼自身が決定し彼自身が行為する。「主語=行為主体」であり、他のものは介在しない。 一方、日本語においては、行為主体は背景化される。少年が皿を割ったとして、それが故意動作でない場合の結果を述べるなら、ふつうは「皿が割れた」と表現される。特に少年の行為であることを強調する必要があるのでなければ、皿の上に起こった変化は「事象の推移」として表現され、行為実行者(行為者B)は背景化し、プリンシパル(行為者A)による全体の推移変化として述べられる。このとき、プリンシパルとエージェントは明確な境界線を持たない、融合した存在である。「少年は床屋で髪を切った」という文で、「少年」は行為実行者ではなく、「切る」という動作行為の実行者は床屋である。しかし、日本語は他動詞を用いて少年の行為として事象の変化を表現する。主語(subject)が述語(predict)内容の「行為実行者エージェント」と一致する必要はない。主語は、事象全体の統括者であればよい。日本語にとって、プリンシパル(依頼者・統括者)とエージェント(代理人・行為実行者)を明確に区別する必要がないからだ。全体の事象推移を、結果の側から報告する日本語の表現にとって、「警部は飲んだくれの神父を処刑した」という文も、大いなる事象の中のひとつの表現であり、銃殺の引き金を引いたのが、警部自身の行為であってもよし、警部は「構え、撃て」という命令を下しただけの人であってもよい。プリンシパルは警部と重なりつつ全体の推移を統括している。 『力と栄光』の物語は、すべてプリンシパルの統括の中に収束している。本来ならば、神を信じず、すべての行為を己の責任において実行しているはずの「ウイスキー坊主を追う警部」の行動が、ウイスキー坊主の行動と同じくすべてプリンシパルの意志の元で行われているように感じられるよう作話しているところが、グリーンの手腕であろう。ほんとうならば神とは決別しているはずの警部の行動も、すべて神の意志のなかに取り込まれているように思える。この点で、『〈力と栄光〉』を有するプリンシパルとは、大乗仏教の阿弥陀仏のように感じられるのだ。33-1 グリーンのバックグラウンドとグリーン文学のキーワード  『力と栄光』は、1940年に発表されたグレアム・グリーン(1904年10月2日~1991年4月3日 )の代表作のひとつであり、彼はこの一作によって、作家としての地位を固めたといえる。この後の、『事件の核心』(1948)、『情事の終り』(1951)とともに、グリーン文学の中心的な作品である。 グリーンは多くの場合「カトリック作家」として分類され、宗教的には終生カトリックの信仰を持ち続けた作家として、カトリック倫理をテーマに据えた作品を書き続けた。また、一方では思想的に終生「共産主義」への共感を持ち続けた作家でもある。カトリック信仰と共産主義への共感はグリーンの中では調和した一体のものであり、1984年にイギリスの作家、マーティン・エイミスが80歳の彼にインタビューした際、グリーンは「確信を持った共産主義者と確信を持ったカトリックの信者の間には、ある種の共感が通っている」と語っている。(エイミス2000 p16) 『力と栄光』は、「共産主義社会の中のカトリック」というテーマを背景に持つ作品である。早川書房版の文庫翻訳『権力と栄光』(斉藤数衛訳)には、この作品の成立についてグリーン自身による「序文」に詳しく記されているが、ペンギンペーパーバック版にはジョン・アプダイクの序文がついていて、グリーンの序文は載っていない。(以下、翻訳は『権力と栄光』、原作については『力と栄光』と記す) 『権力と栄光』序文の概要は以下の通りである。1,グリーンは1937~1938年に、メキシコ旅行をした。メキシコの共産主義革命下における宗教迫害をリポートするためであった。2,メキシコのタバスコ、チアパスで、最後の司祭のうわさを聞いた。ひとりは棄教者となり、ひとりは酔っぱらいだった。3,グリーンは、「『The Power and the Glory』は、ある主題にそって書いた唯一の小説」と述べている。 グリーンの思想的背景として、カトリック信仰と共産主義へのシンパシーをあげたが、あと3点、グリーンのバックグラウンドとしてあげておくべきものがある。 ひとつは、少年時代の父との確執である。グリーンは1904年にイギリスのハートフォードシャー州バーカムステッドで生まれた。父はハートフォードシャーにあるパブリックスクール、バーカムステッド・スクールの校長であった。父が校長である学校に通う間、グラハム少年は反抗心をもてあました。厳格な教育者である父との相克と心理的な決別は、「父なるもの」「father」との関係について、グリーンの小説において大きな意味を持っていると思われる。 第2点。パリックスクール在学中、スパイ小説家ジョン・バカンの小説を愛読した。のちにグリーンはイギリス諜報部のスパイとして勤務することになるが、「裏切り」は、スパイが出てこない彼の小説においても潜在的なテーマとなっている。 第3点目は、グリーンは性的傾向において、ロリータ・コンプレックスの持ち主であったということである。マイクル・シェリダン(山形和美訳)『グレアム・グリーン伝:内なる人間』上(早川書房・1998年)pp.348-349 には、歓楽地のブライトンで若い少女を求めていたという小説家フランシス・キングの証言が記されている。また、雑誌『スペクテーター』には、歴史家レイモンド・カーによる「グレアム・グリーンがハイチに出かけていってはロリコン買春をしていた」という記事が掲載されているという。(この雑誌につき、筆者未読・未確認)ロリータ・コンプレックスに対しては、性心理学などからの分析は多々あるが、成人女性に対する性的要求(成熟した人間対人間として、一対一の関係を切り結ぶ)に比べて、「男性として、幼い対象を完全に支配したい」「父あるいは偉大な存在として少女に影響を与え、意のままに扱いたい」という心理的要素が強いとされる。 グリーンによる1937年のメキシコ旅行は、彼の「少女スター、シャーリー・テンプルは、男たちの性的欲望の対象である」という評論が激しい非難にさらされ、裁判騒動になっているさなかの旅であったことを、作家は『権力と栄光』の序文で最初に述べている。裁判は結局敗訴となった。1937年に雑誌『ナイト・アンド・デイ』に子供を主な視聴者とする家族向けの映画『テンプルの軍使』について、9歳のシャーリー・テンプルに男性の観客は欲情を感じているという趣旨の批評を書いた。20世紀フォックスとの裁判で敗訴し、高額の罰金を払い『ナイト・アンド・デイ』は廃刊になった、という事件である。1990年代にグリーンの性的傾向「少女への性愛嗜好」が話題になると、グリーンは民事訴訟を忌避してメキシコへ渡っている。メキシコが「犯罪者の引き渡し条例」に属していない国であったがゆえの渡航先であったのだが、かって、1937年当時の旅の思い出の中では「あまり愉快な旅ではなかった」と書いているメキシコを「ロリコン追求から逃れるための地」として選んだことは、何かの巡り合わせであるのかもしれない。 『力と栄光』の中に描かれる、「神の存在と棄教」と司祭を追いつめる「理想主義的共産主義者」の相克。これらの登場人物の中に、グリーンは、「官能的な7歳の少女」を登場させている。無垢で無知であるがゆえにいっそう魅力を発揮する少女を官能の対象とせずにはいられないグリーンにとって、少女愛はウイスキー坊主の破戒にも匹敵する「己の中に隠し持つ破戒」であった。 晩年のグリーンに対して、その名声や名誉をはぎ取らんばかりに追いつめようとする「少女性愛傾向者」という烙印。不名誉から逃れようとするグリーンは、かってウイスキー牧師がさまよった荒涼としたメキシコを、みずからの彷徨の地として選んだ。 以上のグリーンのバックグラウンドから、グリーン文学を解釈するキーワードを並べてみると、「父と子」「支配と被支配」「裏切り」「烙印を背負う彷徨」 以上のグリーン文学キーワードは、『力と栄光』のテーマとも重なるものである。3-2 グリーンのメキシコ旅行 ジョン・アプダイクは『力と栄光』に序文を寄せている。英語力ない筆者なので、アプダイクがグリーンに対して次のように述べている言説がまったく理解できない。 アプダイクはこのイントロダクションのなかで、次のようにグリーンのメキシコ旅行を評している。An ascetic, reckless, life-despising streak in Greene's temperament characterized, among other precipitate ventures, his 1938 trip to Mexico.グリーンの気質の禁欲的で向こうみずな、生命を軽蔑している傾向は、他の無鉄砲な冒険の間で、メキシコへの彼の1938年の旅行を特徴づけている。(稲村の試訳)  アプダイクがグリーンのキャラクターを「禁欲的で生命を軽蔑している」と評していることは、グリーンを大きく見誤っていると筆者には感じられる。グリーンがメキシコ旅行で得たことは、「禁欲的で生命を軽蔑している」とは、正反対に思う。「欲望をさえぎることなく荒野に解き放ち、生命謳歌を荒涼とした大地に感じ取った」ゆえの『力と栄光』の力強い文体となったのだと思うのだ。 『力と栄光』の3人の主な登場人物。棄教し世俗人として家庭生活を選んだホセ神父。司祭として生きる生き方を棄てきれず、荒れたメキシコをさまよったあげくに、混血児の裏切りにあい警部に逮捕され処刑されるウイスキー坊主。「子供たちによりよい社会を」という理想主義のもと共産主義革命の成就を願う警部。この3人は3人ともグリーンの分身であろう。 「自分自身がシャーリー・テンプルのような幼女に性的欲望を感じる男のひとりである」ということはカミングアウトしないまま、メキシコを旅していたグリーンにとって、『力と栄光』発表後、50年の歳月を経て目にしたメキシコは、どのような大地として目に映ったであろうか。4 『力と栄光』と『沈黙』 筆者は、100カ国の留学生に出会ってきたが、真実自分自身を「無神論者」と規定していたのは、イスラエルからの女性写真家ただひとりであった。彼女はイスラエル国籍の父とイギリス国籍を持つ母親との間に生まれイギリスで成長し、イスラエルに移住した。彼女以外、「無宗教」と答えた人に出会ったことがない。彼女のような厳しい自己規定でいえば、筆者も「無宗教」と言わなければならないのであろうが、留学生に対しては「I am a Buddhist.」と言うことにしている。1年に1度ほど両親の墓参りをしに寺詣でをするというだけの仏教徒なので少々気がひける思いもするが。特に入信の儀式もなく、教義も知らず、ただ、親が寺に葬られているので墓参りをするという程度の「仏教徒」がほとんどである日本で、「信仰告白と棄教」という問題が、いまひとつ身近で深刻な問題とは考えにくいのだ。 遠藤周作は『力と栄光』に触発されながらも、きわめて日本的なプリンシパルとエージェントを描いた。すなわち、『沈黙』の小説主体は、棄教者ホセに対比される転びバテレン・フェレイラと、裏切り者ユダ役の混血児に比するキチジローへと視点が投影されている。内面にイエスへの憧憬を持ち続けるなら、形の上で踏み絵を踏んだところでイエスはそれを許し、信仰者として受け入れてくれる、という遠藤の解釈は、グリーンの『力と栄光』をしのいで大乗仏教的であると思う。 カトリックは、そもそも1,人間の魂は全てイエス・キリストからの恩恵を受けており、本性上キリスト教的な存在である。すなわち全人類は『可能的』にキリスト教徒である。 2,「可能的キリスト教徒」は、教会に所属していない者であってても、それは未だ無知なためであり、良心の声に忠実に生きる人は知らずして神に従い、またイエス・キリストの恩恵を受けることになる(含蓄的な恩恵(fides implicita)。3,そのため、カトリック以外の教派あるいは異教徒にも『含蓄的』な信仰を抱き「見えざる教会」の一員になり得る場合がある。 4,含蓄的な信仰を抱いた人はイエス・キリストの啓示真理に接することによって、その信仰は『顕現的』なものとなって、目の前に存在する唯一の教会の一員となる。 グリーンは『力と栄光』「人間の本性は、その堕落を経てもなおも神による普遍的な救済意志の恩恵を受ける資格を有している」というカトリシズムの根幹の思想を描き出した。「救済を受けるためにはイエス・キリストの体に替わる存在であるローマ教皇を頂点とする教会組織に加入することによって「新しい神の民」となり、その信仰が福音の真理から逸脱しない保証を獲得する必要がある」この考え方が教理として有効なのかどうか、筆者にはわからない。 ウイスキー神父はどれほど実生活で堕落しようと、洗礼や終油などの秘蹟を施す司祭としての役目を遂行することでキリスト教徒として存在しようとしていた。  一方、教会という制度の中に存在しなくても、心の中にイエスを思いさえすれば、洗礼しようとしてまいと、懺悔告解をしようとしまいと、最後の秘蹟を受けようと受けまいと、神は受け入れる、という考え方は、「南無阿弥陀仏」と唱えるのと同じく「南無耶蘇神」と唱える「大乗耶蘇教」信者である、と、筆者には思える。サクラメント秘蹟を無視してカトリシズムは成立しないのであるのかどうか、カトリック教義に詳しくない筆者にはわからない。5 結語 グリーンは文学史上、カトリック作家として扱われる。 筆者は、『力と栄光』のテーマを、破戒してもなおキリスト者であろうとする者への魂の救済の物語と受け止めた。これは、欧米社会では今なお「異常性愛者」という烙印を押される「少女への性的嗜好」というグリーン自身の内なる暗闇を抱えた生への救済でもある。 人は個人の意志によって行動し、生きていくように思っていても、プリンシパル(依頼者)に命じられた通りに行動するエージェントにすぎない。時にプリンシパルの利益に反する行為をエージェントがとっているように見えても、エージェントがプリンシパルのもとに所属している限りでは、プリンシパルはエージェントを切り離すことはない。 日本語母語話者、とくに日本的仏教徒(古代神道や道教と習合した仏教)にとって、プリンシパルとは自分をとりまく世界そのものであり、個人と世界を切り離すことはない。自己の内に感じ取る事象の変化は、自己を含むプリンシパルが世界を推移させるその内に存在し、明確なエージェントとして行動することは、特別な場合に限られる。「The lieutenant opened the cell door.」と「The cell door opened.」「The cell door opende by the lieutenant.」とは、厳密に区別されなくてもよい同一の「事象の推移」にすぎない。プリンシパルとエージェントとオブジェクトは切り離して考える必要のない、一体のものだからである。 『力と栄光』は、西欧文学のなかで、仏教信者にも受け入れやすい神と人の物語であるが、それは、グリーンがプリンシパルとエージェントを切り離されるべきものとして描いておらず、大乗的な「すべてを包み込むもの」が小説のすみずみまでその「power」「glory」となって満ちているからと思う。(注1) 経済学・社会学・政治学などにおいて、プリンシパル=エージェント関係(principal-agent relationship)(あるいはプリンシパル=エージェンシー関係(principal-agency relationship)とは、行為主体Aが、自らの利益のための労務の実施を、他の行為主体Bに委任するとき、行為主体Aをプリンシパル(principal、依頼人、本人)とし、行為主体Bをエージェント(agent、代理人。またはエージェンシーagency)として、その関係や利害関係を扱うことである。 経済学で考察の対象となるプリンシパル=エージェント関係としては、株主(プリンシパル)と経営者(エージェント)の関係、経営者(プリンシパル)と労働者(エージェント)などがある。政治学で考察対象となるのは、特に合理的選択理論において分析の対象となる。政治家(プリンシパル)と官僚(エージェント)、議院内閣制における与党議員(プリンシパル)と内閣(エージェント)、首相または大統領(プリンシパル)と閣僚(エージェント)などの関係が挙げられる。(注2) 筆者のカトリック理解は、大学学部で1970年代に仁戸田六三郎の授業で学んだ「宗教学」、1980年代に島薗進の授業で学んだ「新興宗教学」において得た知識の範囲を出るものではない。(注3)宮島直機(中央大学教授)の『「東方キリスト教学会」における2006年8月31日発表」』のまとめ o, 11世紀までは、皇帝がヨーロッパ全域を統べるimperatorであった。皇帝が「キリストの代理人」であり、教皇は数多くいる司教の一人に過ぎず、教皇は「ペテロの代理人」に過ぎなかった。1, 1046年のスートリの教会会議で、皇帝ハインリヒ三世が並立する二人の教皇シルヴェステル三世とグレゴリウス六世を廃位した。2, 廃位に反発した教皇側が、1059年に教皇を枢機卿会議で選ぶことにしたため、皇帝は教皇を選べなくなった。3, 1062年にシチリア国王が教皇に保護を求めてきた。教皇はシチリア国王の武力を借りて皇帝の影響力を排除できるようになった。4, 1073年にグレゴリウス七世が教皇に選ばれ、1075年に「教皇令 Dictatus Papae」を発表。5, 教皇により聖職者叙任権は、皇帝や国王ではなく、教皇本人が持つようになった。6, 聖職者叙任権を失った皇帝は「世俗の支配者の一人」に過ぎなくなり、皇帝に代わって教皇がヨーロッパ全域を統べるimperatorになった。すなわち、「キリストの代理人=神の代理人」になった。7, 人間ペテロの代理人にすぎず、皇帝より強い権力を持つことはなかった教皇が、「特定の教会に縛られず、キリストを体現したと見なされるパウロの権威」を教皇の権威として認められたことにより、教皇は「神の代理人」となることができた。教皇は「神の代理人」として地上の国で「反キリスト」から信者を守ることを使命とする。(注4) 大阪地検2009年2月25日21時29分(朝日新聞大阪版2009年2月25日付け報道によると)以下の記事に報道された「セクハラ神父」問題は、証拠不十分で不起訴となった。【朝日新聞】2009.02.04  司祭、母娘にセクハラか 大阪府茨木市のカトリック大阪大司教区茨木教会の男性司祭(74)が、同教会に出入りしていた信徒の母子にセクハラ行為をした疑いがあることが同教区への取材でわかった。司祭は同教区の聞き取り調査に対し、キスをするなどの行為を認めたという。本人「申し訳ない」 大阪府警は、司祭が立場を利用してセクハラ行為に及んだ強制わいせつの疑いがあるとみて、母子から事情を聴いている。また、ほかにも複数の人がセクハラを受けていたとの証言もあることから、事実関係の確認を急いでいる。 大阪、和歌山、兵庫3府県のカトリック教会を管轄する同教区によると、司祭は茨木教会に通っていた40代の母親と小学生の女児と親しくなり、教会施設内で母親にキスしたり抱きしめたりするなどのセクハラ行為を繰り返し、昨年12月には母親の目の前で女児にもキスをしたという。母親は同教会の清掃や食事の準備などを手伝い、教会からの賃金を生活費にしていたという。 母親は今年1月、これらのセクハラ行為を同教区へ申告した。教区の聞き取りに対し、司祭は行為自体は認めた上で、「母子がふびんだった。子どもも小さいころから知っていた。海外では普通のこと」と主張する一方、母子に対し「申し訳ないことをした。謝りたい」と述べているという。母親は「(セクハラは)仕事も紹介してもらっていたので、嫌々だった」と話しているという。 同教区は「子どもが関係しているので、客観性を保った調査が必要」とし、弁護士3人で第三者委員会を立ち上げ、関係者から話を聞いている。 同教区の担当者は「教会に対する信頼を損なう行為。双方の受け止め方は違うが、うやむやにせずはっきりさせたい」としており、8日に信徒に説明するという。(注5)アプダイク序文の冒頭部分を筆者の和訳で掲載しておく。筆者の英語力は非常にpoorであり、アプダイクの言いたいことがよくわかっていない、という証左として掲載するのである。<イントロダクション ジョン・アプダイク>  『力と栄光』は、(50年前、英語版の通常の出版どおり3500部で出版されたのだったが)グレアム・グリーンの傑作として認識され、評価に値するのみならず、高い人気を保つ本であることにみな同意している。   グリーンはメキシコのタバスコとチアパスの南地方に2ヵ月弱滞在した。3月、5週の厳しい単独の旅行、そして1938年4月の滞在に基づいて、グリーンの小説としては、イギリス人の登場人物が最少の物語である。英国人は少数が脇役となっているだけである。  おそらく、ローマ・カソリックについての幾分かの非英国人的なものが明白に存在する故に、この小説は成功している。マニ教のような暗闇、苦痛に満ちた文体で、彼の最も野心的なフィクションとなっている。   エンターティメントとは対照的な三つの小説、すなわち『力と栄光』に前後する『ブライトンロック』(1939)『事件の核心』(1948)『情事の終わり』(1951)は、偉大な作品であることに疑問はない。これらの作品は、調査者の視線と同じほどに激しく不穏に見通している。   ジョーゼフ・コンラッドとジョン・バカンの影響を受け、彼が小説家として順調なスタートをした後、グリーンのスリリングなプロットを構成する名人芸的才能と、幾分軽い病気ともいえる感受性の強さを伴う高水準の知性と情熱が、疲れを知らぬ宗教的内面の厳密な言葉によって論じられた。   これらの3つの小説において、なお、わずかながらもローマ・カトリシズムに固着し、これらの小説には、夢のような感覚の範囲においてゆがみが存在する。竹野先生Q:(テンプル誹謗の言葉は、グリーンの欲望の吐露という判断ですね?稲村A:はい、筆者の解釈では、グリーンは少女性愛者、いわゆるロリコンです)使用テキストGraham Greene:The Power and the Glory, PENGUIN CLASSICS, 2003.グレアム・グリーン著/斉藤数衛訳『権力と栄光』、ハヤカワ文庫、2004。引用文献マーティン・エイミス(Martin Amis)大熊栄・西垣学訳・『ナボコフ夫人を訪ねて-現代英米文化の旅』、河出書房新社、2000。マイクル・シェリダン(山形和美訳)『グレアム・グリーン伝:内なる人間』上(早川書房・1998年)pp.348-349http://c-faculty.chuo-u.ac.jp/~miyajima/_tK8XLl1.html参考文献山形和美『グレアム・グリーンの文学世界-異国からの旅人-』、研究社出版、1993年コロンビア大学『現代文学・文化批評用語辞典』、松柏社、2002。ジョセフ・チルダース、ゲーリー・ヘンツィー編。杉野健太郎・中村裕英・丸山修、訳   

ぽかぽか春庭「『力と栄光』における神の代理人について・」

2008-11-02 14:05:00 | 日記
『力と栄光』における神の代理人について・一仏教徒の読後感(The Power and the Glory by Graham Greene)
1 はじめに1-1 『力と栄光』梗概
1-2  ウイスキー坊主の命名と、『力と栄光』の作品構造

2-1 プリンシパル・エージェント問題(principal-agent problem)
2-2 言語におけるプリンシパルとエージェント  

3-1 グリーンのバックグラウンドとグリーン文学のキーワード3-2 グリーンのメキシコ旅行4 『力と栄光』と『沈黙』
5 
結語1 

はじめに

 1940年『力と栄光』の出版から70年近くが経っており、評論や研究書も数多くが出版されてきた。神への裏切り、神を棄てることについて、神を信じ続けることについて、神の復活を信じることについてなど、カトリシズムからの検証、さまざまな文学理論による批評など、多くの論が寄せられ、論じられてきた。その一遍一遍を仔細に検討する余地はない。従って、このリポートも、筆者自身の読後感の「印象批評」にすぎない。 筆者は、以下の点に論を絞って述べる。
1,キリスト教文学におけるプリンシパル・エージェント問題(principal-agent problem)2,「神の代理人・エージェント」としてのウイスキー坊主 筆者の試みは、経済学や政治学で普遍的な理論となっているプリンシパル・エージェント問題(principal-agent problem)を、文学評論に取り入れる、ということにある。
 少なくとも私のこれまで読んできた文学理論の中に、このprincipal-agentという言葉を見たことはなかった。私が日頃活用している『コロンビア大学 現代文学・文化批評用語辞典』(松柏社2002年第3判)は、7年前の出版であり、その後の文学理論動向について筆者の探索範囲は狭いので、だれかがprincipal-agent理論を文学に適用したかどうかは、定かではない。インターネット検索の範囲では見あたらなかったというにすぎない。1

-1 『力と栄光』梗概 1930年代、メキシコでは共産主義革命下で、宗教弾圧が吹き荒れた。共産主義者たちは政権を握るとカトリック教会を迫害し、教会はすべて破壊され、司祭たちは〝踏み絵〟を強制された。踏み絵を踏んで棄教する者もいたし多くの司祭たちは国外に逃亡した。逃亡に失敗して潜伏した者たちは探し出されて、銃殺された。 『力と栄光』には、二人の司祭と一人の共産主義政権下の警官が登場する。ホセは棄教し、年増女を女房にしている元司祭。もう一人は潜伏して逃げ回っている司祭であるが、「ウイスキー坊主」と呼ばれている飲んだくれ。俗人となったホセには名が与えられているが、「ウイスキー坊主」は実名が最後まで出てこない。一人の人間を描写したというより、ある象徴的な人物像となっているからであろう。〝ウイスキー坊主〟と呼ばれている司祭は常に飲んだくれ、一人の女性と交わり娘を生ませている。踏み絵を踏んだホセと何ら変わりない破戒僧であるが、ホセは棄教を明らかにしたのに対して、ウイスキー坊主の自己意識はあくまでも「司祭」である。
 舞台は、メキシコで一番辺鄙な州であるタバスコ州。山岳地帯と海に挟まれた細長い土地で、その大半が湿地と深い森林に覆われた熱帯のジャングルであり、人々は人間の暮らし以下の悲惨な日々を送っている。
 小説は、潜伏している司祭ウイスキー坊主が国外へ逃亡するため船に乗ろうとやってくるところから始まる。暑さに耐えて、司祭は船が出るのを待っていた。歯医者を開業しているテンチ氏が、船は定時に出たことなどないとウイスキー坊主に話しかけた。暑いからうちに来いと誘われるままにテンチ氏の家に行った司祭は、医者を探しに来た子供の求めを拒みきれずに、子供の村へと向かった。村への途中、船は定時に出航してしまった。司祭が安全な国外へ逃亡することができないこと、彼には過酷な運命が待っていてやがて死にいたることを、空を飛び交っているハゲワシが暗示する。
 潜伏する司祭の逃避行は、惨めで辛い。警察に追われる酔いどれ坊主がやって来たことを迷惑がる人々、彼が出て行くときは、皆ほっとした顔になる。ウイスキー坊主は、自分を否定する人々の中にあって自問自答を続ける。「私は神によって裁かれている、そうでなければ、私の生きている理由はない」。司祭は逃げ回りながら、自分がそこに存在する意義を考え続け、自分自身を疑い否定しつつも棄教することはない。
 俗人となったホセは、保身の余りにウイスキー坊主を匿うことを拒み、彼が銃殺される前に懺悔をしたいと頼んでも拒むという、どこまでも自分自身のことしか考えられない人物である。一方同じ破戒僧であっても、ウイキー坊主は、自分が破戒僧であるという苦しみと、いつ捕まるかわからないという二重の精神的な重圧にさらされ、身体的には慢性的なマラリヤ、食糧不足などの極限的な状況にありながらも、人々の懺悔を聞き、聖体拝領を授け、子供に洗礼を施すことをやめない。最後には罠であることを承知で死にかけたお尋ね者の臨終の懺悔を聞くために、無事に逃げられる道を捨てて、自ら罠の中に入っていく。常に神を意識し、己の中に神を持ち続けたということで、破戒僧でありながら、ウイスキー坊主は、誰よりも神に近い存在として描かれている。しかし、彼自身は、「自分が死んだら地獄へ行く」ことを誰よりも強く確信している。
 このウイスキー坊主を追いつめる警部は、貧しいどん底の生活を強いられてきた者であり、共産主義革命は、人々を「もっとマシな生活」にし、「宗教は人々の心を麻痺させ堕落させる」と信じている。彼は「自分が送ってきたような貧困を二度と子どもたちに味わわせはしない」という理想を高く掲げ、その信念のもとに「金権と教会」「教会と盲信」という社会悪を根絶やしにすることに命をかけている。「信念のため、正義のため」の司祭追跡、教会弾圧であるとはいえ、罪のない者たちを人質にして銃殺したり、罠を張ったりする行為は、民衆の共感を得たり尊敬を集めたりすることはない。ついに司祭を追いつめ銃殺するという目的をついに果たしたのちに、警部は激しい孤独に陥ることになる。小説中において、対極に位置しながら、警部とウイスキー坊主は、ひとつの人間像の表と裏である。ウイスキー坊主と警部は、よりよい生活を求めるという理想に向かっておのれの信念を貫いて生きるという根本的なところで一致している。一人は共産主義革命の正しさを信じつつも実際に行っていることが民衆迫害になっていることを自覚し、一人は神の存在を信じながらも破壊僧となった自分を許せないでいる。二人は表裏一体の存在である。警部は、司祭を追いつめながら心の奥底でウイスキー坊主に共感をいだいている。
 小説のラストシーン、ルイス少年は、夜中、「Father」が戻ってきたと、感じる。少年の夢かもしれないし、幻想かもしれない。銃殺されたウイスキー坊主が復活したのかどうか、別の新しい神父が外国からやってきたのか、ルイス少年の夢にすぎないのか、作者は最終の場面を読者の受け止めるままにして小説を閉じている。

1-2 ウイスキー坊主の命名と、『力と栄光』の作品構造 『力と栄光』の主人公、世俗名を与えられていないアルコホーリクス・アノニマス(Alcoholics Anonymous 無名のアルコール依存症者)としてのウイスキー坊主は、小説に登場したときから、すでに自分自身を「堕落した、エイジェンシー・スラックの持ち主」と自己規定している。アルコールにおぼれ、女犯の罪を犯して娘を生ませている。死ねば地獄に堕ちる自分自身であることを自覚しつつも、なお、神に見放されたメキシコ民衆に対して「父」であることの勤めを果たそうとする。ときには、酔っぱらったあげく、男の子に女性名である洗礼名をつけてしまうようなていたらくでありながらも、自身の死の直前まで、「神父」として生き続けたのである。
 主人公が名を示されず、「ウイスキー坊主」というあだ名で呼ばれていることについて。 「AAアルコホーリクス・アノニマスAlcoholics Anonymous」は、1935年にアメリカ合衆国でビル・Wとボブ・Sの出会いから始まった。世界に広がった飲酒問題を解決したいと願う相互援助の集まりで、略してAAという。断酒を願うアルコール依存症者が、自分一人の意志では持続不可能な禁酒を、互いに体験を話し合うことによって持続する。不特定多数無名者による団体である。会長もおらず、会則も会費もなく、ボランティアによって運営され、すでに80年近い歴史を持つ。参加者は「無名であるがゆえに、私はあなたであり、あなたは私である」という意識でグループミーティングに参加してきた。
 1937年にメキシコを旅し、1940年に『力と栄光』を発表したグレアム・グリーンは、はたして「AA」の存在を知っていたかどうか。アルコール依存症患者たちが、無名のままお互いの「断酒を続ける生活」を語り合うことによって、依存症を克服するという相互扶助団体にグリーンが興味を持っていたかどうか、文献上で確認することは現在のところできていないのだが、筆者は、グリーンの関心の中に入っていたのではないかと想像する。なぜなら、後述するように、グリーンは1937年のメキシコ旅行中、自分を被告とする裁判の闘争中であり、アメリカの世論動向に強い関心を持っていたと考えられるからだ。アルコール依存というアメリカ社会では「負・マイナス」の烙印を押されてしまった「AA」の無名者たちに、「幼女への性的関心を持つ側の人」として裁判の渦中にあるグリーンが共感を寄せていたと想像することはそれほど荒唐無稽ではない。
 実名を持たず、「無名のアルコール飲用者」として設定されているウイスキー坊主は、一個の小説中の個人ではなく、私でもありあなたでもある、「普遍の存在」として、小説世界に生きている。グリーンがウイスキー坊主と彼を追う警部に名を与えなかったのは、二人がグリーン自身であり、読者自身であるというメッセージをこめているからだと、筆者は考える。 『力と栄光』は、グリーンの内面の部分が投影されたような人物が交差する。理想社会を求めて社会主義体制の護持者たらんとする警部、警部に負われる逃亡者ウイスキー坊主、ウイスキー坊主をすげなく見捨てる世俗的棄教者ホセ元神父、そして、賞金目当てにウイスキー坊主を警察に売り渡す混血児(キリストを売ったユダになぞらえられる)などの主要人物のほか、歯医者のテンチ氏をはじめ、脇役バイスタンダーが登場する。
 小説の第2部と3部は、ウイスキー坊主の逃避行がメインストーリーであり、主としてウイスキー坊主の視点によって場面が推移する。しかし、その額縁ストーリーとなっている第1部と4部は、脇役たちの視点によってウイスキー坊主の姿が描写される。読者は、第一部で、幕が上がった舞台を見ているうちに、いつの間にか自分自身が観客としてではなく、登場人物のひとりとして舞台の中に生きていく感覚を持つ。 この作品構造は、ウイスキー坊主のリアリティを保証するために成功していると思う。この1部と4部には、ギリシャ悲劇における「コロスによる合唱」の響きが連想される。このコロスの合唱を含めて、『力と栄光』は、ウイスキー神父のみじめな最後にもかかわらず、「キリストの復活劇」に匹敵する「祝祭性」を持つ。祝祭の場においてキリストをたたえる劇に見える。
 筆者にとっては、『力と栄光』は、グリーンによる「祝祭的キリスト賛歌」である。 物語の全体を統括している行為者A・プリンシパルは神であり、行為者B・エージェントはウイスキー坊主である。 ハヤカワ文庫版の翻訳者斉藤数衛は、警部とウイスキー坊主が無名であることについて「作家としてのグリーンの”さめた目”を感じる」(サブテキストp444)と書いている。筆者の考え方と正反対である。筆者は、グリーンの「熱い共感」が警部とウイスキー坊主に名前を与えず「アノニマス」の一員として描いたのだと考える。作家としての「さめた目」による小説技法としての「無名」の主人公であるとするなら、グリーンは、己をさめた高見の位置においたことになりはしないか。ウイスキー坊主はグリーン自身であるからこその「AA」だったと筆者は主張する。


2-1 プリンシパル・エージェント問題(principal-agent problem) 人間世界は、大きく分けるとふたつの事柄によって推移変化する。ひとつは「自然推移」である。宇宙の運行、たとえば地球は、自らが自転しつつ太陽のまわりを公転するということは、人間の意志によって左右されず、個人の意志は何ら反映されることはなく推移する。もう一方は、人間が自らの意志によって世界の変化をもたらす「意志行動」である。意志行動の「変化への意志を持つ者・行為主体A」を「プリンシパルprincipal」と呼ぶ。プリンシパルの意を受けて、「実際に行動する者・行為主体B」を「エージェントagent」と呼ぶ。 経済学・社会学・政治学などにおいて、プリンシパル=エージェント関係(principal-agent relationship)(あるいはプリンシパル=エージェンシー関係(principal-agency relationship)とは、行為主体Aが、自らの利益のための労務の実施を、他の行為主体Bに委任するとき、行為主体Aをプリンシパル(principal、依頼人、本人)とし、行為主体Bをエージェント(agent、代理人。またはエージェンシーagency)として、その関係や利害関係を扱うことである。 経済学で考察の対象となるプリンシパル=エージェント関係としては、株主(プリンシパル)と経営者(エージェント)の関係、経営者(プリンシパル)と労働者(エージェント)などがある。政治学で考察対象となるのは、特に合理的選択理論において分析の対象となる。政治家(プリンシパル)と官僚(エージェント)、議院内閣制における与党議員(プリンシパル)と内閣(エージェント)、首相または大統領(プリンシパル)と閣僚(エージェント)などの関係が挙げられる。 これらのプリンシパル・エージェント関係において、しばしば問題が発生する。これをエージェンシー・スラック(agency slack)と呼ぶ。エージェントが、プリンシパルの利益のために委任されているにもかかわらず、プリンシパルの利益に反してエージェント自身の利益を優先した行動をとってしまうこと。エージェンシー問題(エージェンシーもんだい、agency problem)とは、プリンシパル=エージェント関係においてエージェンシー・スラックが生じてしまう問題のことを言う。 キリスト教において、東ローマ帝国では皇帝による聖俗両方の支配が完成し、教会は「キリストに忠実なる支配者」「神の代理人」として、統治する皇帝の下で国家宗教として発展した。 筆者は仏教徒である。両親が曹洞宗の寺に葬られているというだけで、筆者自身が檀家でもなく、敬虔な仏教徒とはいえない「社会通念上の仏教徒」というにすぎないが、一応仏教徒であり、キリスト教の教義にもカトリックについても、ほとんど何も知らない人間である。筆者のカトリック理解は、大学学部で1970年代に仁戸田六三郎の授業で学んだ「宗教学」、1980年代に島薗進の授業で学んだ「新興宗教学」において得た知識の範囲を出るものではない。 したがって、カトリックの教義においては「教皇=神の代理人と見なされている」と考えている筆者の理解が間違っているならば、このリポートは意味がない。「ローマ教皇は地上で人間の罪を裁く権利をイエスから与えられている」いうことが、カトリックにおいて「ローマ教皇の存在意義」でないなら、「プリンシパル・エージェント問題としての『力と栄光』」というこのリポートは成立しない。
 以下は、宮島直機(中央大学教授)の『「東方キリスト教学会」における2006年8月31日発表」』(注1)を、筆者が理解した範囲でまとめた「神の代理人としてのカトリック教皇」である。
 天上で処理することになっていた人間の「罪と罰」の問題が、教皇革命の結果カトリック教会圏では地上で処理できることになり、神が裁くことになっていた人間の罪を人間が裁けるようになった。この大変化を「教皇革命」と呼ぶ。この場合の「教皇革命」とは、次のような経緯を持つ。
o, 11世紀までは、皇帝がヨーロッパ全域を統べるimperatorであった。皇帝が「キリストの代理人」であり、教皇は数多くいる司教の一人に過ぎず、教皇は「ペテロの代理人」に過ぎなかった。
1, 1046年のスートリの教会会議で、皇帝ハインリヒ三世が並立する二人の教皇シルヴェステル三世とグレゴリウス六世を廃位した。
2, 廃位に反発した教皇側が、1059年に教皇を枢機卿会議で選ぶことにしたため、皇帝は教皇を選べなくなった。
3, 1062年にシチリア国王が教皇に保護を求めてきた。教皇はシチリア国王の武力を借りて皇帝の影響力を排除できるようになった。
4, 1073年にグレゴリウス七世が教皇に選ばれ、1075年に「教皇令 Dictatus Papae」を発表。
5, 教皇例により聖職者叙任権は、皇帝や国王ではなく、教皇本人が持つようになった。
6, 聖職者叙任権を失った皇帝は「世俗の支配者の一人」に過ぎなくなり、皇帝に代わって教皇がヨーロッパ全域を統べるimperatorになった。すなわち、「キリストの代理人=神の代理人」になった。
7, 人間ペテロの代理人にすぎず、皇帝より強い権力を持つことはなかった教皇が、「特定の教会に縛られず、キリストを体現したと見なされるパウロの権威」を教皇の権威として認められたことにより、教皇は「神の代理人」となることができた。
8. 教皇は「神の代理人」として地上の国で「反キリスト」から信者を守ることを使命とする。
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 カトリックの教会法第375条において、司教は、「神の制定に基づき付与された聖霊によって使徒の座を継ぐ者であり、教理の教師、聖なる礼拝の司祭及び統治の奉仕者になるように教会の牧者として立てられる。」司教は司祭(神父)の任命権を持つ。教会法第1012条により、司教は助祭、司祭および司教の叙階を行うことである。教区に所属する司祭は、教区教会でミサをはじめとする秘跡を執り行う。司祭は「父」として、信者への「直接の神の代理人」として彼らの前に存在する。一般的な信者にとって、神父は「父」であり、神の代理人である。司祭は、神のエージェントとして、信者に向かって神のことばを代弁する。 ここに、経済学政治学でいう「エージェンシー問題」が発生する。エージェンシー・スラック(agency slack)すなわち、エージェントが、プリンシパルの利益のために委任されているにもかかわらず、プリンシパルの利益に反してエージェント自身の利益を優先した行動をとってしまうということが、神(プリンシパル)とエージェントの関係におけるエイジェンシー・スラックである。代理人は、プリンシパルの意に反して、自分自身の利益を優先し、蓄財、飲酒や女犯の快楽におぼれる。
 プリンシパル神とエージェント司祭の関係において、「女犯」などのエージェンシー・スラックは、すでにカトリック社会のなかでも「よくある間違い」以上の広がりをみせている。カトリック神父による性犯罪の告発は、「アフリカにおける現地女性への性的虐待、西欧各地での少年への性的虐待」など、世界中でニュースにもならないほど発生している。 『力と栄光』において、プリンシパルは「神」である。エージェントであるウイスキー坊主は、カトリック教会法によれば、女犯や飲酒によって、すでにエージェンシー・スラックを起こしてプリンシパルの利益を損ねている。エージェントは、行為者Aの依頼の通りに行動する行為者Bなるべきであるのに、行為者Aを裏切ったエージェントとして、自分自身の利益・欲望のために行動している。 作者グリーンはプリンシパルの依頼を裏切っているエージェント、ウイスキー坊主を最後まで悲惨の中にとどめ置いた。しかし、処刑のあと、「あの人は教会の殉教者ですよ」と、少年ルイスの母に言わせている。そして、ルイス少年は、夜更け、ドアをノックする音を聞き、Fatherが再びルイス少年の家を訪問したことを記して物語を締めくくった。 酔いどれのウイスキー神父が心の内に「私は地獄へ落ちる身だ」と内省を繰り返すのと同じ、グリーンはメキシコ旅行の間中「少女シャーリー・テンプルは、男たちの欲望の対象」という自己の発言の意味を反芻していただろう。グリーンの欲望もまた、人に知られることはなくてもプリンシパルが求める行動には合致しないものであることを、グリーン自身は承知していた。人に知られるか知られることがないか、にかかわらず、罪を負う人間存在のひとりとして、グリーンもエージェンシー・スラックを起こしているエージェントであった。 プリンシパルの依頼を逸脱したエージェントも、救済されるし、称揚される。なぜなら、プリンシパルの大きな依頼の目的からみたら、飲酒も女犯も少女への性的嗜好も、プリンシパルのふところの中にあるからだ。 この『力と栄光』のプリンシパルは、私には大乗仏教の救済者に通じるように思える。どのような極悪人であっても、いまわのきわに「南無阿弥陀仏。アミータ仏、あなたに帰依します」と唱えれば、すくい取ってくれる大いなるプリンシパルと同じように、『力と栄光』のプリンシパルは、グリーンを許し、ウイスキー坊主を救いあげる。 以上のような印象読後感は、綿密な分析的読解によれば、破綻の多い論であることは承知しているが、筆者は、「カトリック文学」の代表作のひとつという『力と栄光』を、遠藤周作の『沈黙』と同じように、「仏教と相通ずるカトリック」のひとつの表現として読んだ。2-2 言語におけるプリンシパルとエージェント 西欧の言語、インドヨーロッパ語の系統では、主語-述語の文型において、能動文は主語subjectと行為主体agentは一致したものとして扱われる。The lieutenant opened the cell door.(メインテキストp205).という文において、文の主語は行為主体である。警部は独房のドアに対して「開ける」という行為を加え、ドアを変化させている。He(the boy)put his feet on the ground.(メインテキストp221)という文において、主語は行為主体であるが、行為対象は「his feet」であり、「彼は足を床におろした」は、少年自身の行為が自分自身のうちに完結しており、他者を変化させる行為ではない。「The boy sat beside the bed. 彼はベッドのわきに座った」(メインテキストp221)と同じく、自動詞表現に準ずる。 神の存在を信じる者にとって、己の行為に迷いはない。神が決定したことに従って行動することですべての行為が満たされる。行為者Aプリンシパル(依頼人)は、行為者B(実行者)に行動を託し、行為者B(エージェント)は、プリンシパルの意向に添い、プリンシパルの利益を損ねないように行動すればよいのだ。  The boy spat through thewindow bars.(メインテキストp220)ではthe boy少年は「つばを吐く」という行為を行っている行為者である。このとき、少年の行動と意志を決定するのは、プリンシパルである。プリンシパルは少年の行動の描写に現れないが、少年が自分をプリンシパルにゆだね、プリンシパルの存在を信じている限り、すべての行動はプリンシパルのエージェントとして行われる。 しかし、自分自身にプリンシパルを認めない「神を棄てた」人間にとって、すべての行動すべての考えや意志は「行為主体B」のみの世界となる。He smiled again and touched it too.(メインテキストp220)というとき、He(The lieutenant)の行動は、彼自身が決定し彼自身が行為する。「主語=行為主体」であり、他のものは介在しない。
 一方、日本語においては、行為主体は背景化される。少年が皿を割ったとして、それが故意動作でない場合の結果を述べるなら、ふつうは「皿が割れた」と表現される。特に少年の行為であることを強調する必要があるのでなければ、皿の上に起こった変化は「事象の推移」として表現され、行為実行者(行為者B)は背景化し、プリンシパル(行為者A)による全体の推移変化として述べられる。このとき、プリンシパルとエージェントは明確な境界線を持たない、融合した存在である。「少年は床屋で髪を切った」という文で、「少年」は行為実行者ではなく、「切る」という動作行為の実行者は床屋である。しかし、日本語は他動詞を用いて少年の行為として事象の変化を表現する。主語(subject)が述語(predict)内容の「行為実行者エージェント」と一致する必要はない。主語は、事象全体の統括者であればよい。日本語にとって、プリンシパル(依頼者・統括者)とエージェント(代理人・行為実行者)を明確に区別する必要がないからだ。全体の事象推移を、結果の側から報告する日本語の表現にとって、「警部は飲んだくれの神父を処刑した」という文も、大いなる事象の中のひとつの表現であり、銃殺の引き金を引いたのが、警部自身の行為であってもよし、警部は「構え、撃て」という命令を下しただけの人であってもよい。プリンシパルは警部と重なりつつ全体の推移を統括している。 『力と栄光』の物語は、すべてプリンシパルの統括の中に収束している。本来ならば、神を信じず、すべての行為を己の責任において実行しているはずの「ウイスキー坊主を追う警部」の行動が、ウイスキー坊主の行動と同じくすべてプリンシパルの意志の元で行われているように感じられるよう作話しているところが、グリーンの手腕であろう。ほんとうならば神とは決別しているはずの警部の行動も、すべて神の意志のなかに取り込まれているように思える。この点で、『力と栄光』を有するプリンシパルとは、大乗仏教の阿弥陀仏のように感じられるのだ。


3-1 グリーンのバックグラウンドとグリーン文学のキーワード 
 『The Power and the Glory力と栄光』は、1940年に発表されたグレアム・グリーン(1904年10月2日~1991年4月3日 )の代表作のひとつであり、彼はこの一作によって、作家としての地位を固めたといえる。この後の、『事件の核心』(1948)、『情事の終り』(1951)とともに、グリーン文学の中心的な作品である。
 グリーンは多くの場合「カトリック作家」として分類され、宗教的には終生カトリックの信仰を持ち続けた作家として、カトリック倫理をテーマに据えた作品を書き続けた。また、一方では思想的に終生「共産主義」への共感を持ち続けた作家でもある。カトリック信仰と共産主義への共感はグリーンの中では調和した一体のものであり、1984年にイギリスの作家、マーティン・エイミスが80歳の彼にインタビューした際、グリーンは「確信を持った共産主義者と確信を持ったカトリックの信者の間には、ある種の共感が通っている」と語っている。(エイミス2000 p16) 『力と栄光』は、「共産主義社会の中のカトリック」というテーマを背景に持つ作品である。早川書房版の文庫翻訳『権力と栄光』(斉藤数衛訳)には、この作品の成立についてグリーン自身による「序文」に詳しく記されているが、ペンギンペーパーバック版にはジョン・アプダイクの序文がついていて、グリーンの序文は載っていない。(以下、翻訳は『権力と栄光』、原作については『力と栄光』と記す)
 『権力と栄光』序文の概要は以下の通りである。
1,グリーンは1937~1938年に、メキシコ旅行をした。メキシコの共産主義革命下における宗教迫害をリポートするためであった。
2,メキシコのタバスコ、チアパスで、最後の司祭のうわさを聞いた。ひとりは棄教者となり、ひとりは酔っぱらいだった。
3,グリーンは、「『The Power and the Glory』は、ある主題にそって書いた唯一の小説」と述べている。
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 グリーンの思想的背景として、カトリック信仰と共産主義へのシンパシーをあげたが、あと3点、グリーンのバックグラウンドとしてあげておくべきものがある。
 ひとつは、少年時代の父との確執である。グリーンは1904年にイギリスのハートフォードシャー州バーカムステッドで生まれた。父はハートフォードシャーにあるパブリックスクール、バーカムステッド・スクールの校長であった。父が校長である学校に通う間、グラハム少年は反抗心をもてあました。厳格な教育者である父との相克と心理的な決別は、「父なるもの」「father」との関係について、グリーンの小説において大きな意味を持っていると思われる。 第2点。パリックスクール在学中、スパイ小説家ジョン・バカンの小説を愛読した。のちにグリーンはイギリス諜報部のスパイとして勤務することになるが、「裏切り」は、スパイが出てこない彼の小説においても潜在的なテーマとなっている。
 第3点目は、グリーンは性的傾向において、ロリータ・コンプレックスの持ち主であったということである。マイクル・シェリダン(山形和美訳)『グレアム・グリーン伝:内なる人間』上(早川書房・1998年)pp.348-349 には、歓楽地のブライトンで若い少女を求めていたという小説家フランシス・キングの証言が記されている。また、雑誌『スペクテーター』には、歴史家レイモンド・カーによる「グレアム・グリーンがハイチに出かけていってはロリコン買春をしていた」という記事が掲載されているという。(この雑誌につき、筆者未読・未確認)ロリータ・コンプレックスに対しては、性心理学などからの分析は多々あるが、成人女性に対する性的要求(成熟した人間対人間として、一対一の関係を切り結ぶ)に比べて、「男性として、幼い対象を完全に支配したい」「父あるいは偉大な存在として少女に影響を与え、意のままに扱いたい」という心理的要素が強いとされる。 グリーンのメキシコ旅行は、彼の「少女スター、シャーリー・テンプルは、男たちの性的欲望の対象である」という評論が激しい非難にさらされ、裁判騒動になっているさなかの旅であったことを、作家は『権力と栄光』の序文で最初に述べている。裁判は結局敗訴となった。1937年に雑誌『ナイト・アンド・デイ』に子供を主な視聴者とする家族向けの映画『テンプルの軍使』について、9歳のシャーリー・テンプルに男性の観客は欲情を感じているという趣旨の批評を書いた。20世紀フォックスとの裁判で敗訴し、高額の罰金を払い『ナイト・アンド・デイ』は廃刊になった、という事件である。1990年代にグリーンの性的傾向「少女への性愛嗜好」が話題になると、グリーンは訴訟を忌避してメキシコへ渡っている。メキシコが「犯罪者の引き渡し条例」に属していない国であったがゆえの渡航先であったのだが、かって、1937年当時の旅の思い出の中では「あまり愉快な旅ではなかった」と書いているメキシコを「ロリコン追求から逃れるための地」として選んだことは、何かの巡り合わせであるのかもしれない。 『力と栄光』の中に描かれる、「神の存在と棄教」と司祭を追いつめる「理想主義的共産主義者」の相克。これらの登場人物の中に、グリーンは、「官能的な7歳の少女」を登場させている。無垢で無知であるがゆえにいっそう魅力を発揮する少女を官能の対象とせずにはいられないグリーンにとって、少女愛はウイスキー坊主の破戒にも匹敵する「己の中に隠し持つ破戒」であった。 晩年のグリーンに対して、その名声や名誉をはぎ取らんばかりに追いつめようとする「少女性愛傾向者」という烙印。不名誉から逃れようとするグリーンは、かってウイスキー牧師がさまよった荒涼としたメキシコを、みずからの彷徨の地として選んだ。
 以上のグリーンのバックグラウンドから、グリーン文学を解釈するキーワードを並べてみると、「父と子」「支配と被支配」「裏切り」「烙印を背負う彷徨」 以上のグリーン文学キーワードは、『力と栄光』のテーマとも重なるものである。3-2 グリーンのメキシコ旅行 ジョン・アプダイクは『力と栄光』に序文を寄せている。その冒頭部分を筆者の和訳で掲載しておく。筆者の英語力は非常にpoorであり、アプダイクの言いたいことがよくわかっていない、という証左として掲載するのである。
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<イントロダクション ジョン・アプダイク> 『力と栄光』は、(50年前、英語版の通常の出版どおり3500部で出版されたのだったが)グレアム・グリーンの傑作として認識され、評価に値するのみならず、高い人気を保つ本であることにみな同意している。 グリーンはメキシコのタバスコとチアパスの南地方に2ヵ月弱滞在した。3月、5週の厳しい単独の旅行、そして1938年4月の滞在に基づいて、グリーンの小説としては、イギリス人の登場人物が最少の物語である。英国人は少数が脇役となっているだけである。
 おそらく、ローマ・カソリックについての幾分かの非英国人的なものが明白に存在する故に、この小説は成功している。マニ教のような暗闇、苦痛に満ちた文体で、彼の最も野心的なフィクションとなっている。 エンターティメントとは対照的な三つの小説、すなわち『力と栄光』に前後する『ブライトンロック』(1939)『事件の核心』(1948)『情事の終わり』(1951)は、偉大な作品であることに疑問はない。これらの作品は、調査者の視線と同じほどに激しく不穏に見通している。 ジョーゼフ・コンラッドとジョン・バカンの影響を受け、彼が小説家として順調なスタートをした後、グリーンのスリリングなプロットを構成する名人芸的才能と、幾分軽い病気ともいえる感受性の強さを伴う高水準の知性と情熱が、疲れを知らぬ宗教的内面の厳密な言葉によって論じられた。 
 これらの3つの小説において、なお、わずかながらもローマ・カトリシズムに固着し、これらの小説には、夢のような感覚の範囲においてゆがみが存在する。
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 さて、この程度にしか理解のできない英語力なので、アプダイクがグリーンに対して次のように述べている言説がまったく理解できない。 アプダイクはこのイントロダクションのなかで、次のようにグリーンのメキシコ旅行を評している。
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An ascetic, reckless, life-despising streak in Greene's temperament characterized, among other precipitate ventures, his 1938 trip to Mexico.グリーンの気質の禁欲的で向こうみずな、生命を軽蔑している傾向は、他の無鉄砲な冒険の間で、メキシコへの彼の1938年の旅行を特徴づけている。
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 アプダイクがグリーンのキャラクターを「禁欲的で生命を軽蔑している」と評していることは、グリーンを大きく見誤っていると筆者には感じられる。グリーンがメキシコ旅行で得たことは、「禁欲的で生命を軽蔑している」とは、正反対に思う。「欲望をさえぎることなく荒野に解き放ち、生命謳歌を荒涼とした大地に感じ取った」ゆえの『力と栄光』の力強い文体となったのだと思うのだ。
 『力と栄光』の3人の主な登場人物。棄教し世俗人として家庭生活を選んだホセ神父。司祭として生きる生き方を棄てきれず、荒れたメキシコをさまよったあげくに、混血児の裏切りにあい警部に逮捕され処刑されるウイスキー坊主。「子供たちによりよい社会を」という理想主義のもと共産主義革命の成就を願う警部。この3人は3人ともグリーンの分身であろう。 「自分自身がシャーリー・テンプルのような幼女に性的欲望を感じる男のひとりである」ということはカミングアウトしないまま、メキシコを旅していたグリーンにとって、『力と栄光』発表後、50年の歳月を経て目にしたメキシコは、どのような大地として目に映ったであろうか。

4 『力と栄光』と『沈黙
筆者は、100カ国の留学生に出会ってきたが、真実自分自身を「無神論者」と規定していたのは、イスラエルからの女性写真家ただひとりであった。彼女はイスラエル国籍の父とイギリス国籍を持つ母親との間に生まれイギリスで成長し、イスラエルに移住した。彼女以外、「無宗教」と答えた人に出会ったことがない。彼女のような厳しい自己規定でいえば、筆者も「無宗教」と言わなければならないのであろうが、留学生に対しては「I am a Buddhist.」と言うことにしている。1年に1度ほど両親の墓参りをしに寺詣でをするというだけの仏教徒なので少々気がひける思いもするが。特に入信の儀式もなく、教義も知らず、ただ、親が寺に葬られているので墓参りをするという程度の「仏教徒」がほとんどである日本で、「信仰告白と棄教」という問題が、いまひとつ身近で深刻な問題とは考えにくいのだ。
 遠藤周作は『力と栄光』に触発されながらも、きわめて日本的なプリンシパルとエージェントを描いた。すなわち、『沈黙』の小説主体は、棄教者ホセに対比される転びバテレン・フェレイラと、裏切り者ユダ役の混血児に比するキチジローへと視点が投影されている。内面にイエスへの憧憬を持ち続けるなら、形の上で踏み絵を踏んだところでイエスはそれを許し、信仰者として受け入れてくれる、という遠藤の解釈は、グリーンの『力と栄光』をしのいで大乗仏教的であると思う。 カトリックは、そもそも
1,人間の魂は全てイエス・キリストからの恩恵を受けており、本性上キリスト教的な存在である。すなわち全人類は『可能的』にキリスト教徒である。
2,「可能的キリスト教徒」は、教会に所属していない者であっても、それは未だ無知なためであり、良心の声に忠実に生きる人は知らずして神に従い、またイエス・キリストの恩恵を受けることになる(含蓄的な恩恵(fides implicita))。
3,そのため、カトリック以外の教派あるいは異教徒にも『含蓄的』な信仰を抱き「見えざる教会」の一員になり得る場合がある。
4,含蓄的な信仰を抱いた人はイエス・キリストの啓示真理に接することによって、その信仰は『顕現的』なものとなって、目の前に存在する唯一の教会の一員となる。
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グリーンが『力と栄光』に描き出したのも、「人間の本性は、その堕落を経てもなおも神による普遍的な救済意志の恩恵を受ける資格を有している」というカトリシズムの根幹の思想を表現しているとして、「その救済を受けるためにはイエス・キリストの体に代わる存在であるローマ教皇を頂点とする教会組織に加入することによって「新しい神の民」となり、その信仰が福音の真理から逸脱しない保証を獲得する必要がある」とした。
 ウイスキー神父はどれほど実生活で堕落しようと、洗礼や終油などの秘蹟を施す司祭としての役目を遂行することでキリスト教徒として存在しようとしていた。 
 一方、教会という制度の中に存在しなくても、心の中にイエスを思いさえすれば、洗礼しようとしてまいと、懺悔告解をしようとしまいと、最後の秘蹟を受けようと受けまいと、神は受け入れる、という考え方は、「南無阿弥陀仏」と唱えるのと同じく「南無耶蘇神」と唱える「大乗耶蘇教」信者である、と、筆者には思える。サクラメント秘蹟を無視してカトリシズムは成立しないのであるのかどうか、カトリック教義に詳しくない筆者にはわからない。

5 結語 
 グリーンは文学史上、カトリック作家として扱われる。
 筆者は、『力と栄光』のテーマを、破戒してもなおキリスト者であろうとする者への魂の救済の物語と受け止めた。これは、欧米社会では今なお「異常性愛者」という烙印を押される「少女への性的嗜好」というグリーン自身の内なる暗闇を抱えた生への救済でもある。
 人は個人の意志によって行動し、生きていくように思っていても、プリンシパル(依頼者)に命じられた通りに行動するエージェントにすぎない。時にプリンシパルの利益に反する行為をエージェントがとっているように見えても、エージェントがプリンシパルのもとに所属している限りでは、プリンシパルはエージェントを切り離すことはない。
 日本語母語話者、とくに日本的仏教徒(古代神道や道教と習合した仏教)にとって、プリンシパルとは自分をとりまく世界そのものであり、個人と世界を切り離すことはない。自己の内に感じ取る事象の変化は、自己を含むプリンシパルが世界を推移させるその内に存在し、明確なエージェントとして行動することは、特別な場合に限られる。
「The lieutenant opened the cell door.」と「The cell door opened.」「The cell door was opened by the lieutenant.」とは、厳密に区別されなくてもよい同一の「事象の推移」にすぎない。プリンシパルとエージェントとオブジェクトは切り離して考える必要のない、一体のものだからである。 『力と栄光』は、西欧文学のなかで、仏教信者にも受け入れやすい神と人の物語であるが、それは、グリーンがプリンシパルとエージェントを切り離されるべきものとして描いておらず、大乗的な「すべてを包み込むもの」が小説のすみずみまでその「power」「glory」となって満ちているからと思う。 

<完>

注1 マーティン・エイミス2000『ナボコフ夫人を訪ねて』河出書房新社
注2 http://c-faculty.chuo-u.ac.jp/~miyajima/_tK8XLl1.html
<参考文献>メインテキスト『The Power and the Glory』Graham Greene PENGUIN CLASSIVS2003サブテキスト 『権力と栄光』斉藤数衛訳 ハヤカワ文庫
2004参考書 山形和美『グレアム・グリーンの文学世界-異国からの旅人-』    
コロンビア大学『現代文学・文化批評用語辞典』松柏社2002

ぽかぽか春庭「南極猫たけし」

2008-11-01 23:19:00 | 日記
南極猫たけし
2006/11/06 月
文学の中の猫(8)南極猫「たけし」

 ノンフィクションの分野から印象深い「猫」を紹介します。
 西堀栄三郎『南極越冬記』(岩波新書)の中の、南極猫たけしの話。「めざましテレビ」やビートたけし司会の番組でも紹介されたそうです。

 2006年夏、東京科学博物館で行われた南極展。
 小学生と南極とを結ぶテレビ電話「南極なんでも質問コーナー」で、小学生が「南極にペットはいますか」と質問しました。
 南極基地からの回答は、「生態系をこわす心配がわかってからは、動物を南極に持ち込んではいけないことになりました」
 つまり、生態系をこわす心配をしていなかった南極観測初期の時代には、ペットが持ち込まれていました。

 1957(昭和32)年、第1次南極観測隊は、珍しいゆえ吉祥となるだろうと、オスの三毛猫を連れて南極に上陸しました。
 猫の名は「たけし」。第一次観測隊の永田武隊長の名から命名されました。
 いっしょに上陸した犬たちは「犬ぞり」という「仕事をもって」の上陸でしたが、三毛猫タケシの仕事は、「ペット」

 隊員たちは、隊長の名を「こらあ、タケシ!」と猫にむかって叫び立て、まだ装備も十分でない南極での厳しい生活のストレスを解消していました。
 タケシは、昭和基地でいちばん温かい発電造水棟でくらし、隊員たちの単調な生活に潤いを与える存在でした。

 『南極越冬記』には、発電棟でくらしていた「たけし」が、感電して瀕死状態になったエピソードなどが書かれています。

 1958(昭和33)年、たけしは隊員とともに帰国。
 その後、ペットの南極上陸は禁止されたので、たけしは「世界で唯一、南極越冬をした猫」となりました。

 本来なら「有名猫」になっていいところでしたが、カラフト犬タロジロ人気の爆発で、南極タケシの方はちょっとかすんでしまい、「知る人ぞ知る」ぐらいのネームバリューになってしまいました。

 唯一の南極越冬猫なのに、あまり知られていないのは残念。
 渋谷のハチ公くらいに知名度をあげるには、池袋のふくろう、渋谷のハチ公に対抗して、どこかの駅前に猫像を建てたらどうかしら。
 除幕式テープカットは、番組内で南極猫タケシを取り上げたこともあるというビートたけし。

 キャッチコピーは、「厳しい冬の時代を過ごしているあなた、ミィのしっぽなでれば、かならずあったかい世界へ戻れるニャア」
 「恋するふたりがいっしょにシッポをなでれば、ふたりの心が冷えることがあっても、再びホットななかに戻れるニャう」
 御利益まちがいなし。

 南極猫たけしをかわいがった人、村山雅美さんが亡くなった。2006年11月5日午後。88歳
 村山さんは、第1次南極観測隊に参加し昭和基地を建設。第5次隊の隊長。第9次隊では、日本人初の「陸路から南極点到達」を成し遂げて「南極男」と呼ばれた。

 1956年11月8日、第1次隊が宗谷で南極へ向かった日から50年。お台場に繋留展示されている宗谷の船上で、11月8日に「南極観測50周年」記念行事が行われる。

 村山さんは50周年祝賀行事委員会の委員長だったが、記念式典出席はかなわなくなった。
 天で、南極猫たけしやカラフト犬タロジロに会えるといいですね。ご冥福を。

<つづく>
00:32 |


猫町
2006/10/16 月
文学の中の猫(9)猫町

 猫にとって、恋の季節は春。「猫の恋」は、春の季語です。
 春の夜は、恋する猫が鳴き交わす声が、夜空に響きます。

 萩原朔太郎は「二匹のまっくろけの猫」の声を「おわあ、おぎゃあ、おわああ」と表現しています。
 二匹の猫が「なやましいよるのやね」で交わす「おわあ、おぎゃあ」の鳴声、「春に恋を求める猫の擬声語」として、耳の残ります。

「猫」(『月に吠える』1917年より)

まつくろけの猫が二疋、
なやましいよるの家根のうへで、
ぴんとたてた尻尾のさきから、
糸のやうなみかづきがかすんでゐる。
『おわあ、こんばんは』
『おわあ、こんばんは』
『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』
『おわああ、ここの家の主人は病気です』

 「文学の中の猫」,最初に掲げた萩原朔太郎の猫の詩。朔太郎は、ほかにも印象的な猫の詩を残しています。「青猫」「猫町」を引用します。

 萩原朔太郎の詩集『青猫』のタイトルロール『青猫』。

この美しい都會を愛するのはよいことだ
この美しい都會の建築を愛するのはよいことだ
すべてのやさしい女性をもとめるために
すべての高貴な生活をもとめるために
この都にきて賑やかな街路を通るのはよいことだ
街路にそうて立つ櫻の竝木
そこにも無數の雀がさへづつてゐるではないか。

ああ このおほきな都會の夜にねむれるものは
ただ一疋の青い猫のかげだ
かなしい人類の歴史を語る猫のかげだ
われの求めてやまざる幸福の青い影だ。
いかならん影をもとめて
みぞれふる日にもわれは東京を戀しと思ひしに
そこの裏町の壁にさむくもたれてゐる
このひとのごとき乞食はなにの夢を夢みて居るのか。   

 モダニズムの「美しい都會」。夜の底のメランコリーに沈む「われ」
 大きな都会の夜にねむる青い猫の青い影を求め、詩人はみぞれふる裏町の壁にもたれている。
 
さびしい青猫


ここには一疋の青猫が居る。さうして柳は風にふかれ、墓場には月が登つてゐる。


 同じく朔太郎の『猫町』、「散文詩風の小説」と副題がついています。もう、猫だらけの悪夢が描かれます。

 万象が急に静止し、底の知れない沈黙が横たわった。何事か分からなかった。だが次の瞬間には、何人にも想像されない、世にも奇妙な、恐ろしい異変事が現象した。見れば町の街路に充満して、猫の大集団がうようよと歩いているのだ。猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫。どこを見ても猫ばかりだ。そして家々の窓口からは、髭の生えた猫の顔が、額縁の中の絵のようにして、大きく浮き出して現れていた。
 戦慄から、私は殆んど息が止まり、正に昏倒するところであった。これは人間の住む世界でなくて、猫ばかり住んでる町ではないのか 』 

 秋の北陸の温泉地で聞いた「猫神」にとりつかれた人々の口承。その「猫ばかり住んでいる町」が、山で道に迷った詩人の目の前に現前する。猫、猫、猫、猫、、、、

<つづく>
07:08 |


猫の恋
2006/11/17

 現代では、猫は犬と並んで、ペットの最大派閥。犬が1300万匹、猫が1200万匹を超えて飼われています。猫の平均寿命は14~17年。中には20歳を超えるという猫もいるそうです。

 現代作家、猫好き作家の「猫エッセイ・猫小説」となると、枚挙にいとまもない。

 庄司薫『僕が猫語を話せるわけ』
 金井美恵子『遊興一匹 迷い猫あずかってます』
 笙野頼子『S倉迷妄通信』『愛別外猫雑記』
 村上春樹『猫との旅』『うずまき猫のみつけかた』
 保坂和志 『猫に時間の流れる』
などなど。

 短歌集、その名も寒川猫持の『猫とみれんと』おもしろかった。

「愛だろ、愛」というCMの真似しつつ猫にうるめを焼いているなり

散らかって何が何やらわからぬが猫の手ならば間に合っておる

財布よーし車よーし猫もよーしさあ土曜日だ 猫抱いて寝る

尻舐めた舌でわが口舐める猫 好意謝するに余りあれども

 古代中国で十二種の動物を暦に当てはめて十二支を決めた頃、猫はまだ西方から伝来したばかりで「身近な動物」に選ばれませんでした。でも、現在、猫は人にとって、もっとも身近な動物であることはまちがいないでしょう。

 暦の中には入れなかったけれど、文学の中にはさまざまなシーンに登場しました。
 季語としては春に大活躍。猫の恋、猫の妻、猫の子、いずれも春の季語です。
 
 芭蕉も一茶も、猫を詠んで、一句、ものにしました。

猫の恋止むとき閏の朧月(松尾芭蕉)

なの花にまぶれて来たり猫の恋(小林一茶)

色町や真昼ひそかに猫の恋(永井荷風)

はるかなる地上を駈けぬ猫の恋(石田波郷)

猫の恋 昴は天にのぼりつめ(山口誓子)

 地上を駆け抜けていく「恋する猫」もいれば、天にのぼりつめる昴のような「猫の恋」もある。

 「恋する猫」は文学を生み出す素材ともなるし、猫そのもへの恋しい思いを小説にすることもある。

 谷崎潤一郎は『猫と庄造とふたりのをんな』で、猫への溺愛を描き出しました。
 村上春樹は「僕」にとって唯一失ってはならない存在が猫であることを書いていました。
 笙野頼子にとっては、猫は家族であり、人間以上のパートナー。猫のために引っ越しするのもいといません。

 猫は、日本語言語文化の中でいよいよゴロゴロとのどを鳴らし、ますます「ねうねう」と膝元に甘えかかってくるでしょう。

<おわり>