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ぽかぽか春庭「石川節子・春木と大鋸屑」

2008-11-13 18:01:00 | 日記
ポカポカ春庭 石川夫妻と与謝野夫妻(1)
at 2004 06/17 06:43 編集

 石川啄木は岩手から上京し、「明星」をたよった。彼の日記に与謝野夫妻の赤貧生活が書かれている。

 のちの啄木、石川一は盛岡中学校5年生のとき、1902年(明治35年)の10月、『明星』に詩を投稿した。10月末には中学を退学して上京し、与謝野夫妻を訪ねた。当時、与謝野寛・晶子夫妻の新詩社は渋谷道玄坂近くにあった。

 啄木の日記から、与謝野夫妻との初対面。
 「先づ晶子女史の清高なる気品に接し座にまつこと少許にして鉄幹氏莞爾として入り来る、庭の紅白の菊輪大なるが今をさかりと咲き競ひつヽあり」

 鉄幹は彼の詩才を認め、それまで使っていた「白蘋」という筆名を、もっと強い印象のものに変えるよう助言した。数え18歳の若者の新しい名は「啄木」となった。しかし、頼りにした新詩社にも経済的な余裕がなく、啄木の最初の上京は挫折。

 1904年(明治37年11月)、与謝野夫妻は渋谷から千駄ヶ谷村(現在の渋谷区千駄ヶ谷1-23)に転居した。
 1908年春、北海道から上京した啄木はふたたび与謝野夫妻の家へ。

 啄木の日記より
 「(与謝野家の)本箱には格別新しい本が無い。生活に余裕のない為だと気がつく。与謝野氏の着物は、亀甲型の、大島紬とかいふ馬鹿にあらい模様で、且つ裾の下から襦袢が2寸も出て居た」

 新しい本を買う金も、つんつるてんになっている鉄幹の着物を新調する余裕もない生活だったことがわかる。<つづく>

☆☆☆☆☆☆
春庭今日の一冊No.131
(い)石川啄木『石川啄木日記』


ポカポカ春庭「石川夫妻と与謝野夫妻(2)」
at 2004 06/18 19:15 編集

 1908年(明治41年)啄木の5月2日の日記より
 「与謝野氏は外出した。晶子夫人と色んなことを語る。生活費が月々90円かかって、それだけは女史が各新聞や雑誌の歌の選をしたり、原稿を売るのでとれるとの事。明星は去年から段々売れなくなってこのごろは毎月九百しか(三年前は千二百であった。)刷らぬとの事。」

 「(明星発行は)毎月30円から50円までの損となるが、その出所がないので、自分の選んだ歌などを不本意ながら出版するとの事。そして今年の十月には満百号になるから、その際廃刊するといふ事。どうせ十月までの事だから私はそれまで喜んで犠牲になりますと語った。」

 「予は、殆ど答ふる事を知らなかった。ああ、明星は其昔寛氏が社会に向かって自己を発表し、且つ社会と戦ふ唯一の城壁であった。然して今は、明星の編集は与謝野氏にとって重荷である、苦痛を与えている。新詩社並びに与謝野家は、ただ晶子女史の筆一本で支へられている。そして明星は今晶子女史のもので、寛氏は唯余儀なく編集長に雇われているやうなものだ!」

 「話しによれば、昨年の大晦日などは、女史は脳貧血を起こして、危うく脈の耐えていくのを、辛うじて気をさかんにして生き返ったとの事。双子を生んでから身体が弱ったといふ」
================
 1908年(明治41年)11月、雑誌『明星』百号をもって廃刊。
 かわって創刊されたのが「スバル」。森鴎外、与謝野夫妻らが寄稿し、啄木は編集者として働いたが、依然として収入はなかった。

 一方、「明星」出版の苦労という肩の荷をひとつ下ろした晶子は、多産と多作を続ける。ひたすら師の姿を追い求め、ついていった可憐な乙女は、今や夫をしのぐ文名を得て、経済的にも文学的にも、夫を支える立場に変わっていた。

 啄木は、「スバル」編集をやっていても食えないので、1909年朝日新聞社の校正係りとして働き始める。
「京橋の滝山町の新聞社灯ともる頃のいそがしさかな」

 ようやく定収入を得て、1910年に『一握の砂』を刊行する。しかし、1911年には慢性腹膜炎と診断され、1912年(明治45)4月13日死去。27年の生涯を赤貧のなかにすごした啄木であった。
============
啄木短歌の「あか」
わかれをれば妹いとしも赤き緒の下駄など欲しとわめく子なりし
赤赤と入日うつれる河ばたの酒場の窓の白き顔かな
たひらなる海につかれてそむけたる目をかきみだす赤き帯かな
旅七日かへり来ぬればわが窓の赤きインクの染みもなつかし
うす紅く雲に流れて入日影曠野の汽車の窓を照らせり
===============
<つづく>
☆☆☆☆☆☆
春庭今日の一冊No.132
(い)石川啄木『一握の砂・悲しき玩具 石川啄木歌集』


ポカポカ春庭「石川節子」
at 2004 06/21 15:37 編集

 澤地久枝『石川節子 愛の永遠を信じたく候』を読んだのは20年前のこと。
 2月の大雪の日だった。10ヶ月になる娘をおんぶし、夫が仕事場にしている高田馬場のアパートへ行った帰り、明日食べる分をどうしようかと思いながら、古本屋で買った本。

 ケンカがもつれ、仕事場から帰ってこなくなった夫のもとへ、下着などを運んだ。背中の娘に雪がかからないように傘をにぎりしめ、腕にビニール袋をぶら下げ、すべる路地を一歩一歩歩いた。古い木造モルタルアパートの2階。

 夫は、私が実家からこっそり援助を受けたことに腹を立てていた。
 「自分は結婚に向かない人間だし、結婚生活に十分な金を稼ぐこともしない」という夫と結婚したからには、生活に不足の分を夫に言い出しても仕方のないことだと思ったし、子どもを保育園にいれて私が働けるようになるまでは、実家にすがる以外、ほかにしようがなかったのだ。

 東アフリカケニアで出会ったふたり。友人と共同購入のランドローバーでアフリカ縦断したのち、ナイロビで結婚登録をするという計画は、予定外の妊娠のために頓挫した。
 アフリカ行きをキャンセルして結婚し、ランドローバー購入費用、その他計画に費やした借金だけが残った。二人とも定職もなく貯金もないという結婚生活のスタート。たちまちつまずいた。

 「離婚する」と言ったきり帰宅しない夫と「これからどうするのか」という話し合いをするつもりだった。話し合いはまとまらないまま、結局20年の上、赤貧結婚生活が続いた。現在、夫の仕事場は飯田橋に変わったが、状況は20年前と同じ。働けどはたらけど楽にならざり、じっと手をみている毎日。

 石川節子の7年間の結婚生活。夫との不和と、立ちいかない生活に苦しむ毎日だった。生活費を稼げない夫にかくれて、実家に無心をする。それがますます夫の不興のもととなる。そんな繰り返し。

 啄木は貧困きわまる結婚生活の中で、わがままを通し遊蕩にもふけった。澤地久枝は『石川節子』を読んだ読者から、「今までは啄木の短歌が好きだったけれど、こんなひどい夫とは知らなかった。啄木が嫌いになった」という感想の手紙を受けたという。<つづく>

☆☆☆☆☆☆
春庭今日の一冊No.132
(さ)澤地久枝『石川節子 愛の永遠を信じたく候』


ポカポカ春庭「うす紫の袖そめて」
at 2004 06/22 08:23 編集

 雪道を歩いて帰る途中で買った『石川節子 愛の永遠を信じたく候』を、背中の娘をあやしながら読んだ。啄木の短歌は読んできたが、節子についてほとんど知るところはなく、澤地の本ではじめて人柄やさまざまなエピソードを読んだのだった。
 以下、澤地の本、啄木伝記などから読みとった節子の生涯を紹介していく。
 
 1886年(明治19)1月に啄木、10月に節子誕生。同年同郷(岩手県南岩手郡)の生まれ。
 ふたりは、盛岡中学校盛岡女学校の生徒として知り合った。岩手の神童と呼ばれた美少年の石川一と、14歳同士で出会った運命の恋である。

 1902年(明治35)盛岡中学校を中退した石川一(17歳)は、節子と別れに耐え、文学の道に活路を見いだそうと上京する。
 節子は、「わかれなりとうす紫野袖そめて万代われに望みかけし人」と恋人が歌った短歌を胸に抱き、彼の文学が開花することを夢見た。

 1905年、親の反対を押し切って、19歳の節子は石川一の妻となった。しかし、晴れの結婚式に、夫となる人は東京へ出かけて寄り道をしたあげく、とうとう式には間にあわなかった。花婿ぬきの式というのが、その後の二人の生活を暗示する。

 夫は東京をめざし、何とか文学者として立とうと苦闘をかさねるが、挫折が続く。文学上の挫折だけなら、夫を信じて家庭を守る妻も忍耐のしがいがある。しかし、志を得ない啄木の生活は荒れる。啄木は、妻子を食べるものとてない困窮生活の中に放置し、なけなしの金を遊里につかってしまう夫であった。

 1909年、ようよう啄木は新聞社校正係りの仕事を得た。本郷弓町で間借りをし、ともに暮らせるようになっても、節子は生活苦と同居する姑との軋轢に悩み続けた。
 耐えきれずに、節子は実家に身をよせる。家を出た妻に対して、夫はプライドを傷つけられ、亀裂がますます深まる。
 
 姑カツから「ひどい嫁」となじられながらも、夫の親友金田一京助らの説得により、節子は夫のもとにもどった。
 夫は新聞社校正係りの仕事をつづけながら、金にならぬ小説や短歌を書き続けた。

 親の反対する「生活力の不安定な男」との結婚。妻が生活苦に耐えられず実家から金をもらうことに激怒するだけで、自分は遊廓にも出入りする夫。長い間妻をかえりみず、うとんじる態度さえとったあげく、友人と妻の仲を疑ったりする夫。
 現在の目でみれば、さっさと離婚したほうがよほど安定した日常生活がおくれたのかもしれない。

 1910年10月、貧困の中で出産した長男は、1ヶ月もたたないうちに死んでしまった。
 10月29日、家族と啄木の友人ふたりだけの貧しくささやかな息子の葬儀に、かけつけた人がいる。与謝野寛であった。

 寛は1905年に筆名鉄幹を本名の寛に戻し、心機一転をはかった。明星も廃刊になり、文学的にも行き詰まりを感じていた寛は、「洋行」という手段で自分の方向をさぐろうと計った。
 しかし、明治時代に「フランスはあまりに遠し」であり、洋行費用を稼ぐにも、妻晶子が「書きまくる」以外にはなかった。

 息子の葬儀から2ヶ月後の12月、啄木は念願の第一歌集『一握の砂』を出版。しかしその3ヶ月後、1911年2月に腹膜炎で入院、肺結核が悪化していく。
 そうなってもなお、節子は実家を頼ることができなかった。啄木は妻の実家に対して、「自分の妻が実家を頼るなら離婚する」という内容の手紙を出し、絶交状態にまでなっていた。

 啄木がやっと仕事を得た新聞社からの前借りや、友人からの借金でようよう節子は夫の療養費を工面する。
 啄木のみならず、その実母カツも同じ肺結核。さらに節子も夫と同じ死病に冒され、しかも3人目の子を身ごもっていた。節子は自分の病状をかえりみず、夫の看病にあたった。<つづく>


ポカポカ春庭「ヴィオロンの糸」
at 2004 06/23 11:25 編集

 1912年3月に啄木の母親が肺結核で亡くなった。
 満7年の結婚生活のうち、夫婦が同居できたのは5年たらず。そのほとんどは啄木の母親との同居であったから、姑カツが3月になくなり、4月に啄木が死ぬまでのたった1ヶ月が、節子にとっては愛する夫を独占し、世話にかかりきることができた日々となった。

 啄木は友人の土岐哀果に歌集の出版を依頼する。哀果は売れるかどうかわからぬ歌稿を受け取り、20円の稿料を都合してくれた。身重でしかも自分自身の病勢もすすんでいた節子は、その20円で啄木の薬や熱の体を冷やす氷を手に入れる。

 最後のさいご、病状重くなると、啄木は妻に甘え、妻にたよりきる夫になった。節子は苦しい心身を抱えながらも、満7年間の結婚生活でようやく夫との「心寄り添い合う夫婦」の日々を味わうことができた。辛酸をきわめた結婚生活の、最後の日々。

 歌集『悲しき玩具』が発行される前に、啄木の命はつきた。臨終を見届けたのは、節子と長女京子、啄木の父親、友人の若山牧水の4人のみであり、その4人のみで通夜をすごした。

 啄木の葬儀は、節子や土岐哀果らが柩につきそいひっそりと営まれた。
 東京朝日新聞は、校正を担当していた社員である啄木の死去を報じ、同じく朝日新聞社員として小説を執筆していた夏目漱石など、社友となっていた人々が参列した。参列者45人という寂しい葬儀であった。

 「明星」時代の師である与謝野晶子は新聞4社に求められ、10首の哀悼歌を残している。与謝野寛は渡欧しており、「遠方びとはまだ知らざらむ」啄木の死だった。
===============
与謝野晶子の啄木を悼む歌
<東京朝日新聞 1912年(明治45)4月17日>
人来り啄木死ねと語りけり遠方びとはまだ知らざらむ
終りまでもののくさりをつたひゆくやうにしてはた変遷をとく
しら玉はくろき袋にかくれたりわが啄木はあらずこの世に
そのひとつビオロンの糸妻のため君が買ひしをねたく思ひし
=============
 啄木が「妻のためにバイオリンの糸を買った」と晶子に語り、晶子はそのことばをねたましく思った、という回想の短歌。晶子の短歌からは、この「バイオリンの糸を買った」という時期がいつごろのことを思い出しているのかはわからない。

 女学生時代の節子は、ピアノやバイオリンを弾く活発な女生徒であり、若い啄木は恋人の音楽の才を喜んだ。
 しかし、妻となってからの節子は音楽を続けるどころではなかった。貧窮生活の中で、バイオリンどころか、節子が実家から持ってきた衣類は、帯一本すら残さず質屋へ入れてしまう。啄木は友人から借金をしまくり、それでも食べるに事欠く生活だった。

 晶子の思い出の中の啄木は「妻のためにバイオリンの糸を買ってやる夫」であったが、実際に、節子のために「ビオロンの糸を買った」とは思われない。「買ってやりたいと思っている」という啄木の願いを、晶子に語っただけだったのではないか。
 友人たちに対して、夢のような願望だけをふくらまし、事実のように語る啄木であったから。
 現実には、バイオリンの糸どころか、破れた衣服をつくろう糸を買う金さえない一家のくらしだった。

 ただ、「夫が妻に買ってやった」という言葉だけでも、晶子にはねたましく聞こえるものだった。
 晶子の家庭ではすでに「家計費を稼ぎだすこと」は、妻の肩にかかっており、妻が夫のものを買うことはあっても、夫が妻のために何かを買ったとして、それは結局妻が稼いだ金だったのだから。<つづく>


ポカポカ春庭「愛の永遠信じたく」
at 2004 06/24 07:54 編集

 与謝野晶子、「石川啄木への哀悼歌」つづき

<萬朝報 1912年(明治45) <東京朝日新聞 1912年(明治45)4月17日>
人来り啄木死ねと語りけり遠方びとはまだ知らざらむ 4月20日>
近き日に旅に行くべき心よりはかなごとにも涙こぼるる

<東京日々新聞 同4月28日>
いつしかと心の上にあとかたもあらずなるべき人と思はず
いろいろに入り交じりたる心より君はたぶとし嘘は云えども

<同 同5月3日>
啄木が嘘を云ふ時春かぜに吹かるる如くおもひしもわれ
ありし時万里と君のあらそひを手をうちて見きよこしまもなく
死ぬまでもうらはかなげにもの云はぬつよき人にて君ありしかな
================
 啄木は、盛岡中学校の先輩金田一京助はじめ友人には借金をしまくったが、最後の最後まで晶子に対しては、弱音をはかなかった。
 晶子の前では、嘘をつくまでして強がりを見せた。「妻を思うよき夫」であり、「文学の道をひたすら邁進する詩人」として晶子の目にうつっていたかった。

 しかし、啄木の死の2年前、与謝野寛は啄木の息子が生後まもなく死んでしまったときの葬儀に参列している。言葉にだすまでもなく一家の窮状を察っせられただろう。いくら啄木が強がりを口にしても、隠しきれないほどの困窮状態であったのだから。

 与謝野晶子は、夫寛のフランス外遊費用をかせぐために、来る日も来る日も執筆を続け、歌集、随想集などを矢継ぎ早に出版した。また、短歌を色紙に書くという「内職」もした。晶子の署名がある色紙はよく売れたという。
 ようやく渡航費を得ると、まず夫を1912年1月にフランスに送り出した。

 啄木哀悼の歌は残したが、未亡人石川節子を見舞ういとまもなく、晶子は夫寛が待つパリへと旅立っていった。1912年5月のこと。
 晶子は赤貧時代を抜け出し、パリの壮麗さと夫との邂逅にはずんでいた。

 啄木亡き後、幼い娘をかかえ、節子はたったひとりで8ヶ月になっている身重の体を横たえる。肺結核がすすんでいた。

 節子は夫の死後、啄木愛用の机や火鉢、金になりそうな物はすべて古道具屋へ売り払った。長女京子を食べさせねばならず、身ごもっている子どもを出産しなければならなかった。

 すべてを売り払った間借りの部屋に残されたのは、京子と自分のわずかばかりの衣類のみ。しかもその残った衣類を、留守にしたわずかの間に空き巣ねらいに盗まれてしまった。文字通りの着の身着のままで、親子は途方にくれた。

 節子の実家へは、啄木が絶縁を申し渡している。節子は実家に戻ることをためらい、千葉館山の施療院をたよった。キリスト教宣教師カルバン夫妻が、貧しい結核患者の福音医療をおこなっていたのである。

 明治末年の日本で、外国人の福祉にたよる以外に、母子が生き延びる方法はなかった。<つづく>


ポカポカ春庭「春木と大鋸屑」
at 2004 06/25 00:16 編集

 千葉房総で、長女京子とともに孤絶した生活をおくる節子を支えたのは、夫の残した原稿や日記だった。
 京子を世話しつつ、節子は作品が散逸しないようまとめる作業を続ける。、出産をひかえた体に肺結核という病。しかし、夫の残した文字をたどる作業を続けていれば、節子は結婚前に熱くかわした言葉をひとつひとつ思い出すことができた。

 「吾れはあく迄愛の永遠性なると言ふことを信じ度候」と節子は手紙に書き、生活のめどをたてることのできない恋人を待ち続けた。父親に石川一との交際を禁じられている間も、節子はこの自分の言葉を胸に刻むことで耐えた。
 愛の永遠を信じたく候、、、、愛の永遠を信じたく、、、、

 夫の文学的才能を信じ、この作業こそが7年間のふたりの凄惨な結婚生活を「ふりかえる価値のあるもの」とするであろうことを、節子はひたむきに信じた。
 出産までの日々、節子は夫の遺稿を整理し、作品の調書をまとめ上げた。日記や手紙、作品の構想ノートまで、きちんと整理がなされた。

 1912年(明治45)6月、次女房江を出産。
 この夏、明治天皇崩御。時代は明治から大正へ変わった。時代は変わっても、節子の赤貧生活は変わらない。大正元年となった9月、節子はやっと実家のある函館へ戻った。

 翌1913年(大正2)正月、病状は悪化し、節子は二人の娘を実家に預けて入院する。東京、函館の2ヶ所で行われた啄木一周忌の集いにも、もはや節子は出席できる状態ではなかった。
 重体となった節子は娘ふたりの養育を実家に依頼する。節子の実母トキが京子と房江を育てることを約束し、節子は哀しみの中にも安心して、京子が病院の中で遊ぶのをみつめた。
 節子が入院中に残した短歌
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六号の婦人室にて今日一人死にし人在り南無あみだぶつ
わが娘今日も一日外科室に遊ぶと言ふが悲しき一つ
区役所の家根と春木と大鋸屑はわが見る外のすべてにてあり
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 1913年5月5日、節子死去。

 最後の日、節子は病院にあつまった実家の人々に「みなさん、さようなら」とあいさつしたのだという。二人の娘を実家に託し、夫の遺稿を友人に託したのちの節子は、静かに夫の後を追っていった。
 夫の遺稿がやがて文学史上に燦然と輝くことを信じ、その夫を支えた自分の人生の意義を信じた女の一生であった。<つづく>


ポカポカ春庭「
2004/06/28 06:26 編集

 借金のほかは何も残さなかった夫啄木が、かろうじて妻の手に残したものは、原稿の束と二人の娘。

 石川節子の3人の子のうち、長男は生まれてすぐに死亡。次女は、うまれる前に父親を失い、1歳になる前に母親を失った。
 赤貧の中に生き、赤貧の中に死んでいった節子。27年の生涯を人は「不幸な人生」と評するだろうか。

 澤地久枝が描き出したように、節子は夫亡き後、「啄木の妻」として夫の作品をまとめ上げ、後世に託すことで自分の人生を実りあるものと信じることができたのだ。「夫の文学に命をかけて生きた妻」として、夫と同じ27年の短い生涯を終えたのである。
 周囲の人や後世の人がどう評価しようと、節子は毅然とし、自分の人生に誇りをもって死んでいったと思う。

 節子死去のころ、晶子は母としての喜びにひたっていた。1913年4月、与謝野晶子は四男を出産。1912年5月から10月までの、フランス、イギリス、ドイツなどの外遊生活を満喫した晶子は、フランスで親交を深めた彫刻家オーギュスト・ロダンにちなみ、四男をオーギュストと命名した。
 夫と共に外国で過ごした間に身ごもった子である。12人を出産した晶子であるが、オーギュストの妊娠と出産には、特別な感慨があったことだろう。

 晶子は女性解放をめざす評論を新聞雑誌に執筆するほか、歌集や随筆、古典の現代語訳などの出版を続ける。押しも押されもせぬ女流文学者として、大正昭和の文壇に重きをなしていった。

 長年の夢であった「夫婦しての外遊」から帰国したのちの与謝野夫妻は、赤貧時代から抜け出すとともに、しだいに変化していく。
 鉄幹という筆名を1905年に廃止し、寛という本名にもどっていた夫は、選挙にうってでて、落選するなど、文学から離れた活動を続ける。1915年(大正4)4月寛は衆議院選挙に出馬し、落選。

 晶子は毎日執筆を続け、毎年出版を続けた。経済的には「赤貧」状態から脱したものの、11人の子の母として、子を養育していく費用、第二次「明星」を出版する費用、夫の選挙活動費用など、かかる費用も格段に増えていき余裕はなかった。
<つづく>

ポカポカ春庭「節子明子晶子」
2004/06/30 10:48 | 編集 

 今回、澤地久枝の『石川節子』と、与謝野晶子の作品などを読み返してみて、晶子に対してひとつ気になったことがあった。
 「バイオリンの糸を妻に買ってやった」という願望を語る啄木に対して、「ねたましい」という気持ちをもったと回想する晶子。その短歌に、ふっと晶子の本音があらわれていたように感じたのだ。

 晶子が「妻にバイオリンの糸を買ってやる啄木」を「ねたく」思ったというのも、それほど妻のことを気にかけてやれる愛情豊かな夫を持つ節子へのねたましさと共に、「夫が妻の生活を支える」生活の形への、羨望のまなざしも残されているように思うのだ。

 私のこれまでの理解では、晶子は「女性は自立すべし」「女性が子どもを育てるのは自己責任で行うべし」という「女性自立論者」であった。強い女の代名詞であり、大地母のような存在として、子育てと文学を両立させた母だった。

 「女性の自立」を自ら証明するように、夫の顔をたてつつも、経済的には女手で11人の子の養育費を稼ぎ出した。
 雷鳥平塚明子が「子を産み育てる母親は、他者からの支援をうけてしかるべき」という「母性保護」を主張したのに対し、晶子は「自立した女」としての論陣を張った。

 雷鳥は「若いつばめ」と呼ぶ年下の男を恋人とした。その若いツバメを「売れない画家」のまま夫とし、「夫の稼ぎをあてにし、夫に養われる妻」として生きることを最初から放棄していた。
 そのかわり、裕福な実家から援助を受けることを当然のこととして、家計を維持した。

 雷鳥平塚明子は、実家に経済的に依存したからといって、自分自身を「自立していない女」とは思っていなかった。食うための金はどこから出てもよい。ときには国などの共同体が子を育てる母を援助することも必要、家族のだれかが支援することも必要と思うことが「母性保護」思想を支えた。

 明治高級官僚の娘である平塚雷鳥に対して、堺の商人の娘与謝野晶子。
 夫とともに店に出て立ち働く女の生き方を見て育ち、自分自身も女学校を卒業するとすぐ店番をして「女が一人前の働きをする」ことに違和感を持たないで育った晶子だった。
 晶子は、まず自分自身で稼ぎ出すことを生活の基盤とした。

 その晶子にして「家父長制度のもと、夫が働き妻がささえる」という国家がすすめている「家の形」に属していない自分を意識することがあったのではないか。
 妻が原稿料印税を稼ぎ出す。夫は選挙や学校教育に関わるようになって「社会上の対面」を保とうとする。

 「女性はあくまで自己責任で子育てを行うべし」と、論ずることが必要であった。「妻のほうが稼ぐ」という一家を、「女性が自立する家」として世間に示さなければならなかった。
 「夫がかせぎ、妻が支える家のありかた」と異なる夫婦の形を主張し続け認証させることによって、晶子のプライドは保たれたのかもしれない。

 しかし、ふとした拍子に「夫が妻にものを買ってやる」という姿に羨望も感じる。そんな晶子の気持ちがあらわれたのが「バイオリンの糸を、夫が妻のために買ってやる、という言葉へのねたましさ」であったのではないだろうか。<つづく>

ポカポカ春庭「明治の夫婦」
2004/07/01 08:17 | 編集 

 江戸期武家の家制度を、明治の社会全体に適用したのが「家父長制」であるという。儒教を精神的基盤とする「家長と跡取り長男を重んじ、家の存続を第一とする」思想が、社会全体に敷延された。

 石川節子と啄木夫婦が、当時としては高学歴である女学校卒業、中学校中退という学歴をもちながら、ついに安定した家庭生活を営めなかったのも、啄木自身が「妻を働かせる夫でありたくない」という思いに呪縛されていたから、という面がある。

 自分を溺愛する母親の意見をいれ、あくまでも「家長」としてふるまうことと、男の面子を立てることを優先した啄木。
 経済的にも文学的にも、常に妻に優越する夫でいたかった。

 夫が稼ぎ、妻に音楽を続けさせる。妻にバイオリンの糸を買い与え、妻は夫のために家事の手を休めて一曲ひきこなす。そんな夢をみていた啄木だったのかも知れない。が、ついにそういう日々は訪れなかった。

 節子は、何度も周囲の人の斡旋で「代用教員」の職を得ている。
 姑を含めた一家を支えるのに十分な月給ではなくとも、定収入を確保することを節子は優先させるべきであった、と現代の目から見れば批判できる。

 しかし、別居して働いている節子は、啄木が「同居する」と言いさえすれば、後さきなく教職を投げだし、夫の元へかけつける。夫の言葉を信じたいという思いだけで夫についてゆき、悲惨な生活苦、嫁姑の険悪な同居生活に入ろうとする。
 しかし、夫はきちんとした生活者にはなりえず、仕事は欠勤続き。文学への情熱を語る言葉だけで生きようとする。

 啄木は「妻と共働きをして、生活を成り立たせてから文学を続ける」という考えを、ちらとも持とうとしない明治の男だった。<つづく>


ポカポカ春庭「赤貧夫婦」
2004/07/02 

 啄木は妻が実家から援助を受けることをかたくなに拒否し、妻を引き取ろうとする実家へ「そうなったら復讐する」という言葉を投げつける。
 生活の基盤を確立しないまま結婚した啄木の、必死に虚勢をはったことばが「復讐」の語となったにすぎないとしても、節子はそれ以上実家をたよることもできなくなった。

 ふたりが共に夢見た「世界に名を残す詩人となる」という夢は、夫26歳、妻27歳という若さで相次いで死去する前に実現することはなかった。
 赤貧の中に命ついえた夫婦の死後に、己の文学に生涯をかけた明治の青年の苦闘と赤裸々な告白の日記、短歌、小説が残された。


 もし私が石川節子の友人であったら、夫としての啄木を何度でも非難しただろう。
 しかし、彼の短歌は、その感傷そのものが明治文学精神のひとつのあらわれと思う。
 夫婦の死後90年。啄木の作品を愛する人は途切れない。節子が死の床で夢見たことは実現したのだといえる。

 『石川節子』一冊を手に、財布の中の残り少ない小銭をみつめ「これからどう暮らしたらいいのか」と、途方にくれた20年前の大雪の日。収入も貯金も家作もなく、実家から援助を受ければ「離婚する」と、夫は言う。

 もし、手にした本をパラパラとめくり、「電車に飛び込むのはこの一冊を読み終わってからにしよう」と思わなかったら、私の赤貧時代はそこでストップ。その後20年以上赤貧がつづくこともなかった。

 赤貧時代が色濃く輝いたかって?
 結婚以来20年以上も赤貧生活を味わったので、もう十分だと思います。この「色濃く輝く時代」は誰ぞにおゆずりし、薄くてもいいから人並みに暮らせる時代に、早くうつりたい、、、、。

 と、思っているのに、夫の借金は増えていく一方だし、私は非常勤講師の口をリストラされちゃうし。90分授業3コマ減のうえ、講師料引き下げ。うらめし独立行政法人。
 仕事ください!当方、わかりやすく面白い講義を目指す大学講師。日本語学、日本語教育学、日本語言語文化論、などを講義しております。(長々と「赤貧」を書いてきて、一番リキ入ったのは、この部分だったりして)

 たぶん、このまま、「濃い赤貧」なんでしょうね。「働けどはたらけど我が暮らし楽にならざりぢっと手を見る」<おわり> 



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