先にあげたしんすけ-Insomniaスカイプ対談の文字起こしが少しは人の役に立っているのでないかと
妄想している今日この頃ですが。
対談から少し時間があいたところで、感想なんかをメモっておこうかなと。
とりあえず、人とコミュニケーションするときの態度だとか、
議論に望む態度だとか、主張が最初と変わってしまっているんじゃないかとか、
そういうことは置いておいて。
(キャラ作りとかネタとか言うのも度外視して)
一番重要なんだろうと思われるのは、
<批判・批評をするときの当事者性>の問題でしょう。
例えば、自ら実況しない人間がゲーム実況プレイ動画や実況者を批判・批評することや、
インソムさんが言うように、野球をしない人間が野球選手を批判・批評することなど。
もちろん、ここのブログで私が日々書いていることも、
その大半は当事者性がないわけで、かなり身近な問題だと言える。
(1)批判・批評の資格について
そもそも当事者でない人間が批評・批判する「資格」があるのかという点ですが、
表現の自由を重要視するとかそういう話(青山学院大学某准教授4)に遡るまでもなく、
だれでも自由に発言できると考えるのが普通でしょう。
したがって、実況をしていない人間は実況について批判・批評してはいけないということにはならない。
(2)批判・批評の説得力について
とはいえ、誰でも自由に批判・批評できるとしても、
それが「説得的」であるかどうか、或いは、「説得的」であるかのように見えるかどうか
というのは別の問題である。
(或いは、批判・批評が「受け入れられる」かどうかという問題)
例えば、野球の技術的問題について全く同じ内容の批評・批判がなされても、
その発言の主体がプロ野球選手か、或いはただの野球ファンのおっちゃんかでは、
その指摘の説得力が変わってくるように「思う」のが一般的でしょう。
もちろん、本来的には内容自体の論理の評価「のみ」によって説得力や当否を判断すべきであり、
私もそうでありたいと思っていますが、現実にはなかなか難しい。
そうすると、現実問題としては、当事者性が欠けていることによるマイナスは前提として甘受した上で、
それを補ってあまりあるだけの説得力を主張内容自体に持たせなければならない。
更に言うと、当事者でないことを理由として却下される前に、
内容面を押し出して強引に(先取り的に)本案審理させる力が必要になる。
(今回の事件でいうと、「実況してないの?」「何様だ」で切られずに、
内容面の議論に持ち込むだけの力が必要と言うことになる。)
で、なんとなくですが、現実問題としては
<問題提起・自説の結論・理由付け>を3行でまとめたときの説得力の勝負に
なるような気がしますw
そうすると、当事者でないと分からないことについて批判・主張しても
説得力の強度を出すことは難しいと考えられるので、
むしろ、非当事者だからこそ打ち出せる視点・切り口から攻めた方がいいのかもしれない。
(3)結論?
まとめると、
①当事者でなくとも批判・批評していい。
②しかし、当事者性が欠ければ説得的でないと思われやすい。
③その不利を補うには、より強い説得力を持つ必要がある。
以上のように考えてくると、
少なくとも今回のインソムさんの凸はあまりにも準備不足で、
本案審理させるだけの説得力は欠けていたように思われる。
まぁ、こんな事を書いている私自身についても、
説得力の強度があることを書けているかというと、なんとも……
妄想している今日この頃ですが。
対談から少し時間があいたところで、感想なんかをメモっておこうかなと。
とりあえず、人とコミュニケーションするときの態度だとか、
議論に望む態度だとか、主張が最初と変わってしまっているんじゃないかとか、
そういうことは置いておいて。
(キャラ作りとかネタとか言うのも度外視して)
一番重要なんだろうと思われるのは、
<批判・批評をするときの当事者性>の問題でしょう。
例えば、自ら実況しない人間がゲーム実況プレイ動画や実況者を批判・批評することや、
インソムさんが言うように、野球をしない人間が野球選手を批判・批評することなど。
もちろん、ここのブログで私が日々書いていることも、
その大半は当事者性がないわけで、かなり身近な問題だと言える。
(1)批判・批評の資格について
そもそも当事者でない人間が批評・批判する「資格」があるのかという点ですが、
表現の自由を重要視するとかそういう話(青山学院大学某准教授4)に遡るまでもなく、
だれでも自由に発言できると考えるのが普通でしょう。
したがって、実況をしていない人間は実況について批判・批評してはいけないということにはならない。
(2)批判・批評の説得力について
とはいえ、誰でも自由に批判・批評できるとしても、
それが「説得的」であるかどうか、或いは、「説得的」であるかのように見えるかどうか
というのは別の問題である。
(或いは、批判・批評が「受け入れられる」かどうかという問題)
例えば、野球の技術的問題について全く同じ内容の批評・批判がなされても、
その発言の主体がプロ野球選手か、或いはただの野球ファンのおっちゃんかでは、
その指摘の説得力が変わってくるように「思う」のが一般的でしょう。
もちろん、本来的には内容自体の論理の評価「のみ」によって説得力や当否を判断すべきであり、
私もそうでありたいと思っていますが、現実にはなかなか難しい。
そうすると、現実問題としては、当事者性が欠けていることによるマイナスは前提として甘受した上で、
それを補ってあまりあるだけの説得力を主張内容自体に持たせなければならない。
更に言うと、当事者でないことを理由として却下される前に、
内容面を押し出して強引に(先取り的に)本案審理させる力が必要になる。
(今回の事件でいうと、「実況してないの?」「何様だ」で切られずに、
内容面の議論に持ち込むだけの力が必要と言うことになる。)
で、なんとなくですが、現実問題としては
<問題提起・自説の結論・理由付け>を3行でまとめたときの説得力の勝負に
なるような気がしますw
そうすると、当事者でないと分からないことについて批判・主張しても
説得力の強度を出すことは難しいと考えられるので、
むしろ、非当事者だからこそ打ち出せる視点・切り口から攻めた方がいいのかもしれない。
(3)結論?
まとめると、
①当事者でなくとも批判・批評していい。
②しかし、当事者性が欠ければ説得的でないと思われやすい。
③その不利を補うには、より強い説得力を持つ必要がある。
以上のように考えてくると、
少なくとも今回のインソムさんの凸はあまりにも準備不足で、
本案審理させるだけの説得力は欠けていたように思われる。
まぁ、こんな事を書いている私自身についても、
説得力の強度があることを書けているかというと、なんとも……