近頃は、消費者金融も景気が悪いが、メガバンクの名前を謳った消費者金融はたちが悪い。銀行が親会社だからと言って、借金の取立てが優しくなるはずも無い。あとクレジットカードのリボ払い。利息が高いのに気付かない人も多いのでは。写真はあくまでもイメージ画像なので。
昨夜、クランクアップしたのだが、まだあるシーンを撮り残している。昨日の写真もコンピューターにアップしなければならない。来客があったり、広告原稿の入稿をプロデューサーと確認しつつやったり、系列局との宣伝打ち合わせを電話でしたり、資料を新聞社にFAX。多忙な1日
その業者は都内のほとんどの制服を製造。つまりたくさんの名簿を買い、個人情報保護法違反をしているのだ。犯罪だ。教育委員会は担当部署も無く動けないとの事。民間企業ではあり得ない対応だ。そんな葉書を受け取る小学六年生の気持ちを何故第一優先で考えられないのだろう。
制服業者から葉書が届いた。○○中学御入学おめでとうございます、と記載。私学や選択制で中学も決まってない子供の名前で。教育委員会に電話。海賊版と最初は言い、各校長の判断でと。業者が勝手にやっていて取締まる部署も無いし、その気持ちも無い。まるで映画『生きる』だ。
元銀行員が建てたマンションで暮らしている。生活をしていて自然に劣化したものでも、直してくれない。ケチなのである。先日、引越していった人は数十万円の原状復帰代を取られた。駅前の不動産屋に大家が代えてからトラブル続き。直しを受け付けず賃貸人に厳しい業者にした!最悪
昨日、撮影も全て終わり、一日中立っていたので、帰宅後、妻と乾杯した。ダイエットビール2本と焼酎のお湯割りを飲んで就寝。体が暖かくなった性か、夜中に体のいたる所を掻きむしって朝、血だらけで痛痒い。これは最悪の苦しみ。アトピー患者でないと分からない感覚だろう。
僕は、字が読めない。 読字障害(ディスレクシア)と戦いつづけた南雲明彦の24年小菅 宏集英社このアイテムの詳細を見る |
内容(「BOOK」データベースより)
LDやADHDは「障害」なんかじゃない!3度の転校、数々の自傷行為…家族とともに“ディスレクシア”と向き合った若者の感動の物語。知っていますか?トム・クルーズも、現スウェーデン国王陛下も「文字の読み書き困難」を公表しています。
出版社からのコメント
◆藤原和博氏(元・杉並区立和田中学校校長。現・大阪府知事特別顧問)
ベストセラーとなった村上春樹『1Q84』に登場する謎の少女「ふかえり」、もディスレクシア(読字障害)だった。知らなければ親も教師も我が子をナマケモノと勘違いしてしまう。死のうとまでした南雲氏の物語は辛いが、読むと世界への眼差しが広がる。
◆香山リカ氏(エッセイスト・精神科医)
本書は、ふたつのことを教えてくれる。まずは発達障害のひとつ、ディスレクシアの特殊性を。そして、その障害を持つ南雲明彦自身は、ごくふつうの若者であるということを。これは、"特殊でふつうな若者"の明るい青春記なのだ。
*読字障害<ディスレクシア>であることを公表している有名人*
オーランド・ブルーム(俳優)/リチャード・ブランソン(英ヴァージングループ創業者)/カール16世グスタフ(スウェーデン国王)/シェール(歌手)/トム・クルーズ(俳優)/アンソニー・ホプキンス(俳優)/ジョン・アーヴィング(作家)/リンゼー・ワグナー(俳優)/ジェイミー・オリバー(英国一有名なシェフ)/ノエル・ギャラガー(歌手)
著者について
小菅 宏(こすが ひろし)
出版社(集英社)勤務で週刊誌・月刊誌の編集者を経て、一九九〇年独立。主著に『琵琶湖周航の歌 誕生の謎』(NHK出版)『姉 美空ひばりと私』(共著)、『ジャニー喜多川の戦略と戦術』(以上講談社)『八百字のありがとう、さようなら』(主婦と生活社)『編集者とはどういう人たちか』(はまの出版)など多数。近年は江戸時代に関する著書も多く、『「江戸」な生き方』『江戸発禁本 壇の浦合戦記』『江戸発禁本 色里三所世帯』(以上徳間文庫)『花のお江戸の色模様』『吉原遊廓 花魁の秘密』『大奥 色とミステリー』(以上辰巳出版綜合図書)『大江戸風俗事始』『江戸の家計簿』『大江戸吉原御開帳』(以上ぶんか社)、最近著『古史料が明かす本当の直江兼続』(実業之日本社)。本著は四十四冊目の上梓となる。
このような障害がある事を初めて知った。
龍馬の如く―自分らしく幸せに生きる82の法則茶谷 清志,武田 双雲インフォトップ出版このアイテムの詳細を見る |
内容(「BOOK」データベースより)
「世界一、不幸」か、「世界一、幸せ」か、決めるのは、おまんの心ぜよ。今こそ、あなたの心の中の「龍馬」を目覚めさせよう。そこに「幸せ」の法則が、きっと、ある。
カバーの折り返し
この本は、龍馬が私に語りかけてくれた『言葉』を集めて、
私が感じていることを、解説として書かせていただいた。
その中に、何かひとつでも心の琴線に触れる言葉があれば、
それは、龍馬からあなたへの『魂のメッセージ』だと思う。
(「はじめに」より抜粋)
著者について
1957年大阪府生まれ。
(有)リード・ジャパン代表取締役。
起業コンサルタント。人生を元気にするセラピスト。
家庭の事情により小学5年生から働き始め、定時制高校から法政大学文学部史学科へ進学。独立までの22年間に30種以上の仕事を経験。
1990年バブル崩壊直後、(有)リード・ジャパンを設立し、代表取締役に就任。
起業後は、不動産、建築、通信販売、飲食事業、教育事業、健康事業など、様々な分野で失敗と成功を経験しながら、「自分らしく幸せに生きる」「経済的に自立して自由に生きる」をテーマに研究・実践を続けている。
小さい会社やお店を始めたい人の起業コンサルティングから一般の方の人生相談まで、カウンセリング・コーチング・コンサルティングを組み合わせた独自の手法によって、相談者の心・経済・人生を劇的に好転させている。
『ミヤネ屋』の宮根さんが読んでいて推薦していた。
時代劇は死なず!―京都太秦の「職人」たち (集英社新書)春日 太一集英社このアイテムの詳細を見る |
内容(「BOOK」データベースより)
日本映画発祥の地・京都。その西郊に位置する太秦には、東映、大映、松竹の三社が撮影所を構え、絢爛たる娯楽時代劇を製作してきた。だが1960年代後半、映画産業の衰退とともに、時代劇は切り捨てられる。職場を失った撮影所の「職人」たちは、当時の新興メディアであったテレビに活路を求めた。そんな彼らの挑戦は、やがて『木枯し紋次郎』『座頭市』『必殺』など、テレビ史に残る幾多の名作・傑作時代劇として結実する―。時代の変化と戦いながら、モノづくりの気概を貫徹した人々の熱い物語。貴重な証言で綴る、懐かしのあの作品の製作秘話も満載。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
春日 太一
1977年東京都出身。日本大学大学院博士後期課程修了。芸術学博士(テーマは「1970年代の京都諸撮影所における時代劇製作」)。時代劇を中心とした、日本の映画・テレビドラマの研究家。京都の撮影所文化を後世に残すべく、当事者たちへの聞き書きをライフワークとして行っている(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
映画の本は面白い。
朝青龍涙の引退会見ノーカット1/3(10/02/04)
朝青龍涙の引退会見ノーカット2/3(10/02/04)
朝青龍涙の引退会見ノーカット3/3(10/02/04)
「私が貴乃花親方に投票」ノーカット会見1/2(10/02/03)
「私が貴乃花親方に投票」ノーカット会見2/2(10/02/03)
横綱朝青龍の語録はこちら02~04年
◆1月16日 「チクショー! クソッ!」(初場所4日目、張り手を連発し大関栃東が鼻から大量に出血し待ったがかかった。その後の敗戦に悔しさを爆発させた)
◆3月14日 「前回みたいにむちゃくちゃ突っ張ることも考えたけど、作戦勝ちだな」(春場所5日目、先場所流血させた栃東相手に自ら差しに行き勝利したことに)
◆3月23日 「1つ? 2つくださいよ。お願いしますよ」(春場所14日目、5連勝で10勝目。3賞獲得について聞かれ)
◆6月24日 「人間的な面をしっかりしたい。派手なポーズは封印だ」(師匠高砂親方から「人間として成長してほしい」と大関獲りの心得を説かれ…)
◆7月24日 「大関の名に恥じぬよう、一生懸命頑張ります」(最速の所要22場所での大関昇進を果たした。伝達式での口上はストレートに気持ちを示した)
◆9月18日 「やさしい相撲をした。ケガをした右足を狙えなかった」(秋場所11日目、長期休場明けの横綱貴乃花に挑戦も上手投げで完敗)
◆11月22日 「重いものをとっちゃった」(九州場所13日目、初土俵から24場所での最速優勝。師匠の涙声の祝福に、うるんだ目を隠すようにうつむいた)
【2003年】
◆1月19日 「馬から落ちたら大けがするから、乗っているときは緊張感を保たないといけないんだ」(初場所8日目、23年ぶりの4場所連続ストレート給金も気を引き締めた)
◆1月25日 「丸刈りの頭のことを考えた」(初場所14日目、横綱昇進を決定づける2場所連続優勝。17歳を前に髪を刈りモンゴルから相撲留学してきた。厳しいけいこに耐え、つかんだ最高位に涙が止まらなかった)
◆1月29日 「相撲道発展のために一生懸命頑張ります」(横綱昇進の伝達式での口上。高砂親方からは「日本の心」を入れるよう言われ、練習したが本番ではうっかり外してしまった)
◆3月23日 「横綱のプレッシャーはあった。とにかく休みたい」(春場所千秋楽、新横綱の成績は10勝5敗と不本意な成績)
◆5月19日 「なかなか手をつかないんだ、アレが」(夏場所9日目、旭鷲山に金星配給。立ち会いでタイミングが合わずいら立ち隠せなかった。モンゴルの先輩を「アレ」呼ばわりし、「品格」なく悔しがった)
◆5月26日 「土俵を指さした行為は完全に自分の失敗。悪い面だった」(夏場所9日目の勝負後の行為について、初めて公の場で反省)
◆7月10日 「横綱だからそんな相撲取れる立場じゃない。一生懸命にやった。最後まであきらめずにという気持ちだった」(名古屋場所4日目、因縁の旭鷲山のまげをつかみ横綱としては初の反則負け、取組後、朝青龍のひじが旭鷲山のバンのミラーに当たり損傷するハプニングも)
◆7月13日 「兄と年も同じだし、もうおまえとはもめたくないと言ったけど『おまえとは何だ』と言われた」(名古屋場所8日目、旭鷲山と風呂場でぶつかったことで乱闘騒ぎに。先輩との確執の深さをうかがわせた)
◆7月30日 「これでいいかな」(報道陣の前で旭鷲山と握手。和解を強調した)
◆9月19日 「スタミナ切れはあるかもしれない。今まで8、9連勝した後に星を落とすことが多かったから」(秋場所13日目、栃東に寄り倒され連敗。珍しく弱音を吐いた)
◆12月22日 「大事なところでいいかげんなことをした。私が一番よく分かってます」(無断でモンゴルに帰国、先代高砂親方の葬儀を欠席。再来日後、故人の自宅に直行し涙を流し遺族に謝罪した)
【2004年】
◆1月6日 「自分でも反省しているし、体で感じました」(横綱審議委員の渡辺恒雄氏から引退勧告を突き付けられ、葬儀の無断欠席など、一連の自分の行動を謝罪した)
◆1月18日 「風邪がライバルというのもおかしいけど」(初場所7日目、無傷の7連勝でもはや敵は風邪だけ?)
◆1月26日 「連続優勝を味わいたい。僕がやるのは土俵の上です」(初場所で全勝優勝も、横綱審議委員会での話題は一連の問題行動。しかし、圧倒的強さで横審委員を黙らせた)
◆3月28日 「大阪、ありがとう!」(春場所千秋楽、全勝で2場所連続優勝を飾り)
◆5月14日 「これで明日から自由にやるよ」(夏場所6日目、北勝力に敗れて連勝が35で止まる)
◆5月23日 「逆転はうれしい。いつもとなんか違う。負けて正直悔しくて、借りを返したかった」(春場所千秋楽、連勝を止められた北勝力との優勝決定戦を制し3場所連続優勝を果たす)
◆7月5日 「おいしいワインで育ったグルジアンパワーだな」(名古屋場所2日目、初顔の黒海に押し出しで勝ち)
◆7月18日 「大横綱に並ぶ結果が出てうれしい。でもオレも(心は)日本人だよ」(名古屋場所千秋楽、外国人横綱初の4場所連続優勝を飾り)
◆7月23日 「親方、おかみさん、ご近所の皆さん、付け人のみんな、それに私の妻に本当に迷惑をかけました。もうお酒は飲みません」(泥酔し部屋の玄関のガラスドアを壊して。「酒は飲まない」と宣言したのだが…)
◆9月5日 「オレはいつでも歓迎してるのに誰も来ない。でも行くとパーッと逃げちゃうし…」(出げいこに来ても相手がおらず、逆に自分には誰もやって来ないことを嘆く)
◆9月23日 「強くねえよっ、それだけだ」(秋場所12日目、得意としていた雅山に敗れ3敗目を喫し)
◆9月26日 「負けた相手に全部ぶつけてやるから見てろよー!」(秋場所千秋楽、9勝6敗で場所を終え、来場所での奮起を誓う)
◆10月18日 「できれば40歳までやりたいよ。あと16年かあ」(40歳まで現役宣言も…)
◆11月27日 「本当に優勝したのかなってぐらい。こんなの初めて。とても楽な心境なんだ」(九州場所で優勝、年5場所優勝を達成し)
(日刊スポーツより引用)
相撲界、庶民をなめんなよ。いい加減!!!!!
朝青龍涙の引退会見ノーカット2/3(10/02/04)
朝青龍涙の引退会見ノーカット3/3(10/02/04)
「私が貴乃花親方に投票」ノーカット会見1/2(10/02/03)
「私が貴乃花親方に投票」ノーカット会見2/2(10/02/03)
横綱朝青龍の語録はこちら02~04年
◆1月16日 「チクショー! クソッ!」(初場所4日目、張り手を連発し大関栃東が鼻から大量に出血し待ったがかかった。その後の敗戦に悔しさを爆発させた)
◆3月14日 「前回みたいにむちゃくちゃ突っ張ることも考えたけど、作戦勝ちだな」(春場所5日目、先場所流血させた栃東相手に自ら差しに行き勝利したことに)
◆3月23日 「1つ? 2つくださいよ。お願いしますよ」(春場所14日目、5連勝で10勝目。3賞獲得について聞かれ)
◆6月24日 「人間的な面をしっかりしたい。派手なポーズは封印だ」(師匠高砂親方から「人間として成長してほしい」と大関獲りの心得を説かれ…)
◆7月24日 「大関の名に恥じぬよう、一生懸命頑張ります」(最速の所要22場所での大関昇進を果たした。伝達式での口上はストレートに気持ちを示した)
◆9月18日 「やさしい相撲をした。ケガをした右足を狙えなかった」(秋場所11日目、長期休場明けの横綱貴乃花に挑戦も上手投げで完敗)
◆11月22日 「重いものをとっちゃった」(九州場所13日目、初土俵から24場所での最速優勝。師匠の涙声の祝福に、うるんだ目を隠すようにうつむいた)
【2003年】
◆1月19日 「馬から落ちたら大けがするから、乗っているときは緊張感を保たないといけないんだ」(初場所8日目、23年ぶりの4場所連続ストレート給金も気を引き締めた)
◆1月25日 「丸刈りの頭のことを考えた」(初場所14日目、横綱昇進を決定づける2場所連続優勝。17歳を前に髪を刈りモンゴルから相撲留学してきた。厳しいけいこに耐え、つかんだ最高位に涙が止まらなかった)
◆1月29日 「相撲道発展のために一生懸命頑張ります」(横綱昇進の伝達式での口上。高砂親方からは「日本の心」を入れるよう言われ、練習したが本番ではうっかり外してしまった)
◆3月23日 「横綱のプレッシャーはあった。とにかく休みたい」(春場所千秋楽、新横綱の成績は10勝5敗と不本意な成績)
◆5月19日 「なかなか手をつかないんだ、アレが」(夏場所9日目、旭鷲山に金星配給。立ち会いでタイミングが合わずいら立ち隠せなかった。モンゴルの先輩を「アレ」呼ばわりし、「品格」なく悔しがった)
◆5月26日 「土俵を指さした行為は完全に自分の失敗。悪い面だった」(夏場所9日目の勝負後の行為について、初めて公の場で反省)
◆7月10日 「横綱だからそんな相撲取れる立場じゃない。一生懸命にやった。最後まであきらめずにという気持ちだった」(名古屋場所4日目、因縁の旭鷲山のまげをつかみ横綱としては初の反則負け、取組後、朝青龍のひじが旭鷲山のバンのミラーに当たり損傷するハプニングも)
◆7月13日 「兄と年も同じだし、もうおまえとはもめたくないと言ったけど『おまえとは何だ』と言われた」(名古屋場所8日目、旭鷲山と風呂場でぶつかったことで乱闘騒ぎに。先輩との確執の深さをうかがわせた)
◆7月30日 「これでいいかな」(報道陣の前で旭鷲山と握手。和解を強調した)
◆9月19日 「スタミナ切れはあるかもしれない。今まで8、9連勝した後に星を落とすことが多かったから」(秋場所13日目、栃東に寄り倒され連敗。珍しく弱音を吐いた)
◆12月22日 「大事なところでいいかげんなことをした。私が一番よく分かってます」(無断でモンゴルに帰国、先代高砂親方の葬儀を欠席。再来日後、故人の自宅に直行し涙を流し遺族に謝罪した)
【2004年】
◆1月6日 「自分でも反省しているし、体で感じました」(横綱審議委員の渡辺恒雄氏から引退勧告を突き付けられ、葬儀の無断欠席など、一連の自分の行動を謝罪した)
◆1月18日 「風邪がライバルというのもおかしいけど」(初場所7日目、無傷の7連勝でもはや敵は風邪だけ?)
◆1月26日 「連続優勝を味わいたい。僕がやるのは土俵の上です」(初場所で全勝優勝も、横綱審議委員会での話題は一連の問題行動。しかし、圧倒的強さで横審委員を黙らせた)
◆3月28日 「大阪、ありがとう!」(春場所千秋楽、全勝で2場所連続優勝を飾り)
◆5月14日 「これで明日から自由にやるよ」(夏場所6日目、北勝力に敗れて連勝が35で止まる)
◆5月23日 「逆転はうれしい。いつもとなんか違う。負けて正直悔しくて、借りを返したかった」(春場所千秋楽、連勝を止められた北勝力との優勝決定戦を制し3場所連続優勝を果たす)
◆7月5日 「おいしいワインで育ったグルジアンパワーだな」(名古屋場所2日目、初顔の黒海に押し出しで勝ち)
◆7月18日 「大横綱に並ぶ結果が出てうれしい。でもオレも(心は)日本人だよ」(名古屋場所千秋楽、外国人横綱初の4場所連続優勝を飾り)
◆7月23日 「親方、おかみさん、ご近所の皆さん、付け人のみんな、それに私の妻に本当に迷惑をかけました。もうお酒は飲みません」(泥酔し部屋の玄関のガラスドアを壊して。「酒は飲まない」と宣言したのだが…)
◆9月5日 「オレはいつでも歓迎してるのに誰も来ない。でも行くとパーッと逃げちゃうし…」(出げいこに来ても相手がおらず、逆に自分には誰もやって来ないことを嘆く)
◆9月23日 「強くねえよっ、それだけだ」(秋場所12日目、得意としていた雅山に敗れ3敗目を喫し)
◆9月26日 「負けた相手に全部ぶつけてやるから見てろよー!」(秋場所千秋楽、9勝6敗で場所を終え、来場所での奮起を誓う)
◆10月18日 「できれば40歳までやりたいよ。あと16年かあ」(40歳まで現役宣言も…)
◆11月27日 「本当に優勝したのかなってぐらい。こんなの初めて。とても楽な心境なんだ」(九州場所で優勝、年5場所優勝を達成し)
(日刊スポーツより引用)
相撲界、庶民をなめんなよ。いい加減!!!!!
マイクは死んでも離さない―「全日本プロレス」実況、黄金期の18年倉持 隆夫新潮社このアイテムの詳細を見る |
出版社/著者からの内容紹介
1970年~1980年代。力道山、BI砲に次ぐ「第3次プロレス黄金時代」の真っ只中。ジャイアント馬場率いる全日本プロレスと、アントニオ猪木率いる新日本プロレスは、ライバルとして熾烈な競争を繰り広げていました。観客動員、マッチメイク、そしてそれぞれの中継番組の視聴率----。新日本プロレスの「ワールドプロレスリング」では、あの古舘伊知郎アナの「過激な実況」が話題と注目を集めていました。さて、本書の主人公である「全日本プロレス中継」の担当をなんと約18年も務めた元日本テレビの倉持隆夫アナウンサーは、古舘アナとは違う独特の実況(倉持節)で、多くのファンを虜にしていました。入社当時は全く別のジャンルを志していたのに、かくも長きに渡りプロレス実況を続けたのは何故か? 一般スポーツに比べ、特異なジャンルであるプロレス実況の心得とは何か? そして、プロレスの様々な"制約"を、アナウンサーはどこまで知っているのか?
従来のプロレス本にはなかった視点を数多く盛り込み、あの熱かった黄金時代を振り返ると共に、その第一線で喋り続けた倉持アナだけが知っている、貴重な「プロレス実況」裏面史です。
内容(「BOOK」データベースより)
鶴田、三沢、ブッチャー、マスカラス…伝説の試合と共に、あの名実況が蘇る。
出版社からのコメント
「ジャイアント馬場、マッハのスピード!」「顎の先端にヒ~ット!」「さすがは16文解説です」「完成度100%の~」「あぁ、止めて欲しい。世界のアイドルがメッタ打ちです!」「鶴田、ルー・テーズばりのバックドロップ」「激しい流血。1リットル、いや2リットルか」「世界の鶴田、日本の長州」----王道を行く全日本プロレスの醍醐味を支えた『倉持実況』。数ある名実況の中からそのいくつかを再現すると共に、何故、あのような数々の名(迷)アナウンスが生まれたのか。リングサイドレポートと併せて全日本プロレスの歴史に残る名勝負など、実況アナしか知らない極秘エピソードが満載です。また、その発展には欠かすことのできないコンテンツだった、テレビとプロレスの関係も掘り下げます。プロレスファンだけでなく、戦後テレビ史、実況アナウンサー物語としても読み応えは十分です。
カバーの折り返し
「このマイクを生かしてくれ!」
ブッチャーとシークがニヤッと笑ったように見えた瞬間、血だらけのブッチャーの手が僕のネクタイを引っ張った。もう苦しくて声が出ない。何とか振りほどいて、ネクタイを緩め実況を続けたが、二人の不気味な目は僕一人を睨み続けている。その時初めて、僕が標的にされているのを悟った。僕は逃げた。しかし、マイクは握っていた。放送席後ろの一段高いガードフェンスを乗り越え、ひな壇状のお客さん席に雪崩れ込んだ。観客は総立ちで、僕が逃げ回りながら実況するのを見ていた。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
倉持 隆夫
1941年、東京都生まれ。早稲田大学法学部卒。学生時代は作家・笹沢左保氏の書生をつとめたことも。64年、日本テレビ放送網株式会社にアナウンサーとして入社。33年間のアナウンサー生活のうち「全日本プロレス中継」を約18年間、担当(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
プロレスの様に、大相撲もショーにしたらいいのに・・・