[タイタニック号の遭難]
1912年4月10日、イギリスのサウザンプトン港からタイタニック号は処女航海に出航した。E・J・スミス船長以下乗員乗客合わせて2,200人以上を乗せていた。フランスのシェルブールとアイルランドのクイーンズタウンに寄港し、アメリカのニューヨーク港に向かった。
順調な航海を続けていたが、4月14日23時40分、北大西洋のニューファウンドランド沖に達したとき、22ノットという高速で航行中のタイタニック号の見張り番が前方450mに高さ20m弱の氷山を発見した。(タイタニック号の高さは、船底から煙突先端までで52.2m。対して、氷山はその10%程度しか水上に姿を現さないことはよく知られる事実である)
同日午前よりたびたび当該海域における流氷群の危険が船舶間の無線通信として警告されていた。少なくともタイタニック号は4月14日に6通の警告通信を受理している。しかし、この季節の北大西洋の航海においてはよくあることだと見なされてしまい、タイタニック号の通信士たちは他の通信業務に忙殺されていた。
[船体 (hull) と氷山 (iceberg) の衝突状況]
同船は回避行動をとり左へと舵を切ったが、衝突までには40秒とかからなかった。この時、左へ舵を切ると同時にエンジンを逆回転に入れたが、そのためにタダでさえ効きのよくない舵が余計に効力を発揮しなくなった、速力を落とさずにいれば氷山への衝突は回避できたという説も有力である。船首部分は回避したが船全体の接触は逃れられず氷山は右舷にかすめ、同船は停船した。衝撃は船橋では小さく、回避できたかあるいは被害が少ないと思われた。船と氷山は最大限10秒間ほどしか接触しておらず、船体の傷はせいぜい数インチ程度で、損傷幅を合計しても1m²程度の傷であったことが後の海底探索によって判明している。が、右舷船首のおよそ90メートルにわたって生じた損傷は船首の5区画に浸水をもたらした。これは防水隔壁の限界を超えるもので、隔壁を乗り越えて次々と海水が防水区画から溢れ、船首から船尾に向かって浸水が拡大、同船は船首よりゆっくりと沈没をはじめた。
沈没にいたるほどの損傷を受けた原因として、側面をかすめるように氷山に衝突したためとする説もある。もしタイタニック号が氷山に正面から衝突していた場合、浸水した防水区画は一部の狭い範囲にとどまることになり、沈没を免れた可能性もある。(結果的には衝突を回避しようと舵を切り中途半端に方向を変えたことが仇になった)また、当時の技術的限界により、船体の鋼鉄が当夜のような低温で特に脆くなる種類(不純物として硫化マンガンを多量に含んでいた)だったことが最近のサンプル調査で分かっている。
タイタニック船長スミスは、海水の排水を試みようとしたが、ほんの数分の時間を稼ぐ程度にしかいたらず、ほぼ効果なく徒労におわった。日付が変わった4月15日0時15分遭難信号『CQD』を発信、付近の船舶に救助を求めた。わずか20kmほどの距離に停泊中の貨物船カリフォルニア号があったが、1人しかいない通信士が就寝中で連絡が伝わらなかった。およそ90km離れたところにいた客船カルパチア号が応答し救助に急行したが、現場に到着したのは沈没後の4時であった。 ちなみに、タイタニック号は当時制定されたばかりの新しい救難信号『SOS』を途中から使用し、『SOS』をはじめて発信した船舶となった。
[タイタニック号から逃れる救命ボート]
沈没が不可避となったタイタニック号では、左舷はライトラー2等航海士が、右舷はマードリック1等航海士が、救命ボートへの避難を指揮し、ライトラーは1等船客の女性・子供優先の避難を徹底して行い、一方のマードリックは比較的男性にも寛大な対応をした。しかし、当時の英商務省の規定では定員分の救命ボートを備える必要が無く(規定では978人分)、またデッキ上の場所を占め、なによりも短時間で沈没するような事態は想定されていなかったために、1178人分のボートしか用意されていなかった。また定員数を乗せないまま船を離れた救命ボートもあり、(定員65人乗りのボートに、70人乗せてテストしたという説があり、その結果浮いてはいられたが、推進もバランスも不安定)結局多くの乗員乗客が本船から脱出できないまま、衝突から2時間40分後の2時20分、轟音と共にタイタニックの船体は2つに大きく割れ(海中で3つに分裂)、ついに海底に沈没した。沈没後、数艘ある救命ボートのうちたった1艘しか救助に向かわなかった。そのボートは救助に向かう為、再編成をしたロウ5等航海士が責任者のボートであった。いけば遭難者の皆がしがみつき、一気に全員死ぬかもしれないと、他の乗船員が考えたためだった。結果、海に投げ出された人々は、気温、海水温が低かったため、低体温症などでほとんどが短時間で死亡したと考えられる。水温の低さより低体温症以前に心臓麻痺で数分以内で死亡したとする意見もある。その中には赤ん坊を抱いた母親もいたという。
最新の科学技術の粋を集めた新鋭船の大事故は、文明の進歩に楽観的な希望をもっていた当時の欧米社会に大きな衝撃を与えた。事故の犠牲者数は様々の説があるが、イギリス商務省の調査によると1,513人の多きに達し、当時世界最悪の海難事故といわれた。
この事故をきっかけに船舶・航海の安全性確保について、条約の形で国際的に取り決めようという動きがおこった。1914年1月「海上における人命の安全のための国際会議」が行われ、欧米13カ国が参加、
•1914年の海上における人命の安全のための国際条約 The International Convention for the Safety of Life at Sea,1914として採択された。
また、アメリカでは船舶への無線装置配備の義務付けが強化され、無線通信が普及するきっかけになったとされる。
[日本人が乗っていた!]
タイタニック号には唯一の日本人乗客として、鉄道院副参事の細野正文が乗船していた。鉄道院副参事とは、おおむね現在の国土交通省大臣官房技術参事官に当たる役職。細野は音楽家細野晴臣の祖父にあたる。有色人種差別的な思想を持っていた他の白人乗客が書いた手記によって、「人を押しのけて救助ボートに乗った」という汚名を長いこと着せられた。このことは恥ずべき日本人の行為として日本の小学生向けの教科書にも取り上げられたが細野氏は一切弁明をせずその不当な非難に生涯耐えた。死後の1941年になって細野が救助直後に残した事故の手記が発見され、その後1997年には細野とその白人乗客は別の救命ボートに乗っていたという調査報告がなされたため、彼の名誉は回復されることになった(しかし先の事件が長く喧伝されたのに対して、名誉回復が行われてから日が浅いため、いまだにこの件を持ち出して日本人男性を非紳士的と主張する外国の人間も少なくない)。細野氏がこの様な不当な批判を受けることになった理由として上述のように日本人に対する偏見もあるが、氏が事件後直ぐ帰国して批判に対する反証の機会を得られなかったこと、そして氏が弁明や言訳をすることを恥とする武士道的な倫理を持っていたからと考えられる。しかしこのような、沈黙を美とする考えは欧米人には全く通用しなかったと考えられる。なお細野氏が救助直後に残した事故の手記は、タイタニック号備え付けの便箋に書かれたものであり、沈没後に残された数少ないタイタニックグッズとして、第二次世界大戦後に欧米のコレクターの間でかなり評判となったが、細野氏の遺族は譲渡の申し入れを頑として撥ね付けている。
[沈没後のタイタニック号]
1985年9月1日、ロバート・バラード博士率いるアメリカ海軍は海底3,650mに沈没したタイタニック号を発見した。このとき同軍は沈没した原子力潜水艦の調査が主目的であった。2004年6月、バラード博士とNOAAはタイタニック号の損傷状態を調査する目的で探査プロジェクトを行った。その後、バラード博士の呼びかけにより「タイタニック国際保護条約」がまとまり、同年6月18日、アメリカ合衆国が条約に署名した。この条約はタイタニック号を保存対象に指定し、遺物の劣化を防ぎ、違法な遺品回収行為から守ることなどを内容としている。
海底のタイタニック号は横転などはしていなく、船底を下にして沈んでいる。第三煙突の真下当たりで引き千切れており、海上で船体が二つに折れたという説が始めて確実に立証された。深海はバクテリアの活動が弱い為船体の保存状況は良く、多くの木彫り内装が残っていると思われていたが、運悪くこの地点は他の深海に比べ水温が高い為バクテリアの活動が活発で船の傷みは予想以上であった。しかし当初船体は叩きつけられるように海底に落下し、船内の備品はもとより甲板の小さな部品や窓ガラス全てが粉々に吹き飛んだと思われていたが、船首部分にはいまだ手摺が残り、航海士室の窓ガラスも完璧な状態で残っていた。また船内にはシャンデリアを始め多くの備品が未だ存在し、Dデッキのダイニングルームには豪華な装飾で飾られた大窓が未だ割れずに何枚も輝いていた。客室の一室の洗面台に備え付けられていた水差しとコップは、沈没時の衝撃や90年以上の腐食に耐え、現在でも沈没前と全く同じ場所に置かれている。この事から船首部分は海底に叩きつけらたのでは無く、船首の先端から滑る様に海底に接地したと思われる。一方船尾部分は海底に叩きつけられ、大きく吹き飛び見る影も無い。なお、現在のタイタニック号は鉄を消費するバクテリアにより既に鉄材の20%が酸化され、残りも約90年で消滅するだろうと言われている。
(Wikipediaより引用)
日本人が乗っていた事に驚いた。そして、その後の彼に対する「同じ日本人」の態度・・・テレビもラジオも国際電話も無い時代に、たった一人、乗っていた日本人が帰国して、事故とは無関係の人に何を正確に伝えられるだろうか・・・そんな事を思った。