風もなく、空には雲もあり、眩しさと影を作っています。 (写真は午前9時30分過ぎ)
堤防を近くの小学生たちが走っていました。これは毎年みられる光景です。先生が「歩くな」とハッパをかけていました。
これは珍しい光景です。近年見たことがありません。3人の下水道関係の職員か社員か分かりません。ひとりは女性です。仙台市のマークは見られなかったです。私は小学校低学年(かその前)の頃に造られた下水道の排水口です。大きな扉があります。
これまた近くの保育園児たちが河原に来ていました。保育士さんたちと。私には保育士という言葉がどうもぴったしきません。保母さんでいいと思うのですが。男がなっても”保母”でいいじゃないですか。それだけ崇高な仕事をしているわけですから。私としては保母さんというときには深い尊敬の念が籠められています。
さっぱりよくならない右ひざの鈍痛、ずーと続いているわけではなく、時々思い出したように重い痛みが出ます。
歩くのには何の支障もないし、普段は忘れかけていると言っても過言ではないのですが、仰向けに寝ていると、つまり足を真っ直ぐにしていると痛みはじめたりするのです。そういう意味では性質が悪いですね。
9月にも整形外科に通ったのですが、ものすごく混んでいるし、そんなことまでして通院する気にもなれず、様子を見ていたのですが、少しずつではあっても確実に?悪くなっているように感じるので再度行ってみたわけです。 これも寄る年(歳)並みには勝てないということなのでしょうか。
今月には満71歳となります。そういう身体にガタが来るのは当たり前のことで、我慢できるかできないか、日状生活に支障があるかないか、どの辺で線引きをして、後は諦めて受け入れるか、従容として死出の旅につくなんていったら笑われますね。今どき世捨て人、漂泊の旅なんて流行らないでしょうし。
また変な方にいってしまう。別に今悲観的になって、落ち込んでいるのではないのですが。
10日ですか、朝日新聞の土曜版に、特養のケアマネージャー小山さんが書いていました。 『やはり最期のあり方について、入居者や家族、医療・介護スタッフらと早期から繰り返し話し合いをしてくことが必要だと思います。そして大事なのは、死に方を決めるのではなく、最期までどう生きるのか、「達成」ならぬ「達生」計画を立てることだと私は思います。』
(我が家の何とかいうサボテンの一種だそうです。)
翌11日には社会学者の上野千鶴子さんがなるほどなと思われることを紹介していました。 『認知症ケアで有名な故小澤勲医師が、自分たちのやっていることは「自我の補助具」を提供することだと言う。老眼には眼鏡が、難聴には補聴器がある。それなら認知症によって壊れた自我にも、補助具があってもよい。』
死は病気によってばかりではないですよね。同じく11日の「折々のことば」から。 『いま在る あなたの如く 私の如く やすらかに 美しく 油断していた。』 (詩人の石垣りんさん) 鷲田さんの紹介は、『地球は「生と死のきわどい淵」にあるのに、一瞬にしてあまたの命を奪ったあの日の記憶は遠のき、人は平和に安らう。かつてのその健やかな微睡(まどろ)みのすきをついて戦禍が始まったことを忘れまじと。』
トランプの出方、やり方次第では、第3次世界大戦とまでは行かなくても、かなりキナ臭い事態が勃発しないとも限りません。 そのトランプの根強い支持についてアメリカの社会学者アーリー・ホックシールドという人がインタビューに応えていました。
『米社会には多くの疑念や妄想があり、トランプ氏は、それが低い教育レベルや経済的な不安と密接な関係にあることを知っているのです。だからこそ彼は人々の心に潜む疑念を意図的にかきたててきた。人々の中にある疑念が、彼にとっては支持を集めるための資源です。』
いつの間にか大相撲がはじまっていましたね。3横綱のうち2横綱が休場、しかも2人ともモンゴル出身者です。残った一人の横綱は、いつ崩れてしまうか、いつ休場となるか全く予測のつかない日本人の横綱。
その日本人横綱は早連敗、始まって白星がありません。 非常に露骨に悪く勘繰ってみると、休場した2横綱はしめし合わせていて、ここは久し振りに日本人横綱に鼻ならぬ花を持たせようじゃないか。余りモンゴル勢ばかり勝つと反感が強くなる。
怪我を口実にモンゴル出身者は休場として、日本人横綱に優勝を進呈しよう。そうすれば相撲の環境は万々歳で、四方が丸く収まる。 もしもそうならなかったとしても、日本人の不甲斐なさばかりが目立つわけで、モンゴル勢がいないと相撲は盛り上がらないということになるだろうし。
どっちに転んでもモンゴル互助会は強かでしょう。べつにモンゴルに悪意を持ってるわけではございません。日本人の不甲斐なさを嘆いているだけです。