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消されたOKINAWA -The Teahouse of the August Moon小説から映画への翻案過程における脱沖縄化

2011-05-11 22:27:59 | 「八月十五夜の茶屋」科研研究課題
「八月十五夜の茶屋」関連論文の御紹介です。名嘉山リサさんの完全論稿は「独立行政法人国立高等専門学校機構沖縄工業高等専門学校紀要」としてON-LINEで読めます。ただコピーや印刷はできません。総論を書いた私の論にディテールで埋めているというのが感想ですが、徐々に『八月十五夜の茶屋』の小説、演劇、映像の中身は掘り下げられています。おそらくこのプロジェクトが最初の膨大な資料に基づいた論稿の山(?)となるでしょう。 ただ当初、一人で小説、演劇、映画を研究対象にしたいと思っていたプロジェクトなのだが、3人の英知の総決算がどうなるか興味は高まりますが、同じような論調になる可能性は気をつける必要がありそうです。私自身はその後全く『八月十五夜の茶屋』について論文を書いていません。英文で書いたのも校正しなければならない状態で置いていて、ニューヨーク、東京、沖縄の比較検証を9月のシンポジウムまでにはまとめる予定です。速やかに論を展開する若い研究者の成果を見ながら、焦りも感じるところだが、でも焦ってもしょうがないので、じっくり構えます。

リサさんが書いた「どれも一定以上の高い評価を得た」というのは、ある面で妥当でしかしもっと綿密に見る必要もありそうです。

有名な賞の多くを受賞したのは舞台・演劇だけです。そして絶え間なく上演され続けているのは演劇です。映画なんて今の所誰も見向きもしないのが正直でしょう。まして小説を読む人もほとんどいないでしょうね。研究の過程でこんなに深く読まれこんなに深く映像が対象化されるのですよね。演劇論は結構あります。資料のほとんどは演劇に関するものですからね、アメリカでも。世界でもーーー。それだからこそ、また小説や映画論は希少価値が高まるという事にもなります。ちなみに1953年10月15日にブロードウェイで初演されたこの舞台は56年3月24日までに実に1027回上演を続けています。54年には演劇の最高に権威のある賞Tony Award for Best play, Pulitzer Prizes for Drama, and New York Drama Critics Circle Award を受賞しています。トニー賞、ピュリッツア賞、ニューヨーク演劇批評家協会賞などです。一方、映画はあまりヒットしていません。しかし、確かに渡久山さんが指摘するように現在もこの作品が舞台で上演され続ける時、多くの高校生たちがこの映像を見るに違いありません。そこで指導する方々もまた映像を参考にしているに違いありません。なるほど、と思いました。その時点でスナイダーの小説もまた振り返られている可能性もあります。小説、演劇、映像は相乗効果をもってそこにあるに違いないのです。

なぜアメリカの高校生がこの作品をひねもす上演し続けるのか、その辺のポストコロニアルな視点の方も面白そうです。




【消されたOKINAWA -The Teahouse of the August Moon小説から映画への翻案過程における脱沖縄化 Perverted Okinawa: De-Okinawanization in the Adaptation of The Teahouse of the August Moon 】

o 名嘉山リサ Nakayama Risa
o 沖縄工業高等専門学校総合科学科 Integrated Arts and Science, Okinawa National College of Technology
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抄録

戦後の沖縄を舞台にした『八月十五夜の茶屋』は、小説から演劇、映画へと翻案され、どれも一定以上の評価と人気を誇った作品である。小説の作者ヴァーン・スナイダーは、軍人として沖縄に滞在した経験を元にこの小説を書いており、沖縄や沖縄の人々をある程度現実的に描いている。一方、ジョン・パトリックによって翻案された演劇と映画の方は、風刺の効いたコメディーに仕上がっており、人物がステレオタイプ化され、小説の登場人物とは異なっている。本論では小説と映画を比較し、特に主役の現地人通訳者サキニと芸者の描かれ方の違いを、言語面や身体性といった側面から検証する。サキニ役には硬派な役で知られるマーロン・ブランドが起用され、東洋人に見えるよう目を吊り上げかつらを被った、いわゆるイエロー・フェイスで登場し、小説のサキニとは全く異なる。また芸者役には京マチ子がキャスティングされ、小説に登場する沖縄の尾類(ジュリ)とは風貌も言葉も違う。そのため、コメディーとはいえ、映画の方は沖縄の描かれ方が不自然で違和感のあるものになっており、小説に比べ脱沖縄化されているといえる。

This paper compares the novel and film versions of The Teahouse of the August Moon and examines how the characters and the representation of Okinawa are different in the novel and the film. Because Vern Sneider, the author of the novel, stayed in Okinawa during and after WWII, the way he describes Okinawa and Okinawans is more or less realistic and sincere. On the other hand, the film (and the play) adapted by John Patrick applies the form of (slapstick) comedy, using stereotyped characters. The film version may be funnier and was commercially successful; however, Okinawans in the film appear unrealistic and are very different from the original characters: for example, the main character, Sakini, played by Marlon Brando in makeup, does not speak any Okinawan language but funny Japanese and broken English, and his body is totally different from that of Okinawans; and the body and mannerism of the geisha girl, played by Machiko Kyo, do not show any traits of Okinawan geisha called juri. As a result, Okinawans in the film version are unrealistic and appear awkward, lacking Okinawaness compared with the characters in the novel.

収録刊行物
独立行政法人国立高等専門学校機構沖縄工業高等専門学校紀要 [収録刊行物詳細]
独立行政法人国立高等専門学校機構沖縄工業高等専門学校紀要 5, 33-43, 2011-03 [目次]
沖縄工業高等専門学校


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