志情(しなさき)の海へ

琉球弧の潮風に吹かれこの地を掘ると世界と繋がるに違いない。世界は劇場、この島も心も劇場!貴方も私も劇場の主人公!

辺見庸の詩集【生首】(中原中也賞受賞作)と【英文学研究ネットワークの再構築】など読んだ!

2011-05-12 19:54:19 | グローカルな文化現象
【生首】という題のおぞましさに惹かれてその詩集があるかと聞くと身近にいる詩人は持っていた。それで急いで読んでみた。同時に読んだ後で若者にも手ごろに見えたホームレスに石を投げつけて殺した詩「ズボズボ」を読ませてみた。すると「学校の教科書にのせて虐め問題を考えさせるのにいいね。こんなものが今の詩の時流なの?」などと聞くので、長い散文詩「入江」と「地蔵背負い」をさらにページをめくって見せた。「入江はよく分からないな、でもどうして地蔵背負いの形で殺したのかな、それが詩になるのは面白いね」と云った。同棲している蜉蝣のような女が友人の男を地蔵背負いで殺した詩である。「どうしてナイフで顔を見ないで刺して殺せばいいのにね、強いて背中で背負って殺すなんてね」などと云う。「どうして殺したのかな?」とも聞いた。「例のごとく男の女へのDVじゃないの?多くの女たちは男を殺したい願望を秘めているらしいよ」などと、言った。

その後で食事をしながら「実はね『The State of the World Atlas』をネットで調べていたら、あのウィクリークスの映像があってね、イラクで一般市民をヘリで攻撃している映像を見ながら殺した米兵の会話を聞いたの、彼ら動物のように楽しんで殺しているね。その上司と部下のやり取りがね、ターゲット、ゲットのことばなど、やりきれないね」と話したら、彼は「【ズボズボ】と同じだよ」と云った。戦場での殺戮とホームレスを集団で石を投げて殺して何くわぬ顔の中学生と同じと云いきった。

この人は作家で【物喰う人】の本やエッセイが多いのよ。沖縄の新聞でも紹介されていてね、と話したら、若者は「道理でなんかエッセイ風の詩で、強いて詩にする必要があるのかな、という詩集だね」と、きた。「そうね。詩はことばが凝固された美のようなもの、ことばのエキスのシンボリズムがないと面白くないからね、この詩にはリズムが感じられないよね。これが中原中也賞だよ。まぁ、長編詩に面白いのがあるから、妥当かとも思うけど、生首と影とごつごつした石・岩のような漢字のイメージが強いね。冒頭の【剥がれて】が現代を突き刺していていいと思う。

言は剥がれて、剥がれて、がいい。

「~言は粉砕され。瀕死の遊離魂として。プカリプカリ浮き流れ。漂い。ただ漂い。それでもうたわれて。すべての無意の語群として。あるいはすでに死に絶えた遊離魂として。宇宙の塵になるか。ほろほろと宙を回るか。ほろほろと薄明の宙を回り。はがれ。すべての愛から言が剥がれて。愛が剥がれて。剥がされて。くり抜かれて。無の狭谷をどこまでもどこまでも堕ちていけ。言は剥がれ剥がれて剥がされて・・・・・」

と冒頭の長い【剥がれて】からのほんの少しの引用である。辺見さんのエッセイのエキスが凝固したことばになったような散文詩である。彼のどちらかというと悲観的な地球・宇宙観である。そしてあながち彼の視点は間違ってないのだろうとも感じさせる。そして読み終えてみて、確かに彼の全感性が内包する世界観はそのままこちらまで滴のように落ちてくる、それは確かだ、しかし彼のエッセイでも感じるように、沖縄の時空・磁場にいる人間の芯部に届かない。やはり日本の中央・大都会にいる人間の絶望的咆哮なのだという感じがいつでも付きまとってくる。

詩のリズム感からすると身近にいる詩人のリズムやことばのイメージの方がはるかにいいと思える。沖縄の詩編の良さはもっと評価されていいのだと逆に感じた。辺見さんの絶望なんて、すでに云い現わされている。日本の詩の衰退を最近感じてならない。戦後詩を創った日本の詩人たちにしても所詮、安保に関する限り、沖縄を踏み台にして思想をイメージを創り上げてきた存在の欺瞞性の上に詩作している方々である。彼らは沖縄を踏みつけて存在している事を深く認識しえない知性と感性の持ち主たちである、というだけで、遠い距離間がそこに漂っている。核基地沖縄の上に安寧をむさぼってきた彼ら日本人の感性や究極的良識や知性や思想など、欺瞞の塊ではないのだろうか?

隠蔽である。日本人の戦後の経済発展や麗しき憲法の欺瞞性がある。沖縄をむさぼって成り立つ彼らの民主主義も欺瞞だし、それを是としてきた彼らの思念なんてね、どこに美しい真実が宿っているの?と聞きたい。辺見さんの絶望に共感する。しかし彼のことばが沖縄の絶望/諦め・希望・地獄・歓びに届くにはまた距離があるのも事実である。沖縄を遅れた後進地域と見なす眼差しへの反転は意外と簡単になった昨今である。日本の戦後の大きな欺瞞が「剥がれていっている」のが現況でもあるからだ!


(キリスト学院大学で開催されたシンポジウムの報告書)

さて渡久山幸功さんからいただいた今年1月29日、キリスト教学院で開催された【英文学 on 沖縄シンポジウム】英文学研究ネットワークの再構築ーの報告書を読ませていただいた。その時丁度鹿児島大学で開催された「ケルト文化や言語と地域」などをテーマにしたンポジウムに参加するため、登壇されたみなさんの発表を聞くことができなかったので全容が分かってとても良かった。鹿児島大の方は、ケルト文化圏の方が5人も招待され報告したシンポでとても有意義だったが、こちらのシンポも中身が豊かだったことがよく見えてきた。丁度辺見庸さんの詩集「生首」を読んだ後で読んだ気分としては、とても明るい報告書だという事である。研究者はどうやら希望を語る職種の方々だと言えようか。ケルト文化との関連で三人が発言されているのが興味深かった。中村邦生さんが鶴岡真弓の『ジョイスとケルト世界』の本を紹介し、隅っこや周縁がフロントに出てくる。つまり逆転するとお話されていて、また本浜秀彦さんがニュージーランド文学を語る中で、津軽を含む東北地方を【日本のスコットランド】になぞらえる視点、中心に対する周縁が紹介されていることが興味深かった。また渡久山さんはアイルランドのジョイスの作品をトラウマ論理とビリースシステムで解いている。アイルランドと沖縄の二重性を持ったコロニアルなコンテキストの比較は興味深い。論の展開に気になるところがあった。(そこは直に彼と話したい)

特別公演、山里勝己さんの「アメリカをめぐる軌跡ー沖縄のアメリカ文学研究について」は、ペリーが琉球にやってきた1853年から現在に至る歴史の推移をアメリカの歴史的背景をからめながら(コロンブスのアメリカとの遭遇を初め、西へ太平洋へ、アジアへと乗り出した近代国家アメリカ)かつペリーと外交交渉に当たった板良敷朝忠の人物像を鮮やかに切り取ることによって近代における琉球の知識人の苦悩、外のパワー(アメリカ・薩摩・清)と係わらざるを得なかった多言語性の豊かさ、可能性を明らかにした。ペリー提督と対照的に、彼の通訳だったウエールズの視点の柔らかさをまた紹介しながら板良敷の先駆的なアメリカ研究者の姿も浮き彫りにした論の展開がとても魅力的にまとめられている。

アメリカの第一次占領としてのペリーの来琉と武力による日本開国、戦後の沖縄とアメリカの係わりを含め、20世紀から21世紀に至る継続した危機(Crisis)だとまた結論に導く手法に目を見張った。岐路、転換期、転回点、ネットワークの可能性!新たな普遍性、理論構築へと今後の2010年代にエールを送っている。山里さんの書いた論稿(書籍を含め)を、この間あまりじっくり読んだことがなかったが、論の構築と展開の見事さに感銘を受けた。少し真面目に山里さんの思念の痕跡を読みたいと思った。

パネルの方々の中身も専門的で沖縄の磁場との係わり、沖縄の歴史・文化と英米文学、中でもアイルランド文学、アメリカ先住民族のインディオやチカノ文学との係わり、イギリスロマン派と反復帰論者との比較、環境問題(文学)の沖縄、海の文学の広がり、比較文化論、太平洋文学への広がり、また映像の中のアメリカと沖縄の接点など興味が持てた。不満はおそらく詩や物語のすべてを網羅する総合芸術「演劇」への言及がなされない英米文学は欠陥そのものだという事である。演劇はフリンジにあり周縁化されているが、実はイギリス文学で最も人気があるのはシェイクスピアである!昨今のノーベル賞受賞者もピンターなど、優れた劇作家であった。アイルランドの独立の基盤になったのはアベイ劇場とそこに集った作家・劇作家たちの力でもあったのよね?

だから浜川さん、貴方がたのネットワーキングは方手落ちですね。今時パフォーマティヴィティ(Performativity)を網羅しない研究なんてね。表象論的に見ても世界的カノンのシェイクスピアの影響は世界を席巻していて、沖縄の集合的芸術(Collective arts)でもその影響は大きいです。生身の身体性をもっと文学研究は包摂しないと時代遅れだというのが演劇専攻の視点です。その点城間文太郎先生はあの世で泣いていると思います。彼から学んだオイディプス王は良かった!世界の名作はまたギリシャにあり、沖縄芝居のすぐれた作品はまた構造的にオイディプス王を内に取り込んでいますよ。かつての琉球大の英語英文学科の良さが現在ある面、そこなわれていると感じています。できれば比較表象論としてシェイクスピアやピンターについて講座を持ちたいのですが、よろしくお願いします。なぜ蜷川幸雄は文化勲章を受賞したと思いますか?世界的に著名なシェイクスピアを演出しているからですよ。まさに東西の架け橋のシンボルです!大城立裕さんはなぜ小説を書き沖縄芝居を書きそして、詩劇「新作組踊」でしょうか?詩劇の中に民族のエキスが深く込められているからですよね。総合芸術を無視した英米文学なんてね!デジタル世界だからこそ身体性を取り戻す必然があると考えています。
 

Transnational, introculturalism, trans-culturality(interculturalism), and hybridization are here and there.




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