志情(しなさき)の海へ

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響き合う写真と映像≪金子隆一X大山健二≫→批評・土屋誠一

2014-04-30 00:32:30 | 表象文化/表象文化研究会

新聞のこの紹介記事を見て、27日の最終日に展示の写真集と映像を見てきました。写真集は、テープが貼られていて、めくることができない状態だということがもどかしく感じられたのですが、一部はめくって見せていただきました。48冊の写真集を映像化したパネルが四枚あり、その一部をやはり見ました。面白いと思いました。全く静止状態の写真集が生き物のように動いているというイメージです。見えない細部がアップされたり、大山さんの創造・想像がはじけていきます。何時間か時間をかけないと全体を鑑賞することはかないません。大山さんの意識なりフォーカスをなぞっていきます。ドキドキしたりするような、のぞき見するような鼓動も起こります。でもやはり全体をかすめ取っただけで、写真集の中身にもコミットできないのです。そこが、つまり、手が触れられない写真集の禁忌のような沈黙が、魅力的には思えました。めくれない写真集は、触れられない好きな対象と同じで、そこに見えない壁があり続けます。

焦燥感を駆り立てます。幸せな気分は共有、互いの共有、互いの睦みあい、心なり精神、生身の睦みあいの至福が得られない「虚」と同じものが流れ続けます。そして映像作家は特権ですべてに触れて、確かめ、細部を誇張したり、生かしたり殺したり、写真集を料理することができます。否、それを生かすことができます。特権的悦楽があるのですね。苦しみも、絶対にすべての写真集の声や魂やイメージや思想がまた迫ってきたはずです。個人の趣向もあるでしょう。やけに女性の乳房の映像が眼に入ってきました。乳房のイメージ、和らかさ、母、女、少女、中性的なもの、食、エロス、そして拡散、攪乱していく歌舞伎町などなど、48冊の写真集にコミットできないままで流れていく時間があります。腰を下ろして映像に見入ります。しばらく好奇心のままに見入ったのでした。そこから何が入ってきたのか、それは大山さんとの対話だったのです。彼が時間をかけて絵コンテを何枚も作成しながら一つ一つの写真集に向き合ったことが分かりました。それは、彼の創作の世界です。しかし、どこか取り残されたような気分になるのは、致し方ありません。わたしは48冊の写真集に触れることができず、大山さんの映像の部分的に再現された写真集を見せられるわけです。拡散のイメージもフォーカスも面白いのですが、どこか疎外感を覚えながら、この新しい創作空間をわかったような気分で去りました。

 (以下は、土屋誠一さんの批評です!<2014年・4月29日・琉球新報>指摘されている軍国主義的プロパガンダの写真集など、まったく気が付きませんでした。じっくり見る猶予などありませんでしたからー)


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