
(劇団「うない」の雑踊り)
昨夜の不思議な現象は、このGOOブログが監視・検閲されているということを意味するのか、何らかの遠隔操作でことばがUPされないようになったようで、謎である。ああ、今朝もヘリのヤクザの音が襲ってくるね。嫌だ。ヘリが襲ってくる。この爆音の威力を彼らは知っている。おびえる心が漂う。
分別のありそうな若者が「全くネットを利用することのないアナログな詩人故、知らない世界だから、非常識だと思われるよ、好奇心でこんな事やめた方がいい。自分の心にとどめていていいんだよ。前にも那覇にいてH氏賞を受賞した詩人のことで何やらあったんじゃないの」と、心はいつも青春のわたしに苦言した。「ネットはオープンだから、匿名性があれば別だが、迷惑な話だよ、それにそんなのは、少しあほなふりして『なぜかXXX社の受賞だけが多いね、おほほ』にしていたらいいよ」と、言い切った。そうか、情報弱者と批判することばの奥に思慮が見られる。(ネットで詩を読んだ感想をUPしたら当の詩人の方からコメントが寄せられたことがあったのだった。)
でもね、と思う。直裁でいいのよ。現実は無残に何十万人も何百万人も何千万人も人は人を殺しあう残虐な生き者であった(ありえる・ある)事実は消えない。かろうじてのバランスかもしれない。罪悪なるものが貫かれているのよ。構図が変わらない限り、キーキーと泣き叫ばなければならない。いながらにしてメディアに騙される世界なのよ、だからおかしいと思うことは「ことば」にして発信しなければ、社会は歪みを内包しながら、自己保存しながら生き延びるのよ、などと思う。当たり前に思っていることのおかしさ、矛盾に声をあげることは、大事なのよ。小さなブログでもツイターでもー。(一日300人前後のIPだが、この小さなブログはコミュニケーションの手段であり、わたしの「ライフ・ハストリーlife herstory」かもしれない。わたしのあなたへのメッセージでもあるのね)
わたしの思惟の底辺にイオネスコの「授業」が微笑んでいる。お前の思考は弁証法とイオネスコ止まりかといわれそうだが、ポスト・モダンもポスト・ヒューマニズムも意識しているよ、何より、この世界のアクセスできるすべての事象がわたしの意識そのものよ、などと言ってみる。
ああ、約束を果たさなければー。3月になって鶯がホーホケキョと小さく鳴き始めた。
「そういえば、沖縄タイムス社前、で昨今、小さな軽で右翼系の大きなマイクががなり立てている。沖縄メディアの矛盾を突こうと懸命だ!」虚構の名で詩を書きたくなった。