
≪18世紀の蘇州の街並≫
蘇州、水の宮古 当時の地図 虎邸塔
沈三白夫妻の寝る福寿山 夫妻が住んだ倉米港
乾隆28年、1763年生まれ、衣冠を着けることのできる身分に生まれ、蘇州の名園「ソウロウテイ」のほとりに住んだ清の画家 沈復(沈三白)の自伝。解説の桶谷繁雄は「私にはたいへんに奇異な本であったといえる。日本では明治時代までその習慣が残っていたが、十八世紀の清においては、妾の存在は公然たるものがあり、畜妾をすることは男の権利のように思われていたことがわかる。」と書いている。また「松枝茂夫によれば、亡妻陳芸(ちんうん)に対する切実の情がライトモチーフになっているとのことである。妻にたいする優しい気持がよく現れていると思う。」と短い解説である。
文章は読みやすく、彼の妻「芸」への愛情がしみじみと伝わってくる。当時18世紀の清の時代、階級制はもちろん厳しい社会のようだが、芸が才知のある女性で漢詩を書き、白楽天の「琵琶行」の長詩を幼い時に暗記するほどの利発な女性として登場することがまず目を惹いた。刺繍の技芸を覚え、それで生活を支えたなどのくだりも、やせ形で慎み深く聡明な清時代の女性が浮かんできた。
当時妾は当然の時代で芸が自ら芸妓を選んで義妹の契りをし、夫のために尽力するさま、そして芸妓が柳絮四律の詩を作ると評判をとり、多くの好事家から和してもらっていた。その娘を芸が夫三白の妾にと画策してダメになる話など、芸妓が学問の素養があり、容姿端麗で、歌舞もできたことが伺える。芸もまた詩歌をつくりその価値判断のできる女性であり、歌舞や漢詩が自由にとびかう文芸の情緒に驚く。雛妓女の存在は芸妓がまたその子女を芸妓に育て、当時の学門の素養をまた与えていたことが興味深い。古の日本の遊女たちもまた歌に長け、今様を歌い・躍ったのだった。大夫のイメージがそこからやってきた。琉球・沖縄の芸妓もまた歌舞をこなし、優雅に踊ってもてなしたに違いない。妾は沖縄でも戦前まで普通の社会だった。東アジア共通の社会現象がそこに漂っている。芸の死去、沈三白の友人が妾を贈っている。そうした社会だったのである。しかし妾は妻の役割にとって替ることはなかった。妻になればまた別だね。湛水親方は思戸(仲島のじゅり)を継妻に迎え思戸金にしているね。
さて琉球にわたってきた冊封使一行は500人から600人ともいわれる。彼らは琉球の芸妓をどう見たのだろうか?
***********(予備知識)
中国の一夫多妻制は、一夫多妻婚polygamyのうち、妻群に唯一の優越的地位を有する存在 があるという類型に属する。その妻群の唯一の優越者の称謂が妻(婦)であり、その他が妾である。妻は「夫なる者は妻の天」と男尊女卑を前提とする一方、 「妻とは斉(ひとしい)なり」と夫の唯一の匹偶とされ、夫とは「夫妻一体」の原則で結ばれて死後の埋葬祭祀に至るまで 夫の宗(男系血統の総体)への帰属が 確定されている。妾は単なる夫の閨房の伴侶である。夫妻と妾との間は基本的には君臣関係に擬される。また特に妾という地位を与えられないままに、それに準 ずる性愛的相手をつとめる女性もある。