志情(しなさき)の海へ

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アンドロギュノス/アンドロギュヌス(両性具有)からn個の性へ!まだ解決していない。

2022-04-24 06:57:07 | ジュリ(遊女)の諸相:科研課題
両性具有androgynos やアニマ、アニムス、n個の性の概念など、まだひきずっている問がある。以前、ジルドゥルズ/フェリックス・ガタリの『アンチ・オイディプス』を購入したが、n個の性について触れたのは「非人間的な性。ひとつの性でも、二つの性でもなくて、n個の性」の項目で、少し記述されただけである。フロイト主義への否定だということは明らかで、従来の概念を覆す論であるはずが、その言及は少ない。アニマ、アニムス論もその中に包摂されている。

アニマは男性にとって女性の永遠のイメージの原型で、アニムスは女性にとって男性の永遠のイメージの原型である。

「女性の中には男性と同じ程に多くの男たちが存在し、男性の中にも同様に女性と同じほどに多くの女たちが存在することになり、これらの多くの男たちがこれらの多くの女たちと、またこれらの多くの女たちがこれらの多くの男たちと、相互に入り乱れ結びついて、種々に欲望生産の関係の中に入るといったことが実現することになる。」と書かれています。

琉球舞踊について調べている時、男性の思いを歌った琉歌が女性の思いとして表象される形態「古典女踊り」に、疑問を抱いたゆえだが、男性の思いと女性の思い(恋情)が等価で、表出されたことばや歌のリズムも同様に現在化されると、見るならば、それはそれとして違和感はないと言えるのだろうか。

しかし琉球王府時代、愛人(恋人)を求めて能動的に動くユカッチュに対して女性たち(ジュリ)は愛を受け入れる受動的空間に縛られていた。そして彼女たちは具体的にn個の性を受容する立場にもあった。

表象する時、自らの中のアニマ(永遠の女性)をイメージして、女性の思いとして身体で表出することは可能である。ことばで表出された歌が、特定の美らジュリに寄せた歌が、普遍化して、踊り(歌三線を伴う)という創作【作品】になっていく。なるほど、そうなのか~。

舞踊家の身体は、両性具有の表象が可能だということ。それはn個の性の表象が可能ということにもなりえる。多様な性が表象されることになる。かつて、シェイクスピアの時代、女性はソプラノの声を持つ少年たちが演じた。女性という亜人間(?)は舞台の上に立てなかった。1945年まで、沖縄でも基本的な考えは同じだった。性的対象としての女性が娯楽の対象としてもみなされた~。

まだスッキリしないまま~。もう少し引きずりそう~。

(9年前の記述ですが~)
April 18, 2013 12:34:00
テーマ:他愛のない話

「ひとつではない女の性」の記事の補足です。
☆おまけ☆1 「n個の性」の解説


ドゥルーズ・ガタリの共著、「アンチ・オイディプス」の中に出てくる概念です。
「ひとつの性が存在するのでもなければ、二つの性が存在するのでもない。そうではなくてn…個の性が存在する。」
これを示そうと、人間の全・性的なイメージ、多数の性を問題化したことに由来します。

彼らの眼目はフロイト批判にあります。
「性を人間の形態でとらえ」また「究極的には、ひとつの性(男性)しか存在せず、女性の性は男性の欠如」と見なすフロイト派の精神分析、オイディプス帝国の、呪縛的な性の観念を解放しようとする試みです。

男性、女性という二つの性の一方に帰せられるあり方は、実は「すでにn個の性を盗まれた人間」を示すものに他ならない。n個の性においては、「二つの性のそれぞれの去勢との関係があるのではなくて、まず初めに全・性的なるもの、多数の性を備えたものと、盗みとの関係があるのだ。」
現実に人間が男と女でしかないのは、「家族」があるからで、家族によって人間は男、女という性的な向き合い方を強いられ「n個の性を盗まれて」いる。

ところでセクシュアリティの形には、異性愛をマジョリティとして同性愛、そして両性具有的な愛やバイがあります。しかしこれらは、男女の二つの性とその対(つい)幻想が前提にされています。この前提のもとでのあらゆる試みは「倒錯」にしか帰結しません。男装、女装、それは(女の身体崇拝のフェティシズムが生み出す)記号論の関係で言えば、シニフィアンから降りる男、女のシニフィエへの同一化。また、生殖を拒む女、フェミニジア(女だけのユートピア) の追求…。

「n個の性」は、男女という自然的な性差を実体化した社会規範や、そのアイデンティティから自由でありうる根源的な問いかけを、イメージの開示を、展開した概念です。
このありようは、人間に向かう性的志向にとどまりません。猫や人形、動物や無機物へさえも向けられる内なる感情の溢れる思い、そのエロスの志向性です。自らのセクシュアリティを「生成」ものが生じて形を現すこと に置く性のありようです。

私がイメージしたのは全放射的な発光体。ライプニッツの逆モナド。」
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【シニフィアンは1つの言葉のもつ「音」の側面を、シニフィエはその「意味」の側面を指す。 例えば、犬という語には、[イヌ]という音の側面(シニフィアン)と[4本の足で歩き、ワンワンと吠える等]のイメージや意味の側面(シニフィエ)がある。】
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Chapter 1 Alien Sex: Octavia Butler and Deleuze and Guattari’s Polysexuality (pp. 30-49)
Ronald Bogue

In Anti-Oedipus, Deleuze and Guattari claim that sexuality involves ‘not one or even two sexes, but n sexes’ (Deleuze and Guattari 1983: 296), a thesis they reiterate in A Thousand Plateaus. This concept of polysexuality is provocative, but Deleuze and Guattari offer only limited indications of what it might entail. One means of exploring the implications of the concept would be to imagine a world in which human sexuality literally involves more than two, and possibly an unlimited number of sexes. Such a world, it happens, is what Octavia Butler offers in her masterpiece, The Xenogenesis Trilogy (1987–89). Butler... ←この
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★以下の論文を備忘録でUP。DeleuseとButlerの比較です!
The Sexed Subject In-Between Deleuze and Butler (2009)


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